「ももたろう伝説」の悲話

本文を「鬼」とされて抹殺された「温羅一族」へ捧げる


鬼ノ城と温羅の碑

 我が家から車で10分で総社の砂川公園につく。
今は整備されすぎて、愛犬「ももたろう」メス犬4歳、をつれてのキャンプができなくなったので少し足が遠のいた。
それでも夏にはウオ−タ−滑り台があり、男の子が喜ぶし、なにより無料だから時々は利用している。
砂川公園から車で10分、かなり急な坂道を登ると「鬼ノ城」である。
駐車場には、屋根付きのあずま屋風のベンチもあるから、バ−ベキュ−などもできる。
そこからは歩きとなる。
一周すると約2時間の快適な見晴らしの良いハイキングコ−スである。
家族そろって「ももたろう」もつれてよく歩く。
「ももたろう」を呼ぶと、ハイキングにきている人が大喜びしてくれる。
 さて、丁度T時間程度歩くと「鬼ノ城」の北東の隅の城塞の頂上に到着する。
そこからは、古代における「聖なる吉備の中山」から「吉備の穴海」児島半島までがはるかに見渡せる。
「鬼ノ城」は、まさに戦略的に重要な場所に造られた、古代の巨大要塞・朝鮮式山城である。
その頂上の少し奥まったところに「温羅」の碑(温羅奮跡碑)が建立されている。
この城に立てこもり、大和朝廷軍吉備津彦命と闘って全滅した「鬼」とされる「温羅」の碑である。
 幾たびか「鬼ノ城」をおとづれその碑をみるうちに、私のなかに疑問がふつふつとわいてきた。
「こんな巨大な朝鮮式山城を造るのには、吉備の巨大古墳を造ったと同様な、吉備の首長や民人の共同なしには不可能なことではないか。」
「もし、温羅が鬼の様にきらわれていたのでは、とてもこれだけの巨大な山城は造れない」
「桃太郎伝説では、鬼とされているが、本当に温羅は鬼なのか?、なにか秘密が隠されているにちがいない。」
 吉備古代史への私の探訪がはじめられました。
そして、どうやら漠然としていた疑惑の数々が私なりの推論で説明できる(こじつけと皆様から言われるかもしれませんが)ようになりました。
 ももたろう伝説には悲話が隠されていました。


吉備津宮縁起による温羅伝説

 ももたろう伝説の秘話、いや悲話にせまる有力な手がかりは吉備津宮縁起である。(この縁起そのものがどのように成立してきたのかということについて諸説あるようだが、縁起という性格上からして全く根拠のない荒唐無稽な話からつくられたのではなかろうと思うので、とりあえず成立論についての論研はこれ以上深追いしないこととする。)
「温羅と吉備津彦命」の闘いのいきさつを縁起は次の様に言い伝えている。

 崇神天皇のころ、異国の鬼神が吉備国に空より下った。
彼は百済の王子で名を温羅(ウラ・オンラ)ともいい吉備冠者とも呼ばれた。
彼の両眼は爛々として虎狼の如く、蓬々たる堀髪は赤きこと燃えるが如く、身長は一丈四尺にも及び、絶倫かつ剽悍で凶悪であつた。
彼はやがて新山に居城を構え、さらにその傍の岩屋山に楯を構えて、しばしば西国から都へ送る貢船や婦女子を掠奪したので、人民は恐れおののいてこの居城を「鬼ノ城」と呼び、都に行ってその暴状を訴えた。
朝廷は大いにこれを憂い、武将を遣わしてこれを討たしめたが、温羅は兵を用いること頗る巧で出没は変幻自在、容易に討伐し難かったので空しく帝都に引き返した。
 そこで、つぎは武勇の聞こえ高い孝霊天皇の皇子イサセリヒコノミコトが派遣された。
ミコトは大軍を率いて吉備国に下り、まず吉備の中山に陣を布き、西は片岡山(今の倉敷市日畑西山の楯築山)に石楯を築き立てて防戦の準備をした。
さていよいよ温羅と戦うこととなったが、もとより変幻自在の鬼神のことであるから、戦うこと雷神の如くその勢いはすさまじく、さすがのミコトも攻めあぐんだ。
ミコトの射る矢は、鬼神が岩を投げて空中で噛み合い、海中に落ちた。(総社インタ−近く180号線沿いにある矢喰宮がその岩の落ちた跡といわれ、最近整備された)
 そこでミコトは千鈞の強弓で2本の矢を同時に射たところ、一本は岩にあたり落ちたが、1本は見事に温羅の左眼にあたったので、流るる血潮が流水となってほとぼしった。(これが血吸川のいわれです)
温羅はたちまち雉と化して山中に隠れたが、ミコトは鷹となって追いかけたので、温羅はまた鯉と化して血吸川に入って跡をくらました。
 そこでミコトは鵜となってこれを噛みあげた。(倉敷市矢部の鯉喰宮のいわれ)
温羅はついにミコトの軍門に降って吉備冠者の名をミコトに献上したので、それよりミコトは吉備津彦命と改称されることとなった。 吉備津彦命は鬼の頭をはねて串し刺しにしてこれを曝した。
岡山市の首部(こうべ)はその遺跡とされる。
 しかるにこの首が何年となく大声を発し、唸り響いて止まらないので吉備津彦命は部下の犬飼建(イヌカイノタケル)に命じて犬に喰わした。
 それでもなお吠え止まないのでその首を吉備津宮の釜殿のかまの下八尺を掘って埋めたが、なお一三年の間唸りは止まらず近里に鳴り響いた。
 ところがある夜、命の夢に温羅の霊が現われて「吾が妻、阿曽媛をして釜殿のかまを炊かしめよ、幸あれば裕に鳴り禍あれば荒らかに鳴ろう」と告げた。
これが吉備津神社につたわる釜鳴神事のおこりとされる。

 こうした話は神話や伝説の常として、こじつけた話や地名説話が多いためそのまま史実とはうけ取れません。
また、こうした形式の話は朝鮮半島や内陸アジアにもみられるといいます。
この言い伝えが示唆していることは「吉備津彦命が、大和朝廷より派遣されてきて、吉備の国の温羅を討伐した」ということであるが、さらに「その吉備津彦命が吉備国の祖である」とまで考える説もあるようです。
 私は「司令官が吉備津彦命かどうかはさておき、温羅はスケ−プゴ−トにされたのであって、実は吉備の国は大和朝廷よりの討伐軍によって平定された」「この吉備津宮縁起の言い伝えは、大和朝廷の征服者としての支配の理屈に対する、吉備の言い逃れの立場からの言い伝えであって、その点を考慮しつつ、考古学による実証も少しは考慮しながら様々な側面から検討してみると、かなりの真実へせまりうる言い伝えであり、吉備津神社と吉備津彦神社がすぐ近隣に並んで建立され、しかも吉備津神社の方がりっぱな造りであることの理由もわかる」と考えることができました。
 滅ぼされた温羅が凶悪な鬼神として描かれていますが、「勝てば官軍、負ければ賊軍」として描かれているにすぎませんし、大和朝廷に敵対した強者は、例えば蘇我入鹿や酒天童児あるいは八面大王、聖徳太子などの様に「鬼神」とされています。
しかし、温羅の立場を想定しながら、当時の時代背景からこの縁起を再検討してみると、そこに実は「製鉄技術で吉備の民びとに豊かな生活をもたらした百済皇子温羅とその妻・総社の阿曽媛が、吉備と大和朝廷の政治対決のなかで、悲劇の訣れをむかえざるをえなくさせられた」悲話がかくされていることに気付くのです。


温羅一族は製鉄技術を保持した朝鮮半島から渡来のハイテク集団

 吉備津宮縁起では、百済の皇子とされている温羅が、本当に百済の皇子であったのかどうかはわかりませんが、吉備の人びとにとっては尊い人であったことでしょう。
 実は、岡山県南一帯の開発は秦氏に代表される新羅系渡来人によって指導されていた可能性が高く、製鉄技術のル−ツも新羅系が中心と考えられることなどから、温羅は新羅系渡来の技術者(ということは出雲系の勢力に属する)ではなかったのかと思っていますが、大和朝廷が百済系であり、新羅系と知って共同していたということになると、吉備は大和朝廷に逆らって対立していたという外交的政治的立場になりかねないので、百済の皇子と言い逃れているのではないだろうか、と私は考えていますが、とりあえず百済の皇子としましょう。
 同縁起では温羅が空より下ったとしていますが、実際は吉備の首長たちが大歓迎して吉備に来てもらったはずです。
しかし、大和朝廷から逆賊とされた温羅を、吉備の首長たちが大歓迎していたと真実を述べたら、吉備の首長たちも大和朝廷の逆賊となってしまいます。
苦しい言い訳で、温羅は勝手に空からやってきたことにせざるをえなかったわけです。
 とにかく、朝鮮半島から進出してきた一族が、そのころは備前・備中・備後などと分割されていなかった吉備の地方一帯に広く居住し、吉備の首長たちと共同で「鉄製品」の生産にあたっていたのであろうと、私は考えています。
ですから、血吸川も、本当はその川の上流にあった製鉄炉からの鉄錆を多量に含む赤茶けた川水がながれていたためと考えられるようです。
 吉備が鉄製品の古代からの一大産地であったことは『古今集』にある「真金ふく吉備の中山おびにせる細谷川の音のさやけさ」の歌にあるように、そしてずっと後の代になっては「備前長船の名刀」にみられるように明かなことです。
実際に県内のゴルフ場開発や内陸工業団地開発、道路建設で製鉄関連の遺跡が数多く発見され、また県内古墳から出土した鉄製品についての考古学者による調査結果などから、5世紀には鉄製品の生産が吉備地方でおこなわれていたと考えられています。
 鉄器類は、弥生時代の農業生産力を高めるハイテク農具であり、鉄製武器は軍事力を決定するハイテク戦闘武器でした。
「鉄」を握る者が支配者となる、まさしく「鉄は国家なり」とされた時代のことです。
ハイテク製品である「鉄器」類の生産技術を、大和朝廷も権力維持のため独占を望んでいたことでしょう。
しかし、吉備も一大生産拠点を形成していました。
鉄器の大量生産、瀬戸内の海上交通運輸の要所であったこともあり、吉備一族は大和朝廷に対抗できるほどの国力を蓄積しえていました。
 そのハイテク技術を入手し鉄器類を生産しようとすれば、朝鮮半島より技術導入するしか方法がありませんでした。
当時の世界文明の中心は、中国大陸であり、日本などは中国からすれば世界のはての野蛮な辺境の地にすぎません。
 この時代に産声をあげたばかりの大和朝廷は、王座をめぐって政争・軍争が内部でくりかえされていました。
親子や兄弟間での、血で血を洗う王統の血縁どうしの争いが次々くりかえされ、不安定な時期でもありました。
そして、各地の大王家がその王統の血縁や後継となって暗躍したり表舞台に登場して反乱をひきおこしたりしていました。
 大和朝廷は朝鮮からのハイテク技術者やハイテク軍事指令官を積極的に登用し、登用どころか血縁関係も結んで絆を強固にして、政権の強化と確立にやっきとなっていました。


朝鮮半島の百済王朝と大和朝廷はル−ツが同じではないのか

 もう少し言えば、朝鮮半島をめぐる百済と大和朝廷の関係をみると、大和朝廷は常に百済と同盟し、新羅との闘いでの運命共同体となり、敗北後は百済からの亡命者を積極的に受け入れている等々から、実は百済王朝と大和王朝はル−ツが同じであったと、私には考えられてなりません。
 ですから、ハイテク武力で大和朝廷をうちたてたとはいえ、日本古来の各地方の王統からすれば外国からの征服王の様に思える大和朝廷との確執が激しかった、と考えた方が理解しやすいのではないでしょうか。(さらに云うならば、百済系より先に、日本列島に渡来していた新羅系との対立であり、朝鮮半島の政治対決が日本列島にもちこまれているともいえるのではないでしょうか。)
 そしてそこにこそ古事記・日本書紀の歴史的役割があると私は考えています。
古事記・日本書紀と大和朝廷成立の隠された歴史については、別の機会に私の推論を述べることとしますので、話を進めます。
 大和朝廷と朝鮮との関係について、海音寺潮五郎氏と司馬遼太郎氏の対談「日本歴史を点検する」では次の様に述べていましたので、味方をえた思いでした。
少し長いのですがその部分を転記させてもらいます。

司馬 考えてみれば弥生式時代の頃までは、日本人も朝鮮人も、ほぼ同じ民族だった。
それがここまで両者違ったものになるというのは、地理的環境によるものが大きいのか、それとも民族の血の混合度合でしょうか。
 朝鮮民族というのは、まず北方から滴ってきたツングースの血と、朝鮮南部の土着の血の混合だと思うのですが、日本人はツングースだと思われる縄文人もおればアイヌもいる、黒潮に乗って来た南方人の血もあれば、中国江南の民族あたりの血が入っている想像上の形跡もあり、朝鮮の血もむろん濃厚に入っている、そういう血の混血の度合によって差異ができたのか、よくわかりませんが。

海音寺  「魏志倭人伝」の記述を真正直に読めば、倭の境は朝鮮半島にありますね。
つまり、三国志の頃の中国人は南朝鮮から日本列島にかけての地域全体を倭・日本と考えていたのですね。
ですからおそらく南朝鮮の人間と日本人とは同種族でしょう。

司馬 同じだと思いますね。 「古事記」だったか「日本書紀」だったかにも、スサノオ尊は朝鮮南部とさかんにゆききして、晩年はソシモリというところに隠棲したということになっておりますね。
その子のなんとかの命も、日韓を往復し、朝鮮の植物をうんと持って来て日本に植えた、ということになっていますね。

海音寺 辞林の著者の金沢庄三郎博士・あの人は言語学上から日韓同祖説を唱えていますね。
同祖説の最初の人ですね。
今日の日本の学者の中にもそういう人がいないではない。
騎馬民族説の江上博士なぞは、向うの方から、征服民族ですが、渡って来ているといってるんですね。
古代の一時期、朝鮮南端は日本の天皇家及び天皇家をとりまいている貴族らの根拠地であったという風に、江上博士は言ってますね。
最近の朝鮮の学者たちにもその説の人が多く、こっちが本家で、日本が分家だという説なんですね。
戦後まもなく私もそれを考えたことがあります。朝鮮と日本との関係は、イギリスとアメリカとの関係なんじゃないかとね。
朝鮮がイギリス、日本がアメり力とね。

司馬 私も大ざっぱに言うと、そういう考えが常識的だと思うんですけども。

海音寺 古代において朝鮮人が日本にたくさん入って来ているんですが、これは大体において最優秀な技術者ですから、日本じゃ大歓迎していますね。
日本の文化が飛躍的に進み、生産が飛躍的に増大したのは、この連中の功績でしょう。


大和朝廷は温羅一族を滅亡させ吉備を服従させる方針を選択

 古事記・日本書紀によっても、吉備と大和朝廷との関係は大和朝廷が産声をあげたばかりの応神天皇(この頃はまだ「天皇」という呼称はありませんでしたが)の頃は、仲がよかった(利害関係の対立がなかった)様です。
ところがだんだんと摩擦を生じ対立へと発展している様子がうかがえます。
そして、ついに反逆の烙印がおされる事件が発生します。
 吉備からきた稚媛(第三妃、第二妃は韓媛)は雄略天皇との間に星川皇子がありました。
雄略天皇が後継を決めずに死んだため、稚媛は皇子とともに大蔵に入って天皇の位を狙って策動しました。
しかし、吉備一族に権勢を握られる危機と考えた大伴室屋大連らは軍を率いて、反対に皇子と稚媛を焼き殺してしまいました。
  吉備の上道臣は血筋である星川皇子が乱を起こしたのを聞いて、軍船四〇嫂をととのえ、大和攻撃に向かおうとしましたが、乱が鎮圧されてしまったので引き返さざるをえませんでした。(この事件からも、当時は海上交通が中心だったことが良く解ります)
大和朝廷に反逆した結果となって、吉備の上道臣はその責任をとらされ、征伐されてしまうのでした。
軍船四〇艘(兵士は最低でも四百人以上でしょうか?)をととのえる実力はたいしたもので、もし時期にかない抗争にまにあっていれば、力関係が逆転し歴史は吉備一族が表におどりだしていたかもしれません。
しかし、いかんせん情報が吉備に伝わるのが遅すぎました。

 こうした5世紀末の大和朝廷への吉備の反逆の話から、その裏には、大和朝廷に組みする朝鮮ハイテク集団と吉備に組する朝鮮ハイテク集団の間にも、当初は日本列島をめぐる共通の利益があったけれども、やがてどちらが日本列島の陰(真)の実力者になるのかの争いが発生していたのではないかと思えてなりません。
こうした事件のなかで、大和朝廷では、国力では肩をならべるような吉備一族を滅亡させるのか服属させるのか、政治路線をめぐるギリギリの選択(朝鮮半島情勢も考慮しての)が検討されました。
そして、大和朝廷側についた朝鮮ハイテク集団の利益もはかれるように、吉備の国力の源泉であるハイテク鉄器製造技術者集団の温羅一族を滅亡させ、吉備を朝廷に全面服従させる方針を選択したのだろうと思います。
 大和朝廷からは、吉備の一族に対して最後通牒が突きつけられたのでしょう。
その内容はおそらく「吉備一族は最近とみに朝廷の命に従わないばかりか、上道臣の様に反乱をひきおこす者もおる。
しかし、慈悲ある大王(おおきみ)の考えるところでは、それは吉備一族の本意とは思われない。
なぜなら上道臣の反乱は、先の大王の死亡のとき、温羅一族が暗躍し誤った情報を吉備に伝えたためであり、状況判断を誤らさせられた上道臣が兵を起こしてしまい、朝廷に心ならずも反旗をひるがえす結果となったものであろう。
吉備においては、勢力をほこる温羅一族が横暴をふるうために、吉備一族が朝敵とされかねないような危険な目にあわされているに違いない。
吉備一族も本当は温羅を成敗したくても、その勢力に対抗できないため、困っているのではないか。
この際、朝廷が温羅討伐軍を吉備に派遣するから、吉備一族は朝廷軍に従うように」 こういった内容だったろうと想像されます。
  この最後通牒を受け取った吉備一族の衝撃はいかばかりだったことでしょうか。
大和朝廷の通告を蹴飛ばして、温羅とともに全滅覚悟で朝廷軍と闘うのか、それともこれまで恩義あった温羅をスケ−プゴ−トにして、国力の源泉であったハイテク鉄製品の大量生産をあきらめ大和朝廷に服属するのか。
しかし、本当に温羅をスケ−プゴ−トにすれば、自分達は生き延びれるのか。
疑心暗疑のなかで、いずれかの道の選択を迫られた吉備一族であったろうと思います。
 当然温羅はそうした状況をわかっていたでしょうし、大和朝廷の背後にある朝鮮系ハイテクグル−プの狙いがどこにあるのか、情報をもっていたでしょうから、むしろ吉備の首長たちに大和朝廷の政治決断の内容を教え、大和朝廷軍に加わることをすすめながら「自分の妻や、吉備での縁者をかくまってくれるよう」頼んだのかもしれません。
闘いのなかで殺される運命しかないことを悟った温羅は、愛する妻を吉備の民人のなかに隠し、道連れにすることをさけたのでした。
結局、すでに上道臣を処分されている吉備一族は自らの安泰をはかるために、これまで共同してきた温羅一族をスケ−プゴ−トにする苦渋の選択をおこなったのでしょう。
 温羅一族は「もはやこれまで」と自らの技術で吉備一族とともに築いた「鬼ノ城」と海上流通・情報・水軍基地であった「女木島」にたてこもり、一族の死に花を咲かせる闘いのなかで全滅するまでの壮絶な最期をとげたと思えてなりません。
この闘いでは、吉備一族は朝廷軍に加わりはしたものの、戦闘意欲は低く戦力にはならなかったのではないでしょうか。
それどころか、吉備の民人は吉備の人々が豊かになるようにこれまで指導援助してきてくれた温羅一族に恩義を感じ、むしろ陰から支援したのだと思えてなりません。
ですから朝廷軍は、吉備津宮縁起にあるようにせめあぐみ、温羅軍は山に隠れ・野に潜み・海や川にも隠れ縦横無人のゲリラ戦を展開したことが想像できます。
きっと朝廷軍の損害ははげしく、消耗戦のなかで兵士の血が川の様に流れたことでしょう。


吉備の民人に慕われていた温羅

 しかし、結局多勢に無勢、温羅一族は敗北し、温羅は逃亡を試みたものの、ついに追ってきた朝廷軍に、岡山市首部でつかまり斬首されたのでしょう。
吉備津宮縁起から想像するならば、磔獄門まさにさらし首とされたことでしょう。
敗北した温羅軍に加わり捕らわれた者も、ことごとく処刑されてしまいました。
そのみせしめの処刑場は、今の吉備津神社のその場所とも想定できます。
 吉備の首長や民人の象徴であった「聖なる吉備の中山」を足下に蹂躙しながら、大和朝廷軍司令官吉備津彦命は吉備の首長と民人に宣告したことでしょう。
「いまからおまえたちの目のまえで、大和朝廷に逆った賊どもの処刑をおこなう。
よく見ておけ!。
これにこりて、二度と朝廷への謀反の心をおこすな!!。」
 烏がさらし首を啄み、野犬が磔の死体に食らいつく、無惨な光景が思い浮かびます。
 処刑された温羅一族を弔うことは、大和朝廷によって禁止されたでしょうが、温羅一族とのなんらかの血縁関係のあった人々や共同生活をしてきた人々などの関係者の怨嗟の声、無念の思いが、それこそ夜陰にまぎれて吉備の民人を処刑場にあつめることとなり、処刑場を警備していた大和朝廷軍を困惑させたことでしょう。
死体がさらされているから、吉備の者どもが処刑場に集まると考えた大和朝廷軍は、それではと死体を焼却し骨を砕き刑場に埋めてしまいました。
ところがそれでも、夜になると吉備の人々が刑場の回りにあつまり、悲嘆の泣き声をあげ、弔いの祈りを捧げ、大和朝廷軍はよな夜な悩まされつづけたのでしょう。
この民衆の怨嗟の声、泣き声、弔いの祈りこそ吉備津宮縁起によるところの13年以上にわたる温羅の首のうなり声だったのではないでしょうか。
どれだけ温羅一族が吉備の民人に親しまれ慕われていたことでしょうか。
 縁起でも温羅が襲ったのは西国(百済などか?)からの貢船とされており、彼らの水軍基地「女木島」から出撃したのでしょう。
しかし、地元の吉備地方は少しも荒し回っていません。
大和朝廷軍とは闘っていますが、吉備の民人を犠牲にしていません。

 ついにたまりかねた大和朝廷は、刑場に吉備津宮を建立します。
すでに吉備の中山へは、温羅討伐戦での大和朝廷軍戦死者を埋葬し古墳を造営し、吉備津彦宮を建立してその英霊を祭っていたにもかかわらず、新たなお宮を建立します。
神社の名前は、吉備への配慮を兼ねてか、吉備津宮と名付ますが、温羅の一族の縁者を探しだし、神社のかまの火炊き役を命じます。
このお宮で温羅一族の霊を弔えとは、口がさけても言えない大和朝廷が考えだした苦肉の策です。
温羅一族の縁者や吉備の人々は、竈(かまど)の火を炊くという表向きの理由で、実は温羅一族の霊を堂々と弔うことができるようになりました。
吉備の民人のなかにかくまわれていた温羅の妻、阿曽媛もはれて温羅の霊を弔うことができるようになりました。
(あるいは、強権的であった大和朝廷吉備占領軍司令官だった吉備津彦命が、この頃死亡して吉備中山茶臼山古墳に葬られ、あとがまとなった執政官が、温羅のたたりを恐れ、吉備の民人の怨嗟の怒りをやわらげて摩擦をなくすため吉備津宮を建立するとともに、竈の火炊きということで阿曽姫に温羅を弔わせ、たたられないようにしようとしたのかもしれませんが。)
ですから、13年以上にわたってつづいた温羅のうなり声、実は吉備の民人の弔いと怨嗟の泣き声がピタリとなくなります。
そして温羅一族に関係あった吉備の人々は、こぞって弔いの寄進をこの吉備津宮におこなったことでしょう。
こうした背景で、やがて吉備津宮は吉備津彦神社よりも大きい神社となり、鳴竃神事が毎年営まれるようになったと考えられます。


おわりに

 私は、考古学者ではありませんので、十分実証的に研究して本稿を記述したわけではありませんので、年代関係のはなはだしい齟齬があるかもしれません。
考古学者や歴史学者あるいは著明な作家の知恵をおかりしながら、ももたろう伝説を推理してみた私なりの結論です。
歴史小説家ならば、一大スペクタクル歴史ロマン小説が描けるでしょうが、私には残念なことにその能力もありません。
皆さんの、ご批判をお願いします。

 吉備古代史の学問的探求をされている、倉敷考古館・間壁忠彦・間壁葭子先生の著作「古代吉備王国の謎」(山陽新聞社出版)は、実証を重ねて吉備古代史の解明に努力されていますので、皆様もぜひ御一読下さい。

 古代吉備と朝鮮半島の交流調査や現在の韓国との友好を求めて、このたび韓国を訪問する機会がありました。
 その報告も随筆風にまとめてみましたのでご覧いただけたら幸いです。

 本稿は、1997年1月発行の倉敷医療生活協同組合水島協同病院の機関誌「搏動」第48号に発表したものへ一部加筆しました。

 なお、本稿をホ−ムペ−ジに準備しているなかで、 総社市のホ−ムペ−ジに、温羅と鬼ノ城についての解説があることを発見しました。
私の推論と重なる部分と、異なる部分がありますので、皆様は必ず参照されるようお勧めします。


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