Last Update 2/5/2021

歴女 挨拶する舞妓

本日は、「わが温品」の「歴史」のページをご閲覧いただき、ありがとうございます。

このページでは、温品(ぬくしな)の悠久の歴史を紹介します。ごゆっくりご覧ください。

このホームページは、今後少しずつ内容を充実させたいので、皆様のご指導をお願いします。

What's new !

月/日 記事の内容 ページ名 備考
6/11/2014 「わが温品」を開設 歴史 新規
7/8 「淡島明神社」を追加 寺・神社 追加
8/2 「正光寺」、「岩谷寺」を追加 寺・神社 追加
9/2 「矢田山神社」を追加 寺・神社 追加
6/24/2020 「亥の子祭りのイラスト」を追加New 風俗・習慣 追加
1/2/2021 写真「淡島明神社の内陣」を追加New 寺・神社 追加
2/5/2021 「水害碑」に「近接する地域の記憶」を追加New 石碑 追加

更新履歴や最新記事を記します( なお、画像の入れ替え、文章の加除訂正など小さな変更は、随時行う)。

このページの内容

歴 史
安芸町誌

温品の歴史を簡単に紹介します。(⇒詳細を見る)

古い写真
温品の古い写真

温品の古い絵ハガキを紹介します。(⇒詳細を見る)

史 跡
永町山城址

温品の史跡を紹介します。(⇒詳細を見る)

神社・寺
清水谷神社

温品の神社や寺を紹介します。(⇒詳細を見る)

石 碑
水害碑

温品の石碑を紹介します。(⇒詳細を見る)

風俗・習慣
にごめ

温品の風習を紹介します。(⇒詳細を見る)

歴 史

安芸町誌

安芸町誌(上下巻)

昭和48年に安芸町誌編纂委員会により、「安芸町誌(上巻、下巻)」が出版された。

多くの資料を渉猟のうえ、温品の歴史が丁寧に記述されている。広島市と合併した今では、温品の歴史について調査・研究する書物が二度と刊行されることはないだろう。編纂や執筆にあたられた関係者のご労苦に感謝したい。
 以下このページでは、「安芸町誌」から引用させていただいた。

縄文・弥生化時代

温品地区に点在する貝塚(磯合、森垣内、畳谷、平林、塔ノ丘、矢田)や古墳(須賀谷、中島、赤羽)、出土した土器や住居跡、墓跡などから、縄文時代や弥生時代に、われわれの祖先が小集落を形成し始めたと推測される。
 大陸のすぐれた文化が北九州へ伝来し、畿内へ広まる過程で、広島湾のほぼ中央部に位置する温品の人々は、大陸文化の恩恵に浴することができたと考えられる。
 貝塚や古墳が発掘・調査されたものの、いずれも保存対策がなされなかっため、団地や学校敷地の造成などで、壊滅し、現在、確認することは困難である。

大和朝廷時代

大宝律令により、地方は国・郡・里に分けられた。安芸国を治める役人を国司といい、720年、忍治人成(おしぬみひとなり) が 最初の安芸の守として、中央から派遣された。国の政庁は国府といい、隣の府中村に置かれた。
 安芸国は八郡で構成されており、温品村は安南郡に属した。後に安芸郡と改められる。郡の下に郷があり、安芸郷には府中村、中山村、温科村が属した。先進地が「あき」と呼ばれていたことからも、安芸郡安芸郷の温品村付近一帯は、古くから政治や経済、文化の重要な地点であったと推定できる。
 墾田私有令により荘園が成立し、中央の貴族や寺社が土地を所有した。荘園の発達とともに、荘園を警護する武士が誕生する。東の源氏と西の平氏がしだいに頭角をあらわした。
 温品村については、当時を物語るものは何もない。

鎌倉時代

平氏が没落後、安芸国の守護職として、関東から武田信光が西下した。温科村の地頭職に金子氏が武蔵から起用された。

室町時代

金子氏の名前が消え、温科氏が現れる。金子氏が土着し、地名の温科を名乗った可能性があるが、定かではない。温科氏は武田氏に被官した。その後、温品には「温品」または「温科」を名乗る者は存在しない。
 吉田の毛利氏の勃興とともに、武田氏の支配は終わり、温品村は熊谷氏の知行地となる。

江戸時代

毛利輝元が広島城へ入城するとともに、毛利の家臣団が広島城下へ移住した。徳川時代に毛利氏が防長へ改易されると、福島正則が入部した。福島氏も改易されると、紀伊から浅野長晟が受封した。
 在地の有力土豪を農民身分に縛り付けるため、村役人の職(庄屋)を与え、浅野氏は安芸藩を巧妙に支配した。温品村の庄屋は、牛田村などと掛け持ちした。庄屋の仕事は、諸法度を村民に守らせることや年貢を完済させることであった。

明治時代以降

(省略)

古い写真

インターネットの古本屋で偶然に、温品村の古い絵葉書を見つけた。売主は、北海道の古書店である。勝手な推測だが、明治時代に温品村から北海道の開拓に移住した人が、望郷の思いからこの絵はがきを手にしていたような気がする。温品に縁もゆかりもない人が、このような写真を買うとは考えられない。
 いつ、何のために絵はがきが作成されたものか、残念ながら分からない。第二次世界大戦の前後、何かを記念したものと思われる。
 3枚の絵はがきは、セピア色に変色し見えにくかったので、鮮明な色に画像処理した。

田園風景(温品村全景)
田園風景

高尾山(あるいは松笠山)を背景に、のどかな田畑が広がっている。手前の 田圃には雨水がたまり、遠くには積み重なったわらが見える。山には雪か紅葉か、何か白いものが見える。季節は収穫の終わった晩秋ごろであろうか。
 人家は山裾にぽつぽつと見える。
 現在、この写真のあたりは都市化の波が押し寄せ、住宅が立ち並んでいる。まさに隔世の感がある。

八幡の滝
八幡滝

清水谷神社の北側の谷にある小さな滝、「八幡の滝」である。祭りの日か、あるいは正月であろうか、しめ飾りが張られている。
 かって、神社の境内にある保育所の園児たちは、滝壺で水遊びしていた。その後、滝の上部の山の斜面が、広島高速道(温品バイパス)の工事で削り取られたため、水脈が断たれた。現在、山水がほとんど流れ込まず、岩肌がむき出しとなっている。滝壺にも水はほとんどなくなく、赤茶けた落ち葉でおおわれている。

岩谷寺
岩谷寺

 高尾山の頂上付近に、「観音さん」として親しまれていた岩谷寺があった。縁日には、温品ばかりか、府中や広島市から訪れる参拝客でにぎわった。
 現在、岩谷寺はふもとへ移築されたものの、無住(府中町の住職の掛け持ち)の寺となっている。

 

 

史 跡

永町山城址

永町山城址(北側)

永町山城址(北側)
(5/25/2020年撮影)

永町山城址(南側)

永町山城址(南側)
(5/25/2020年撮影)

永町山城址(西側)

永町山城址(西側)
(5/25/2020年撮影)

永町山城址の崖

永町山城址の南崖
(2/4/2014年撮影)

永町山城址(頂上)

永町山城址(頂上)
(2/4/2014年撮影)

永町山城址(頂上)

永町山城址(頂上)
(2/4/2014年撮影)

その他
 永町山城址は樹木におおわれ、田畑の中に、ひっそりとたたずんでいる。石碑や立て札もなく、金子氏の居城、永町山城の址であることを知るすべはない。

森垣内地区の人たちは「城山(じょうやま)」と呼び、親しんでいる。頂上への登り道は雑木に覆われてしまった。急な崖をおおう雑木や竹林をかきわけて登り、やっと頂上へたどりつくことができた。
 頂上はほぼ平坦で、雑木や竹が生え、落葉でおおわれている。戦中、戦後は耕され、芋などの農作物が栽培されていたため、武将たちの居館や櫓などの遺構は、さだかでない。

私たちが子どもの頃、頂上の芋畑のまわりで、木や竹で、チャンバラ遊びに夢中になった。乱暴な遊びだったけれども、不思議とけがをしなかった。悪童といえども、お互い手加減というものを知っていたのである。
 この山はお城跡であることを、知っていたので、私たちは戦国の武士になったかのように、ふるまっていた。永町山城址は、私たちの夢の跡でもある。

急な崖を滑らないよう、竹や雑木をつかみ、足場を慎重に確かめながら、降りた。


屋太山城址

屋太山城址(南側)

屋太山城址(南側)
(5/28/2020年撮影)

屋太山城址(北側)

屋太山城址(北側)
(5/28/2020年撮影)

屋太山城址の入口

屋太山城址の入口
(2/4/2014年撮影)

大田明神社

大田明神社
(2/4/2014年撮影)
屋太山の中腹にあった社

大田明神社本殿内の絵

大田明神社の本殿内にあった絵
(2/4/2014年撮影)

屋太山城址の頂上

屋太山城址の頂上
(2/4/2014年撮影)

その他
 屋太山城址は、おかもと整形外科クリニックの真向かいにある小さな丘にある。北や西、南を住宅街に囲まれ、東ふもとを県道が走っている。

南西から小道を東へ向かって登ると、小さな社の大田明神社が見えた。周辺に碑や由緒書きはない。 さらに進むと矢田城地区の人たちの墓地があった。墓地の裏の竹藪をかき分けて少し登ると、やや平坦な頂上へ出た。竹や雑木が生い茂り、かって城館があった面影はない。

子どもの頃、矢田城地区に城跡があることは知っていた。今回、初めて城跡に立つことができた。つわもの達の夢の跡に思いをはせた。

大田明神社

■祭神 大田命
 大田の命(みこと)は、猿田彦の後裔で、神鏡を祭る地へ道案内した。したがって猿田彦命と同じように通路の神であろう。
 現在も社殿が残されている。(安芸町誌)


神社・寺

清水谷神社

まえがき

清水谷神社は、高尾山の西麓にあり、樹木に覆われているため、境内の外から社殿は見えない。
 参道は、温品郵便局の前の石碑から、東の高尾山のふもとに向かう。住宅に囲まれた道を通り抜けると、石段にたどりつく。石段を上り最初の鳥居をくぐると、石畳の道に出る。樹木におおわれた長い急な石段を登り、二番目の鳥居をくぐりぬけると、境内に出る。
 正面(東)に大岩(高く長い石崖)が立ち、その手前に末社、右手(南)に神社本殿がある。左手(北)に保育所の木造の建物があり、西側は下が石崖となっている。こじんまりとした境内、高い樹木でおおわれ、静寂である。
 突然、子どもたちが現れ、棒切れでチャンバラごっこを始めた。清水谷保育園の園児たちである。いつの時代でも、チャンバラは子どもの遊びの定番なのだろうか。
 鳥居の彫り込み文字や本殿の書きもの読むと、大正初期に整備されたことが記述されている。大正15年9月の水害で、裏山から土石流が流れ込み、甚大な被害を被ったのである。
 写真を撮り帰ろうとしたら、最初の鳥居の前で宮司の渡部正信さんに出会った。神社の歴史を書いた文書(下記のとおり)をいただいた。

参道入口の石碑

参道入口の石碑(温品郵便局前)
(5/28/2020年撮影)

参道(宮下地区)

参道(宮下地区)
(5/25/2020年撮影)

入口の長い階段

入り口の長い石段
(5/25/2020年撮影)

境内入り口鳥居

境内入り口鳥居
(3/20/2012年撮影)

稲荷社

稲荷社
(3/8/2012年撮影)

狛犬

狛犬
(3/8/2012年撮影)

清水谷神社拝殿

清水谷神社拝殿
(5/25/2020年撮影)

拝殿正面

拝殿正面
(3/20/2012年撮影)

拝殿天井

拝殿天井
(3/8/2012年撮影)

拝殿入口

神殿入口
(3/8/2012年撮影)

拝殿天井の絵馬

拝殿天井の絵馬(武士はだれなのか不明)
(3/8/2012年撮影)

拝殿裏

神殿裏
(3/20/2012年撮影)

八幡滝

八幡滝
(5/25/2020年撮影)

白地岩(大岩)

白地岩(大岩)
(しめ縄がかけられた岩や下側の大岩など)
(5/25/2020年撮影)

略  記

この神社はもともと「清水八幡宮」と称していたが、明治末期に「清水谷神社」と名称を改めた。

■境内地総坪数:312坪、建坪神殿:9坪、弊殿:12坪、拝殿:16坪
 ■祭神:帯中津日子之命、品陀和気之命、息長帯日売之命、此のほか12社の祭神を合祀している。

 創立の年月日は不詳である。古文書や伝承によると、西暦200年頃、神功皇后(仲哀天皇の妃)が九州へ御幸したとき、温品の金碇に船を留めた。当神社の北側の白地岩に、三日三夜滞在された。(この神社の)清水で洗米し、竹内宿弥や他の家臣たちと過ごされたという。
 皇后は、帰途の時にも立ち寄られた。ある夜の夢枕に白髭の老人現れ、「この清水にて諸病をなおし、飲むならば、長寿を保つことができる」というご神託があった。当時の大旦那は、その由緒により、この地に神社を一宇建立した。京都の石清水八幡宮より、前記の祭神を●勧詔した。

 西暦825年(弘仁14年春、嵯峨天皇御代)に、干天が続き、温品の大勢の農民が当社に立願し、雨乞いの祈禱を行ったところ、慈雨が降り、千里を湿した。多くの村民は大喜びであった。
 1281年(弘安4年8月、宇多天皇御代)、温品左衛門慰が再建したと棟札に書かれている。
 1564年(永禄7年4月吉日正親天皇御代)、熊谷九郎少輔平広実が、神主・渡部綱長左近の時代に改造したと、棟札に書かれている。
 1696年(元禄九年、東山天皇御代) 拝殿を造営した。当時の神主・渡部図書守元次、大願主・庄屋の桧脇伝と書かれている。
 1800年(寛永12年、光格天皇御代)、神主・渡部筑前守勝友が遷営、庄屋・畠山弥作が造営と書いてある。
 明治4年、温品村内にある清水谷神社や12の末社を合祀する。神主は渡部土佐守満登、戸長は若山常頼であった。
 明治40年2月1日、村の神社となった。弊帛(はく、きぬ)供進神社に指定される。当時氏子数258戸である。
 大正4年、御大典の記念事業として、神社を西向きから北向きへ移動した。
 昭和3年、神殿を茅葺から銅葺へ変えた。これらは総べて 氏子や崇敬者の赤誠の奉寄進による。
 昭和20年、進駐軍のマッカーサー元帥の指令により、国家による管理が中止された。新しく制定された宗教法人法にもとづき 神社規則を作成して、宗教儀礼を行う。

年 間 祭 祀
○大祭
 祈年祭 2月17日
 例大祭 11月3日(従来は10月17日)
 新嘗祭 11月23日
○中祭
 歳旦祭 1月1日
 紀元節祭 2月11日
 前夜祭 11月2日
 夏越祭 7月30日
○小祭
 月次祭 毎月1日、15日
 皇盤祭 春秋 彼岸
 初午祭 旧2月午日
 龍親祭 旧5月15日
 神嘗祭 10月17日
■出典
 「清水谷神社略記」宮司・渡部正信、昭和38年8月(2012年3月20日、渡部正信宮司よりいただいた)

八幡滝
 清水谷神社境内にあり、本殿横の大岩の背面にある。藝藩通志では、八幡滝は岩屋山にあると記している。
 その頃、八幡滝の水量は多く、多くの修験者が訪れていたという。現在、滝は枯れ、滝壺は砂や落ち葉に埋もれてしまい、昔の面影はない。(安芸町誌)

金碇明神大社

由  来
入口階段

金碇明神大社入口階段
(左奥に神殿、拝殿がある)
(5/25/2020年撮影)

金碇明神大社

金碇明神大社
(左奥が神殿、右が拝殿)
(3/8/2012年撮影)

■祭神:市杵島比売命
 市杵島比売命は厳島神社の祭神で、海の守護神として信仰されている。仏教の影響を受け、弁才天女と習合し、七福神の一つとして、福智・弁才(弁舌の才能)を与え、諸技を授ける神とされている。
 神功皇后の伝説がある(次に記す)。
 祭日は9月17日である。(安芸町誌)

■伝説
 第十四代仲哀天皇のお后は、神功皇后であった。天皇没後の西暦361年ごろ、御子をご懐妊のまま、百済の国の要請で、大軍を率い朝鮮半島へ遠征し、大勝した。
 帰り道、この地(金碇)の沖合二百メートル余りに船団を停泊し、休息した。
 休息を終え、出発しようとしたところ、皇后の乗った船の碇が上がらない。困惑していると、何処からか、白髪の老人が現れ、
 「この地に船団を停泊したため、竜宮の怒りに触れた。すぐ碇の綱を切り、逃げなさい」
と言った。
 神功皇后が老人に名を尋ねと、
 「この島の海岸に大銀杏の木がある。私は、その木の下にある石である」
と、その老人は告げて、姿を消した。
 神功皇后はいたく感謝し、末代まで彼の恩に報いることにした。自分の分身として家臣を島に残し、出発した。
 老人の神体(石)は、家臣の子々孫々にわたって、金碇明神として祭られてきた。
 その後「金碇」の地名が現代まで引き継がれている。最近まで金碇地区は、底なしのぬかるみであり、赤錆が浮き出ていた。
 金碇明神大社の祭礼は、その日を記念し、旧暦の八月十七日に行われている。 古より瀬戸内の人々が、航海の安全を願い、ご神体と同じ形をした、こぶし大の楕円形の石を奉納してきた。
( 一九九九年九月吉日 檜山祐三)

その他
 金碇明神大社は、住宅街の中の山裾にへばり付くように建っている。道路からは石崖の上に小さな神殿と拝殿が見える。由緒ある神社にもかかわらず、こじんまりとしている
 檜山祐三さん宅の前庭を横切り、神社の石段を登った。拝殿は建て替えられたばかりのようである。
 参拝を終え帰ろうとしたら、檜山さんに呼び止められ、大社の由来を記した文書をいただいた。檜山さんはこの神社を管理しておられる。

荒神社

荒神社1

荒神社1
(1/31/2014年撮影)


荒神社2

荒神社2
(1/31/2014年撮影)


由  来

■祭神:奥津日子命、奥津比売命
 神をないがしろにするとたたり、神への畏敬を表わさないと危害や不幸にあうという神を祭る。この神は牛馬の安全を守り、火難盗難を防ぎ、かまどの神である。
 屋敷神、同族や部落の神としての荒神もあり、複雑な神である。「藝藩通志」の絵地図に荒神とあるのはこの社である。
 ■祭日:9月第2日曜日である

■御由緒
 明治4年、社寺整理が行われ、荒神社も清水谷神社に合祀される事になる。 石の御神体を信仰深い二人の手により、お連れ致した。

 それから間もなく、横見谷地区に流行病が発生、軒別床に伏す事となる。
 そんな折、信仰深い谷口伝内夫婦の夢枕に神様が立たれ、「おれは横見谷に帰りたい、どんな小さな所でもよいから帰りたい」と切願された。その旨を講頭に話し、清水谷神社の宮司「土佐守」が、祀詞奏上お伺いした。やはり「荒神社は横見谷に帰りたい。鎮座の上は、流行病や火の災いは一切出さぬ」という有難いお告げがあった。

  明治4年、再び清水谷神社よりお迎えし経緯の後、現在の御社殿に御鎮り願った。
 横見谷地区の守護神として、多くの人々の信仰を集めています。 (碑文)

その他
 筆者はこの神社の存在を今まで知らなかった。
 本殿の前にある碑文を読んだり、社のまわりの寄進者の名簿を見たりし、この神社が横見谷地区の人たちにより、大切に祀られているいることを知った。

淡島明神社

淡島明神社

淡島明神社
(7/1/2014年撮影)


淡島明神社

淡島明神社の内陣New
(12/25/2020年撮影)


由  来

■祭神:少名彦命、大巳具命、息長足姫命

 広島藩主の浅野家が、紀州和歌山から広島へ移る時、神社も一緒に来た。
 当初は長伝寺地区に祀られていたが、その後、現在地の福永さん宅の南東(温品川西岸)へ移された。「あわしもんさん」の呼称で親しまれており、農業・裁縫・交通・安産の神様である。特に子宝と安産については、昔から信仰する人が多い。(「ふるさと散策/ぶらり温品・上温品」)

その他

温品4丁目20番の最南端(第二神前橋の北)の、 温品川西岸にある小さな社が、淡島明神社である。宅地の一画にあり、小さな離れのような造りである。残念ながら、この社には、社名や由来が書かれていない。
 この辺りの両川岸は、車の乗り入れが少なく、比較的安全な道路なので、ウォーキングや犬を散歩させる人たちが多い。また、小・中・高生の通学路にもなっている。
 行き交う人たちの安全を見守っているのかのように、両岸の方(東の方)に向って鎮座している。
 

矢田山神社

矢田山神社

矢田山神社
(9/2/2014年撮影)

由  来

樫の木がご神体の神社である。
 矢田城地区の南、高台の墓苑の中心にある。神体の木のまわりは、墓地の造成工事でぎりぎりまで削りとられ、無残な姿となっている。日照りが続くと、枯れそうである。
 樫の木の下に立つと、下温品を見渡すことができ、見晴らしがよい。

 

正光寺

正光寺山門

正光寺 山門
(3/7/2012撮影)


正光寺

正光寺
(樹木の間から、本堂が垣間見える)
(3/7/2012撮影)


その他
 正光寺は、浄土真宗本願寺派のお寺である。

本堂や鐘楼、山門などの屋根瓦は全面的に葺きかえられ、重厚な建物となって、よみがえっている。。
 残念ながら、山門が固く閉じられており、境内に立ちいることができない。 私たちが子どもの頃は自由に立ち入ることができ、お寺は身近な存在だった。

岩谷寺

岩谷寺本堂

岩谷寺本堂
(5/5/2020撮影)


大師堂

大師堂
(8/7/2014撮影)


護摩堂

護摩堂
(8/7/2014撮影)


鐘楼

鐘 楼
(3/8/2012撮影)


由  来

高尾山・岩谷寺は高野山真言宗のお寺で、本尊は聖観世音菩薩である。広島新四国八十八ヶ所霊場第二十七番となっている。 お寺の開創は不詳であるが、観音本尊由来記によると次のように伝えられている。

 「甲斐国の浪人近藤三郎左衛門が、伊勢の海にでて魚を獲ろうと網を入れたところ、石仏がかかった。魚ではないので海に投げ返した。一里ほど外海に出て、網を下ろすと、また石仏がかかった。これは不思議なことよと思い、安芸国温品村高尾山上に岩谷寺を建てて祀った。その後、岩谷観音と呼ばれるようになった」

 徳川時代末期の神仏分離論があり、府中村と温品村の間で、自村の寺ではないという争いが起こった。その後、社殿が山上に再建されると、広島周辺の信者が列を連ねて参るようになった。
 十八丁の急峻な山頂にあり、境内が崩れた。
 1969年(昭和44年)現在地に再移転・建立し、現在に至っている。

 境内に「当山住職、空谷聖人 浜野大澄の一建立」との碑がある。残念ながら、岩谷寺は無住となっている。

 ■「岩谷」の由来
 神武天皇が日向国から大和国へ向かって東征の途中、温品の地に上陸し、高尾山に登られた。その後、天皇の名「イワレヒコ」が転化して、「イワヤ」山となったと伝えられている。

石 碑

水 害 碑

まえがき
水害碑

水害碑
(八幡橋西詰、5/27/2020年撮影)

大正15年(1926年)9月11日未明、温品地区を大雨が襲い、甚大な水害をもたらした。その災害を後世に伝えるため、昭和5年(1930年)9月11日石碑が建立された。
 石碑には、被害のなまなましい模様が漢文で彫られている。風化がかなり進み、判読しにくいので、現代語で書き直す。

碑  文

「大正15年9月11日午前2時、未曽有の大驟雨が突如、襲来した。
 山林が数百箇所で崩壊した。岩石や土砂、樹木とともに濁水が滔々と流れた。
 橋梁は墜落し、人家が漂湯した。
 全村が一大修羅場化し、 救いを求める声が暗闇を破る。 救援や防禦の術がなく、惨憺たる有様で、言語を絶する。
 被害の概数を以下に記す。
 死者:四名、負傷者一名、流失や破壊した住家:六十三戸、流壊した納屋等:五十二棟、 道路の決壊や埋没:一千三百五間、 耕地の流亡や埋没:四拾五町九段歩、 河川の埋没:千二百間、 堤防や河岸の決壊:二千四百間、 橋梁は全て流失、 家畜の溺死数:百頭、物質損害:時価約五十万円 」

近接する地域の記憶New
 広島市内は、過去に多くの洪水や土石流が発生しており、同じ水害を繰り返さないために各地に水害を記念する石碑が建てられている。同じ1926年9月11日の水害について、次の通り3か所ある。温品村や府中町、畑賀村は互いに山で隔てられているけれど近接しており、この地域が集中的な豪雨に襲われたようだ。
◇畑賀村水害碑(広島市安芸区畑賀3丁目)
◇水害記念碑(広島市安芸区中野1丁目)
◇水害記念碑(市外安芸郡府中町山田1丁目)

森川顕彰碑碑

まえがき
森川家頌徳碑 ・碑文

森川家頌徳碑 ・碑文
(温品小学校内の正門南、3/6/2012年撮影)

温品小学校の正門の南に、森川家顕彰碑が建立されている。また、石碑の裏に、その経緯が彫られている。

碑  文

「温品小学校は明治十八年現在地に移設し、当時は敷地五畝、規模も三学級のものであった。
 明治四十二年学校拡張にあたって、森川伊三郎氏は耕地八畝四歩を譲渡した。昭和六年第三次拡張にあたっては当主為次郎氏、更に一段一畝二十二歩の耕地を譲渡して、学校発展に寄与した。加えて昭和二十三年には為次郎氏は更に一段五畝十一歩を無償寄付して、之が拡張を助け、次に昭和三十年講堂建築に際しては為次郎氏実弟呉市在住藤本實一氏は金三十万円を寄付せられた。
 以上の如く、森川一家は温品小学校創立以来、愛校精神に徹して多額の寄付をせられたるは、吾等郷土民の深く感銘するところであって、安芸郡安芸町議会は昭和三十一年の議会において、森川家頌徳の件を可決せり。
 よってここに森川家頌徳碑を建てて、これを顕彰する」

戦勝記念碑

まえがき
戦勝記念碑

戦勝記念碑
(3/6/2012年撮影)

温品小学校の正門の南に、日清戦争や日露戦争の戦勝記念碑が建っている。
 第二次大戦後しばらく、小学校の正門は現在の温品公民館のあたりにあった。この石碑は、正門を出たところの高台に立っていた。進駐軍の摘発をおそれ、撤去されたこともあるという。
 私たちは小学生の頃、岩を積み重ねた高台に上がり、石碑のまわりで遊んだ。小学校を卒業するとき、この高台にあがり、記念写真を撮った。
 その後、小学校の敷地を南に拡げるとき、この記念碑は現在地へ移設された。

由  来

記念碑のそばに、説明板があったので、転記する。
「この石碑は、明治時代から大正時代の戦争に勝ったことを記念して、1916年(大正5年)3月に温品村の人々によって建てられたものです。 この石碑は、日本が歩んだこれまでの歴史における一つの事実を物語っています。この事実をもとに他の国と戦争をしていたころの社会の様子や歴史などを学習し、二度と戦争が起こることのないよう、平和の大切さについて考えましょう。広島市教育委員会」

風俗・習慣

お逮夜(たんや)と煮(に)ごめ

由  来
亥の子煮ごめ

 親鸞聖人は、今の暦で1月16日に亡くなられたので、浄土真宗が盛んな安芸門徒の人々は、親鸞の遺徳をしのんで旦那寺へ参詣した。

 亡くなられた人 の命日の前夜のことを「逮夜(たいや)」という。
 親鸞聖人は、今の暦で1月16日に亡くなられたので、15日の夜を特別に「大逮夜(おおたいや)」といった。これが訛ってお逮夜(おたんや)となった。
 1月15日、各家では朝から精進料理の伝承食「煮ごめ」を作り、食べていた。親鸞の好物の小豆が入っている。寺では参拝する信徒に煮ごめを振る舞った。
 煮ごめは、広島湾沿岸から芸北にかけて作られる郷土料理である。

作 り 方

材料: 小豆・だいこん・ごぼう・にんじん・里いも・れんこん・しいたけ・油あげ・こんにゃく
(精進料理だから、肉や魚類は入れない)
・ 小豆は前日より水につける。浮いてくる泡を取りながら、小豆がやわらかになるまで煮、ゆでる。
・ 材料はすべて1cm弱の細の目切りにする。
・ れんこん、ごぼう、こんにゃくはあくぬきをしておく。油揚げは熱湯で油抜きする。
・ 大鍋に昆布のだし汁、しいたけの戻し汁や、里いも以外の材料をすべて入れて煮込む。
・ しょう油、砂糖、塩を入れ味をととのえる。

亥の子祭り

由  来
亥の子祭り亥の子祭りNew

亥の子祭りは古くから旧暦の十月の亥の日に、広島市を中心とした地域で、五穀豊穣を祝う祭りである。十月は、米の収穫が終わるので、稲刈りが無事に終了したことを田の神に感謝する。
 春の亥の日に、田の神が降りてきて、秋の亥の日(稲の刈り上げが終わるとき)に山に帰られる、との言い伝えがある。
 猪(亥)は子が多く、丈夫に育つので、子が多く生まれ、強くたくましく育つようにと、亥の子祭りで子孫の繁栄を願う。

地区ごとに、子ども(中学生まで)が集まり、笛や太鼓の音に合わせて亥の子の唄を囃しながら、家々をめぐり、亥の子槌を搗(つ)く。
 亥の子槌は、しめ縄を丸い石のくびれた部分にくくり、その縄に十本以上の2メートルくらいのわらの縄を結びつける。地区の家々の玄関先の道路や庭で、亥の子槌を、縄で勢いよく引き上げ、つづいて地面に叩きつける。これを何度も繰り返す。石槌が地面に打ちつけられると、ドスンドスンと地響きがし、地面にくぼみが残った。

地区の家の広い座敷を借り、神をまつる祭壇を設け、稲穂や餅、果物などを供えた。亥の子搗(つ)きが終わると、子どもたちは会場に集まり、親たちが準備をしたぜんざいなどのご馳走を食べた。戦後の食糧難の時代では、子どもたちにとって楽しい行事であった。

亥の子祭りの後、炬燵や火鉢を出すと、火事にならないとの言い伝えがあった。寒さが早くやってきた年でも、亥の子祭りが来るまでがまんした。寒がりの子どもは、亥の子の日を心待ちにした。

 

温品の祝詞
 亥の子、亥の子、亥の子餅搗(つ)いて、祝わん者は、鬼を生め蛇を生め、角が生えた子生め、やっさの臀(しり)を、煮え湯でたでて、 一び二びの木、三で桜の四(し)びの木、五葉松の椋の木、七つ梨の木、八つ柳の木、九つとうの木、十(とう)で徳利納めて、こーれのこれの、○○(その家の子どもの名前)さんに嫁取って、繁盛せー、繁盛せー

子どもの頃はあまり考えずにうたっていた。あらためて歌詞を読みなおすと、悪態をついた言葉がならんでいるのにびっくりした。
 同じ広島県内でも地域により、唄が少し違うようだ。

感  想

温品(ぬくしな)も市街地化し農地がほとんどなくなって、五穀豊穣を祝う意義がなくなった。
 飽食の時代といわれる今、このような子どもを主体にした伝統行事が消えて行くのは、仕方がない。子どもが喜ばない行事を、大人が一所懸命盛り上げても、所詮、大人の独りよがりになってしまう。道路はほとんど舗装され、庭には樹木や草花が植えられているため、亥の子槌を搗(つ)く場所がない。

もし伝統行事として、亥の子祭りを将来へつなげるためには、子どもたちにとって、楽しい、思い出に残るものでなければならない。そこで、次のようなこと検討してみてはどうか。
○子どもの着る衣装や亥の子槌、しめ縄、太鼓などを少しずつ華やかにし(様式化し)する。
○父兄(母親)がぜんざいなどの料理をつくり、亥の子祭りが終わったら、子どもたちだけで会食する。
○子ども(中学生まで)に祭りを運営(準備、寄付集め)させ、自主性を養う。また記録をとり、次へ伝える。
○父兄(母親)はバックアップするだけである。会食の料理をつくる以外にはほとんど表に出ない。
◆◆
イラストは、子どものころを思い出しながら描いた。子どもは笛や太鼓をうまく使いこなすことができないので、高齢者の人たちが応援してくれた。

(温品桜の会会長の檜山祐三さんが作成された「広島県安芸温品地区亥の子の祝いについて」も参考にした)


 



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