車中泊 「三瓶山登山」と出雲の旅(2014.5.24〜26) 2
 

 
 道の駅「キララ多伎」を出発し、国道9号線を出雲市方向に進む。
 神西池を右に見て進むと、出雲大社の標識が見えた。
 計画のない旅だから、運転手の気まぐれで左折して神戸川を渡る。
 北山山系は雨雲に覆われている。
 余りにも早朝過ぎるので、出雲大社のお参りの前に、旧大社駅の見学に向かう。
旧JR大社駅
 大社駅は、島根県簸川郡大社町にあった西日本旅客鉄道大社線(出雲市駅から高松・荒茅駅そして大社駅までの7.5Km)の駅である。
 明治45年6月に開業して以来、平成2年の廃駅まで出雲大社の表玄関口として親しまれてきた駅舎。
 出雲大社の膝元であることから、1951年 - 1961年までの期間は東京⇔大社間の直通急行列車「出雲」が運行されていた。
 その後も1980年代まで「大社」や「だいせん」といった急行列車や、参詣者の団体臨時列車などが乗り入れてきていた。
 駅舎は中央本線高尾駅の北口駅舎を設計した曽田甚蔵が設計したもの。
 伊東忠太が「大変よろしい」と、お墨付きを与えた。
 伊藤忠太は、帝国大学工科大学・同大学大学院に進み、東京帝国大学名誉教授。建築界ではじめて文化勲章を受章した、偉い方であります。
 1924年(大正13年)2月28日に竣工した2代目駅舎で、木造平屋441平方メートル、出雲大社を模した造りである。団体専用の改札口などもあった。
 廃止後もホームや駅の掲示などもすべて当時のまま残されている。
 2004年に国の重要文化財に指定された。「日本の建築200選」に選ばれた、全国でもめずらしい神社様式を取り入れた駅舎。
 駅舎内には、皇室をもてなすための貴賓室や、駅名標、出雲大社の大鳥居がみえるホームなど当時のままに残され大正ロマンに浸れる。
 出雲大社の門前町にふさわしい、純日本風の木造平屋建てで、和風趣向の際立つ建物で、高く設計された天井からは大正風の灯篭型の和風シャンデリアが玄関を含めて30個備え付けてあります。
 待合室は正面向かって右手が二等待合室、中央の大きな一般待合室と二つあり、昭和初期までは分けて使用されていた。
 駅舎の威風を誇る屋根にも特徴があり、中央には千鳥破風が取り付けられ、瓦はいずれも特製で、一般の物より大きく玄関中央の懸魚(げぎょ)の上野瓦は国鉄マークである動輪の瓦があります。
 また、棟には鴟尾(しび)が乗り、各破風には懸魚が付けられています。
 さらに、瓦の上には亀の彫物が6個載っていますが、各々少しずつ形が違っています。
 山陰線開通以来走り続けていた蒸気機関車も、その姿を後世に残すため、昭和49年11月30日に本州を最後に走ったD51型774号機が駅に飾られている。
 島根県の東部は、出雲地方と呼ばれ、古くから神話の国として知られている場所。
 その中心は神々が集うところが出雲大社です。縁結びの御利益でも知られる出雲大社へは、日々沢山の方が参詣に訪れています。

 私たちが広島に帰った翌日、大変おめでたい発表がありました。
 宮内庁は、高円宮妃久子殿下の次女、典子女王殿下のご婚約が内定されたと発表。
 お相手は、出雲大社禰宜・祭務部長を務める千家国麿さんで、千家家は代々出雲大社の宮司を務めている。今秋に出雲大社で挙式をされる予定。
 宮内庁によると、典子様は平成19年4月、久子さまとともに出雲大社を参拝した際、千家さんと初めて出会い、その後交際を深められてきた。
 千家さんは、出雲大社宮司の千家尊祐さんの長男で17年3月から出雲大社に奉職。
 天皇家と出雲大社は、先祖を同じくするお家柄で、大国主命(国譲り)以来の大きな出来事である。出雲大社は縁結びの神様であり、その結びの御縁でありましょうか。
  出雲風土記の舞台「黄泉の国の入り口(猪目洞窟)」に向かう
 私たち夫婦は、出雲大社は十数回お参りしているので、雨のため今回はご遠慮し、日御碕方面へ車を走らせた。
 猪目洞窟は、出雲大社の北にある北山山系を越えた、日本海の海岸にある。
 出雲大社から日御碕に通じる県道29号線を西進し、筆投島・中山港を過ぎると県道23号線に入り、旧平田市(現在の出雲市)十六島に向かう。
 天然の良港の鷺浦集落を過ぎ、鵜峠のトンネルを出ると集落の中を走ると海岸線に出る。
 断崖絶壁の道路を進むと、トンネルを通過し、二つ目のトンネル(カーブ)を抜けて直ぐの橋の左下が、猪目洞窟である。
 県道23号から見ると洞窟の開口部が橋の下の方になるため見え難く、うっかりすると通りすごしてしまう可能性がある。
 路肩に数台車が止められる(但し、駐車禁止の看板あり)。
〜黄泉の国の入り口〜
 『出雲風土記』に「夢至此礒窟之辺者必死。故俗人 自古至今 号黄泉之坂 黄泉之穴也。」
 現代語訳すると「夢の中でこの洞窟に行くのを見たならば、必ず死んでしまう。ここは昔から黄泉の坂、黄泉の穴と呼んでいる。」と書かれ、夢で猪目洞窟を見た者は必ず死ぬ。
 また伊邪那美命(イザナミノミコト)が、死んだ伊邪那岐命(イザナギノミコト)を迎え行った黄泉の国の入り口であると言われている。
 この洞窟は鷺浦にある巨大洞窟に通じているらしい。

猪目洞窟遺物包含層(いのめどうくつ いぶつほうがんそう)
         国指定史跡(1957年7月27日指定)
猪目洞窟遺跡出土遺物
         県指定文化財(1974年12月27日指定)

 この洞窟遺跡は、1948年に、猪目漁港修築工事で漁船の船置場として利用するため、入口の堆積土を取り除いた時に発見された。
 島根県出雲市猪目町にある洞窟で、猪目湾の西端にある海食洞穴で、凝灰岩の絶壁にできたこの洞窟は、東に向かって開口しており、幅約36m 、中央部高さ約12m奥行き50mあります。
 この遺跡の遺物は層序的に良好な状態で、縄文時代中期の土器片も少量採集されていますが、弥生時代以降、古墳時代後期まで(2,300〜1,400年前)の埋葬と生活の遺跡といえます。
 埋葬の遺跡としては、人骨が13体以上見つかっており、特に注目されるのは、そのうちの1体で、弥生時代後期の土器をともなう仰臥屈葬(ぎょうがくっそう)の男性人骨で、右腕に南海産のゴホウラ製貝輪6個を着けていた。
 古墳時代のものと考えられる丸木舟に埋葬にされた古墳時代の人骨や、木棺に埋葬され稲籾入りの須恵器を副葬した人骨などがあり、生活の遺跡としては、各種木製品、土器、骨角器などの道具や、食料の残滓と思われる貝類、獣骨、鳥骨、木の実など、また多量の灰などがあります。
 発見当時、洞窟遺跡として学術上価値があり、考古学会により調査が行われた関係から、出土品は現在、大社町の史跡猪目洞窟遺物包含層出土品収蔵庫で保管されています。
 また、『出雲国風土記』に「黄泉(よみ)の穴」とあるのはこの洞窟と考えられ、数々の怪談が伝えられていた。

 妻を残してもう少し洞窟の中へと進むが、暗くて何も見えない。
 車まで懐中電灯を取りに帰ることを忘れ、いや、奥に入るのが怖かった。恐怖を感じる。背筋にゾクゾクと何かが走り、そして本能的に暗闇は怖い。
  県道23号脇に、三界唯一心と刻まれた石柱が立っていました。
 「三界(欲界・色界・無色界もしくは大千三千世界)のすべての現象は心によってのみ存在し、また、心のつくり出したものであるということ」を意味する言葉です。
「黄泉」等を辞書で調べると、次のように出てきた。
黄泉 【ヨミ】
 よみ‐じ 〔‐ぢ〕 【黄=泉/黄=泉路】
 黄泉(よみ)の国へ行く道。冥土(めいど)への道。また、黄泉。「―へ立つ」「―の障(さわ)り」
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 こう‐せん 〔クワウ‐〕 【黄泉】
 《「地下の泉」の意》地下にあり、死者の行くとされる所。あの世。よみじ。冥土。
 こうせん【黄泉】
 @ 〔孟子 滕文公下〕 地中の泉。
 A 地面の下にあり,死者が行くといわれている所。冥土。よみじ。
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【地獄】より
 一般に,墓地の情景や死体の腐乱過程との連想から生みだされたものだが,超常的な観念や表象によって作りだされた場合もある。〈地獄〉の語はもとサンスクリットに由来し,のちに仏教とともに 中国に輸入されると,泰山府君の冥界観と結びついて十王思想を生みだし,さらに日本に伝えられると,記紀神話に描かれる黄泉国や根の国の考え方と接触融合して独自の地獄思想を生みだした。地獄の観念に共通にみられる特色は因果応報や,受苦と審判の思想である。
【冥府】より  
 死後におもむく他界の一つ。冥界,黄泉などともいい,英語のhellがこれに相当する。冥府観は,民族により,宗教によって多様であるが,本項では日本への影響の大きかった中国のものについて記述する。
【黄泉国】より 
 〈ヨミ〉は〈ヤミ(闇)〉や〈ヤマ(山)〉と類義の語。また〈黄泉〉は漢語で〈黄〉は土の色を表し〈地下にある泉〉の意で死者の国をいう。
 《古事記》によると,伊邪那岐(いざなき)命は死んだ伊邪那美(いざなみ)命を呼びもどそうとして黄泉国へと赴くが,〈視るな〉の禁を犯してイザナミを視ると肉体は腐乱し蛆(うじ)がたかっている。 
  古刹「鰐淵寺(がくえんじ)」へ
 出雲で生活していた20歳台、年に3・4回ザックに登山道具を詰め込み、ボッカ訓練で出雲北山山系を一人で歩いた。
 一畑電鉄出雲市駅から川跡駅まで電車。
 駅(5m)から真北に歩き、西材木町の谷に入る。鳶ヶ巣山城址(281m)に登ったりしつつ、伊努谷を登り峠(390m)に出ると、ザックをデポして鼻高山(536m)を往復し、鰐淵寺に向かって下る。
 鰐淵寺の山門(120m)のすぐ近くに出る。お寺に参ると、沢沿いに矢尾峠か遙堪峠(375m)に向かう。稜線に出ると幾多の山頂を踏んで、出雲大社北東の弥山(506m)から大社に向かい下山する。
 体力・時間があるときは、鷺峠近くの道路(260m)まで歩くこともあった。出雲大社の社殿にお参りして訓練を終り、出雲市塚根の「味屋」で一杯飲んで一日が終わった。

 その時の鰐淵寺に、40年ぶりに訪れた。
 猪目洞窟から日本海を眺め、断崖の上の舗装された道路を走る。
 十六島湾の集落に入り、右折し渓谷をつめると、トイレが完備した駐車場に車を入れる。
 美しい渓谷を見ながら歩く。清流は一枚岩の上を流れ、新緑のいろはもみじが雨に濡れて美しい。十数分歩くと、山門に到着した。
 橋を渡り、無人の受付に入山料を収めて、右手の本坊を参拝する。
 受付に帰ると、階段を登り真っ直ぐに伸びる階段を歩く。杖が備えられているが今回は手にしなかった。
 中段に差し掛かるとき、妻が「へッ へッ へッ」と、素っ頓狂な声を出す。
 見ると数段上に「ヘビ」様が移動し、石垣の中に隠れた。
 妻に「俺は、杖が置いてあると杖を持ち、石垣側を歩かない。常に君子危うきに近寄らず・・・」と、ノウガキをたれる。
 足腰が弱いから杖を持つのではない。「へッ へッ様」の対処のためだ。
 石段の上に、朱色の根本堂が見える。もみじの緑とで素晴らしく綺麗だ。
 鰐淵寺は恵まれた自然につつまれた山陰の古刹である。
 春は新緑に一山全体がつつまれ、数百年を経た老杉がそびえ立つ中に、もみじの緑が映える。
 また、野鳥も朝早くからさえずり、夏は春から続いたうぐいすの声にカジカがを奏で、秋は「いろはもみじ」が全山を赤く染める。とPR誌
   推古2年(594年)、信濃国の智春上人が、出雲市の旅伏山(421m)に着き、推古天皇の眼の病を治すために当地の浮浪の滝に祈ったところ平癒されたので、その報賽として建立された勅願寺であり、智春上人が浮浪の滝のほとりで修行をしている時に誤って滝壺に落としてしまった仏器を、鰐(わにざめ)がその鰓(えら)に引っ掛けて奉げたことから“浮浪山鰐淵寺”と称するようになった。
 天平から延喜に至る約二世紀には出雲大社との関係が深まり、また伝教大師が比叡山に天台宗を開かれると、弟子の慈覚大師の勧めもあり、いち早くその法門に帰依して、日本最初の延暦寺の末寺になった。
 鎌倉時代には武家との関係から、延暦寺との交渉を密にし、出雲大社との習合を確立・推進し、別当寺を務めた。
 「弁慶」は仁平元年(1151年)松江市に生まれ、18歳から3年間ここ鰐淵寺にて修行をした。その後京都の比叡山へと移り、源義経に出会った。
 壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼした後再び出雲の地に戻り、鰐淵寺に身を寄せました。
 この際に弁慶は大山寺(鳥取県大山町)の釣鐘を、この鰐淵寺まで約101kmある山道を一夜にして担いで持ち帰った。
 その釣鐘は国の重要文化財に指定されています。(古代出雲歴史博物館に寄託)
 その他にも弁慶の自画像、負い櫃など、多くの伝説・遺品をこの地に残した。
 寺と関係のある名僧、傑僧、武将は数多く、枚挙にいとまがない。
 寺宝はきわめて多く、現在はほとんどが古代出雲歴史博物館に寄託されています。
 御住職様に説明していただいたが、時間もありお別れして、愛車のコクピットに収まった。
 宍道ICから松江道を南下し、雲南吉田ICで出る。一昨日右往左往した旧吉田村の中心地に向かう。
鉄と山林王の村「吉田村」
 「吉田村」は、現在の島根県雲南市吉田町のことである。平成16年11月に誕生した「雲南市」は、旧吉田村を含む近隣の旧6町村で構成されている。
 吉田村は歴史や文化を今に伝える地域であり、西洋から近代製鉄技術が導入されるまでは、たたら製鉄による日本の和鉄生産の中心地として栄えた。
 たたら製鉄とは、鉄の原料となる砂鉄を、木炭が焼ける熱によって鉄を得る方法を言います。
 日本刀や刃物だけでなく、農耕用の道具などにも利用された鉄は、「よしだむら」を含めた中国山地を中心に生産され、日本の様々な文化を支えてきた。
 吉田村は日本有数の山林王「田部長右衛門」の企業城下町であり、田部家の繁栄とともに、吉田の街並みは「企業城下町」として栄えた。
 現在、吉田町の中心部、本町通りの直線部分は約260m、ゆるやかな坂道で、田部家土蔵群や番頭屋敷、目代屋敷、いくつもの小路などが往時の面影をとどめています。
 有吉佐和子の「出雲の阿国」に登場する「阿国」の像が飾られていた。
 本町通りに鉄の歴史博物館があったが、月曜日の為閉館中であった。
 田部長右衛門さんは、代々当主が「長右衛門」の名前を継ぐ。
 00代長右衛門さんと言わないとその方の業績が判らない。
 23代 田部長右衛門さんは、(明治39年-昭和54年)は、日本の実業家、政治家。
 衆議院議員。島根県知事。茶室「明々庵」の再建や美術館の設立など文化振興にも尽力した。
 竹下登元首相も彼が支援した政治家の一人である。
 田部家の遠祖は紀州熊野庄田辺族の別派である。
 鎌倉幕府を開いた源頼朝が、荘園・国衙領(公領)を管理支配するために各地に地頭職を置いた。
 その中に備後の周藤通資という武士がいた。
 田部氏はその周藤家の家臣であったと記録されている。
 それから200年後の室町時代、田部彦左衛門という人物が鉄山業を開いて定着した。
 田部家はこの彦左衛門を初代としている。
 江戸時代には準武士として待遇され政治的には郷村役人よりはるかに上位にあった。
 田部家の黄金時代には山林25,000ヘクタールをもち田地が1,000ヘクタール、小作1,000戸、牛馬1,000頭。
 島根県飯石郡はその大部分が、田部家の領地であるという名実ともに日本一の山林地主であった。
 明治以降は林業を手がけ、企業経営にも乗り出している。
 先の大戦後のGHQの農地改革は山林は除外された。

 車中泊 「三瓶山登山」と出雲の旅(2014.5.24〜26) は、終わりました。
   御笑覧 有難うございました。
車中泊 「三瓶山登山」と出雲の旅(2014.5.24〜26)