安芸国山縣郡穴村堤

地図から分かるように、堤は幾重にも連なる山と太田川で囲まれている。川は現在に比べて格段に水量があったはずで、渡れる場所は瀬になった一か所(大津の瀬)しかなく、防御に最適な天然の要害だった。武士にとって広い土地は必要なく、敵から身を守るのが最優先だから、ここだったら安心して暮らせると考えたのであろう。事実、この後戦国時代が終わるまで、一度も攻められて危険な目に遭うことはなかった。

大津の瀬

小田氏発祥の地

頼政より十世の後裔・政季の代に到り、西条の鏡山城に據る大内勢から圧迫を受け、河内町小田の地を離れる決心をする。太田川に沿って遡り、山縣郡穴村にさしかかったとき、移り住むのに適した人跡未踏の地を見つける。そこは幾重にも山が囲み、太田川が深い淵を成して取り囲んだ要害の地である。一箇所激しい瀬になったところがあり、檜の大木を刈り渡して乗り込んだという。この瀬は大津の瀬または檜の瀬といわれている。山裾の一箇所に滾々と水が湧き出す山清水があり、その泉の底に白く光る石を見つける。政季は先ず、この石を御神体として小祠(地主大明神)を建て、遠祖頼政を祀るとともに子孫繁栄を祈る。地主大明神が鎮座する場所は、山清水の横の岩盤がせり出した上にあり、椋の大木 (樹齢600年以上)に藤を絡ませた、先住地の小宇治屋長者墓所と瓜二つの形状を成す。山清水はどんな日照りでも枯れることはなかったという。

政季はこの地を堤ヶ原と命名し、付近の開拓に取り掛かる。堤という地名はこれまで住んでいた河内町小田の上流部に、堤大池や城が原の堤という里が存在することから、先住地を追慕して命名したのであろう。また、先例に倣って、山縣氏を改め小田氏を名乗ることにする。時に長禄元年(1457)のことである。
なお、堤の近くの程原というところに猪一族が住んでいる。猪早太の後裔で、小田氏が先住地から移住してきたとき、付き従ってきたという。穴村「堤」は何時の頃からか、「都津見」と表記するようになった。

累代墳墓類(禅宗,浄土真宗)

昭和11年、楠公会・橋本博士が山県郡一帯の南北朝期の史蹟調査を行ったとき、博士の指導のもと、新屋の庭先に放置してあった累代墳墓を並べたものである。10世・政季から17世・政方までの禅宗の輪塔と頼政追善供養の宝篋印塔がある。元々は道教寺の境内にあったが、宗派が浄土真宗になったため、道教寺は廃寺となった。

五輪塔・宝篋印塔群(禅宗)

小田五郎左衛門政知(寛文11年没・釈正尊)が浄土真宗に改宗してからの墓は堤八幡宮上手の共同墓地の中にある。政知の子・小田為兵衛政純(宝永元年没・釈教空)が中河内初代である。政知は最初、三男の政康に家(森の下)を継がせたが、後に長男の政純に代えた。その理由は伝わっていない。

浄土真宗改宗後、初代・二代目の墓

祖霊社(地主大明神・堤八幡宮)

地主大明神は堤に落住後最初に建てた神社で、先住地の社に似せて、椋(樹齢六百年以上)に藤を絡ませている。第二次大戦後、落雷によって落下した椋の枝が社殿を直撃して大破したまま、再建を果たせずにいる。木彫は頼政(?)かも知れない。

地主大明神の御神体と(頼政?)像

文政11年(1828)小田富四郎が再建したとき奉納したもので、有名な”ぬえ退治”の絵柄になっている。作者は江戸の絵師・高嶺雲である。師父・高嵩谷が天明7年(1787)浅草観音堂に奉納したぬえ退治の絵馬は、国の重要文化財に指定され、絵馬の傑作として全国によく知られている。

地主大明神・奉納絵馬

堤八幡宮は慶長2年(1597)、17世・政方が文禄・慶長の役から凱旋した記念として創建したものである。現社殿は大正9年に再建した。

堤八幡宮

安芸太田町本郷

澄合から太田川の支流・西宗川を少し遡ったところにある。本郷は小田氏が山縣郡代官職をしていたとき居住した場所で、上穴屋敷跡(石組み)、小田左衛門太夫政秋が天文元年(1533)に創建し、小田権右衛門政治が万治2年(1659)に再建した鷹崎八幡宮、政秋が創建した正覚寺などがある。

鷹崎八幡宮

上穴二代目権右衛門政治が再建した直後に一度火事で消失したが、寛文4年(1664)にもう一度再建している。政治はその2年後に厳島神社に鉄の鳥居を寄進しているから、当時の上穴の財力が偲ばれる。

鷹崎八幡宮 拝殿

長光山正覚寺

浄土真宗に改宗後二代目の義鏡は知空門下の秀逸として名高い。小田氏の菩提寺である。

正覚寺・鐘楼

上穴屋敷跡

正覚寺の下にあり、石組みだけ残っている。上部、左右に後世の補修箇所があるが、大部分は城壁を思わせる堅牢な作りになっている。 元々は代官屋敷ではないかと思われる。

※ ブログでは享保年間ごろ破産となっているが、享保6年に藩主の御国巡りのとき、小休止処として屋敷を提供しているくらいだから、まだこの頃は勢いがあった。寛政年間に絵師が会ったという保右衛門政康の代になると昔日の面影はかなり失せたようだ。さらにその子供の代(天保年間)に、かって元就から拝領した刀にまつわる事件が起こり、それをきっかけにさすがの上穴も急速に没落してしまった。

安芸太田町船場

太田川の川船による運送が盛んだった頃、船着場があったことが名前の由来である。東光(向)寺は、12世・政利、13世・政秋父子が戦没者の霊を弔うため、大永2年(1522)4月に建立したのが最初である。

東光(向)寺