温羅のル−ツSORABORUをたずねて
ぼくの韓の国紀行 目次 (最終更新日2001/06/16)
1.岡大S教授よりの電話
2.なにがしかの覚悟がいる近い国
3.ガイド「金 琴子」さん
4.竜頭山公園の李舜臣像
5.19人の氏名が刻まれた学生革命の記念碑
6.激発の国民性にびっくり
7.韓国の儒教による嫁の七悪について
8.ULSANコンビナ−トは8千戸の強制移住で公害問題に対処!!
9.SORABORU
10.天馬塚古墳
11.関所で足止めされ、旅の通行税を払う
12.新羅始祖王の古墳と韓国唯一の神社
13.美しい出土品に魅せられた国立慶州博物館
14.ありがたいことでございます
15.銅鐸は軍の道具として使われ、やがて軍隊の象徴になり、政治権力の象徴へと転化した
16.「栄光の光州」
17.ガイド「金 清子」さん
18.太田市の住民運動の担い手との交流会
19.太田市役所の見学
20.百済の面影はいずこ・扶余にて
21.植民地時代に日本からもちこまれた「逆さクラゲ」
22.童顔の残った澄んだ眼差しの少年兵
23.「ナヌムの家」訪問 ありがとう「坂本さん」、あなたは本当にまぶしいほど美しい。
24.おわりに
Chaos to Cosmso トップペ−ジへ戻る
1.岡大S教授よりの電話。
1998年夏「浅田君かね、ぼくだが、韓国へいっしょに行ってみないかね」という岡山大学の恩師S教授からの電話で、この話は始まった。
かねてから、韓国のコンビナ−トでは、そのむちゃくちゃな開発と生産第一主義からすさまじい環境汚染と公害が激発しており、水島コンビナ−トの公害の歴史でいえば今から約30年前と同じ様な状況にあるときいていたこと、中央集権の独裁国家体制がくつがえって年月があまりたっていない韓国で地方自治がどうなっているのか少しでも視察してみたいと思っていたところであったし、また「温羅のル−ツ」も機会があったらぜひ探ってみたいと思っていたところなので、この誘いに喜んで同行をお願いした。
さて温羅のル−ツについては、朝鮮半島の南部ということではだれもが一致しているようであり、多くは百済系の出と考えているようであるが、新羅系ではないかと実は私は考えている。
吉備の鉄製産の技術と鬼ノ城の巨石組構造、さらに弥生時代に吉備を開発した先進と思われる秦氏に着目すると、そのル−ツは新羅に焦点をあてざるをえないと思われるからである。
いずれにしろ、日本歴史の最初に実在を大半の人が認める崇神天皇(この天皇名称は後世になってつけられており、当時は大王とでも称すべき存在であるが)は「ミマキイリヒコイニエ」が本名であることにみられる様に「任那(ミマ)の城(キ)から入(イリ)ってきた彦(ヒコ)」であり、朝鮮半島南端のほぼ中央部「任那」地域に本来の支配権力基盤を有していた一族が、新羅や百済の圧力で日本列島のたぶん九州に亡命政権を樹立し、やがて大和平野へと縦深陣地の最深部へ政権機能を移してゆく経過からも考えられるように、日本列島と朝鮮半島南部は中国の文明政権からは卑弥呼の時代から「倭」とひとまとめに位置づけられる関係であった。
日本人のル−ツをたどれば、モンゴロイド系と華南から沖縄列島を経由してきている南方系それと古来からの北方系アイヌということになるであろうが、中心となるモンゴロイド系は、朝鮮半島から日本列島に渡ってきたことはまちがいなく、玄関が北九州(天神系)なのか、出雲から越方面(国神系)なのかということの違いによって、渡来後の古代日本歴史へ様々な影響をあたえたことはまちがいないであろう。
対馬海流を考えると、百済方面からは北九州へ、新羅方面からは出雲から越へと渡ってきたと私は推測している。
温羅の出がどこであるのかとか天神と国神の関係などについてはもちろんふれられていないが、こうしたモンゴロイド渡来説は江上波夫氏の著書「騎馬民族国家」中公新書に詳しく展開されているので、大先達の著書をひもとかれるようお勧めしたい。
だからこそ、日本人は自らのル−ツや文化を考えるにあたっては、もっと朝鮮半島の歴史や文化について研究する必要があるのではないだろうか。
と、いう前提で、岡山自治体問題研究所の主催した「韓国地方自治視察の旅」に参加し、韓国の地方行政や環境住民運動などの視察と韓国の古代文化をかいまみる機会をえたわけであったが、しかし、これはなかなかむつかしい旅でもあった。
2.なにがしかの覚悟がいる近い国。
我々は地理学的呼称として「朝鮮半島」と一般に呼ぶが、朝鮮半島南半分を占める「大韓民国」に旅してみると、彼らは「韓半島」と呼び「朝鮮戦争」ではなくて「韓半島動乱」と呼び「韓の国」「韓の地」という強い意識を持っていることに気づいた。
これにはもちろん半島北側の「朝鮮民主主義人民共和国」いわゆる略称「北朝鮮」への反発対抗意識があり、それは「韓半島動乱」での「北朝鮮共産軍」の「韓国民」への残虐な行為が、韓国民衆に北の政治権力との関係では、忌み嫌うべき存在としての「北朝鮮共産党政権」を深く植え付けたことも、今度の旅で理解できたことであった。
なお付け加えるならば、この旅の最終日にソウルの3・1独立運動(1919年)のタプコル公園を案内してくれたガイドの金 清子(KIMU・CHON・JA)さんは、独立運動への殺しつくし焼き尽くした激しい日本軍の弾圧を説明しつつ「しかし私たちは、日本の皆さんの中にも侵略戦争反対・植民地解放を貫き、拷問をうけ網走刑務所につながれながらも不屈にたたかった方が、そういった方々がおられたことは、忘れていません」と「韓国人は恩義ある人を決して忘れてはいない」と儒教的な説明をされたが、彼女の指摘する人は、日本共産党の宮本顕治氏であることは明らかで、そうすると韓国の人にとって「北朝鮮共産党」と「日本共産党」とは「共産党」という呼称部分が同じであるだけに、片方は忌み嫌う感覚で受け止め、片方は信頼すべき存在として受け止めざるをえず、理解がしにくいため、とまどいの感情があるのだなと感じたのである。
それでも彼らは優しかった。
「”北”に住んでいる同胞は、食べるものがなくて、今たいへん苦しんでいます。
私たちは少しでも食料を増産して、北の同胞におくってあげねばなりません」と政権と同胞を区分していた。
金大中大統領が、様々な事件のなかでも「北」との対話を少しでも広げようとする政治姿勢をみせ「武力挑発は容認しない」「吸収統一はしない」「積極的に交流・協力する」という原則で「政経分離」によって現実的な解決を目指しているのは、そうした韓国民衆のなかにある「北の同胞への思いやる心」を知っているからであろうと思われた。
また、つい50年前までは日本帝国主義が朝鮮半島を軍事占領し、日本語と日本名を強制し、日本の天皇制イデオロギ−を押しつけた経過(「日本帝国のいわゆる保護政治時代」と韓国では言われている)があり、これについては未だに「従軍慰安婦」問題など解決されていない、韓国国民からいうならば「日本は歴史の事実にたった反省と謝罪をしていない」、まさに日韓関係の「恥部」となる問題もあるのに、そのうえ「韓国に進出している日本の菓子企業LOT*Eの社長は、日本に妻がおりながら、韓国にも現地妻をおいて、しかも最近になって新しい若いタレントの2人目の現地妻をもうけている」とまで言われると、絶句せざるをえなかった。
ところが、あとで知ったことであったが、かの社長氏は在日コリアンとのことなので、まあ韓国の儒教倫理の基準では、問題とならない雰囲気ではありますが、しかし在日朝鮮人問題は、強制連行も含めて日本帝国主義の朝鮮植民地化に原因があるわけで「在日コリアンなら私たちには関係ない」とはならないわけです。
ことほどさように「温羅のル−ツ」をたずねるということは、自分がおこなった行為ではないので直接の責任がないとはいえ民族間のむつかしい諸問題とも向き合わざるを得ない、なにがしかの覚悟がいることなのであった。
地方自治体や環境住民運動問題視察以外の、こうした全ての関係は、韓国のガイトさん2名の案内で向き合ってきたわけで、彼女らを通じて韓国社会へ触れてきたわけであるから、私達の旅に決定的な影響をあたえたガイドさんの紹介から始めたい。
3.ガイド「金 琴子」さん。
釜山(PUSAN)の金海(KIMHAE)国際空港に私たちを出迎えてくれたのガイドさんが、金 琴子(KIMU・KUN・JA)さんであった。
1月25日生まれ・ソウル(SEOUL)の住とのこと。
用意のバスに乗り、釜山の竜頭山公園にむかう。
釜山は山が海に迫った地形で、神戸や小樽とよく似た港町であるが、人口約400万の韓国第2の都市である。
しかし、おせじにも「きれい」とはいえない、むしろ不潔感の漂よう様な町並みが続くと言わざるをえない。
私が「港町のためか釜山の町は少し汚れていますね」と少々失礼なことを述べたことに対して、ガイドのKUN・JAさんは「私は、韓半島動乱のとき、北の共産軍に追われてソウルから命がけでこの釜山まで逃げてきました。
あのとき韓国民で命があったほとんどの人が最後の釜山に逃げ込んだのです。
たいへん恐ろしい体験をしました。」と自分と釜山の関わりだけを説明したが、実に感服すべき説明であった。
彼女は韓国名門私立の梨花女子大(あえて日本で例えると津田塾大とかお茶の水女子大にあたる)を卒業しており、最初は英語ガイド資格をとり、そのあと日本語ガイド資格をとりなおしたそうである。
もう少し補足すると、ガイドは国家試験資格で総枠3000名(資格を有する人が死亡したり資格を放棄した場合の不足枠のみ新規募集され、国家試験に合格したあと2ケ月間の国家養成所研修と6ケ月間の企業研修が義務づけられている)しかおらないとのこと。
ということは、韓国では女性の職業ではガイドはもっとも安定した高収入があり、しかもツア−を案内(指揮するといった方が正確な表現に近かった)するにあたってのおみやげ店はもちろん観光施設やホテルとの折衝では絶大な影響力(むしろ権限といえる)を発揮できるうえに、外国人に韓国を正確・親切に紹介する民間外交官としてのやりがいもあるエリ−ト職であることが想像できた。
さて、彼女の説明にもどるが「着の身着のまま命辛々で釜山に逃げ込んで、動乱後も郷里に帰れない不幸な多くの人々が住んでいる釜山なのです。
人間はだれでもきれいな家やきれいな街に住みたいにきまっています。
でも貧しい釜山の多くの人々には、それは不可能です。あなたもおわかりでしょ。」・・・・・・・・・。
誇り高き彼女は、この部分の説明は口に出さなかったのである。
もう少しKUN・JAさんについて。
プライペ−トなことなので少々気が引けたが本貫を尋ねた。
「金海金です。
夫は慶州金です。
ですから結婚できました。」 いやあ、実に頭脳の明晰な方である。
韓国は儒教イデオロギ−体制の社会である。
であるからして、もし若い男女が恋愛しても同一姓の場合、本貫が一緒だと血族とみなされ、結婚できないのである。
「金」氏の場合はどうも金海金が宗家に近いというか血統の由緒正しき品格とみなされているようで、大統領の金大中氏の本貫も金海金ときいたことがある。
ということで、KUN・JAさんはなかなかのル−ツの方ということになる。
ソウル大出身の夫君とは大学時代に合同ハイキングで知り合ったというから、儒教社会としてはずいぶん開けていると思ったわけですが、KUN・JAさんは私の質問が、韓国の儒教体制の状況を知りたいのだなと察知して、さらに自分のル−ツへの誇りも加味しての返答となったわけであろう。
さらには、慶州金氏であるが、慶州(KYONGJU)は新羅の王都である。
その慶州には、新羅国家約1000年間の歴代王の古墳があり、全韓国の金氏のル−ツの源は新羅第13代「金味鄒」王(AD262〜284)とされている。
この金味鄒王の古墳もKUN・JAさんの案内で翌日観たが、この古墳だけは特別の塀で囲まれ立派な門構がしてあった。
彼女は「全国の金氏の祖先でございます」と胸を張って私に紹介下さいました。
4.竜頭山公園の李舜臣像
竜頭山公園にバスがついた。
平日なのに不景気なのか、高齢の方はほとんどおらないのに、かなりの人数の壮年以下の男たちが木陰でなにやら碁板らしきものを囲んで興じている。
カソリック教会のシスタ−2名が15名ほどの重度の知的障害児といっしょに遊びにきていた。
この公園の主人公は、李舜臣である。
バスは頂上まで上ったので、目の前に鎧をまとい刀をしっかり握りしめて南方はるかを見やる銅像が静かにたっていた。
KUN・JAさんが説明をされた。
「李舜臣は豊臣秀吉が朝鮮出兵をしたとき(1592年と1598年)韓国では壬辰・丁酉倭乱といいますが、水軍を率いて日本水軍をことごとく撃破し、最後に自らも銃弾を受けて亡くなられた方です。
彼は、清廉潔白な方で父母へも孝行をつくし、大言壮語することもなく、日本水軍をうち破ったのにねたまれて反対に牢獄につながれましたが、それを恨まず、再度の国難では牢獄からだされ戦わされたのでありましたが、そのときは明の水軍の将軍に全ての戦功をゆずることを約束して水軍の総指揮権をにぎって海戦で勝利を納めながらも、戦死された方です。」
この説明をきいて「ホ−、我が軍の敵将か」というだれかの声がきこえた。
私は少しあわてて「いや、日本海軍は、彼を尊敬していたのですよ。
人格・戦術・統率力に畏敬の念をもって、日本海軍は評価していたのですよ。」とつい言ってしまった。
事実、明治の日本海軍は、李舜臣を海軍の将はかくあるべしと英雄として賞賛していた。
それにしても、つい何の気無しに口にしたとはいえ、誇るべき民族の英雄の人物の説明をしているKUN・JAさんに「この将軍さえいなければ、豊臣秀吉が朝鮮を占領していたのにと言いたいのだな、やっぱり朝鮮を植民地にしたことを反省していないな」と優秀な頭脳で一瞬でも考えられたらどうしようと、勘ぐりすぎかもしれないわけですが思わずドキリとして、口をだしてしまった。
「日本が朝鮮半島を占領して植民地にしていた歴史があるのだから、悪気なくゲ−ム感覚で口に出たにしろ、相手はどう理解するだろうかと常に考えながら韓国の旅をせねばならんな−。
気楽な旅にはならんな−、むつかしいことだわい」と思わされた一瞬でありました。
李舜臣の像は、港町釜山をしっかと見守っているかのようであった。
5.19人の氏名が刻まれた学生革命の記念碑
ところが、観光案内などに記載されていないしKUN・JAさんも教えてくれなかったのですが、李舜臣の像のすぐ近くに、高さ10メ−トルほどの大理石とコンクリ−トのどっしりとした記念碑が建立されてあった。
なんの記念碑だろうかと近づいて碑文を読んでみる。
ハングルと英語で書かれ、19名の名前が漢字で刻んである。
英文をみると以下の様に訳せた(たぶんこれで良いかと思うのですが・英語力が弱いのでゴメンナサイ)。
「韓国歴史の光栄ある伝統の1960年4月19日の革命は、民主主義のための神聖なる人民の戦いであり、自由党の腐敗した政治体制に対する裁きであった。
だれが青年の純粋な心による正義の義憤による爆発に挑戦できるであろうか。
数多くの若者が血を流し、独裁者を打倒するため4月のこれらの日々に彼らの尊い人生を犠牲としてささげた。
この記念碑は彼ら故人たちの名誉の印であり、民主主義のために戦いそのために死んでいった最後の試練を受けた若者に与えられる。」
この碑文からすると、朝鮮戦争後に韓国で暗黒独裁政治をおこなった自由党と李承晩大統領が、学生を中心とした国民蜂起によって1960年4月27日に打倒された「学生革命」と呼ばれる事件の釜山市の記念碑である。
この革命の第一波は、釜山西方25キロメ−トルにある馬山(MASAN)で3月15日高校生を中心とする1万人のデモで始められ警官隊と衝突し死者4名を出したとされ、4月11日に高校生の惨殺死体が馬山港内で発見されたのを契機に第二次馬山デモが発生、群衆が馬山警察署などを焼き払った。
このデモが18日にはソウルまで波及し、翌19日大統領官邸を包囲したソウル大学生を中心とするデモ隊に警官隊が発砲、死者21名をだすなど全国的に学生を中心とした大蜂起が拡大していきました。
このとき、ソウルや光州、大田、釜山などに戒厳令がしかれています。
しかし、26日にはソウルでは50万人の大デモへと拡大し韓国民の激しい怒りが自由党支配を崩壊させ、アメリカも李承晩を見限ったことから、ついに27日辞任に追い込まれ5月末にはハワイへ亡命していった経緯があります。
この革命のとき、釜山では(あるいは釜山出身の)19名の青年学生が犠牲となったのでしょう。
ソウルには犠牲となった183名の学生たちと遺族のために「学生革命遺族の家」がたてられているとのことです。
この記念碑が竜頭山公園にあることは、いくつかの韓国の旅行案内書にもなにも記載されていませんでした。
私たちの記憶からも「李承晩」なとどという名前が消えかかっている昨今ですが、民主主義のために青年学生が蜂起し歴史を回転させてきた韓国の歴史上の栄光として、3・1バンザイ独立運動や光州事件とともに忘れてならないことだろうと思いました。
6.激発の国民性にびっくり
このあとS教授の案内で釜山大学を表敬訪問した。
日本語通訳ボランティア2名を手配して、黄教授がまっていてくれた。
相互の交歓と今後の協力のために市の行政当局も含めて釜山港の機能はじめ市内の案内や、釜山の朝鮮式山城の金井山城まで案内し夕食交流会までおこなうという計画を考えていてくださったが、残念なことに、相互の日程調整が不十分であったために、表敬訪問に止めざるをえなかった。
釜山港は、バスの窓からもコンテナクレ−ンが20基程度林立する韓国一の国際ハブ港の観を呈していただけに、そして韓国第2の都市の行政当局との窓口も用意してくれてあったりで韓国の地方行政や経済を勉強できる絶好のチャンスで、そのうえさらに、金井山城をみたら総社市の鬼の城との比較考察ができるのにと残念無念であった。
それでも黄教授より釜山の抱えている問題について、通勤ラッシュはじめ物流にかかわる都市交通問題の解決が緊急の課題であること、一日1万2千トンでる都市のゴミ処理やNOTTON川の工場汚染などの環境問題、土地価格が高すぎることや住宅地に公園や保育園がないなど住宅環境の水準は全国でも下位にあることなどの説明を受け、今後の友好と交流を約束して釜山大学をあとにした。
ところで、この釜山大学を訪問したとき、黄教授とガイドのKUN・JAさんそしてバスの運転手が突然に大学の門前で口角泡をとばすいきおいでの「激発」した論議をはじめた。
しばらくして、すっとおさまり、さっきの騒ぎはなんなのだというような感じを覚えたわけですが、あとで聞いた説明では、今後の日程計画を調整していたとのことである。
しかし、もし日本の町中であの調子でやったならば、激しく言い合って喧嘩をしているとだれもが思ってしまうであろう。
それぞれが、立場の違いから自己主張をして調整をしたようなのですが、激情にかられた論議をふっかけていたのではないとのことなので、激しく発する=「激発」と表現したら正確だろうと思ったが、超熱しやすく超冷めやすい国民性なのだと始めはびっくりした。
しかし、そのうちこの旅のあちこちで「激発」にでくわしたので、慣れてしまった。
儒教イデオロギ−体制の国だから、もの静かな人が多いだろうなどと勝手に想像していた私が悪いわけで、そういえば私が日常接している水島の朝鮮人の方々も、これまではそうみえなかっただけでけっこう「激発」してしゃべっていたんだと思い当たった。
しかし、よくよく考えてみると立場が違った場合に「激発」しやすいということは、極端から極端へと突っ走りやすい傾向として社会的にはあらわれるのではないだろうかと、つまり例えばかつてベトナムへ介入派遣されたら徹底して殺し尽くし焼き尽くす残虐な軍隊として悪名を世界にをとどろかせたり(しかし、旧日本軍もそうだったしアメリカ軍もそうだし、軍隊はみな残虐極まりないからベトナム派遣の韓国軍だけを悪くはいえないのですが)、独裁政治なら徹底して独裁体制となり、それに反発したら徹底して反発して「学生革命」や光州事件になったり、反体制の頭目であった金大中氏が大統領になったり、あるいは労働争議での会社側と労働者側のロックアウト対占拠での徹底対決となったりで、今日の日本で主に現れる「根回し合意形成のなあなあおさえつけ社会」とは異なる韓国社会となっているんではなかろうかと思えてならなかったわけである。
しかし、そうすると「長幼の序」や「親には孝」「忠君愛国」「恩義を忘れるな」と説く儒教イデオロギ−と「激発」の関係はどうなっているのだろうかと疑念を覚えざるをえなかったし、さらには北朝鮮は「民主主義人民共和国」を名乗っているけれど、ひょっとすると「儒教主義人民共和国」とでも解釈したら国家体制の実態に近いのではないだろうかと、奇抜な思いつきのようなことまでうかんでしまった。
ともあれ、儒教については、私はきちんと勉強もしてないですから「このおお馬鹿者」「名誉毀損だ」としかられるかもしれませんが、プラグマチズムの臭いがプンプンするのである・・・・・・・・・。
7.韓国の儒教による嫁の七悪について
つづいて、もう一題儒教について。
ガイドのKUN・JAさんもCHON・JAさんも韓国の儒教による嫁の七悪について説明してくれた。
少々ニュアンスの違いはあるが、以下の通りである。
男の子を産めないのが一悪、家をつげない女の子を産んでもだめなのだそうである。
夫の若い愛人に嫉妬をするのが二悪、若い愛人が夫にできたら「夫によろしく尽くすように」と言い身をつつしまねばならぬとのこと。
親孝行はもちろん義父母への孝行ができないのが三悪、嫁と姑のけんかなどは考えられないとのこと。
浪費が四悪、あれがほしいこれがほしいとねだってはならぬ。
慈悲の心がないのは五悪、ヒスを起こしたり優しくない嫁は失格である。
直らぬ病にかかるのが六悪、不治の病や悪い伝染病に絶対かかってはならない。
夜の寵愛を夫にねだるは七悪、しつこく迫るな、早く若い愛人にまかせなさい。
以上であり、女はそのどれか一つでも該当した場合、離縁されても仕方がないことと教えられて育てられたとのこと。
いやあ、いかに厚顔無恥な私でもさすがに、ガイドさんに「それで、どうされていますか」とは聞けなかったが、どうもお二人が口をそろえて説明した雰囲気からすると、韓国社会には未だにこの基準が根付いており、彼女らはその基準をクリア−しているりっぱな嫁ということの様であるが、しかし女性差別への義憤もこもっているかの様子もチラリとはみえた。
もっとも、この度の韓国視察では、こうした問題についての今の若い世代の韓国女性の意見は聞けませんでしたから、それがどう変化してきつつあるかは興味のあるところです。
この説明のなかで、はじめにふれたLOT*Eの社長の話もでたのですが、韓国儒教のこの基準に照らすとなにも問題とされないということであろうか・・・・・・う−ん。
どうもこの嫁の七悪の基準でゆくと、韓国社会は該当する男にとっては楽園の様に思えるが、女性にも参政権はあるようだし、そうすると近代民主主義的法体系とは矛盾だらけとなるのではないだろうかと・・・・、いらぬ心配かもしれないがどうなっているのだろうか・・・・、そうか、女性に参政権があるかないかの違いはあっても日本だって15年戦争に敗戦するまでの時代は似たようなもであったかと思い至った。
ま、「マジソン郡の橋」はアメリカで女性の熱烈な読者がベストセラ−に押し上げた様だし、失楽園ブ−ムも日本の女性が盛り上げた様だし・・・・橋竜もクリントンもやっているし・・・・ま、当事者や関係者の立場もあろうし・・・・と、こういった問題については、つまるところその国の文化や伝統それと民主主義の問題がからみますので、外部の者が勝手に自分の基準だけをあてはめれない側面もあり、その社会の発展段階での事情であり、とりあえずはその国の皆さん(男性と女性)の身分関係も含んだ人間関係の結果としての現象形態として把握するよりしかたのないことなのでしょうかね。
8.ULSANコンビナ−トは8千戸の強制移住で公害問題に対処!!
さて、バスは1時間でULSANについた。
ここは、韓国随一の金属造船石油化学のコンビナ−トです。
朝鮮半島で黄海側は、潮の満干の差が大きく、例えばソウル近くの仁川(INCHON)港湾ではその差が7Mからあるとのことです。
こんなに干満の差があったならば、港湾としての機能に大きな障害をもたざるをえないでしょう。
ところが日本海側はこうした干満の差がほとんどない。
ということは、韓国は良港を日本海側に求めざるを得ないということになります。
そのため、深く長い切り込みの良港ULSANにコンビナ−トを建設した経過の様です。
ところがこのコンビナ−トは環境対策を全く考慮してなかったらしく、水俣病に類似したULSAN病が多発し、今も発生しているらしいのです。
しかし、水島以上にコンビナ−トには不適な地形的環境条件で、市街地は周囲が300M程度の山でぐるりと囲まれ狭い湾口のみが北に開けているため激しい大気汚染も発生し、ついに8000戸からの住宅強制移転!?がとりあえずの対策とされた地域です。
日本環境会議が編集した「アジア環境白書1997/98」東洋経済新報社によれば「この工業団地はかつて1980年には、韓国の製造業出荷額の約40%近くをしめていたこと、そのなかで1970年代末には市内各地で亜硫酸ガス濃度が絶えず0.1ppm以上を記録し、78年には工場近辺で2.87ppmという驚くべき濃度さえ記録したといわれ、1995年の政府資料では亜硫酸ガスの年間平均値が0.028ppmとされている、・・・・・が、韓国の市民や環境NGOは・・・・政府統計をほとんど信頼していない」と記述されていました。
公害対策としては、韓国政府によって1991年より8400戸3万7600人もが事実上強制移住させられ、これにより「温山病」の実体解明は不可能とされ、事実上の「もみけし」がされてしまったようです。
このコンビナ−トの周りは道路に面して高さ2M〜3Mほどの塀が延々と続いており、バスからでも塀の中がなかなかみえにくかった。
我々はバスを降りて、現代(HYUNDAI)工場の反対側の山の斜面の道を上って全体を見渡した。
あれ、霞んだ空気のむこう、湾の対岸にある石油化学工場に煙突らしきものが見えない。
ということは、燃料の低硫黄化対策はされているらしいが、高集合煙突による拡散対策(これが1つの解決策であるといえるのかどうかは別として)さえやられていないし、もちろん総排出量規制などの対策は全く考慮されていないのではなかろうか。
観ただけでも大気汚染が地表近くを覆って、高濃度汚染が発生しそうな感じでした。
ここでは、環境対策を求める住民運動がおきているとのこと、その住民団体へも釜山からも現地でも電話連絡をとってみたが、あいにく関係者が不在で、残念ながら反対運動をしているの住民の声をきくことができなかった。
ですから、再度の訪問調査をぜひおこないたいと思っています。
さすがに頭脳優秀なKUN・JAさんも、コンビナ−トと公害対策や環境問題についての視察につきあったのは初めてのようで、説明ができず、彼女自身もビックリしてとまどっているようでした。
9.SORABORU
2日目の朝は慶州(KYONGJU)でむかえた。
少々蒸し暑く高曇りの空のもと、ツバメは芝草の上を人々とすれちがいながら飛び、やがて雨にでもなるのかなと思わせた。
今日は古代新羅の歴史と文化を訪ねる日です。
KUN・JAさんは新羅(SHILLA)の古名称をSORABORUと教えてくれましたが、実に柔らかい響きをもった美しい名称ではありませんか。
SORABORUと聞いただけで心がうきうきしたのは、私だけだったのでしょうか。
慶州は古墳また古墳の地でした。
約1000年間つづいた新羅の歴代王などの古墳が、それこそ「ほら、そこにも、ここにも。」というほどありました。
ところが、その古墳は盗掘されておらず、KUN・JAさんの話では、調査で発掘したのは3基のみとのこと、学術調査のためにはもっと古墳を発掘したらいろいろ解明できて良いだろうにと私などは思ったのですが、儒教精神では古墳を暴く行為などは人の道で許されざる行為であるらしいのです。
もっとも、日本でも宮内庁が天皇の古墳なるものをかってに指定して、学術調査の発掘どころか立ち入りさえも許さないのであるから、韓国にあれこれいえるわけがないか。
まず天馬塚(CHONMACHONG)と金氏の祖先「金味鄒」王などの古墳がある大陵苑(TUMULUS PARK)を訪れました。
ここは慶州の古墳群の中で一番大規模で大小20基をこえる古墳が密集している公苑でした。
日本の森林に覆われた古墳とは異なり、その古墳すべてが芝草に覆われて明るく美しい女性的な曲線を描いている。
王の古墳が密集するのは、風水でいわゆる方角をうらない、もっとも子孫繁栄の地がえらばれるためとのことで、今でも墓地の風水士を「地官」と呼ぶそうです。
もっとも地官の派閥もあるとのことで、墓所を決定するにあたってはけっこう揉めるとのことでした。
なお、韓国では今も土葬で、政府は火葬を薦めているが、だれも火葬にしたがらないらしい。
さて、苑に入る前から気がついてはいたが、黒いカラスに似たやや小ぶりの鳥があちこちにいる。
「かささぎ」とのこと、そういえばカラスとすずめは、釜山以来一羽もみていない。
朝からカツ−カツ−と鳴く声がきこえていたのがこの黒い鳥で、「かささき」は縁起の良い吉鳥とされ韓国の国鳥とのことでしたが、なぜ縁起が良いのかは質問しそこなった。
別名カチガラスとも呼ばれ、日本では佐賀県のみに生息しているとKUN・JAさんに教えられた。
朱・白・青・黒・黄に彩色され、朱のなかに白で蓮の花を七つ星の家紋の様にデザインしてある門をくぐる。
苑内には、紅のサルスベリが咲いて、太いケヤキの樹や松がはえている。
ケヤキは大きく枝をしげらせ、葉をいっぱいにつける姿から、韓国では母の木と呼んで大切にしているとのことでした。
不思議なことに、韓国では白いサルスベリをみなかったし、ケヤキの樹も低い位置で枝分かれして繁茂しており、日本のような高木ではなかった。
人間を恐れる様子を全くみせずに、何匹もの縞リスと少し大きめの黒いリスが木々の間を走り回っている。
10.天馬塚古墳
さて、金氏の祖先王の古墳の前もとおって天馬塚の前についた。
ここでKUN・JAさん曰く「王の墓へは二拝します」「仏へは三拝します」。
一拝は聞かなかったが、目上の方へであろう。
とりあえずかしこまって天馬塚に向かい二拝する。
日本では、神前では二拝二拍手一拝だから、なんとなく神殿と王墓はにているのかなと思ったりしましたが。
さて、底辺の直径47メ−トル高さ12.7メ−トルの古墳の中はド−ム空間の半分を切り取り、ガラスで古墳の断面と、発掘時の様子が判るようにしてあった。
もともと、積み石木槨墳のこの古墳は、上部が変形して陥没しはじめたため、保存のために緊急に発掘したとのこと。
慶州は乾燥気候であり、また古墳の石室をとりまいて十メ−トル程の厚さに直径15センチメ−トルほどの玉石がド−ム状に積み上げてあり、その上に粘土をかぶせてある構造のため、腐食がすすまないうえに盗掘も不可能であったとのことで、この古墳からは美しい宝物多数が出土したとのこと。
この古墳が他の王の墓と異なるのは、鳳凰ではなく、天馬が墓の中から発見されたことです。
横75センチメ−トルたて53センチメ−トルの障泥(馬に乗って走るときの泥除け)に、ふちには10センチメ−トル幅の忍冬唐草模様を彫刻し、中心部に天馬1頭が雲に乗って飛ぶ模様のみごとな絵が描かれており、その写実的な力強い天馬の絵から、天馬塚古墳と名付けられたものです。
発掘時には、被葬者の頭の方に金製の冠帽・銀製の帯・曲玉の首飾りなど、足の方には金銅の履き物と鉄おのなど、両側に大刀や鉄槍・鉄やじり等が配置されていたとのこと。
埋葬者の名前はわかっていないが、ガラスの壁の向こうに再葬してあるとのことでした。
反対側の壁の局面に出土品のレプリカが展示してあり、実物は午後訪れた国立慶州博物館に展示されていたが、全く錆たり朽ちたりしておらず王冠などは金色に輝き、神秘的とも思えるような美しい輝きに圧倒されるばかりでした。
11.関所で足止めされ、旅の通行税を払う
駐車場に戻ると他に3台の団体バスが到着している。
「丸真食品」「赤堀町農業委員会」「大野城市児協女性部」とある。
どこからここへ来たのであろうか。
たまたま、赤堀町農業委員会のバスに若い男性が残っていたので、話をしてみた。
どうも町の職員の様で、彼によると赤堀町は群馬県の赤城山のふもとのにある町で、3年間の農業委員の任期が近く終わるので、韓国農業の視察研修にきたとのこと。
つい一週間前までの豪雨で韓国農業に大きな被害が発生し、視察研修を受け入れてもらえるのか不安があったが、とにかく計画したことなので予算は使わないといけないのでやってきたとのことであった。
かつて、赤城山のあたりまでは、新羅と関係のたいへん深かったと考えられている「出雲族」が越から科野をへて進出していたようであるから、ひょっとすると意識していないであろうが農業委員会の皆さんは祖先のル−ツの地を訪ねてきたことになるのかな、それにしても町の公的研修としてここまでこれるとは、うらやましい。
そうこうしていると「大野城市児協女性部」のバスに中高年の女性たち(おばさん集団と言った方が雰囲気がつたわるでしょう)が乗り込み、発車していった。
あとでKUN・JAさんに「大野城市は韓国のどの辺にあるのか」尋ねて「そんな市は韓国にはありません」と言われてしまった。
同行の皆さんから、九州だと教えられましたが、日本に帰ってから地図帳で調べてみると、なるほど福岡市のすぐ南隣にあった。
でもあの女性集団は、間違いなく地元韓国のどこかから来たかの雰囲気であった。
私も何回か博多に行ったことがあるが、博多駅には異国情緒が感じられ、時には銅鑼の音楽がきこえたり、弁髪の姿がみえたりで、なにか中国大陸への玄関口の様に感じられるのであるが、玄関先のとなりは朝鮮半島で韓国なのだから、大野城市の女性達の集団が韓国の女性と雰囲気が似ているのもそれだけ古代からの関係が深いということではないだろうか。
かつて新羅と百済にはさまれて、加羅とか任那とか呼ばれた小国があり、日本の北九州との間では親密な交流があり、朝鮮側でも「あのあたりの連中は倭人である」と言っていたらしい。
ミマキイリヒコはここにル−ツがあるのではないだろうか。
さて、ここに観光に来ている人は、日本人が観光バスで韓国の人は自家用車なので、どうも修学旅行を除いて、韓国の人より日本人の観光客の方が多いと思われた。
駐車場の隅の日当たりの良い公衆便所の壁と通路脇には、畳二条分くらいの広さに赤黒いほどに真っ赤なトウガラシが干してあり、その先の奥まった所には大衆食堂がある。
みなは、KUN・JAさんに案内されてこの国の特産品・紫水晶(アメジスト)の加工販売店の地下へと下りていったようだ。
やれやれ、どうやら旅の通行税の第一次関所に足止めされたらしい。
それでも紫水晶の数珠が日本なら十万円くらいするのが三万円程度で買えたとのこと。
韓国WONより日本円の支払いが喜ばれたとのこと、IMF管理下の韓国経済体制は日本以上にきびしいのだろう。
12.新羅始祖王の古墳と韓国唯一の神社
さて次は五陵(ONUNG)です。
ここは、新羅始祖王である朴赫居世(PAKU・HYOKKUSE)王から続く5代の王の墓のあるところでした。
新羅の建国も、天孫降臨でHYOKKUSE王は、天から落下した金の石が割れて、その中から誕生したという言い伝えであるとなにかの本で読んで、まるで孫悟空の話の様だなと思ったことをで覚えています。
992年間続いた新羅の国家体制のスタ−トをきった王の陵への期待をもって臨んだわけですが、五陵そのものには先の大陵苑の様な華やかさはありませんでした。
どうも、大陵苑が、金氏の祖先ということで全韓国の金氏がしっかり祭っている雰囲気と脚光をあびる出土品の天馬塚で、華やかな観光地化している(事実、門前の英文の説明の最初の3割が全体的な説明、3割が金氏の元祖である説明、3割が天馬塚の説明であった)のに比べると、ここは駐車場には観光バスの私たちの車のみ、自家用車もいない寂れた雰囲気であった。
正面を西にして、5つの古墳とも小さく芝草で覆われ、それでも一番大きな古墳は5M程度の高さにゆったりと盛り上がっていた。
ちょうど芝刈と手入れの最中で、柵内では数台の芝刈り機がけたたましいエンジン音をひびかせ、頂上には5人ほどの中高年の作業員の婦人が腰をおろして休憩していた。
この五陵で一番おどろいたことは、なんとりっぱな神社が一緒にあったことです。
事実KUN・JAさんの話でも、韓国唯一の神社だそうです。
朝鮮を併合し属国にしていた時代、日本化政策の1手段として日本各地の神社の分社を朝鮮半島各地におき、礼拝を強制しました。
そのため、日帝の敗北後に韓国の人々は、朝鮮の神の領土を侵略してきた日本の神を全て追い払うために、神社を焼き払ってしまったのだそうです。
しかし、ここにある神社のみは新羅の始祖王を祭った祠殿のある神社ということで破壊されることなく、今日まで残ってきたのだそうです。
南を正面とする神社には、12本の榊がはえた中央に朱青白三色の曲玉三つ巴の円盤がおかれたりっぱな鳥居がありました。
KUN・JAさんの説明では、日本の鳥居は韓半島より伝わったもので、原型はここの鳥居の様式に似ており、鳥居の中央には鳳凰がとまっている形とのこと。
なぜ鳳凰なのかというと、天帝の一番近くまで飛んでいけるから最も神聖な存在なのだそうです。
このとき鳥居や門柱が朱に塗られているのでたずねたところ、朱は魔除けの色と古代では考えられていたとのこと「なるほど、それで吉備の楯突遺跡では、大量の朱いベンガラに覆った埋葬がされていたのか」となんとなく頷けました。
また、黄色が最も神聖な色で、天を表す色であると考えられていたこともKUN・JAさんから教えてもらいました。
朱雀・白虎・青竜・玄武の朱白青黒と黄色が韓国では神を祭る5色だそうです。(陰陽五行説がもととなっているとのことです。)
神社の門の中央扉はしっかりと閉じられ、中央扉間の石畳道には「神の通路につき歩行禁止」の表示碑がおいてありました。
13.美しい出土品に魅せられた国立慶州博物館
この日は、かつて加藤清正がやむをえず焼き払った仏国寺(宇治平等院鳳凰堂はこの仏国寺の正面をコピ−したものだと一行の皆で意見が一致してしまった)、石窟庵や臨海殿址なども訪問しましたが圧巻は国立慶州博物館でした。
庭の一隅には、新羅第34代の聖徳大王を弔う鐘を完成させるためにと、溶鉱炉に投げ込まれた子供の恨みのこもったエミレ鐘(国宝)がつり下げてありました。
この鐘の説明をKUN・JAさんから受けて「残酷」と心が震えた女性もおられましたが、日本各地にも難工事成功のための人柱の話はあり、現に水島にも江戸時代の福田干拓では樋の輪水門に人柱を埋めて締め切り工事を成功させ、供養のお堂が水門にたてられています。
「釈迦は、救いを求める者には、その者が救われようと努力をするなかで真実を悟れるように、極めて科学的に教えを説いた」と、かつて京都清水寺の高僧より教えていただきましたが、エミレ鐘の場合には「国家事業成功のために」と僧が子供を溶鉱炉に投げ込むことを提言したり、また日本の人柱の場合には「人身御供が仏となって守ってくれる」というような釈迦の教えとは無縁な、”野蛮”が仏教思想の衣を借りて登場した例だろうと思いますが、しかしこうしたことは、たとえば「世界平和八紘一宇」を錦の御旗に侵略戦争に国民を動員するなどの形で、あるいは高齢者対策の名目で消費税を強行したり、日本経済の破綻や国民の貯金を保護するためにという口実で60兆円の税金を銀行に資本注入する道をつくったり・・・・・こうした様々な形で真実を覆い隠す「野蛮・詐欺・ペテン」が現実社会にはあるのだという注意を喚起する教訓とすべきことでしょうか。
それにしても、僧侶がなぜ「子供を溶鉱炉に投げ込め」と勧めたのでしょうか。
僧侶は当時の最先端のインテリですから、釣り鐘の鋳造において、溶鉱炉に人間が投入されると(人体の微量な多様な物質元素がまざることで)、巨大な鋳物でも失敗なしに上手に製造できるという知識をもっていたことはたしかでしょう。
その知識はどこでどうやって得たのでありましょうか?、たまたま別の巨大な釣り鐘の鋳造現場で、事故かなにかで人間が溶鉱炉に落ち、そのまま鋳造したら大成功したというような例をなんらかの形で情報を取得していたのではなかろうかと、想像がわきます。
「みんなの幸せのために、子供を溶鉱炉にいれて、釣り鐘鋳造を絶対に成功させるんだ、それが仏の教えの実践なのだ」と、その僧は信じていたのでありましょうか。
私は、あえて子供を指定しているところに、純粋を装いながら、時の権力にとりいろうとする臭いがプンプンとするのですが、みなさんはどうお思いでしょうか。
そうした様々な人間のありようを飲み込んだエミレ鐘には、天女が舞う美しい彫像が浮かび上がり、神鐘と呼ばれる姿で静かにたたずんでいました。
まえおきがくどくなってしまった。
この国立慶州博物館を一言でいうならば「心がふるえるほど美しい」ということです。
残念なことに1時間しか時間がなく我々は本当に駆け足で観たのでした。
全体では約2500余点の遺物を展示しているとのことですが、その中で目に留まったいくつかについて紹介してみたい。
さて、私の身近なところでは倉敷考古館があり、教科書でしかみたことのなかった甲骨文字をはじめて観て、これがそうなのかと感動したおぼえがあり、大原美術館の東洋館で古い織物(200〜300年ほど前の時代の)を観て美しいと感動したことがありますが、石器時代から弥生時代にかけての出土品や遺物の展示を観ても、破片を集めて成形したものやくすんで錆び付いた薄汚れたものしかみたことがなく、鮮やかな「美」を感ずることはこれまでありませんでした。
それが、この博物館では、新石器時代の石斧はつるつると光沢をみせていましたし、紀元前4〜3世紀の金海地方出土の磨製石剣にいたっては、その肌には透明感があふれ、白木に光沢のあるニスを塗り固めたかの様な文様をみせ、なにか神聖な気配を感ずる美しさがありました。
紀元前1世紀の青銅の剣や鉾にしても、武器としての鋭さとスマ−トな美しさがあり、これと比較すると、幅広になった日本の銅鉾は武器というよりまつりごと(政治)の道具という側面が強く感じられます。
あっ!と思ったのは、4世紀の「馬形帯鉋」を観たときです。
それは「日本の古代遺跡23岡山(保育社)間壁忠彦・間壁葭子著」のなかに、吉備の巨大古墳で有名な造山古墳の南にある榊山古墳について「・・・・まだ日本では他に例を見ない、馬形帯鉋が出土している。・・・・・朝鮮半島南部の伽耶系の陶質土器も採取され、話題となった。馬形帯鉋も朝鮮半島に類例のあるもので、この榊山古墳の被葬者と、朝鮮との関係の深さをしめしているのである。」と著述し、吉備中枢の古墳の石棺や石室が北九州産出の岩石でつくられていることから、これらの古墳の主たちが「西の勢力と強く関係していた」ことがうかがえると記述し「榊山古墳の馬形帯鉋」の写真が掲載してありました。
そうです「慶州国立博物館の馬形帯鉋」と「榊山古墳の馬形帯鉋」とは、うり二つで実によく似ていたのです。
モンゴルからの騎馬民族の血の伝承が、慶州そして吉備と続いていることを感ぜずにはおれませんでした。
つづいては、純金の輝きのオンパレ−ドに思わず息をのんでしまいました。
新羅5〜6世紀の金冠塚からの出土品である金冠が2つ、それに天馬塚の金冠と冠帽・蝶形冠飾・鳥翼形冠飾などの数々が約30cmから45cmほどの大きさでしたが金色に燦然と輝き、金の袴帯3本や多数の耳飾り・垂れ飾り・腕輪・指輪・杯・幾振りかの環頭太刀や宝剣など、これほど金色にあふれた多数の出土品の展示をこれまで見たことがなかったので、ただただその怪しいまでの輝きに圧倒されるのみでした。
日本でも金製品は出土していますが、湿度が高いためか不純物の錆も付着している写真をみていましたので、これほどの大きさと量の、しかも繊細な加工と芸術的な美しさにあふれた曇りなき金色の輝きを目前で見たのは生まれて初めての経験でした。
これ以降、日本に帰ってから宝石店の金のネックレスなどをみても、どうも安っぽくチャチに感じて価値感がわきません。
14.ありがたいことでございます
秘仏がゴロゴロ。!!(こんな言い方をしたら低俗としかられそうですが)
日本だったら特別のご開帳の時に人混みに押されながら運が良ければそれらしきものが遠くからチラッと拝める様な秘仏が、多数展示してありました。
6世紀〜8世紀の菩薩や如来の20cmほどの背丈の金銅像が約20体ほど、1mほどの石仏が数体だったかと思いますが、日本だったらまちがいなく全部秘仏です。
展示されている6〜7世紀の仏像はさすがに彫りも未熟さを感じさせますが8世紀になると顔立ちのふくよかさ、その彫線のなめらかさ、曲線の美しさなどじつに優れた美術工芸品です。
弓月國からの渡来人・秦氏の中心地であった、京都太秦の広隆寺の半跏思惟像とデザインが全く同一の、もっとずっと初期の像もありました。
私は無神論者を任じているんですが、この仏像と対面していると、この像に当時の人々がどんな思いをたくしたのであろうかとか、いろんな感慨がわきあがって「ありがたいことでございます」とつい手をあわせて拝んでしまいました。
あわせて、仏舎利の入れ物の箱とその中にいれた壺や玉、さらにその中に入れた緑瑠璃の舎利瓶もいくつか見ることができましたが、これも初めてでした。
釈迦の遺体を火葬したところ、米粒大の白い骨(舎利)がたくさん残ったということで、その骨粒を仏舎利といいますが、今日でも徳を積んだ方の遺骨には必ずその舎利が1粒以上現れますとKUN・JAさんが説明してくれました。
この他では、奈良の大仏殿の屋根の両端にある鴟尾と類似した鴟尾が展示してありましたし、手塚治の長編漫画「火の鳥」の大和編で、片腕を切り落とされた仏師がすざまじい怒りと恨みを込めて造形した鬼面瓦の絵とそっくりの鬼面瓦が展示してあり、手塚漫画の世界と思っていたのがなにか現実にあったことの様に思えてきました。
15.銅鐸は軍の道具として使われ、やがて軍隊の象徴になり、政治権力の象徴へと転化した
ここで特筆したいことは、20cmほどの銅鐸とその銅鐸の中に吊して銅鐸を打ち鳴らした銅鐸舌が展示してあり「軍隊を集めるために鳴らした」と使用方法が説明してありました。
この説明には本当にビックリしました。
これまで日本では、銅鐸については祭りごとにつかわれ、始めは鳴らすタイプで後に飾るタイプが造られたという説明で、まだ使用方法などがよくわかっていないままに、最近では島根県の荒神谷遺跡で358本の銅剣16本の銅矛と一緒に6本の銅鐸が発見され、さらにその約3キロ先の加茂岩倉遺跡からは39本の銅鐸が一度に出土するなど、銅鐸の役割が大きな関心を集めてきました。
ですから、もしこの説明が正しければ日本の銅鐸の役割についての新しい側面からの検討が考えられるからで、私はこの説明を読みながら突然のインスピレ−ションがわいてきたのです。
つまり、朝鮮半島新羅から銅鐸が日本列島にもたらされた初期は「軍隊を集めるために鳴らして」銅鐸は使われていた(つまり軍隊の道具であった・例えるならば召集ラッパ)のが、次第に軍隊の象徴(今日に例えれば軍旗)として飾られるようになり、やがてその軍事力を統制する政治権力の象徴として祭られるようになったのではないかということです。
ですから、出雲の政権・国神の大国主が、天神系に政治権力を奪われるいわゆる「国譲り」で、軍事武装を解除され降服したわけですから、そうすると武器である銅剣と軍隊や政治権力の象徴である銅鐸を放棄させられたわけであり、このとき埋められた銅剣や銅鐸がまさしく荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡として発見されたのではないだろうか、ということです。
翌日見学した百済の扶余の博物館では、銅鐸の展示がありませんでしたので、ひょっとすると銅鐸は、新羅から日本の出雲族系(国神系)へと伝わり、日本列島が天神系(百済系)の大和朝廷に統一される過程で、否定され投棄させられていった可能性があると思います。
小型の銅鐸は鳴らして使われ(聞く銅鐸)大型になって祭祀に使われた(みる銅鐸)と分析されてきていましたが、このように考えると合理的な説明となり、銅鐸の文様に収穫の様子など農作業に関わる文様が彫られる様になったのは、まさしく銅鐸が政治権力の象徴としてまつられるようになったことを示していると考えられ、だからこそ対立する政治勢力からは徹底的に否定され、屈服の過程で土中に投棄(たたりをおそれて埋葬されたのかもしれませんが)させられたと思いますが、みなさんどうでしょうか。
16.「栄光の光州」
3日目は、朝に慶州をたって太田(TAEJON)市で市役所を見学して、次に古代に百済の首都であった扶余(PUYO)を訪ね、それから太田市の住民運動との交流をして、夜10時にはソウル(SEOUL)へ到着という500kmを走り回る行程となっている。
今日からガイドがKIMU・CHON・JAさんに交代。
CHON・JAさんの本貫は「栄光の光州(KWANGJU)近隣の光山です」とおっしゃられた。
「栄光の光州」とは、1985年5月の光州市民が決起した民主化闘争へ全斗煥が軍隊による血の弾圧をおこなった事件、いわゆる光州事件に対して、民主化闘争に決起したことを光州市民は誇りにしているということでしょう。
この事件のいきさつを簡単に触れてみると、1979年10月26日に朴正煕大統領が暗殺され、翌日には崔圭夏首相が大統領代行に就任し非常戒厳令をしきます。
さらに同年12月には全斗煥将軍が軍事ク−デタ−をおこします。
朴政権がたおされたことで、政治の民主化にむけての「ソウルの春」とよばれる状況が一時期生まれたことに対して、これを警戒した軍部が非常戒厳令を強化し、金大中氏ら多数の反政府活動家を逮捕すると、学生を中心とした抗議のデモが全国にひろがりました。
1980年5月1日、全斗煥は、学生の政治活動を禁止し、全大学を休校にしてしまいました。
これに反発した全南大学の学生は、18日に光州市内で街頭デモを決行し、市民をまきこんで21日には全市をあげて全斗煥に抵抗し、軍隊も追い出されてしまいます。
これに対して27日に軍が反撃して光州市を武力制圧したため一般の市民をふくめて多数の死傷者をだす結果となりました。
公式発表では死者は191人とされましたが、実際にはこの数字を大幅に上まわったようです。
さらに金大中氏は、この事件の首謀者にされ、裁判で死刑の判決が下されました。(なお、金大中氏が東京から拉致された事件は73年におこっていることを補足しておきます。)
軍事ク−デタ−と光州事件の首謀者だった全斗煥は88年まで大統領をつとめ、その部下の盧泰愚が後任の大統領となりました。
しかし、韓国の民主化闘争は前進し、世界の世論にも支えられ、金大中氏は死刑判決をはねかえし、やがて今日の韓国大統領に平和的な選挙で選出され、逆に全斗煥と盧泰愚が反逆罪と光州事件の責任を問われて逮捕され、裁判で死刑の判決をうけるなど、韓国の歴史は圧政から民主化へと、この20年間で激しく回転しました。
こうした歴史的転換の起爆剤となったのが光州事件ですから「栄光の光州」と誇りに思うわけなのでしょう。
17.ガイド「金 清子」さん
バスは高速道路を一路太田市へと走る。
桃畑やヨ−ロッパの様に立柱式のブドウ畑の起伏のある丘の間を、非常時には軍事滑走路に転用される高速道路はほぼ一直線に続いている。
ナツメの畑もあったり、青い実のついたリンゴ畑もみえた。
作物名はわからなかったがそれとなく漢方薬用らしい畑や、有名な朝鮮人参の畑もときにはみることができた。
そう高い山はないが山肌は雑木林であったり、栗林であったり、松林であったり。
朝鮮戦争もあり、木のない禿げ山が多いとかつて聞いていたが、禿げ山はどこにもなかった。
国をあげて栗やアカシアなどを植林したとのこと、そして在日コリアンの同胞からも慶州には12万本の桜が送られて植えられたりもしたそうである。
それでも、檜などの良い建築材となる木はみえなかったし、今韓国では家の建築用の木であっても伐採が許されない(国家政策として禁止している)ので、コンクリ−トの家が建てられて、木は輸入材木が使われているとのことでした。
なるほど、それで材木のトラック貨物輸送がほとんど無いわけだ。
山間部を貫いている高速道路であったのに、杉材を満載したトレ−ラ−型トラック1台とすれちがったのみであった。
そしてあらゆる都市で現代(HYUNDAI)ブランドの高層アパ−ト群が立ち並んでいた。
CHON・JAさんは、実は倉敷市児島下之町で育ち、小学校に通っていたとのことでした。
生まれ育った故郷の岡山がなつかしい、ぜひもう一度訪れてみたいと私たちに話してくださいました。
1948年に韓国へ帰国したが、こども時代からオルガンが好きで習っていたので高校ではピアノをならい、音楽のできる大学へ入学しようとしたら、韓半島動乱が勃発し、戦後も10年間は病気で休み、それからラジオの対日放送のアナウンサ−を10年間つとめられたそうです。
それからツア−ガイドになられたとのこと。
もうかなりのお歳で「体力がもたないから、あともう2〜3年位しかガイドはできないだろう」それまでの間に「日本からのお客様に、いやがることはできないけれども、きちんと歴史の事実が案内できるガイドの後輩をもっと育てたい」と話されていました。
「私が、日本語のラジオ放送のアナウンサ−になれ、日本人向けのガイドになれたのは、日本で育ったからで感謝している」「こども時代にはいやなこともあったけれども、楽しいこともあった」と淡々と話して下さいました。
もっとも美空ヒバリさんと古賀政夫さんの大ファンの様で「古賀先生は、韓国で青春時代までを過ごされました。古賀先生は韓国は自分の故郷だといつもなつかしがっていらっしゃいました。心あたたまる古賀メロディ−には、故郷の韓国を思う気持ちがあふれています。」と度々度々度々くりかえされるのには、少々まいりましたが。
しかし、これを除けば実に親切なガイドさんで私は感謝しています。
18.太田市の住民運動の担い手との交流会
さて3日目の核心は、太田市の住民運動の担い手との交流会であった。
この交流会を段取してくださったのは、PAKU・KYONUNG先生である。
MOKUWON UNIVERSITYの社会科学大学経済学科副教授ということで、新進気鋭の雰囲気が漂う先生で、英語の能力はもちろん日本語も自由に使われていました。
彼は3年ほど前に東大へ留学した際に、自治体問題研究所を知って日本の住民運動や自治体労働者の運動について関心を持つようになられたとのこと。
韓国の住民運動は若く・歴史が新しく・活力があること、しかしまだ一部の社会的エリ−ト・インテリゲンチィアが率先している段階であり、民主化運動の経験はあっても、環境・福祉・失業などの問題での運動経験が全く不足していること、IMF体制のもとでは緊縮政策のため住民運動の財政もたいへんな困難に直面していることを前置きに話され、日本の経験と教訓を大いに韓国の住民運動家に吸収させていただきたいと述べられました。
さて、それではこの日交流した現地の住民運動家について概略を紹介してみたい。
ただし、通訳をして下さったPAKU先生とは反対の隅にすわったので、よく聞き取れずに誤解している部分があるかもしれません。
牧師のKIN・TZAI・ZEN氏は福祉問題の市民運動の中心を担っているとのことで、韓国では国家機関による公共福祉事業と民間福祉事業があるなかで、民間福祉事業での住民参加に取り組んでいるとのことでした。
たとえば養老院の運営に住民が参加できるようにする課題に取り組んでいるそうですが、IMF体制で公共事業の縮小問題がおきており、分析して問題提起し話し合いをおこなったりしているがスム−スな解決ができていないとのこと。
国より福祉をもらうのでなく市民運動での福祉にもっと広く理解を求めたいとのことであった。
私はこの話では、なんとなく一生懸命やっているらしい雰囲気はつかめたような感じでしたが、韓国の福祉政策体系がどうなっており、国の役割・地方自治体の役割・民間福祉がどのような関係で組み立てられているのか、行政責任と国民の権利、民間ボランティアの役割などなどの関係についての予備知識が皆無なので、勉強不足でこれ以上のことは、恥ずかしいながらみなさんに報告しかねます。
KIN・GANSI氏は環境運動組織の運動本部を担われている方で、全国には36の民間団体による地方組織があるとのことで、国家の立場での経済成長開発で自然破壊がおこなわれており、こうした国家や地方自治体の環境問題に対して、抗議をおこない対案を提起しているとのこと。
市民出資の環境研究所をつくり、環境市民教育をおこない、環境被害を住民の立場で解決するように運動しており、水質汚染や大気汚染の問題が深刻となっていると話されていました。
私は「市民出資の環境研究所」に興味をもちましたが、韓国の環境問題全体についての予備知識がなく、水島コンビナ−トでの私たちの経験や教訓との比較ができませんでしたし、残念ながら時間が足らずこれ以上の詳しい交流ができませんでしたので、環境公害問題に取り組んでいる雰囲気のみをつかめたにすぎませんでした。
緑色連合事務局長で唯一女性のPAKUさんは、持続可能な社会連合で環境市民運動に取り組んでいるとのことで、緑の文化を地域に根付かせるためにリサイクル運動で財政もつくっているとのこと、自転車の利用促進で環境を守る運動や、学校運営で環境教育への取り組みを増やすように働きかけたり、川の問題で住民の連帯を求めたりしているとのことでした。
この話での雰囲気から、環境被害の告発からの運動ではなく女性の身近な生活でのゴミリサイクル運動・自動車より自転車利用で健康づくりと快適環境づくり・化学洗剤よりも河川の水質汚濁防止に石鹸を利用しましょうというような運動をおこなっているのだろうなと感じました。
PAKU先生の通訳で、交流しましたが、基礎的予備知識の勉強不足で、韓国の住民運動家の方々の取り組みの本質的な内容についての把握がまるで「かゆい足の裏を掻くのに靴の裏から掻く」ようなこととなってしまい、残念です。
次回は、相手の方にも失礼にならない程度には韓国の様々な住民運動についてもあらかじめ勉強しておいて、予備知識を蓄えて訪韓せねばならぬと、せっかくのチャンスでありながら十分な収穫とできなかったことを反省した次第です。
最後に日本側から、長崎氏が自治体労働者の労働組合を代表して、その運動を紹介し今後の友好連帯を表明されました。
また私も、水島コンビナ−トの大気汚染公害との戦いを紹介させてもらいましたが「住民の立場に立った医療を、住民が出資する医療生協で実現して、公害患者救済の医療を実現している」ということにずいぶん関心をもたれたようでした。
後日、PAKU先生は、私が紹介した水島協同病院のインタ−ネットホ−ムペ−ジもご覧になられて、そのうち機会をつくって水島を訪問したいということや水島の公害闘争や協同病院についての資料をEメ−ルで求めてこられましたので、病院からおくらせていただきました。
19.太田市役所の見学
さて、午前中には大田市役所を見学した。
人口130万、釜山・慶州・光州・ソウルを結ぶ交通の要所にある韓国中央部のやや西にあり発展途上の雰囲気をただよわせたけっこうきれいな都市でした。
市街地にはいると「IMF体制 節約」と書いたステッカ−を張ったバスが行き来していた。
なんと民営の結婚式場の建物にもそのスロ−ガンの大きな垂れ幕が掲げてあった。
結婚式場にまで「節約」のスロ−ガンが掲げてあるとは、かなりの締め付けム−ドということでしょう。
慶州ではみなかった光景で、慶州は観光地だから「節約」などといったら観光にならないからだろうな・・・と思いましたが。
さて市役所について、市行政当局からの説明をうけ見学をしましたが、市役所でパスポ−トも発行しており、申請後約30分で交付できるという説明にはビックリでした。
私はこの度の韓国訪問のために、初めてパスポ−トの申請をしましたが、私がそれを受け取るまでに岡山県では実際10日間かかったのですから、パスポ−ト発行業務に関しては大田市が圧倒的に優れた行政効率であり、岡山県は効率が悪すぎて比較にすらならない。
また大学の成績証明書も発行しているとのことや、一般的な住民の証明書は自動証明機で24時間対応しているなど、だいぶ日本の役所とは雰囲気がちがう。
また市議会議員は17名(14選挙区ですから小選挙区制です)とのことなので、イメ−ジ的には、市議会というよりも区長協議会とでも思った方がピッタシと思いました。
それでも2名の女性議員がいることにもビックリしましたが、市議会の活動として、女性特別委員会が設置されていました。
漢字とハングルの説明文から、この委員会は「社会内部に残存する女性差別意識や慣行を改善し、女性の社会的な地位の向上と権益保護を目的にして97年11月に構成された」もので「女性団体と懇談会を開催し、女性政策を分析討議し、性差別意識の改善のために広報活動もおこない、女性に対する暴力の発生を防止する環境を造成するために、女性関連事業の支援拡大のため2001年までに女性発展基金20億WONで計画を推進」しているようでした。
そのほかには、未来の地方文化の時代をになう大学生に創意的建設的な論文を募集して、優秀な論文には賞を与えているなどというユニ−クな市議会活動もありました。
大田市は1952年に初代市会議員選挙がおこなわれたものの、1961年には軍事革命委員会布告領で議会解散に追い込まれ、30年後の1991年にやっと市議会の再会選挙がおこなわれ、この6月に再会第3回目の市会議員選挙(投票率57%)がおこなわれたばかりでした。
ですから、これまでの韓国の歴史経過からして、中央政府直轄の地方役所から脱皮して、地方自治を模索創造しはじめた段階ではなかろうかと思いました。
大田市の美しい日本語のパンフレット「人間と自然と科学が融合する街 大田」には「地方化時代をむかえ、都市機能の多様化と高度化を追求する未来行政・科学・情報の中枢都市として発展するために多様な事業を推進していきます」と国際都市として成長でき、自然と都会がうまく調和された快適で美しい都市で、全国6大都市の中で一番住み良い・・・・と書かれていました。
私たちを案内して下さったある職員の方が「近く23階建のりっぱな新庁舎ができあがる」とうれしそうに説明されたのが印象的でしたが、それとは裏腹にIMF管理体制のもとで、行政効率の一層強化が迫られ、年末までに市職員200人程度の首切があるのではないかということで、おびえているという話もききました。
ちなみに、自治体職員の労働組合はないそうです。
20.百済の面影はいずこ・扶余にて
この日の昼食は百済の首都であった扶余(PUYO)でビビンバを食べた。
大田市役所をでてから扶余まで約1時間半かかた。
天気は不安定で、私のノ−トには「1時15分雨になる、1時22分晴れた」と夕立の記録が残っている。
扶余への道路はこれまでと違い、狭い地方道で、所によっては車のすれ違いもしにくいような道でした。
すぐ際に広い道路も所々で建設中でしたが、工事が進んでいる様子ではありませんでした。
韓国ではどうもこれまでは、慶州と比較してみても扶余は軽んじられてきたのではないだろうか。
さて扶余であるが、ここの町並みは小さく、街地の人口もたぶん2〜3千人いるかいないかという程度の規模ではなかろうかと見た。
百済は660年に新羅と唐の連合軍によって滅んでいる。
この当時、唐が中国大陸を制覇し、新羅が唐と同盟を結んで朝鮮半島を統一し、という動きのなかで、次は日本に唐が出兵するかもしれないと危機感をいだいた中大兄皇子は、大和朝廷防衛の手段として百済を再興しようと、大和に人質としていた百済の王子「余豊璋」を抵抗組織の首領として百済に送り返し、軍事援助をおこないました。
しかし663年に扶余を流れ下っている錦河(KUMUGANG)の河口付近の白村江で百済への派遣軍は、新羅と唐の連合軍の待ち伏せ攻撃にあいほぼ全滅してしまった。
こうした戦禍に焼かれた百済の首都扶余は、ほとんど焼失して何も残っていない。
新羅が石の文化だったので今日まで残ったのに、百済は木と焼き物の文化だったため残らなかったのかもしれません。
王宮のあった扶蘇山も海抜94mの小高い丘の様な山でしかなく、私は定林寺で5層の石積みの百済塔を写真に撮るときに、扶蘇山が家並みに隠れるためまちがえてその90度右にある錦城山(121m この山の方が形が良く写真の背景になる)をてっきりそれと勘違いして写真におさめてしまった。
この度は時間がなかったので、扶蘇山へ上ることができなかったのが心残りでしかたがない。
百済の遺品は、その定林寺の百済塔(唐の占領軍が、焼け残ったこの塔に百済制服の記録を彫り込んである)と、国立扶余博物館に出土品として展示してあった、精巧な香をたく香炉(これは見事な細工の器で、美しさに見とれてしまいましたが、百済の文化水準の高さを示していました)の2つでしかないともいえるようなありさまでした。
中国の南北朝時代の文化をとりいれて、華やかなそして末期には享楽的な王朝であった百済の文化は、飛鳥時代文化が百済文化そのものであるかの様な大きな影響を日本文化には与えたのに比べて、韓国社会のどこにその面影がひきつがれたのでしょうか。
21.植民地時代に日本からもちこまれた「逆さクラゲ」
扶余から大田市への帰り道で、6階建ての温泉マ−ク(逆さクラゲマ−ク)のついた建物をいくつも見つけた。
それもあちこちにあったのではなくて、高速道路のインタ−チェンジ付近にほぼかたまって建っていた。
建築基準法の関係であろうか、どれもこれも大体同じ高さと形の建て方で、外装の地味な雰囲気も似ていた。
昨日までの2日間、釜山から慶州では見なかったマ−クのついた建物であるので、妙に目をひいたのである。
「あの温泉マ−クの建物は雰囲気からしてラブホテルですか」とガイドのCHON・JAさんにたずねたら、同行の皆から「ファッションホテルといえ」としかられた。
なんでそんなことをCHON・JAさんにたずねたのかというと「このマ−クは、ひょっとすると日本が朝鮮半島を植民地にしていた時代にもちこんだマ−クではないだろうか」と思ったからです。
やっぱりCHON・JAさんの返事は日本が持ち込んだマ−クとのことでしたので「なにか日本の植民地支配の歴史を象徴するようなマ−クだな」と思ったわけです。
古代より先進文化を朝鮮半島から輸入した日本が、植民地支配で朝鮮半島に植え付けたのが「逆さクラゲ」に象徴される風俗文化(?)とはなさけない、もっとほかに朝鮮半島の人々にとっても有用な文化は日本からはもたらされなかったのかと、寒々しい気分になってしまいました。
この温泉マ−クの建物は、翌日訪問したソウル近郊にもかたまって建っていました。
こうしたわけで、どうも慶州などの韓国東岸側の人間とソウルや扶余などの西側の人間とでは、同じ韓国人とはいえ気質が違うように思えてなりません。
金大中大統領以前の軍事独裁時代の大統領は、あえていえばたしか新羅系の出身ではなかったでしょうか。
百済が享楽的な中国南北朝の文化を受け入れ、国家権力体制を固める政治を省みなくなったため、新羅と唐の連合軍に国を滅ぼされた歴史経緯があったわけですから、どうもそのころから韓国東西の地域間では東が山がちなのに西に平野が多いという地形的要素も加わり、人間の気質の違いによる微妙なひっかかりがあるのではないかと思えてなりません。
それは、朝鮮半島の東西での紀元前からの民族ル−ツの濃度差の違いが、今日にまで影響をあたえているのかもしれません。
いずれにしても、この旅のなかで少しでも日本人が評価されているなと思えたのは
「石窟庵の保存や古墳の発掘保存などでの考古学的な側面での日本の考古学者などの貢献」
「朝鮮半島では身分の低かった陶工であったのに、日本に連れ帰った戦国大名が武士として高く処遇して、陶磁器の芸術的発展さえももたらした」
「日帝が韓国を軍事支配して植民地にしていた時代、これに反対して植民地解放の主張を命がけで貫いた日本人もいた」
ということくらいで、プラスイメ−ジとしては、はなはだ貧弱と思わざるをえませんでした。
22.童顔の残った澄んだ眼差しの少年兵
8月29日(土)「ナヌムの家」に向かう。
高速道路をしばらく走り、郊外の川沿いの田舎道を約1時間。
高速道路では軍の車両としばらく併走する。
数台のトラックに若い兵士が5〜6名ずつ乗車している。
若いというより、童顔の残った澄んだ眼差しの少年兵と表現した方が正確だろう。
先頭の装甲車の助手席にはさすがに青年の指揮官らしきが座っていた。
韓国は徴兵制で、こんなこどもの様な青少年が兵役についているが、軍隊とは恐ろしい組織システムだとつくづく思った。
「この幼い兵に状況判断能力があるのだろうか 」と考えるに、彼らは両親から独立しての社会生活が今から始まるという時期だから社会性など身に付いていないだろうし、国際的感覚などなにもなかろうし、なによりも自らの「生き方や世界観と正義感」を一番探求しようとする成長期に「軍隊を注入される」こととなる。
しかも、体からは湧き上がるエネルギ−による衝動で体を動かしたい時期である。
この様な集団ならば、指揮官が攻撃目標を与えたら盲目的に突撃する集団がたやすく形成できるであろうと想像できる。
そうはいっても軍事行動は「死」と隣り合わせ、戦場では精神的緊張と圧迫から神経がおかしくなったり、戦闘で生き延びるために人間性による自己コントロ−ルなど放棄させられ野獣的感覚のみを研ぎすますされたならば、略奪や性暴行と虐殺・虐待が発生するのは必然であろう。
軍隊がこうした兵士集団の「ガス抜き」に「慰安婦」や「アルコ−ルと麻薬」を必要とする法則的必然性がここにある。
幼い兵士集団をみながら「君たちも戦争の犠牲者なんだ」「あどけない純真な顔がまだぬけていないきみたちが、野獣になることなく兵役期間が無事終了することを祈っている」と心で呼びかけながら、38度線を境に軍事緊張の続く韓国社会の厳しさに瞑目せざるをえませんでした。
23.「ナヌムの家」訪問
ありがとう「坂本さん」、あなたは本当にまぶしいほど美しい。
耕耘機が動く田園地帯に川がうねり、やがて山裾に寄り添っていく。
我々はその山裾でバスを降りて、数軒の家にそったゆるやかな登り道の谷筋を歩く。
まるで浦田診療所前の谷筋とそっくりののどかな雰囲気である。
田の稲穂も花が咲いたばかりで、白い粉をつけている。
赤牛2頭が牛舎から我々の方になにかものほしそうに顔をつきだした。
浦田と風景が異なるのは、両側の小高い丘陵の様な山に、みかんが植わっていないこととカササキが飛び回っていることでしょうか。
ゆっくり歩いて10分、谷をほぼ登り切った畑の広がる広小場の様なところに「ナヌムの家(わかちあいの家)」があった。
ゆったりと韓国の伝統音楽が流れているなか、HEISIN院長と坂本さんが我々を出迎えてくれていた。
あたまをまるめられた院長は曹渓宗の僧侶であった。
やさしい細い目で穏やかな話しぶり、まるで石仏がそのまま人間の僧侶になられたのではなかろうかという雰囲気です。
院長は大学生時代から「日本軍慰安婦」の救済・心を癒す活動に携わり、卒業後もその運動を続けながら仏門をくぐって僧侶になられた方でした。
「遠くまでおいでくださいましてありがとう」とおっしゃられ、坂本さんがひきついで通訳をしてくれました。
「ナヌムの家」はかって「日本軍慰安婦」をさせられたおばあさんたちの共同生活の家で、8名が暮らしていました。
1992年にソウル市内の借家で共同生活が始められ、95年にここの土地の寄贈をうけ、宿舎はTEDON社の建設寄贈で現在の施設となった。
韓国儒教社会で差別され苦しんでいた「日本軍慰安婦」のお年寄りの方の、せめて余生を少しでも楽にしてあげたいと「ナヌムの家」がつくられたとのこと。
日本政府が真相を明らかにせず、謝罪もしないので、今も毎週水曜日にソウルの日本大使館に抗議のデモをおこなっている。
日本政府が「日本軍慰安婦」の存在を認めないので「絵」を描いて「証言」にした。
日本でも50ケ所で展示し、映画もつくって上映した。(この映画は、岡山でも上映されたそうである。)
「慰安婦」は今や老人となり、次々と死亡されていっている。
日本政府はそれを望んでいるのかもしれないが、真実を併設した歴史館に残していく。
今「慰安婦」のおばあさんたちの願いは、日本政府が真相を明らかにし、謝罪し、死んでしまった「日本軍慰安婦」のための慰霊碑をたててほしいということ、だそうです。
この「ナヌムの家」内装や環境整備・運営などに3億ウォンのカンパを集めたいと運動してきたなかで、日本の人々からも500万円のカンパが寄せられたとのことです。
一番はじめに「日本軍慰安婦」であることを名乗り出た金学順(KIM・HAKUSUN)さんは1997年12月になくなられてしまっい、名乗り出ている186名のうち152名が生存しているとのこと。
私たちに体験を話してくれた元「日本軍慰安婦」、ほっそりとしたKIM・SUNDOさんが「もう一度生まれることができたなら、愛する人と結婚して、家庭を持って生きたい」といわれたその言葉の重さに、つらくて何も話しかけることもできない私でした。
なお、従来使われている「慰安婦」という表現には「自発的に金銭的目的もあって」というニアンスも含まれるために正確でなく、「日本軍によって繰り返し性暴力を受けた女性」「日本軍の性奴隷」という表現を正確にするために「日本軍慰安婦」という表現をしているとのこと。
さらに付け加えるならば、日本政府の反対を退け1998年8月21日採択された国連人権委員会のマクドゥ−ガル報告書では「慰安所」は「レイプセンタ−」つまり「強姦所」と表現されたとのこと。
韓国政府は1995年5月「日帝下軍慰安婦被害者生活安定支援法」を制定し、現在は月額50万ウォンの生活支援費や医療援助、永久賃貸住宅入居権利があるそうですが、梅毒などの性病や婦人科の病気・精神疾患・心臓疾患などの老人病に苦しんでおり、特に心の傷をどうやって癒すのか焦眉の急を要すとのこと。
さて、「ナヌムの家」で通訳をしてくれて、併設の歴史館で、日本列島はじめ東南アジア各地に設置された「軍慰安所」の写真や、日本軍関与の証拠資料、おばあさん達の証言ビデオや「証言の絵」、沖縄の「軍慰安所焼け跡」から発見されたグロテスクの極めのコンド−ムや当時を再現してつくってあった「性奴隷行為の部屋」などの説明をしてくださった、神戸出身の美しい娘さん「坂本知壽子」さんは、ボランティアとして住み込んでいるとのことでした。
大学生時代に言語学の勉強でたまたま韓国を訪問したときに「日本軍慰安婦」の衝撃的事実を知って、周囲の人の反対意見があったにもかかわらず卒業後ボランティアとして住み込んだそうです。
「日本政府が謝罪しないから恥ずかしいのではなくて、許せないという怒りの気持ちのなかで、ここでおばあさんとたちと暮らして、その暮らしぶりや学ばせてもらったことを日本に伝えるボランティア」として当面あと半年は「ナヌムの家」で暮らされるとのことでした。
私でしたら、こんな精神的圧迫の毎日はとてもつとまりません。
彼女は美人でしたが、青春の中でこの道をすすまれるその無私の気高い精神に、美しくやさしい観音様かマリア様が現れているような、心が救われる思いがしました。
ありがとう「坂本さん」、私の暗澹たる気持をどんなにか明るくしてくれたことでしょうか。
あなたは本当にまぶしいほど美しい。
追伸 最近「ナヌムの家」がホ−ムペ−ジを開設した。(リンク)
坂本さんは、次のボランティアにバトンタッチして日本へ帰られたのか、お姿はなかった。
24.おわりに
さて、この旅日記もそろそろ終りとしましょう。
ここまでは、かなりシンドイ読み物となってしまったが、海外旅行の楽しみ「ショッピング」もありました。
ソウルでは、日本のあめや横町の雰囲気で10倍ほどの規模がある、南大門市場(巣窟の様な小売店が連なるまちで、ひとりで奥まで入り込みすぎてあやうく方向感覚を失い、迷子になるところであった)や東大門市場(繊維街で、1メ−タ−・カット・プリ−ズ!、ハウマッチ?、とわけのわからん英語でパッチワ−ク用の布を北の政所へのみやげに10数枚買ってきました)にもいきました。
同行の女性陣は、デパ−トの免税店でなにやら高級品を大量に購入し、制限があるとかで荷物をお互いに分散したりしたようでしたが。
夜はコリア・ハウスで、宮廷料理なる伝統食もごちそうになりましたし、民族舞踊の舞台も楽しみました。
そうそう、この旅日記では、食事のことがほとんど触れられませんでした。
私はなんでもおいしいたちなので様々な食事を腹一杯に楽しみましたが、青いとうがらしがおいしいというので、試しに食べてみたところ甘くておいしかったのですが、なかには運の悪い方があって超激辛にぶつかり顔を真っ赤にしてギョロ目をむいて汗を噴きだしヒ−ヒ−と苦しむなんてこともありました。
食事の全体的な印象としては、どの食事も韓国の香辛料が必ず使われており医食同根的な健康食のイメ−ジでした。
かっこよくいえば、韓国製ハ−ブ食でしょうか。
同行の方で、すべての食事を写真にとっていた方もいましたが、もし次回に韓国を訪問する機会がありましたら、食事の楽しみについても、皆さんに報告できるように心がけてみます。
「夜に飲みに出かけなかったのか」「お酒の味がなにも報告されていないではないか」という疑問の方もいらっしゃるかもしれませんが、私はお酒がほしいたちではないので、ホテルでバタンキュ−で、夜の外出は全くしませんでしたので、申し訳ありませんがそのご期待にはそいかねます。
それと、次回は朝鮮山城に必ず登って、鬼の城と比較をしてみたい。
扶余山にも必ず登ってみたい。
慶州国立博物館は必ず訪れたい。
ULSANコンビナ−トは必ず調査したい。
温羅のル−ツをさぐるなかで、新たな課題はひろがるばかりです。
さて、8月30日午後1時半に金浦国際空港をあとにした。
韓国最後の食事は空港で「うどん」の昼食でした。
この「うどん」は日本と同じ味であったので、食べながら「どうやら日本に帰ることとなったわい」と思ったしだいです。
空港の警備には、緊張感があり「戦争政策の対決路線をあおりたてる輩は、それで利益を確保しようとする地球上のごく一部の悪党なのだから、私たちがもっと国際交流と連帯で戦争を許さない力を大きくしなければいけないな」と「その役目が少しでも果たせた旅であったろうか」と改めて感慨がわきました。
同日3時過ぎ、我々は関西国際空港からとりあえず平穏な日本に無事帰国しました。
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