浅尾法灯によるまごころ協力

わいせつ行為を暴く・自然の泉被害者の会制作

理想郷・建設のために「まごころ」協力のよびかけ

皆さんの「まごころ」で皆さんの老後の安心、理想郷を建設するのです

浅尾法灯は会員にむけて「光友(会員)が安心して老後がおくれる理想郷を建てるのです」とよびかけ、会員のための老人ホームと病院を建てるために「まごころ」協力を叫びました。「皆さんが入るための皆さんの老人ホームです。まず一人100万円が目標です」と個人的に「まごころ協力」をすすめました。
浅尾法灯はこのとき「親が子を、子が親を捨てる時代ですぞ、歳をとったとき子供をあてにできません。だからこそ光友が安心して老後がおくれる病院(いずみ病院)つきの老人施設を作るのです。まごころをした者はこの施設に無条件に利用できる、生命保険よりも確かな安心です」といいました。

現在の病院(左)と老人ホーム(右)
浅尾法灯は会員に「理想郷・般若の里」建設を呼びかけ「歳をとったら一番の不安は病気になることです。ですから法灯は病院付きの老人ホームを皆さんの『まごころ』で建設するのです。これほどの安心はありません、老後の別荘なのです」と説明しました。しかし現実に建設されたものはどこにでもある一般的な病院と軽費老人ホームでした。「会員のための老人ホーム」とはかけ離れたものでした。平成10年裁判はもと自然の泉会員により「これは詐欺ではないのか」との訴えによりはじまりました。

・「乞食でも10万円はもっているぞ」の罵声から講演会ははじまる
 
昭和49年(1974)頃、浅尾法灯は会員にむけて「光友(会員)が安心して老後がおくれる理想郷を建てるのです」とよびかけ、会員のための老人ホームと病院を建てるために「まごころ」協力を叫びはじめました。当時山口県小郡町にあった県光友会館のうらに会員を集めて「皆さんが入るための皆さんの老人ホームです。まず一人100万円が目標です」と個人的に「まごころ協力」をすすめました。
 
浅尾法灯はこのとき「親が子を、子が親を捨てる時代ですぞ、歳をとったとき子供をあてにできません。だからこそ光友が安心して老後がおくれる施設を作るのです。まごころした者はこの施設に無条件に利用できる、生命保険よりも確かな安心です」といいました。この言葉を信じて多くの会員が、生命保険を解約してまでも「まごころ」協力に立ち上がったのです。
 
初めの頃の「まごころ」協力の自然の泉の新聞やパンフッレトにはすべて病院名は「いずみ病院」と記してありました。
 
浅尾法灯の講演会は「たった1000円ぐらいしかださんやつがいるが、そんなはした金が何になるか、パチンコでも一回に何万円も持っていく時代ですぞ、東京の乞食でも10万円は持っているのですぞ。10万円もだせんやつは帰れ」と大声からはじまりました。
 
・「まごころ」せんやつは病気も治らん
 
やがて浅尾法灯は「まごころ協力こそ徳積みであり、徳積みにより問題解決の道がひらけるのです」といい方を変え、100万円「まごころ」をするともらえる「光自在」の「掛け軸」浅尾法灯真筆といっていた)を「一家に一本」といっていた言葉を、「ひとりに一本」と変えてきました。浅尾氏法灯は講演中に「今日身体の悪い者はいるか、いたら遠慮なく手を上げて立て、親光泉を入れてやる」といって会員を立たせました。多くの会員がどこかに問題をかかえておりかなりの会員が立っていました。浅尾法灯は「親光泉が入ったら身体が熱くなるから手をあげよ」といいました。なかなか手を上げない会員がいると、浅尾法灯は「おまえはいったいいくらまごころをしているか、法灯の間カードは何券か」と聞き、会員の「まごころ」金額が100万円以下だと「百万もできんのか」と怒鳴りあげ、20万円かそれ以下だと「たったそれだけか、東京の乞食でも10万円は持っているぞ、ようもたったそれだけのまごころで恥ずかしくもなくここに来たのう」と大声で罵倒し「皆さんこれですよ、親光泉が入らない訳が分かったでしょ」と会場の皆の前で怒鳴り散らました。(後に、七生行をした会員をリストアップして名前を呼びだし立たせるように変わった)  

(親光泉・しこうせん 病気をなおし問題を解決するパワー  七生行・なるしょうぎょう 自然の泉に人を導いてくること)
 
身体が熱くならないという会員には必ず「まごころはいくらしているか、法灯の間カードは何券か」と聞きましたが、または「七生行を何人しているか」ということもありました。浅尾法灯の著書が出版されたときは「本を買うことが徳積み」といわれ、「おまえは何冊本を買ったか」と聞き、その冊数が少ないと「ばかたれ、たったそれだけか」とば倒されました。手をあげずにいつまでも立っていると浅尾法灯からば倒され、大声で怒鳴られました。
 
そして壇上では「会員によるまごころ協力により、宇部第一病院、アスワン山荘を建てたのです」といって病院の施設、器機にいたるまで会員による「まごころ」で建設、購入されたかのごとくしゃべり「私が病院を、老人ホームを建てた」と豪語し、「病院の施設にはお金がかかるものです、頭をいれて検査するだけの機械が1億円ですぞ」と語り、この言葉に会員は「まだまだまごころが必要なのだ」と思って協力をし、自分たちがした「般若の里」建設の浄財「まごころ」により病院や老人ホームのすべての施設が建設されたものと信じて疑いませんでした。
 
浅尾法灯は「皆さんの命の次に大切なお金です。一銭たりとも無駄にはしません。まごころは天の倉に貯金をするのです、何倍にもしてお返しします」ともいいました。   自然の泉街宣用チラシに見る「般若の里」

いずみ病院建設の呼び掛け

浅尾法灯が掲げた「理想郷・般若の里」を、宇部市内で産婦人科医院を経営する大野豊氏が会員に呼びかけ自然の泉の新聞紙面で説明したもの。大野豊氏はをこの寄稿文の中で「一般の老人ホームは病気になったら追い出だされますが、“般若の里”は病気になったら無料で入院して治療が受けられ、治れば又ホームに帰って働くことができます。 ―省略― 親子三代、家族ぐるみで、光友ぐるみで交流を深め、生きがいのある生活を送る場が“般若の里”なのです。」と説明しています。   いずみ病院建設の呼びかけ

法灯の間参加カード

「まごころ」に協力するともらえるカード。金額によりA・B・C・Dのランクづけがあり、100万円以上はA券、50万円以上はB券、30万円でC券、10万円でD券。100万円以上で「光自在」の掛け軸、50万円で般若心経の遍額、30万円で般若心経の色紙、10万円で色紙がもらえました。これらはすべて浅尾法灯の直筆と信じられていました。また、浅尾法灯の講演会や電話質問、自然の泉の行事などを受けるにはこのカードが必要でした。  掛け軸

宇部第一病院

浅尾法灯は「福祉の理想郷建設」を掲げて「まごころ協力」を呼びかけました。浅尾法灯は会員に「皆さんのまごころで皆さんの病院を建てるのです」と呼びかけ、講演中にも「病院の経営にはお金がかかるものです」といったり「法灯は開説もし、病院の経営もしなければならず、忙しい毎日です」といいました。会員は自分たちの「まごころ」で病院のすべての施設が建設されたものと信じて疑いませんでした。昭和54年6月建設

アスワン山荘

浅尾法灯は会員に「子供が親を、親が子供を捨てる時代です。どこにも安心はないのです。だからこそ皆さんが安心して老後を過ごせる老人ホームを皆さんの「まごころ」で建てるのです。生命保険よりも確かな安心です」と呼びかけ、「まごころ協力」がはじまりました。初期には「100万円だせば家族が無条件で入居できます」ともいいました。そして建てられたのが「アスワン山荘」です。会員は無条件で入れると信じていました。昭和53年11月建設

・「お前はいくら、まごころをしたか」
身体に問題をもつ会員は浅尾法灯に声をかけてもらいなんとかして親光泉を入れてもらいたいと願っていました。浅尾法灯の講演会の合間に行われる泉行で、「病気が治りました」という体験談を毎回聞かされていると誰もが「私も治りたい、まごころをすれば治るのだろうか」と、わらにも縋る弱さゆえに希望をいだいていました。ですから、浅尾法灯にどんなにば倒されても、自然の泉をやめられませんでした。  (泉行・せんぎょう 体験談    親光泉・浅尾法灯が病気を治せるというパワー)
 
広島のある女性会員は七生行をしていたために講演会で名前を呼ばれました。浅尾法灯が「親光泉を入れてやる」というのです。彼女が立っていると浅尾法灯がいつもの親光泉を入れるポーズをしました。「エイ、ヤーいま入った」というものの彼女はいっこうに身体が熱くなったといって手をあげません。やがて立っている会員は彼女だけになりました。浅尾法灯は彼女に聞きました「おまえはいくらまごころをしているか」彼女は「100万円です」とこたえました。すると浅尾法灯は「そうか、主人はなんぼしているのか」と聞きました。彼女は「100万円です」とこたえました。浅尾法灯は「子供はなんぼしているのか」と聞きました。彼女は「100万円です」とこたえました。浅尾法灯は「これはにぶいんだ」といいました。彼女は自然の泉を脱会されました。(裁判所には実名で、陳述書として提出されました)
 
浅尾法灯が親光泉を入れると次々に「熱くなりました」と手をあげる会員が続きます。浅尾法灯は「おう、もう熱くなったかもう大丈夫だ治った」と声をかけ、会場からは一斉に拍手がわきあがります。この情景に出版局長の奥田氏はこれを新聞記事にしようと、患部が熱くなったという会員を会場裏の取材室に呼んで取材したことがありました。会員のほとんどが「手をあげないと法灯先生から怒鳴られるので、それが恐ろしくて手をあげた」というものでした。奥田氏は取材をやめました。
 
・「まごころ協力と本を買うことが徳積み」
浅尾法灯が書籍を出版すると、浅尾法灯の講演会は「まごころ協力と本を購入することが徳積みです」の講演一色になりました。浅尾氏の講演の合間に泉行に立つ会員の体験談も「まごころ100万円しました」とか「200冊本を買いました」といった発表が続きました。
 
泉行とは会員の前に立って自分の体験談(ただし、病気が治った問題が解決したという、おかげ話にかぎられる)を発表することです。これは誰でも早い者順にできることになっていました。しかし現実は出版局員と浅尾法灯が浅尾法灯の講演会前日に誰を泉行に立たせるかを決めて、出版局員が朝はやくに泉行申し込みリストに名前を書き入れて段取りを整えていました。浅尾法灯の講演会で何名泉行に立てるかは長年の経験で予測できましたから、その人数よりも多くリストに記入しておけば選定した会員以外の者が立つことはありません。泉行に立つ会員の選定はその会員が「浅尾法灯の偉大さを話し、まごころを多くしており、まごころをしたら治った」というような体験談をする会員が選ばれました。その会員には出版局員が電話で依頼し、時には泉行の要点を教えることもありました。このような裏工作の泉行ですから毎回同じ会員が同じ体験談を発表するため、多くの会員が「なにかおかしいな」と気付ていました。また出版局員に「泉行をしようと申し込んだら順番が回ってこなかった。そこで、次の月は朝一番に会場にいって泉行申し込みリストに記入しようと思ったらすでに名前が一杯に記入されていました。誰もまだ会場に来ていないのにおかしいのではないか」という、苦情が相次ぎました。 
(泉行・せんぎょう 体験談発表)
 
平成4年(1992)頃、浅尾法灯は会場を2ケ所にわけて講演会を行いました。総合本庁を第1会場にし青少年研修センターを第2会場にしました。「法灯の間参加カード」を持っていない者は青少年研修センターの第2会場にいかなければなりませんでした。   会場を二カ所にわけて

老後の安心とはほど遠い「般若の里」
 
会員の誰もが病院は「宇部第一病院は私たちが建てた、柱一本、メスひとつも自分たちのまごころで買われたものだ」と信じていました。(自然の泉チラシ参照)
 
しかし、真実は病院が2億5000万円を建設時に自然の泉から借り受け、これを月々返済し、建設用地も自然の泉から借り受け借地料をはらっています。
 
前医院長の大野豊氏が宇部市内にあった産婦人科医院を処分し、最初の建設時その私財を第一病院の建設にあて、後に建設された「老人保険施設」「痴呆老人施設」等は土地も建物も第一病院が購入、建設したものです。宇部第一病院は世間にたいし「自然の泉からお金を借りたのは病院理事長個人であって、病院とは関係はありません」と断言しています。後に増設された老人介護施設なども、浅尾法灯はさも自分が建てたかのごとく自慢しましたが、これらはすべて第一病院の資産で建てられています。宇部第一病院は医師会や病院職員には「自然の泉と第一病院とは関係がありません」とはっきりといっています。
 
アスワン山荘は建設時1000千万円程の融資うけたにすぎず、他は国や県からの融資により建設されたのです。土地は「建設地がアスワン山荘の所有地でないのはまずい」の県の福祉課の言葉に仕方なく提供したものです。土地を提供したといっても山林の値段はしれたものです。自然の泉被害者の会に告訴されるとあわただしくアスワン山荘に多額の寄付をし、特別養護老人ホームを建てる資金を融資するなどしています。

浅尾法灯が壇上で呼びかけた「まごころ」協力と現実の「般若の里」はあまりに大きな隔たりがありました。浅尾法灯の青年部員へのホモ行為強要による編集部員の退職、青年部員の脱会を機に、自然の泉を脱会した会員から「まごころ協力を呼びかけて約束したことはでたらめで、これは詐欺ではないのか」と浅尾法灯への非難がたちあがり「平成10年浅尾法灯を告訴」へとつながりました。
この裁判で浅尾法灯は証言台にたち、「まごころ」協力を呼びかけたことへの証言を原告弁護士から求められました。   平成10年裁判

山口地裁での・浅尾法灯証言理想郷建設にかんする)


原告弁護士の「昭和五十年四月の自然の泉の新聞に大野先生が『一般の老人ホームでは過去の生活体験が違う老人が雑居しているので心理的に好ましくないと云われていますが“自然の泉”で同じ人間勉強をした光友同士ですから、共通した心情の人々の集った共同生活ができる』とかいって、『“般若の里”は病気になったら無料で入院して治療が受けられる』と書いてありますね」の問いにこたえて
浅尾法灯・これは大野先生が自分の夢を語られたのです。タイトルに老人センターの夢と書いてあるでしょ。わたしの夢ではありません。


原告弁護士の「しかし、大野先生も般若の里建設委員のメンバーでしょう、一緒に夢を語ったのではないのですか」の問いにこたえて
浅尾法灯・いいえ、大野先生が自分の夢を語られたので、わたしの夢ではありません。


原告弁護士の「しかし、昭和四十九年八月の自然の泉の新聞に、あなたは般若の里の説明に『私たち光友は、現実面からも老後は何の不安もなくなく送れることが約束されたのである』と書いていますよね」の問いにこたえて
浅尾法灯・それも夢を書いたんです。その頃は原田さんがまとめたんですが、原田さんが書いたんです。


原告弁護士の「では、まごころをすれば無償で入れる。無料で診療が受けられるというのはあなたの夢だというのですか」の問いにこたえて
浅尾法灯・そう、夢です。


原告弁護士の「自然の泉の新聞には、まごころ呼び掛けの初めの頃には病院のことを『いずみ病院』と書いていますね」の問いにこたえて
浅尾法灯・これも夢です。


原告弁護士の「老後は自然の泉が責任をもつと書いていますが、これも夢ですか」の問いにこたえて)
浅尾法灯・はい、夢です。夢を語ったのです。


原告弁護士の「ウベニチ新聞に五十億で完成すると書いてありますが、これだけかかったんですか、さらに、光友の浄財ですべてを建てるどこからも援助はうけつけないとも書いてありますが」の問いにこたえて
浅尾法灯・それだけかかっていないでしょう、よく覚えていません。五十億という金額はウベニチ新聞社が書いたんです。


原告弁護士の「では新聞社が勝手に書いたんですね」の問いにこたえて
浅尾法灯・はい、新聞社は半端な数字はきらいで五十億とか書くんです。


原告弁護士の「しかし、あなたの著書である『人生に行詰まりはない』にもまったく同じことが書いてありますよ。あなたの著書ですよ、先ほどということが違うではありませんか」の問いにこたえて
浅尾法灯・えー、これは夢です。