随筆 スサノオの列島侵攻 ヤマタのオロチ迎撃戦は岡山が舞台だった
解明 スサノオとヤマタのオロチの決戦 目次 (最終更新日2000/11/21)
1.スサノオ役はカッコイイ
2.備中神楽考察
3.古事記によるヤマタのオロチ退治
4.ビックリ 日本書紀の記述は備前を指摘
5.出雲國風土記にはスサノオのオロチ退治事件がない
6.出雲國ヒの川・トリカミの地は備前赤坂か
7.石上布都魂神社
8.血洗の瀧
9.スサノオの戦闘目的
10.酒に酔いつぶれたオロチ軍の不覚
11.オロチ族考察
12.鉄剣製造技術
13.私たちのル−ツ 日本は神の国?妄言批判
再録.霊剣布都魂を備前から持ち去ったのは神武であろう
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1.スサノオ役はカッコイイ
1999年12月のある夜のこと、高梁市の少し山間部にある金田氏の実家で備中神楽が奉納されるというご案内をいただいたので、祝いに「温羅」生酒を選んで、でかけた。
日が暮れて雨が時折ぱらつく天気模様であったが、会場となる金田さんの実家にはこうこうと灯がともり、庭には臨時のテントが張られドラム缶で火が焚かれていた。
たいへん豪勢な山海の珍味のごちそうとお酒がふるまわれ、親戚縁者・村の方々五六十人が既に集まっておられ、十年ぶりに備中神楽を催せる喜びの話し声や笑いがあふれ、男たちは酒を酌み交わしながら期待を高めていた。
金田さんからの案内をうけ、病院から参加された顔見知りの方々も数人みうけられた。
この夜の備中神楽は、明け方まで一晩とおしで、演目も始めの神事から五行まで全てが演じられるということなので、私も大いに期待しての観覧でした。
やがて、座敷に設けられた祭壇の前で神主さんが神事を始められた。
そして神事につづいて太鼓が鳴り響き、数人の神楽太夫さんによる備中神楽の上演となり、カメラのフラッシュがたかれ、地元のケ−ブルテレビ局も録画を始めた。
神楽のなかの山場は皆さんもご承知の通り、なんといっても「オロチ退治」である。
凶暴な大蛇を退治するために、強烈なお酒で酔わしてしまおうと、ひょうけた顔の面をつけた酒造りの神「松の尾の命」が登場する。
この場面では、登場した「松の尾の命」が太鼓たたき役者に話しかける形で、掛け合い漫才・歌謡曲・時事問題・落語なんでもござれの多芸で道化を演じ、見ている人も一緒に合いの手をいれたり、掛け声をかけたり大笑いしたりで、大いに会場を沸かせながら酒を醸り次の場面への熱気と雰囲気をあおり立てる。
さて、そのお酒で「ヤマタのオロチ」を酔わせて、スサノオとオロチとの戦闘場面となる。
このときスサノオ役の太夫は、面をつけずに登場し、オロチとの大立ち回りを演じ、やがてオロチの首を切り落とす。
「ヨ!正義の味方。カッコイイ!!。」
スサノオ役が素顔で登場するのは、このカッコイイ役者は自分でございますと顔を売れる、ヒ−ロ−の役得だからなのだろうと思ってしまいます。
2.備中神楽考察
さてこの備中神楽であるが、古くから伝承されてきた神楽で、専門家によれば県下の南部と北部ではかなり異なっているとのこと、鬼(温羅)退治やオロチ退治の筋書きで大衆芸能化に道をひらいたのは、江戸時代の高梁出身の神職「西林国橋」によるといわれており、成羽町にはその顕彰碑も建立されているようである。
備中神楽の解説は、岡山文庫のシリ−ズに「備中神楽」と題する出版があり、手軽に勉強できますのでこれ以上はそちらに譲りますが、しかし少し調べてみたところ鬼退治の部分は不明であったが、スサノオのオロチ退治の演目は、出雲のみならず岩見・備後・松山などの各地の出雲系とされる神楽にも、共通に存在した。
要するに、出雲の國という政治支配圏をつくりだすそもそもの出発点が、このスサノオによるヤマタのオロチ退治である。
であるからして、出雲で舞われる神楽にその演題があるのは当然であるが、それにしても出雲系とされる神楽の範囲が出雲を超えて広すぎるのではなかろうか。
というのは、神楽は自分のところの神様を祭り祝うために舞われるのであって、うちの神様をさしおいて、よその神様は立派でカッコイイと祝って舞うということは考えられないからである。
それでは、いったいスサノオはじめ出雲の神様の影響範囲はどのくらいに及ぶのであろうかと少し調べてみると、中四国はもとより本州各地に広く信仰されているのであった。
特に、私の生まれ故郷の信州には、大國主の命の息子である建御名方の命が、例の国譲り事件で逃げてきて諏訪で降伏し、その結果として諏訪大社に祀られている。
だいたい信州から群馬のあたりが出雲文化圏の北限であろうかと思われる。
そして、いわゆる各地の荒神様(季節天候と豊作など農業などに関わる神様)はじめ、牛頭天王信仰、熊野信仰などがそうであるし、あの有名な京都の八坂神社祇園祭りも実はスサノオを祭っているし、関東には氷川神社が多数あるなどであった。
特にスサノオの文化的影響力範囲の広さは出雲の神々のなかでも、大国主以上に全国に及んでいる。
ということで、出雲は今日では出雲大社を中心とした島根県という狭い地方がそれとされているけれども、古の出雲は、その実際の政治的影響範囲はかなり広く、文化的精神的影響範囲はさらに広かったと想像できる。
出雲という政治支配圏域との関係で、吉備が吉備の國として政治的に地域を確定したのは、飛鳥時代以前のいつ頃であったでしょうか。
吉備津彦の温羅征伐の頃、日本書紀でも上道臣とか下道臣が吉備の勢力として登場し、やがて吉備の國(政治圏域概念)が確立しますから、それよりも何百年か前のスサノオの時代(漠然と紀元2世紀頃よりも前とでもしましょうか)には現在の岡山県地域は、出雲の政治的影響下にあったようで、出雲圏域に含まれたとも考えられます。
そのことが、民衆のなかで備中神楽が今日まで受け継がれる基盤となっているのではないでしょうか。
出雲の國と岡山の関わりはどうなっているのであろうか、過去の関係を探ってみたいと思いました。
特に、出雲建国神話ともいえる「スサノオのヤマタのオロチ」退治事件が本当にあったことなのか、あったとすればその現場はどこなのか、どこに証拠があるのか、今までの常識では出雲であった事件と無批判に受け入れてきていたが、だれかこれまでに検証した人がおられるのであろうかと、研究してみようと思い立ちました。
私の尊敬するかのKマルクス氏も「全ては疑いうる」として、いわゆる常識論に対して無条件無批判に肯定する非科学的な態度への厳しい警告を発していますので、「スサノオのヤマタのオロチ」退治事件を少しは詳しく考察してみましょう。
さて、スサノオについてのもっとも古い文献は、古事記と日本書紀である。(この文献より古い記録は、天皇制政治のイデオロギ−統制で事実上抹殺されてしまった。)
とりあえず、ヤマタノオロチとスサノオについての古事記の紹介をしよう。
「古事記上巻」は、序で古事記が書かれたいきさつと理由を述べた後、天地開闢からイザナギ・イザナミの国作り、アマテラスとスサノオの誕生、高天原でのスサノオの乱暴狼藉、アマテラスの天の岩戸隠れ事件をへて、スサノオの高天原追放と話が展開されます。
高天原を追放された速須佐之男命は「出雲國の肥の河上、名は鳥髪という地に降り」るわけですが、このとき箸が川上より流れてきました。
スサノオは川上に人が住んでいると探したところ「老夫と老女と二人ありて、童女を中に置きて泣」いていました。
スサノオが名前を尋ねると老夫は、自分は國つ神で「足名椎」、妻は「手名椎」娘の名は「櫛名田比賣(クシナダヒメ)」と名乗ります。
なぜ泣いているのかとスサノオが尋ねると「我が女は、本より八稚女ありしを、この古志(コシ)の八俣の遠呂智(ヲロチ)、年毎に来て喫へり。今そが来べき時なり。」だから泣いているのだと答えます。
そして八俣の遠呂智の形相は「目は赤かがちの如くして、身一つに八頭八尾あり。またその身にコケと檜椙と生ひ、その長は谿八谷峡八尾に度りて、その腹を見れば、悉に常に血爛れつ」と、たいへん恐ろしいことを説明します。
スサノオは「おまえの娘を我にくれ」と娘をもらって櫛に化けさせて自分の髪に刺し、足名椎と手名椎に強い酒を醸造させ、八つの門と桟敷のある柵をつくらせ、その門毎に酒を盛った器をおいて、遠呂智の襲来を待ち伏せします。
そうとは知らずにやってきた遠呂智は、門毎に頭を入れて酒を飲んで酔って寝てしまいます。
「ここに速須佐之男命、その御佩せる十拳劔を抜きて、その蛇を切り散りたまひしかば、肥河血に變りて流れき。」そしてその中の尾を切ったとき劔の刃が欠けてしまった。
これは変だと遠呂智を切り裂いてみると中から劔が現れたのでした。
この劔は、天照大神に献上し、後にヤマトタケルの草薙(クサナギ)の太刀となり、名古屋の熱田神宮の神宝として祭られることとなります。
このあと速須佐之男命は、櫛名田比賣と結婚生活に入るわけで「八雲たつ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」と有名な歌(この歌が日本の歴史上初めて詠まれた歌とされています)をよみます。
古事記によれば、その6代の子が因幡の白ウサギで有名な大國主神となります。
さらに、大國主の國譲り、天孫降臨、海幸山幸の話があって、神武天皇の東征の前で「古事記上巻」は終わります。
4.ビックリ 日本書紀の記述は備前を指摘
さて、日本書紀をひもといてみると、巻第一第八段に素戔嗚尊の八岐大蛇退治と奇稲田姫との結婚・根国に退くまでが記述され、それで巻第一が終わっています。
巻第一第八段の素戔嗚尊についての記述は「一書に曰く」と全部で5つの諸説を併記しており、日本書紀の中でも特別にこうした併記が多いのが特徴である。
古事記との違いを抜粋してみると、スサノオが古事記では「速須佐之男命」であるのに日本書紀では「素戔嗚尊」と記され、ヤマタノオロチも古事記は「八俣の遠呂智」で日本書紀は「八岐大蛇」、クシナダヒメも古事記では「櫛名田比賣」日本書紀では「奇稲田姫」とあるように、氏名や地名などに使われている漢字はかなりの違いがある。
もっとも古事記には「須佐二字以音」「遠呂智、此三字以音」などと、要するに漢字の読み方の音であわせた当て字であることを次々に注記している。
ということは、音であわせて漢字で書かれている地名なども含めて、用いられている漢字が今日もそのまま使用されている場合もあれば、別の字に変更となっている場合もあると考えて、読み方の音に注目しての検証が重要となるわけです。
ヤマタノオロチが古事記では「古志」の國より襲撃してくるとしていたものを、日本書紀の第八段では、単に毎年襲撃してくると「古志の國」部分がなくなっています。
またスサノオが天下った地は「出雲國簸之川上」と古事記の「肥河上」の「鳥髪」と違いがみられます。
また一書第二ではスサノオは「安芸の國の可愛の川上」に下ったと記述されています。
そしてオロチを切った剣は「蛇之麁正」といい、この剣は今「石上に在」としています。(この「石上」は、奈良県天理市の石上神宮とする注釈解説と、岡山県赤磐郡赤坂町にある「石上布都魂(イソノカミフツノミタマ)神社」であるとする注釈解説があります。)
さらに一書第三では、スサノオは「蛇韓鋤」の剣でオロチを斬り、その剣は「今在吉備神部許也 出雲簸之川上山是也」とスサノオのオロチ退治に使った剣が今は備前の神部(前記の石上布都魂神社)にあり、「出雲簸之川上」の山が是であると、備前の石上布都魂神社は出雲簸之川上のことなのだとビックリするような重大な記述があります。
一書第四では、スサノオは始め新羅國に降り、ソシモリにいたけれども、舟で渡って「出雲國の簸の川上にある鳥上峰に至った」と記述しています。
(しかし、二世紀以前のころは、のちに新羅となるあたりは辰韓と呼ばれていたはずで、辰韓と新羅については、両者がきわめて近い関係にあると、日本書紀の編纂者たちは理解していたということであろうか。いずれにしても、スサノオは朝鮮半島経由・出身で、いわゆる辰韓・新羅をへてきた人物ということになろうと思われるので、日本書紀にならって地域名称として「新羅」と、使用することとします。)
そして同行していたスサノオの子のイソタケルは、多くの樹の種を持っていたけれども韓地には植えずに、全てを日本に植えて青い山となしたことを記述しています。
一書第五ではスサノオが「韓郷の島には金銀あるけれども、もし我が子の治める国に舟がないと良くないことだ」と言って、ひげを抜いて杉にし、胸毛を檜にして、尻毛を艪ノ眉毛はクスノキにして舟や宮殿、さらに棺の材料を教えて、食料とするたくさんの木の実の種をまいて植えたと、記述しています。
5.出雲國風土記にはスサノオのオロチ退治事件がない
日本書紀には、スサノオのオロチ退治の剣が備前にあり、そこが出雲簸之川上の山にあたると、記述があったことから、古事記の「出雲國の肥の河上、名は鳥髪という地」もやはり備前である可能性があります。
しかし、これまではスサノオのヤマタノオロチ退治は出雲神話で、出雲(今日の島根県出雲地方)の話と、なにも疑問を持つことなく思いこまされてきました。
日本書紀によれば、島根県のみならず岡山県や広島県にもスサノオの足跡があり、全部出雲圏に含まれるということになりそうです。
それでは、スサノオのオロチ退治は出雲(島根県出雲地方)のことであると島根の地元の歴史文献には何か根拠となる著述があるのだろうかと疑問がわいてきます。
古の歴史文献としてあげられるのは、出雲國風土記である。
風土記そのものは713(和銅6)年に編算の令が発せられて作られた。
各地の自然、産物、伝承などをまとめたもので、全国で編纂されたが現存しているのは常陸、播磨、肥前、豊後、出雲の五国の風土記だけとされるようである。
そのうちほぼ完全な形で今に伝えられているのは「出雲國風土記」のみとされています。
さて、それでは出雲國風土記には、出雲の國の成り立ちがどのように記述されているのか、スサノオが出雲に降り立ちヤマタのオロチ退治をおこなったことがどう記述されているか調査してみました。
スサノオのオロチ退治事件が今日の島根県出雲地方の事件であったならば、まさに建国の話として必ず記録されるべき決定的な事件だとだれもが考えると思います。
ところが、出雲國風土記にはスサノオのオロチ退治事件が全く採録されていないようなのです。(出雲國風土記そのものを、私が未だ入手していませんので、先達が出雲國風土記について解説している書物などからの情報なので、「採録されていないようなのです」とさせてもらいました。)
それどころか。建国神話としては「出雲の國は、新羅や古志などの四つの国から領土となる土地を引っ張ってきた」という「国引き神話」が明記されているのです。
さらに出雲國風土記には「伊弉那弥命(イザナミノミコト)の時 日淵川を以ちて池を築造りき
その時 古志の國人等 来たりて堤を為りき」という記述まであるようなので、実は出雲と古志はスサノオの時代よりず−と以前は友好関係にあったと書いてあるわけです。
これでは古事記の書いた、古志から「八俣の遠呂智 年毎に」襲撃してくるという内容とは完全に対立してしまいます。
オロチ退治の話がないのに、スサノオの後代の子孫、大國主の命の国譲りの話は、ちゃんと出雲國風土記に採録されているのです。
なぜスサノオのヤマタノオロチ退治が建国神話から欠落しているのでしょうか。
出雲地方を最初に開拓したのはおそらく熊野(クナト)神を祭る一族で、出雲國風土記を編纂した出雲国造はこの熊野大神を祖としていると考えられ、そのためスサノオを扱わなかったとする見解もあるようですが、風土記が書かれた時代には政治的にも決着がついていた時代であり、スサノオだけ無視するというのは不自然すぎます。
一番考えられる理由は、出雲國風土記が記述対象とした地域では、スサノオのヤマタノオロチ退治事件がなかったから(よその地域の話だから)ということです。
しかし、古代史についてなにがしかの著述をされている方々は、出雲國風土記に著述されていないのに、あたかも島根県出雲の木次や須佐でこの事件があったかのように出雲神話として解説し、なんらの疑問も呈していません。
私が知っているかぎりでは、例外として小林惠子先生のみが「スサノオのオロチ退治の伝承が出雲に伝わらず岡山県に残っている事実は注意を要す」と「解説・謎の四世紀 文芸春秋社」のなかでのべているのみで、この指摘の鋭さに感服せざるをえませんでした。
島根の古の出雲の者が「あの事件はうちの地区の話だ」と主張していないのに、後の時代の者ほとんどが、出雲神話なのだから島根の出雲のことだろうと頭から単純に思いこんで、いや思いこまされて、「変だぞ、日本書紀には岡山の話だと記述されているではないか」と疑問を呈してこなかったのです。
6.出雲國ヒの川・トリカミの地は備前赤坂か
従来からの解説では例えば、スサノオは砂鉄に関係するスサ(須佐)族の首領で、朝鮮半島新羅から一族を連れて一世紀頃出雲の神門川中流の飯石郡須佐郷、現在の島根県簸川郡佐多町須佐に移り住んだとされています。
たしかに宍道湖に注ぐ斐伊川(ヒイカワ=ヒカワ)が佐多町須佐の近くを流れています。
では、トリカミの岳はどこにあるのでしょうか。
これについては、斐伊川上流の鳥取県との境にある「船通山」とされており、その根拠は出雲國風土記で斐伊川について「源は伯耆と出雲の二つの國の境なる鳥上山より出で」と記述されているから、というのが古来からの最大の論拠の様です。
しかし、それは根拠薄弱ではないですかと言いたい。
なぜならば、トリカミの岳にスサノオがおりたち、川上から箸がながれて来て「人が住んでいるな」と上流へ探していったら、泣き濡れている老夫婦を発見するという経過が記紀のどちらにも明記されているわけですから、降りたところトリカミの岳が大河の中流〜下流にないと、話があいません。
降りたところ、斐伊川源流の「船通山」がトリカミの岳では、もうその上流はないので箸が流れてくるはずがありません。
出雲國風土記にはスサノオのヤマタノオロチ退治事件の記述がないのに「鳥上山」だけつまみとって、島根県簸川郡佐多町須佐あるいは木次のあたりでヤマタノオロチ退治事件はあったのだと主張するとは「それはあまりにもご都合主義すぎませんでしようか」と強い疑問を抱かざるを得ません。
また、ヒ河についてですが、宍道湖に注ぐ斐伊川(ヒイカワ)の他にも、そのすぐ近くを米子に流れる日野河(ヒノカワ)があり、岡山県にも吉井川(ヨシヒカワ)旭川(アサヒカワ)小田川(井原市から矢掛・真備を流れる川で、明治まではヨシヒカワであった)など、砂鉄を水に流して採集する樋(ヒ)に関係する川がとりあえず五河川は指摘できます。
とすると日本書紀一書第三が「今在吉備神部許也 出雲簸之川上山是也」と記述する岡山県赤磐郡赤坂町もヨシヒ川とアサヒ川の二つのヒ川の間にあり、しかも大河の中・下流域となりますので、川上から箸がながれて来ても何らの問題もありません。
さて、赤磐郡赤坂町には日本書紀が「山是也」とするトリカミの岳があるのでしょうか。
これは実地調査をしてみねばならないぞ・・・・。
7.石上布都魂神社
岡山空港から御津町におりて左折し53号線を走る。
金川高校を過ぎて約200メ−トル、金川大橋で右に旭川を渡ります。
この道は赤坂町から佐伯町へとつづいていますが、橋から1キロしてこの道と分かれ左折し、しばらく走って「御津カントリ−クラブ」への道を右に見てさらに1キロ少々すすむと「石上布都魂神社」への案内板があります。
さらにそのまま山間の1車線道路を1キロ登った右手に宮司さんの家(社務所)があって、さらに1キロほどのぼった左手に石上布都魂神社があります。
大松山の斜面の中腹にある神社までは、下の駐車場から徒歩で5分〜6分のやや急な坂道です。
神社そのものは、火事のあと大正4年に造営された、こざっぱりした建物です。
そこから左手に約200メ−トル、谷側に安全柵もある急勾配の岩肌の山道を登ること約5分で、頂上直下の本宮の祠につきます。
祠の後ろは、大きな磐座(イワクラ)ですが、ここまで上ってみるとこの山全体が磐座ではないだろうかと思えてきます。
この岩の頂に道教の「霊泉穴」があり「いぼに効く水薬」とかいわれる「枯れることのない水」がたまっていました。
道教では磐座に剣を奉献して祭るらしいので、素戔鳴尊が八俣の大蛇との戦いで自分を守ってくれた劔をここの磐座に奉献し、勝利の報告を天帝におこなう感謝のまつりごとをしたのかもしれません。(この時代は道教の時代です。)
磐の上に劔「布都魂」を奉献した由来そのままに「イソノカミフツノミタマ」神社となったのでしょう。
ところで、この神社は岡山県赤磐郡赤坂町の地にあるとする注釈の日本書紀解説等の記述の本がもっぱらである。
ところがこれは間違いで、地図上では赤坂町に極めて隣接の地、御津郡御津町石上の北、吉井町石上に神社のマ−クがあったのです。
この間違いは、一番始めに注釈を書いた人が地名を備前赤坂郡と正く表記したにしても、途中で行政区や町村名の変更があって、石上神社は吉井町と御津町の境界地点となったのに、赤坂だから赤磐郡赤坂町だろうと点検せずに、だれかが注釈の町名を変更して引用しつづけたため、今日も間違いが続いているのでしょう。
私も最初は道路地図帳をみながら赤坂町のどこに「石上布都魂神社」があるのだろうかと一生懸命探してもみつからないので、昔あったのが今は無いのであろう・そういう言い伝えなのだろう・現地調査での検証はできんな−と、なかば諦めていました。
ところが、山陽新聞社の出版した岡山県万能地図帳の御津町のペ−ジをしげしげとながめていたところ、吉井町と御津町と赤坂町の三町の境界付近の吉井町域で「石上布都美魂神社」をみつけ、「ありゃ、こんなところにあった」とたいへんにうれしかったものです。
さて、神社の「参拝のしおり」には、社務所が御津町石上で鎮座所は赤磐郡吉井町石上となっていました。
なお、神社のしおりにも由来が説明してありましたので、一部抜粋させていただきます。 ・・・・素戔嗚尊が大蛇を切った劔は「蛇の韓鋤の劔」「天蝿断の劔」あるいは「蛇の麁正の劔」で、吉備の神部のところ、石上にあることになる。
韓鋤の劔は韓から伝来した刀の意・・・・すなわち韻霊剣を祀ったのが布都魂神社である。
・・・・崇神天皇の御宇、大和国山辺郡石上村へ移し奉る・・・・。
「えっ!よそへ移したなんてもったいない。」と一瞬思ってしまいました。
「でも、朝廷の命令でしかたなく差し出したんだろうな、代々にわたってこの剱を祀って守ってきていた人々はさぞかし残念無念だったことだろうな」と同情せずにはおれません。
大和国山辺郡石上村(現在は天理市)には石上神宮(物部一族の神社・4世紀後半に百済から日本へもたらされた国宝の七支刀もあるなど、興味の広がる神社である)があり、この劔(フツノミタマ)が祀られており、昭和9年に石上神宮のフツノミタマをもとにつくられたレプリカがこちらの石上布都魂神社に寄進された(もどされた)経緯があるようです。
さて、たしかに磐座があるし、この神社の山全体が磐座の岳といっても間違いないと思われましたので「スサノオの降りた岳」、日本書紀の「山是也」に該当する岳はたしかにここにあるではないか、と言いたい。
とすると「トリカミ」という地名があるのかということが最後に問題となります。
地元の人の話では赤坂町一帯は、昭和初期頃まで「鳥取上(鳥上・トリカミ)とか鳥取中・下」という地名でも呼ばれていたということなので、古事記の「鳥髪」・日本書紀の「鳥上」地域に「石上布都魂神社」のあるあたりも昔は含まれてトリカミと呼ばれていたのかもしれないが、なにか証明するものはないのかなと探していました。
ところが「参拝のしおり」を何回かながめていたあるとき、しおりにある備前藩主池田綱政候よりの社領寄進と神官の姓を物部に復すという証文の写真がふと目に付きました。
なんと、「備前國赤坂郡石上村」と「石上布都魂神社」の地名を記してあるではありませんか。
ですから今は、御津郡御津町石上や赤磐郡吉井町石上の地区になる「石上布都魂神社」ですが、かつては今の赤坂町と同じ地域に含まれ、備前赤坂郡鳥上の石上村に「石上布都魂神社」があったことはほぼ間違いないと思われました。
なお、もっと古い資料では、赤坂郡に鳥取部があったことも判明していますので、トリカミの地名は律令政治の時代には既にあり、政治的にも確認されていたことです。
その後、倉敷市立図書館の「赤磐郡誌」を参照したところ、備前國赤坂群の中心地域が鳥上であり、厳密には石上とは別地区となることが判りました。
「備前岡山」というように慣用句的な言い方がありますので、あの時代には「鳥上」といえば「備前赤坂郡」一帯を意味したとも考えられます。
こうして、素戔鳴尊は「ヒ川のトリカミ」に降り立ったという古事記や日本書紀の条件に鑑みて、この磐座のある赤磐郡吉井町石上にやってきたと日本書紀に記述されているのだと主張しても、決して噴飯ものではないと今は考えています。
くどいようですが、なにせ出雲國風土記にはスサノオのヤマタノオロチ退治の話がないんですから。
8.血洗の瀧
さて、地図上では「石上布都魂神社」のほぼ北に直線で約11キロ離れて「血洗の滝」と「血洗の滝神社」がある。
八俣の大蛇との戦いに勝利した素戔鳴尊が、血塗られた劔「布都魂」をこの滝で洗ったという伝承のある滝であるが、私が調査してきたこととなにやら取って付けた様に話が合いすぎる滝である。
道教では天にあって動くことのない北極星と北という方向は一番神聖とされていますので、磐座の北にあるそんないわれの伝わる滝なら一度は観ておくのも悪くなかろうと4月始めのある日、地図を頼りにでかけてみた。
柵原町と吉井町の境界にある高ノ峰山の南面の山懐にこの滝がある。
吉井町からの道は、本谷の分かれ道に「血洗の滝」と表示があってわかりやすいが、そこから約2キロ、貯水池のダムをへて滝までの道は、行き違いの場所がほとんど見つからない1車線で、対向車が来たら双方立ち往生の、しかもワゴン車でも注意しないと腹をすりかねない場所もある見通しの悪い道であった。
道の山側からは、ツタや木が道に垂れかかり、どうにか車に衝たらないようにしまつしてはあるが、それらを避けたくても反対側は谷に切れ落ちているという悪路である。
血洗の滝手前100メ−トルほどの所にトイレがあり、その横がやや広くなっていて車の方向転換のできる唯一の場所であり、そこに駐車する。
道路から谷に降りると、血洗の滝神社の鳥居があった。
神社の横の山側上方が少し崩れかけており応急の対策工事のあとがあり、舞台は屋根が破損し床は一部朽ちて落ちていた。
河床を奥に約50メ−トルで滝となる。
正面のほぼ垂直に切り立った黒い岩肌のガケの8メ−トルほどの高さのところから滝はかなりの水量で飛沫を飛ばしている。
谷が山懐に深く食い込んで滝となったため、三方が山腹の黒い岩壁で、茂っている樹木の間よりわずかに木漏れ日があるだけなので、滝のまわりは薄暗く霊気が漂う様な雰囲気がありました。
「この滝は紅葉が美しい」ときいていましたが、青葉の季節にも早すぎ「紅葉の美しさ」を思わせるような雰囲気は全くありませんでした。
「この滝で劔の血を洗い流した」という言い伝えであるが、「劔の血も洗ったかもしれないけれど、本当は素戔鳴尊は天帝への勝利報告と加護への感謝を捧げる祭りごとをおこなうために、この滝に打たれて禊ぎをおこなったにちがいない。」と強く感じさせる滝でした。
この滝がもっと落差と水量が大きかったら、とても禊ぎはできないでしょうし、逆に小さかったら禊ぎをおこなう気分にならないでしょう。
「石上布都魂神社」のほぼ北にこんな滝があるとは都合が良すぎて、逆にどうも私の話の道具立てが整いすぎている気がしてなりません。
いずれにしても、この近辺でスサノオはヤマタノオロチと戦い、そのときヒ川は血の川となったのでしょう。
9.スサノオの戦闘目的
ヤマタノオロチとの戦いは、オロチの方が圧倒的に強大で、オロチを斬っていたらスサノオの劔の刃が欠けたことに示されているように武器もオロチの方が優れており、計略にかけてオロチの頭それぞれを各個撃破し、やっとの事でスサノオは勝利しています。
なんのために戦ったのか、大蛇でないことはあたりまえなのでオロチの正体はなんであるのか、疑問がわいてきます。
ヤマタノオロチとの戦いについては、一般的には、砂鉄の採集で山が崩され、川が荒れ、特に台風の頃には激しい自然災害が発生したので、スサノオは治山治水事業をおこなって自然を治めたという説が、あたりさわりのない説として述べられています。
それよりも、鉄資源争奪説として、スサノオが出雲に渡ってくる以前から出雲の木次を中心にオロチ族が鉄づくりをおこなっていたが、その首領ヤマタノオロチをスサノオが倒して、鉄資源を韓金冶の勢力が奪い取ったとする説の方が優勢です。
ヤマタは、ヤアタマ(八頭)がなまったという説、数が多い大勢だという意味だという説、オロチ族が幾つもの部隊に分かれていたのではないのかという説などがあります。
鉄資源をめぐる争いという視点にたって古事記や日本書紀の書き方から読めることは、スサノオはアマテラスと姉弟という極めて高貴な神であったが、乱暴狼藉を働いたので高天原から追放になったという、記紀は由来と身分を説明していますが、実体はどうも、そんなに高貴なことはなく、せいぜい韓金冶の小集団のリ−ダ−であったと、私は考えています。
古事記や日本書紀では、由緒ある高貴あつかいの者は必ず由緒ある高貴あつかいの姫を何人も次々と妻にしています。
つまり、服従させたり同盟した別の一族の姫を次々に妻にして、子づくりにはげみ、閨閥血縁関係で政治力を安定させており、子供が多いほど勢力が強大といってまちがいない世界が、記紀の世界です。
スサノオは平民の櫛名田比賣を妻としていますから、まさしく平民です。
一定政治的に力をもってから、地元の大山津見神(伯耆大山が見えるあたりの一族の姫ではなかろうかと私は考えています)の娘で神大市比賣を二人目の妻としているだけです。
ちなみに古事記では、大國主になると11名の妻(古志の姫も妻にしている)があげられています。
こうした記述から、たぶんスサノオは朝鮮半島の辰韓(のちの新羅の國)を経由して渡来した鍛冶屋の小集団の若きリ−ダ−とみて間違いないと思います。
ですから、このず−っと後の大國主の時代に、元々の(かつて大陸あるいは半島でスサノオが使えていた一族の高貴の)主人筋から「領土を献上せよ」と迫られたとき、抵抗できずにしぶしぶながら「國譲り」をせざるをえなかったのだろうと思っています。
オロチ族が朝鮮半島との表口の島根県まで進出してさらに支配地域を拡張しようとしていることをなんらかの方法で(この時代になると半島と列島間の人間の行き来は盛んとなっている)知ったスサノオは、資源奪取のため奇襲作戦を戦略として一族をひきつれ瀬戸内海から岡山の備前のヒ川に上陸し橋頭堡(備前長船の刀鍛冶はその後裔かと調べてみましたが、残念ながら目下不明です。)を確保し、御津郡の御津町・建部町から赤磐郡の吉井町・赤坂町のあたりで、襲ってきたオロチ族の精鋭部隊に対して、罠をしかけて迎撃戦に勝利し、備前「石上布都魂神社」で天帝に勝利を報告する祀りをおこない、ひきつづき戦力を集めて一気に島根県の方までも進出し、オロチ族を排除し一定の政治勢力となってから、大山津見神の娘を妻にして、新羅との表玄関の出雲での閨閥としたというのが私の推測です。
10.酒に酔いつぶれたオロチ軍の不覚
逆にオロチ族からすれば「スサノオなる者がオロチ族から権益を略奪しようと部隊をひきつれ新羅を出帆した」という情報をうけ、新羅からの表玄関の島根の出雲に古志より海兵の精鋭を派遣し陣をかまえて迎撃の準備をしていたことになります。
ところが、スサノオに裏をかかれて備前に上陸され、橋頭堡も築かれてしまいました。
「しまった、裏から来たか、それならば」ということで、出雲から備前への襲撃作戦を敢行します。
いつゲリラ戦をしかけられるかと警戒しつつ、海兵には苦手の中国山脈のけわしい陸路をやっとのことで越えてきて、あと3日もすればスサノオの陣地を攻撃できる地点まできたとき、疲労もあったでしょうが「自分たちにの兵力からして絶対スサノオに負けることはない」との気のゆるみがあったそこをスサノオにつかれたのです。
オロチの軍が赤坂郡の谷筋の村へと行軍してきたとき、それまでの村々は、住人がみな逃げ出してだれもいなかったのに、この村では、年寄りと子ども以外の男達がおらず、女と村長が軍隊を出迎え、遠征の労をねぎらい、ごちそうを用意して歓待したのです。
訝るオロチ軍に対して村長は「オロチ軍とスサノオ部隊と比べたならば、オロチ軍が圧倒的に強大であり、勝利はまちがいないと考えています。
オロチ軍に味方しておいた方が村のためになります。
スサノオは海辺の上陸地点で陣地を強化するのに今必死です。
村の男どもはスサノオにかり出され、命を脅かされながらそこで働かされています。
戦に勝って村の男たちを救い出して下さい。」と伝え「我が村は小さく、オロチ軍全員を歓待できませんが、近くの村々でも、皆様を歓待すべく準備ができています。
どうぞそれらの村にもおより下さい。」と歓迎の意をつたえました。
これをきいてオロチ軍は「そうか、スサノオは我が軍の精強なることをきいて、守りの陣地構築に必死なのか、さもあらん。
それでは村の者が歓待してくれるならば、戦にはまだ早いから、ひさしぶりに女もおるしうまいものでも食べて鋭気をやしなうか」と谷筋の村々に部隊が分散してしまいました。(この時代は生産力が小さいので、村と村の距離は1谷筋に村1つというように、かなり離れていたと思われます。)
食べていると酒も飲みたくなり宴会となり、女を抱いて気も緩み、ついには強行軍の疲れもでて酒に酔って寝込んでしまいました。
これを待っていたスサノオの部隊は夜陰にまぎれて村を包囲し、眠り込んでいるオロチ軍部隊を一気に殲滅して、順番に1村ずつ撃破し、ついにオロチ軍を全滅させてしまったのでした。
このとき、オロチ軍の司令官はさすがにスサノオの襲撃に反撃して斬り合いとなりました。
スサノオの剱がオロチ軍司令官の剱と激しく当たった時、刃がかけてしまいました。
しかし、結局オロチ軍司令官は酒に酔っていたために不覚をとってしまい、ついに斬り倒されたのです。
この時スサノオの剱「布津魂」の刃を欠けさせた名刀が「草薙の剱」です。
朝日のなかで勝利を確認したスサノオは、部隊を引き連れ備前に凱旋しますが、途中の「血洗いの瀧」で禊ぎをおこない、血でけがれた体を洗いました。
そして、トリカミの岳の磐座に「布津魂」を献じ、天帝に勝利を報告し感謝の祈りを捧げたのでした。
11.オロチ族考察
オロチ族が島根県にかつてやってきていたということは、隠岐の古文書にも記録があるようですし、なんと今日でもその一族などの祭りが北海道の網走市でおこなわれています。
網走市「オロチョンの火祭り」がそれですが、昭和25年より毎年7月最終土曜日の夜におこなわれる網走市の行事です。
この火祭りがおこなわれるようになったいきさつは、アイヌ人とは全く異なった北方民族に属するモヨロ貝塚人(現呼称オホーツク人)の遺跡が網走川河口で見つかったことなどから、網走の先人を偲び、霊を慰め、郷土の豊かな実りを願ってお祭りが催されることとなったとのことです。
市の説明では・・・・オロチョンというのはバイカル湖畔を生活舞台とする一民族の名称で、一般的にアジア地域の北方系民族を総称する言葉として使われたことがあり、この一部の人たちは秋は鮭がのぼり冬は流氷が訪れる網走を、故郷をしのぶ地として選び、戦後移り住んでまいりました。
私たちはモヨロ貝塚人と同じ北方民族の人たちの風俗や祭事で、先人を慰霊するのがもっともふさわしいと考え、主にウィルタの人たちの協力も得て、お祭りを創りあげました。・・・・
となっていますが、実際は第二次世界大戦の結果、樺太はじめロシア沿海州地域バイカルのあたりから北海道までの広い地域で流氷の上を歩いて渡ったり船で航海して狩猟をしていた北方民族が、北海道に取り残されてしまったというのが真実です。
ウィルタと呼ぶのが正式名称の様です。
アイヌ人の呼び方では「オロ−チ」ですが、ウィルタ人の主張によるとアイヌ人による蔑称が「オロチョン」ですので、狩猟をめぐる利害対立で「オロチョン」とアイヌ人が敵視して呼ぶのを本土から渡った人が耳にしたことにより、一般化したのかもしれません。
こうしたことから「オロ−チ族(オロチ族)は沿海州辺りに居住した「オロッコ族」ともいい、狩猟・漁労民族ですが、航海と鉄精錬の技術にも長けていたことで知られている」と一般に説明されています。
さて古事記では「古志(コシ)の八俣の遠呂智(ヲロチ)、年毎に来て喫へり」となっていますから、古志の國(越の國=越前が福井・越中は富山・越後は新潟)からヤマタのオロチが毎年襲撃してくるということですが、日本書紀ではこの部分は欠落しています。
古志の國は、縄文時代から翡翠を産出し、糸魚川からは「長者原」や「寺地」など大規模な翡翠工房遺跡が発見されています。(姫川の支流、小滝川のヒスイ峡谷には、今日もヒスイの原岩がごろごろ露出している。
天然記念物指定で監視員も常駐、観ることはできますが取ってはいけません。)
この翡翠が、出雲からも曲玉に加工されたものが出土していますが青森県の縄文時代の巨大遺跡・三内丸山遺跡からも、そして全国の縄文遺跡あちこちから発見されています。
古志は佐渡島を経由して沿海州・ウラジオストックあたりとも交流のあつた豊かな国力のあった國の様です。
能登半島には三内丸山遺跡と共通する直径1メ−トルの巨大な木柱を環のように並べた縄文時代の真脇遺跡もあります。
同様な遺構が、金沢チカモリ遺跡や新潟にもあるそうです。
中国大陸や朝鮮半島から渡来人がどっと列島に押し寄せてくるまでは、縄文人が列島を支配していたわけで、それが蝦夷・アイヌの人々です。
とするならば、蝦夷・アイヌの立場からするならば、スサノオこそ侵略者の先兵ということになります。
オロチ族は、航海と狩猟の民ですから、縄文の昔から日本海にそって蝦夷・アイヌの人々といっしょに暮らしていたのでしょう。
出雲國風土記にあるように、古志と出雲の友好関係は強かったと思われます。
古志の國、蝦夷・アイヌが縄文からつくっていた國は、弥生時代に半島や大陸から渡来した人々からはヤマタ(イ)とよばれていたのかもしれません。
「炎立つ」「火エン(エンの字が第2水準に無い)」などを書かれた高橋克彦氏は、その小説のなかで、平和で豊かな蝦夷・アイヌの國が半島や大陸から渡ってきた弥生人による侵略戦争で占領されてゆく様を、蝦夷・アイヌの側から鋭く告発し「出雲族に裏切られた」とも書いています。
古志に拠点をおいていたヤマタイ(國)のオロチは、出雲防衛戦でスサノオに敗れたのです。
そして、古志の軍事力を失った出雲族はスサノオとやがて姻戚関係となります。
天皇国家の由来の正当性を喧伝するための政治的公文書の日本書紀は、かつてヤマタイ國や古志があって、その國をスサノオとその後続部隊が侵略戦争で占領していったと読まれると、天神族(天皇家)がスサノオと同祖である以上、侵略者となって正当性が損なわれると判断して、この部分を削除したに相違ありません。
古事記は天皇家の内部文書で、公開を目的としていなかったため、事実については一定採録したものと考えられます。
そして、古事記の示唆するヤマタ(イ)國への新たな謎が深まるばかりです。
ヤマタ=ヤマタイ=邪馬台であるならば、邪馬台国論争に新たな一石を投ずることになりそうですが・・・・・?
12.鉄剣製造技術
スサノオの剱の「布津魂」は、鉄製なのか、あるいは出雲の荒神谷遺跡で358本の銅剱が発見された例から考えて銅剱であったのか、「草薙の剱」は、鉄製なのかあるいは、スサノオの銅剱よりも堅い銅製合金(ヒイイロカネ?)の剱なのか。
この疑問が、わいてきましたので、様々に調べてみましたが、残念ながら成分の確定はできませんでした。
スサノオとオロチの争いが鉄資源を巡ってではなかろうかと考えたのは、鉄が当時のハイテクであり、世界制覇の武器の原料となり、この資源を握った政治勢力が最後に列島を支配することとなったと考えるからです。
鉄砲伝来以前の最大のハイテク技術が弥生時代の製鉄技術だと思います。
このあと、中国山地では金穴流しによる砂鉄の採集とタタラ製鉄が盛んになり、備前長船の様な日本刀の一大産地が形成されるなどしますので、いつ頃から製鉄や鉄の鍛冶技術が日本列島で用いられだしたのかは重大な疑問です。
現在のところ我が国で見つかった最も古い鉄器は、紀元前3〜4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部とされています。
鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器とともに共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。
紀元前2〜3世紀から次第に水田開発が活発となり、周りに防御の濠を回らした環濠集落が高台に築かれます。
京都府の丹後半島にある扇谷遺跡には幅最大6m、深さ4.2m、長さ850mに及ぶ二重V字溝があることが発掘で判明しましたが、そこからも鉄斧や鍛冶滓が見つかっています。
紀元前1世紀〜紀元1世紀になると青銅器の国産が確認されていますが、首長の権力も大きくなって北部九州には鏡、剣、玉の3点セットの副葬が盛んになります。
朝鮮半島との交易も盛んで、大陸からの青銅器や土器のほかに、鉄器の交易が行われたことが釜山近郊の金海貝塚の出土品から伺われ、紀元前後になると鉄器は急速に普及したようです。
この様に鉄器が紀元ころから使われていたことは明らかで、道具よりも先に武器として使われたことは当然予測されます。
古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されています。
私は、一番早く使われた鉄の原料は、韻鉄(隕石)の塊ではないかと思っています。
その塊を熱してたたいて鍛造して武器や刃物を造ったのが、鉄の利用の始まりと想像しています。
そのあとで、韻鉄によく似た質の良い鉄鉱石の塊を同様に鍛造して使うようになったと思います。
この方法での製鉄は備前、備中(鬼の城内でもこの方法で鉄をつくっていた)、備後、それと琵琶湖周辺(古志に近接している・ヤマタイ國の範疇か)に限られることが知られています。
砂鉄を溶かして鉄塊を製造する方法が一番難しい技術だと思いますので、出雲や中国山地のたたら製鉄が一番最後です。
たたらという言葉の語源はまだはっきりしないのですが、元来ふいごを意味する外来語とされています。
古事記には百済(くだら)、新羅(しらぎ)との交渉の場にたたら場とか、たたら津などが出て来ますので、朝鮮半島からの製鉄技術の伝来とともにたたらという言葉も伝わって来たのかも知れないと言われています。
ちなみに、古代朝鮮語でたたらを解釈すれば「もっと加熱する」という意味で、ダッタン(タタ−ル人)のタタトル(猛火のこと)から転化したものでないかとのことです。
古代インド語のサンスクリット語でタ−タラは熱の意味、ヒンディ−語では鋼をサケラ−と言い、これは出雲の鋼にあたるケラと似ていますし、ミャンマ−語で刀はカタナと言うことなどから、たたら製鉄法はインドの製鉄技術が東南アジア経由で伝播したものではないかとも言われているようです。
紀元前1500〜2000年ごろヒッタイトで生まれた製鉄技術は、主にインド〜中国〜朝鮮半島あるいは沿海州を経て日本列島へ伝えられたと考えられます。
13.私たちのル−ツ 日本は神の国?妄言批判
弥生人が日本列島に進出(もとからの縄文人からすれば侵略)しはじめたのは、古代中国で周王朝が滅び、秦王朝が覇者として成立する頃からの様です。
この頃より中国では戦争の様相が一変したようです。
中国大陸初の統一国家を形成した秦の建国戦争では「攻韓魏、斬首二十四萬」、「斬首虜四十五萬人。趙人大震」(史記、列伝)という凄まじい記録が残されています。
紀元前221年秦の成立後も苛酷な政治がされ「元封四年(紀元前107年)関東の流民が200万、 無籍者が40万」(史記、列伝)という惨憺たる状況の様子です。
後漢書東夷伝によれば、漢の初期だけでも数万人が朝鮮半島に流れこんだと記され、戦乱の中を亡命者の群が、さらに日本列島へと逃げこんだのです。
逃げ込むとはいえ、列島に自分たちの支配圏をつくるわけですから、平和的な移住もあれば、侵略戦争もあったことでしよう。
岡山県でみるならば、県南の海岸地帯一帯には、早くに渡来した秦氏が、そして遅れてきた漢氏は吉備高原などの山中に安住の地をもとめ、有漢町がそれにあたります。
あの備前焼も元は、秦氏ですし、吉備の中心地の総社も秦氏が大きな勢力となっています。
スサノオが侵攻に成功したという情報をえて、岡山県にこれらの渡来人が一挙に海を渡ってやってきたと思います。
これが、岡山県の弥生時代の初期の姿でした。
そして日本列島をめぐる渡来勢力の争いの中で「もも太郎伝説の悲話」として私が推理した、鬼の城・温羅の悲劇もおきたのだろうと考えられます。(しかし、私のこの推論は、その後に小林惠子氏の著作によって、年代考証と人物のル−ツ考証に重大な欠陥があることを教えられましたので、再構成して訂正することを迫られています。)
備中神楽の民衆のエネルギ−には、そして世界的な社会主義者「片山潜」の誕生した岡山県民のル−ツには、こうした古代からの歴史の深い流があることを思いやらずにはおれません。
そして私は、このスサノオ侵略戦記を著述するなかで、これまで日本列島の歴史を弥生人の立場からしか観てこれなかったことを反省し、もっと縄文人世界の研究が必要だと考えるとともに、東日流外三郡誌の様な東北の歴史情報の記録を大切にし、高橋克彦氏などの様な積極的な問題提起を歓迎したいと思いました。
なお古代史学者の一人、古田武彦氏が「九州王朝」(倭国)、「東北王朝」(蝦夷国)説を提起していることを、この随筆終了間際で知りましたので、これから古田武彦氏の説を勉強してみます。
さらに、今回随筆として著述せざるをえなかったように、スサノオの研究と推理は、まだかなり乱暴だと思っています。
なぜ、備前の民人はスサノオに味方したのか、列島をめぐるつばぜりあいの中で、ヤマタイの勢力に毎年いためつけられていたためなのか、これからもひきつづき追求すべき課題はいくつもあります。
例えば、備前熊山の山頂には、規模は比べるべくもありませんが高句麗の将軍塚とよく似た石積み遺跡があり、山中には同様の石積み遺跡が大小30以上あるとのことであり、これはスサノオと関係あるのかないのか、スサノオは父は「フツ」スサノオ本人は「フツキ」スサノオの息子は「フル」といい、いずれもモンゴル系の呼び方であるとする説もあるので、騎馬民族、高句麗そして熊山という関連が考えられるのか、数々の謎はとかれていないのです。
これを著述しているさなかに、自民党の森首相による「日本は天皇を中心とする神の国」なる発言が報道された。
時代錯誤・近代民主主義のカケラさえも全く理解していないファッショ的発言であるが、古代史をきちんと調べてゆくと、天皇家なる存在は、弥生時代に中国大陸や朝鮮半島から日本列島へ侵入してきた渡来人のうちで、日本列島における政治権力を古代において奪取した一族の末裔であることが明瞭にわかりますし、考古学とともに古事記や日本書紀をきちんと研究すれば、日本神話の本当の姿もみえてきます。
何事も科学する精神で事実をきちんと検証する、これが民主主義を育てます。
謝辞 本著述において、あまたの著書・ホ−ムペ−ジ・メ−ル等々を参照させていただきました。
貴重なるご見解を勉強させていただきましたことを、ここに感謝申し上げます。
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