神武が備前から持ち去った布津御霊の劔

 奈良・石上神宮に祀られているフツミタマの劔は、1本なのか2本なのか。

 奈良・石上神宮に祀られているフツミタマの剣については、古事記による由来と日本書紀による由来とがあります。
 古事記によれば、神武(イワレビコ)の一行が、東征で大阪湾からの対ナガスネヒコ上陸作戦に失敗して後、和歌山方面からの迂回作戦をとって戦っていたとき、熊野山中で危機に陥ります。
 このとき、高倉下が「天から降ってきた」と神武のもとに持参した劔も「フツミタマ」の霊剣で、その剣の霊力で軍勢は毒気から覚醒して元気をとりもどして戦いに勝ち、ついに奈良方面へ侵攻できたことになっています。
 古事記には、この刀は石上神宮に座す、と記されています。
 かつてスサノオが用いたフツミタマの劔は、日本書紀によれば、この時(崇神天皇よりも前の神武時代の話だから)は備前の石上布津御霊神社に奉納されたままになっているはずですから、熊野で突然「空から降ってきた」のは、スサノオの用いた布津御霊の劔とは別の、フツミタマの劔ということになり、そうすると奈良の石上神宮には最終的には2本のフツミタマの劔が祀られていることとなってしまいます。
 つまり1本は、熊野で高倉下が神武救援に持参した「タケミカズチの神が天から降らした」とされるフツミタマの劔、もう一本は、スサノオがヤマタノオロチとの戦いに用いて、備前の石上布津御霊神社に奉納してある劔で、備前の石上神社の言い伝えでは、崇神天皇のときに、奈良の石上神宮へ移したとされるフツミタマの劔です。
 しかし、石上神宮に2本のフツミタマの刀があるということは、どうもなさそうなので、古事記のいう、イワレビコが高倉下から熊野で受け取ったフツミタマの劔が石上神宮にあるのか、日本書紀がいう、スサノオがヤマタノオロチと戦ったフツミタマの劔が石上神宮にあるとするのが正しいのか。
 どちらが正しいのか、どちらも正しいのか?。
どう考えると合理的な筋道がみえるのでしょうか。
 私は、古事記説も日本書紀説もどちらも正しいと考えています。
 つまり、日本書紀は、スサノオが降ったのは、一書第二では安芸の国の「エの川上」としており、同第三で、劔が「吉備の神部のもと」にあるとしています。
 同様に、日本書紀によれば、神武東征(東遷)のとき、神武の軍団は、途中「安芸のエの宮」に滞在し、次いで「吉備の高島の宮」には3年滞在して軍勢を整えています。
 古事記でも、神武はアキのタケリの宮に7年、キビのタカシマの宮に8年いたと著述しています。
 この記述により、スサノオの列島への侵攻経路と神武の東征経路がほぼ同一と想定できます。
 つまり、かつてスサノオが列島攻略のため瀬戸内に侵攻ル−トを定め、上陸して一定の橋頭堡とした地点を経由して、神武の東征軍団も大和への侵攻ル−トとしていると、私は考えています。
 特にスサノオがオロチを撃破して政治的地盤を強固なものにしていた吉備で、最終的に神武は東征軍団の体制を強化して大阪方面へと侵攻するわけです。
 このとき、神武は、備前の石上布津御霊神社の磐座で祀られていた「フツノミタマ」劔を勝利の霊劔としてあやかるために持ち去ったのではないでしょうか。
 磐座に祀っていた劔はなくなったものの、その後も道教としての磐座への祀りが続いていたのでしょう。
 崇神朝の時に、その劔を奈良・石上神宮で祀ることを決定し、備前へもその旨通知したものと考えられます。

 ただし、もうひとつ可能性がある考え方もできます。
 それは、スサノオの子・ニギハヤヒが備前からフツミタマの剣を大和へ持ち出して(あるいは、スサノオからもらって)祀っていたのだけれども、高倉下がナガスネヒコの支配から脱出するとき(ナガスネヒコを裏切った、あるいは離反したとき)、神武への忠誠の証明としてフツミタマの劔を持参したのだという考え方です。
 「裏切りと忠誠の証明にフツミタマの剣を略奪して、高倉下は神武のもとへはせ参じた」・・・・、と記紀は書けないので、霊剣を高倉下へ「タケミカズチの神が天から降らしたので持参した」、と書いた可能性です。
 実は、こちらの考えの方が、記紀への高倉下の登場の仕方からして的を射ているのではないかと思っているのですが、「スサノオの子ニギハヤヒが備前からフツミタマの剣を大和へ持ち出した(あるいは、スサノオ自身が布津御霊の劔を所持していて、ニギハヤヒが大和へ向かうときに、与えた)」という部分に確信が持てていませんので、神武が備前から持ち出したということにしておきます。

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