国政が京の検非違使庁に呼び出され、平家の意向を受けた厳しい詮議の結果配流されたのが、安芸国豊田郡小田(現・広島県東広島市河内町小田)である。広島県三原市で海に注ぐ、沼田川の支流・椋梨川の流域に開けた山間の寒村である。山陽本線河内駅(河内町の中心地・中河内)付近で沼田川から分かれた椋梨川は峡谷をなし、上流部に今は椋梨ダムおよび白竜湖が拡がる。 国政は源氏の世になっても、その罪を許されることなくこの地で一生を終えるが、都から逃れてきた菖蒲前と猪早太が、ここから直線距離で約20km離れた西条にとどまったことを知り、絶えず連携を取ったものと思われる。国政以降次第に力を蓄え、7世・通政の代になると、安芸の石井末忠、熊谷氏、斉藤修理利綱、帯刀利盛・綱賢、河野久綱等と連携して、向島・因島方面で南朝再興を策す。一方で、土地の人に京の文化を伝えて啓発に努めて、小宇治屋長者と呼ばれて崇められてきた。9代、280年間ここで過ごし、今から約550年前に安芸国山縣郡に居を移すが、現在も「小宇治屋長者墓所跡」なるものが残っている。
小田を東西に貫く車道から南に一段上がった、こんもりした林の中にある。草むらの中に頭だけ出した五輪塔や宝篋印塔が散見される。多くは土の中に埋まっていると思われる。墓もさることながら、この地は磐座(いわぐら)祭祀の霊域と思われる。それは、椋の大樹に藤を絡ませたここの形式と全く同じものが、この後移転した安芸国山縣郡堤の地主大明神を祭った場所にあるからである。椋は根回り四メートル以上あるが、中心はほとんど朽ちていて、周辺から直径40cmくらいの幹が三本伸びている。樹齢八百年というのもうなずける。