有名人を利用するうそ

k.jpg

現代社会には物があふれ、人々の価値観は物によって左右されています。こころではなく物によって幸せをはかるときこころは荒廃して、人は幸せの中にいながら幸せをあじわえなくなります。信仰はこころのオアシス、荒廃したこころに一点の光明をもたらす救いとなります。しかし、見識に導かれた信仰は救いですが、盲目的信仰はアヘンとなります。

利用できれば でたらめも説法の内

時実新子さんは川柳作家として「現代の与謝野晶子」といわれたかたです。自然の泉出版局長の奥田氏との縁で奥田氏の兄の奥田一氏(ペンネーム・都市王)が自然の泉の原稿を執筆しており、その奥田一氏が病気のため原稿執筆ができなくなり、やむなく弟の自然の泉出版局長の奥田氏が兄の執筆仲間であった時実新子さんに原稿執筆をお願いしたのが、自然の泉に時実新子さんが原稿を書きはじめたいきさつです。やがて浅尾法灯は時実琛子さんの名声に目をつけるととんでもないことを会員にいいはじめたのでした。

左は読売新聞で紹介された在りし日の時実新子先生

yua.jpg

m3.gif

私が時実新子を育てたのです

青少年研修センターでは毎年子供達の合宿が開かれていましたが、ときおり一般の会員を対象に「法灯の間」や「感泉委員講習会」「経営者実践教育勉強会」などが開かれていました。

昭和60年、青少年研修センターで開かれた「法灯の間」で浅尾法灯は合宿に参加した一般会員をまえに「朝日グラフ」を掲げ「皆さんこの女性ですよ、自然の泉誌と新聞に原稿をだしている時実新子は」といって表紙の女性を会員にみせました。それは自然の泉機関誌や新聞に原稿をだしておられた時実新子先生が、‘現代の与謝野晶子’と称されてマスコミにとりあげられ、「朝日グラフ」に連載され顔写真が表紙に大きく載っているものでした。浅尾法灯は会員に「川柳では食えんかったのです。それを法灯がここまで育てたのです」といいました。
以来浅尾法灯は講演の度に、会員に「朝日グラフ」をみせては「法灯が育てて、飯が食えるようになったのです」といい続けました。

m4.gif

時実新子(ときざねしんこ・平成19年3月逝去)先生は文筆家で、川柳の第一人者として知られていますが、時実新子先生の川柳やエッセイが自然の泉機関誌に連載されたので会員は「法灯先生が時実新子氏を育てられたのだ、法灯先生のいわれたとおりに従えばいいのだ」とお金をだしました。
時実新子先生が自然の泉機関誌にエッセイを連載するようになったのには訳がありました。実は、自然の泉誌の18ページと新聞25日号(一)下段の原稿を平成9年に自然の泉出版局をやめた出版局編集長の奥田氏の兄・奥田一氏が執筆していましたが、病気で入院したために執筆できなくなり、原稿に穴があくために困った編集長の奥田氏が兄の文筆仲間である時実新子先生に電話をして、訳を話して執筆をお願いしたのでした。

奥田氏の兄・奥田一氏は都指王の俳号をもち、「川柳の神様」といわれた川上三太郎氏に時実新子先生とともに師事した俳壇の仲間でした。

時実新子先生の好意により原稿に穴をあけることもなく自然の泉誌をつくることができ、やがて、時実新子先生は次々と本を出版してテレビや雑誌に登場されて‘現代の与謝野晶子’と称されるほどに名声があがりました。すると浅尾法灯「時実新子先生を育てたのは法灯です」といいはじめました。

浅尾法灯の言動に驚いた出版局長の奥田氏は浅尾法灯の内縁の妻である西山に抗議しました。「もしも会員が法灯先生の言葉を信じて時実先生のところにいって、話したらどうしますか、もう原稿は書いてもらえなくなりますよ」といった抗議に、浅尾法灯は山口県での講演会では「時実新子はわしが育てた」とはいわなくなりました。しかし奥田氏がいない東京会館での講演会では相変わらずいい続けていました。