大山の地獄谷を歩く(平成14年4月下旬〜)

  大山の地獄谷は、大山で一番奥深く、自然が残っている。
 地獄谷に入る道は修験者や行者等が走り歩いた歴史の道である。
 地獄谷は大山主稜線の天狗ヶ峰を最奥部として東壁及び振子沢、烏谷や大休谷等の水を集めて急流を滝となって駆け下る。
 流れ込む各沢は全て大小の滝となり入り込む。この地獄谷は加勢蛇川の上流部にあるが川でなく滝である。「加勢蛇川」でなく「加勢蛇滝」と言った方がよく表していると思う。
 厳冬期に振子沢の上部での雪崩から地獄谷を彷徨し地獄を見た世界的に有名な登山家の苦しい戦いが繰り広げられた厳しい谷である。
 加勢蛇川は、大山の天狗が峰と東壁を源流として地獄谷等の渓谷や多くの滝を集めて流れ谷を浸食し北東に流れ東伯町内で流れを北にして日本海に流れ込んでいる。
 上流の各集落等は河岸段丘に発達し下流部は扇状地の氾濫源である。川床は流水が少なく伏流水となっている。現在は護岸等の工事で安全であるが、一度豪雨となれば堤防を壊し田畑を土石で埋め尽くしたため段丘の上に集落を発展させた。
 川の名前は八岐大蛇の伝説にちなんだ古歌「つまおもい 友をたのみて いのちかけ 八ツ橋こえて 来る加勢蛇」に由来する。
 日本各地の地獄谷は硫黄や毒ガスが噴出したりして草木も生えなかったりして所があるが、大山の地獄谷は、毒ガス等の噴出はないが、谷が狭く崩壊が続いている暗い谷間であり増水時には立ち入ることは出来ない。

地獄谷に入るには色々な道がある。
1 東伯町一向ヶ平から大山滝そして大休口
2 宝珠尾根からユートピアそして振子沢
3 香取から川床そして大休峠から大休口
4 船上山から大休峠から大休口
5 鏡ヶ成から烏ヶ山そして鳥越峠(地震のため烏ヶ山周辺は登山禁止)
6 大山古道の一つ横手道(旧作州街道)から鳥越峠越え

 今回は、横手道の文珠堂から鳥越峠を越え地獄谷を下り川床に至るコースを選択した。これは、これまでの大山登山の中で歩いていない唯一のルートが、文珠堂から鳥越峠であり、このコースで入りたかった。
 横手道は大山寺集落の中心から南光河原の橋を渡り志賀直哉の滞留した宿坊蓮浄院(「暗夜行路」の終わりの部分で時任謙作が大山を登ろうとした部分をこの宿坊で描いた。)の前を通る古道を大山中腹を走る自動車道(環状道路)と交わりながら並行に歩く標高800m前後を歩き横手別れ〜小柳別れ〜文珠堂〜鍵掛峠〜御机〜内海乢〜蒜山〜延助〜鳥居ガ乢〜美作へ至る道である。
 私は、4月下旬の連休を利用し単独で地獄谷に入ることにした。
 実家の東郷町から車で出発し、登山口のザックを登山口の文珠堂にデポした。その後、下山予定地点(川床)近くの上ノ原スキー場に車を廻し、徒歩で大山寺の集落から横手別れから桝水スキー場の上部を歩き車道に出ると小柳別れ(旧料金所)、一ノ沢、二ノ沢、三ノ沢と南壁から流れ来る沢(水は伏流水となり豪雨の時以外流れない)を過ぎると3時間弱で文珠堂に返り着くことが出来た。
 文珠堂の裏手に三ノ沢小屋があったが現在は取り壊され跡形もない。
 車は文珠堂下の広場に10台は駐車できる。
 文珠堂でザックを回収し、鍵掛峠の方向に100mほど進むと鳥越峠への道標がありここから文珠谷にはいる。ブナの巨木の中を歩く道は、文珠谷は谷といっても小さな沢といった感じである。20分歩くと文鳥水につく。小さな水場であり見落としてしまいそうであるがこの先地獄谷に降りるまで水場はない。
 少し傾斜が強くなると小さな乗越となり、この地点が文珠越で登山口と峠までの中間点であり、少し下ったところが鍵掛峠から登ってくる道(木谷別れ)に出るが、下から登ってくるときは判るが文珠谷から来たときは判りにくいだろう。
 5月の連休の今日は、小鳥のさえずりと山桜や白いタムシバの花が歓迎してくれる。冬を越したため下草が枯れ、手入れがされた里山の様で気持ちがいい。こんな所にテントを張ってみたいように感じる。
 タムシバは今が満開で、コブシとよく間違えられるモクレン科の花で白い花びらは大きく開くと20Cm位になる。コブシは大きさは同じくらいだが花びらは細長い。どちらも緑の芽が膨らむ頃(葉が広がらないまで)に清純な花、純白の花を咲せる。
 ミヤマカタバミがブナの木に出来た窪みに可憐に咲いていた。寄生している感じではなく、「わたし、少しのあいだ お邪魔していいですか」と、いったしおらしさである。ミヤマカタバミはカタバミ科で樹林帯の中に咲く花で、出しゃばらない所が私には好感が持てた。
 文珠越から少し歩くと傾斜がきつくなるが一頑張りで鳥越峠に出る。ここは右手に行くと烏ヶ山、左はキリン峠を経て槍ヶ峰から天狗ヶ峰に出る十字路であるが、近年どちらに行くのも困難となっている。特に烏ヶ山に至る登山道は地震により崩壊している。
 鳥越峠から急な斜面を樹林帯の中の踏み跡を探しながら下っていくと、下るに従い沢の音がかすかに聞こえてくる。残雪の中を歩くため木々に付けられた赤いテープを見つけながら進むことになった。雪の斜面は歩きやすいが、気が付くとルートから外れる場合がありトレースとテープが目印となった。
 水の流れる一枚岩の上を歩くことになる。濡れて滑りやすいが、一本のフィックスザイルを使い30m程下り、踏み跡を進む。雪解け水を集めた地獄谷の音が段々と大きくなってくる。
 この頃の大山は沢山の草花が咲き誇る季節である。
 峠の下りで大きな葉の真ん中に小さな花をつけたサンカヨウを発見した。メギ科で北海道から本州の日本海側に自生する多年草である。
 峠から40分程下ると赤い屋根が見え駒鳥小屋の前に出る。
 以前は小屋の近くに駒鳥が住んでいたので名付けられたそうだが、現在では姿もなくその話は聞かない。
 駒鳥小屋は昭和25年に建てられた大山の山小屋の古い形態である。壁は全て石造りで雪崩等に対して強そうで、厳冬期に利用したときには安心感を与えてくれた。小屋には窓が2ヶ所で薄暗く内部は土間と板の間だけでトイレはない。大山の山小屋は近年改築され、古い山小屋はこの小屋だけとなり雰囲気をもち懐かしさを感じた。
 駒鳥小屋には、何時の頃からか「駒鳥ノート」が常備されている。私は小屋に入るとこのノートは、いつも読んでいるが、読む都度に小屋を訪れた人達の素直な思いが記されていて、懐かしく感じる。
 小屋から10m程下に地獄谷の河原がある。地獄谷に下るには崩壊した道を木の根やフィックスザイル等に掴まりながら下るが足場は本当に悪い。
 地獄谷の河原は初めは小さな流れだが、地獄谷を下る間に各沢が全て滝となり水量を増して大山滝となり、鮎返しの滝を過ぎると川巾は大きくなり加勢蛇川となり平野に出て日本海に流れ込む。加(か)勢(せい)蛇(ち)川とは、沢山の川の水を集めて勢いを加えて、蛇のように蛇行し流れを変える手がつけられない暴れ川の意味であろうか。
 私はザックを河原のテント設営適地に降ろすと魚断ノ滝の見学にいく。
 小屋の下から300m程上流に進むと、右手のブナ林の中に白い十字架のケルンがあり、そばに振子沢の道標がある。踏み跡は殆どないから、入山者の少ないことを感じさせる。
 振子沢は大山の主稜線天狗ヶ峰から発生する明るい谷であるが冬季の風雪と東面の谷の構造でグリセードや雪上訓練の適地として山男達の訓練・レクレーションの場として利用されている。
 振子沢の分岐から登ること数分の右手に岩小屋がある。駒鳥の小屋が満員でテントを持たない場合は、この岩小屋があることを知っておくのもいいが、使用上の安全は使用者で確認して貰いたいし、元来山とかアウトドアとは、危険は自分が負うものである。岩小屋は夏には入り口が草などに覆われ見つけにくくなるが、河原から2m程の高さにあり、奥行きなどから3人くらいしか利用できない。
 大きな岩の転がる河原を進と左手(右岸)から、沢が流れて落ちている。キリン沢である。キリン沢まで来ると、魚断ノ滝は直ぐそこにある。
 魚断ノ滝の上部は雪渓に覆われそこから流れ出た水は大岩の間からゴウゴウと7m程の高さを落ち迫力はある。ここから上部は東壁の本谷と壁沢の水を集めて滝となり。滝の通過は岩壁登攀の世界である。
 小屋には誰か入ってくると思い、河原にテントを設営する。
 夕闇が迫る頃貧しい夕食を食べ終わると、ザックから羽毛服に包んだウイスキーを取り出す。水割りをつくる。水は断崖から噴き出し、苔から滴り落ちている源流水である。
 水割りの水は源流水に限る。ウィスキーをシェラ・カップに注ぎ源流水で割る。最初の一杯は旨い。二杯目も美味い。三杯目もいける。ドンドンいける。止めるヤツはいない。呑むほどに思い出すのは昔やった焚き火である。「流木や雪崩で折られた木々を集めては、ドンドン燃やしていけば、濡れた大木もガンガン燃え出す。水分が蒸発し燃え始め出すと、見つめる眼は不思議と燃えてくる。」
 空を見上げると何時しか十三夜の月が出ている。月は地獄谷を照らし出し、私は幽玄の美に酔い酒に酔い至福の時を過ごす。静かに杯を口に運び目を閉じては瀬の音を聞き、空を見上げては流れる雲を見つめ、ブナの巨木のシルエットを見つめる。
 北アルプスの高天原山荘で見た水晶岳の上に輝いた満月の思い出。一昨日の薬師沢から前後して歩いた可憐な女性が隣に寝ている。寝返りを打ち私を見つめては「ウフフ」。眠れなくなった私は2階のテラスに出て月を見つめつつ黒部の源流水で割ったウイスキーを一人で飲んだ。あのウイスキーの味を思い出す。「ウォー 同じダー」
 シェラ・カップは零れやすく酔う程に零れるからズボンや上着を濡らす。
 随分と呑んだ。立ち上がって見渡すと、私の数十m下にテントの明かりが見え、駒鳥小屋の窓にも灯りが見える。今夜はこの地獄谷も賑やかになった。オーィ酒を飲もうぜと、呼びかけても誰も答えてくれない。月が山小屋の窓に、川の水に反射していたのか。
 誰もいないことに気を強くした俺は大声を出し高歌吟唱し自然と同化した。
 翌朝は、快晴で俺も快調である。二日酔いもなし、元気に行動できる。昨日のウイスキーはビンの底に淋しく残っている。テントを撤収し地獄谷を下る。
 駒鳥小屋の対岸の山桜は乙女の感じがする。初恋の思いでは淡くほろ苦かった。山桜の薄いピンク色は淡い感じを抱かせる。この淡さは色が持つ特徴であろうか。俺の初恋は何回あったのだろうか。
 小屋からしばらく下った所にある右岸から流れ落ちる8m程の2本の滝は夫婦滝である。左手の滝は水量は少なく壁を伝いながら落ちている。右手の滝は高さは左より低いが水量が多く一気に落ちている。
 河原にはショウジョウバカマの花が咲いていた。ショウジョウバカマはユリ科で、光沢のある常緑の葉をもつ多年草で大山周辺では大山と蒜山に分布しているらしい。
 「ショウジョウバカマ」は漢字でどう書くのか。俺は「少女の袴(ハカマ)」と思っていたが、なんと色気の無い「猩々袴」であるらしい。学の無い私には、前者の袴が気に入っている。紫の花をつけ「スーと伸びた茎」は昔の妻(今は面影の無い)を思い出していた。
 地獄谷は定まった道はない。増水により地形がたびたび変わるため、歩きやすい所を見つけては歩き、飛び石を見つけては対岸に渡る。だが飛び石より思い切ってザブザブと水に入った方が面白いし歩きやすい。下流になるにしたがい何時かは水の中を歩かされる。それなら、最初から水に入った方が楽に歩けるが、それでも直前まで濡らしたくなかった。
 右岸からの滝は25m程あり上部はガレ場から出ていて、ガレ場の上100m程奥にスラブ状の白い岩がある。
 右岸の水量の多い二段の滝は烏の滝でこの源流は烏ヶ山の頂上の崩壊地から流れくる。
 数年前の4月上旬にこの源流に入ったことがある。その時はアイゼンの下にワカンを装着し、河原から見える滝の左手から取付、上部は雪が無く水が見える滝を高巻く。滝の左手の雪の斜面を登り出会いから100m程進と二股になる、右手の沢に進むとシュルンド状となったり、大岩を高巻き前進すると狭い谷となりなお上部に続いている。その時は時間切れとなり引き返したが、一度本当に詰めてみたい渓谷であった。
 烏の滝を過ぎると大きなガレが左右から落ちている。特に左岸のガレ場は雪崩等で壁を削り大木を根ごと押しだし毎年姿を変えているのだろう。自然の恐ろしさを感じさせられた。
 左岸には、50m程の間に二つの滝があり、向かって左手の滝は上部に小さな滝を持ち下部は滝の様に流れ下っている、右手の滝はゴーロ状の上に滝があり、滝は高さ25mを垂直に落下し滝の下の堆積した土石の中に消え、本流に流れ込むときに現れている。
 振り返ると振袖山の白い大きな泥壁は巾も広く高度のがあり中腹には残雪が見え、上部はブナの原生林のようだ。
 明るい広い河原は池の平でりここで小休止を取る。
 赤い壁の滝が二条流れ落ち、この沢の水を使用し珈琲を沸かす。珈琲などのお茶は、源流水に限る。休んでいるときに男性の登山者が登ってきて話が弾み、別れ際に「ウドを採ったんですが、如何ですか」と言っていただいたが、今夜の状況では食することが出来ないのでお断りした。自分が食べる程度に採るのが、自然保護では大事なことである。お裾分けは畑で収穫した物だけにして貰いたい。
 池ノ平から10分ほど歩くと左岸に二段の高さ60m巾10m程の大きな地獄滝(幻の滝)がある。この滝は上段が落差38.3m、下段は緩斜面を17.9mを轟音と共に落下する滝でありよくこの滝を大休滝(ここから400m下流にある)という人がいるが、1991年に地元の林原健蔵さんにより別の滝であると確認され命名された。
 幻の滝の全体は河原から見える明るい滝であり、上部から大量の水量が一気に放物線を描いて落ち、滝壺に落ちるとしばし流れて2段目は滝のように奔走し本流に流れ込む。この滝を見学しているとき男女15人くらいの人たちが登ってきた。東伯町の「らくらく山歩会(後日判明)」の人たちであった。
 この幻の滝から下流は谷が狭くなり、地獄谷の名前に相応しい渓相になる。両岸から崩れた大きな岩の間を通過して河原を進む。滝の下流には黄鉄鋼の地層が見られ、この地層(鉱脈)を見た幕末の人たちは「金」と間違え沢山の人たちが訪れたと聞く。
 両岸が狭まりゴルジェになった地点は左岸を高巻く。登り初めはガレ場であるが降り口はフィックスザイルを利用して10m程下の河原に降り立つ。この辺りは谷が狭まり雪崩等の雪が谷を覆い尽くし、泥が上部を覆い又太陽が当たらないため残雪の上を歩く。
 地獄谷を下っていくと、左岸の奥まった所に4m程の滝が見えてきた。これが大休滝である。ザックを降ろすと滝の見学にいく。入り口から飛び石を20m程進むと滝壺に着いた。二段の滝だが下の滝(11.7m)しか見ることができなった。幻の滝より小さいが、滝相は結構いい感じである。上の滝は26.5mもあるそうだ。
 大休滝は野田ヶ山と親指ピークの鞍部から流れ下り、幻の滝は親指ピークと振袖山の北1310mの間の谷の水を集め下っている。
 前方に堰堤が見え地獄谷の最後の部分に来た。
 堰堤群は、堰堤から下の河原に降り立つ部分を探しながら進むことになり、最初の堰堤は7号堰堤で右岸にあるフィックスと鉄のハシゴを利用して降り立つ。
 次の堰堤は左岸のフィックスにより7m程下のテラスに降りることになり、細引きを取り出すとザックを結びつけ先にテラスの高さまで降ろして、次に体をフィックスに掴まりテラスに降り立った。テラスから一歩下の流木を利用して水面の高さまで下ると飛び石を利用して右岸(対岸)に渡る。
 次の堰堤は右岸を高巻く。この高巻きが困難な所である。取り付くと左上に登る。小さなスタンスに立ち、ハーケンの上に足を乗せ、次にコ字形の鉄に足をのせる。フィックスザイルを握りつつ登り切る。傾斜の落ちた斜面の途中に岩小屋がある。3名が限界であろう。滑る岩の下りにかかる。フィックスに掴まりながら6号堰堤上に降り立つ。
 この高巻きが終了すると左岸に道標と赤いトタンの標識が出てくる。ここが大休口に上がる地点である。よく聞く話に、7号堰堤を下り6号堰堤から大休口に上がる所が判らない。駒鳥まで引き返してしまった。というが、この原因は次の事であろうか。
 最上流が7号堰堤である。6号堰堤は地獄谷から大休口に上がる堰堤である。だから1個の堰堤を下ればという計算が出来てしまうからである。ところが7号堰堤と6号堰堤の間に次々と堰堤が造られている。
 7号堰堤の下が9号堰堤、次が2号堰堤、3号堰堤、6号堰堤であり、その下400mの所に年号のない堰堤があるそうである。「何号堰堤」は造られた年度の何番目の堰堤で、川の上流・下流から「何番目(何号堰堤)」堰堤ではないそうである。堰堤は昭和7年から14年の間に作成された。
 一向ヶ平の松本さんの話では、「私が8歳の時に父親が堰堤構築作業でセメント袋を担ぎ上げた時に同行した。その時に大山滝は三段だったが昭和9年室戸台風の時に大山滝は二段滝になった」そうである。
 地獄谷の河原から10m程上がってザックを降ろすと、登山靴を脱いで濡れた靴下を履き替える。再びザックを担ぐと急坂をジグザグに登る。15分くらいで道標のある台地の上に出る。ヒノキの造林地で下草がない綺麗な林である。ここが大休口であり、笠松という地名である。
 大休口(笠松)にザックを降ろすと、サブザックに水と行動食とカメラを持ち、大山滝に向かうため植林された林の中をゆるやかに下ると、小さな沢を渡る。この沢は落差30m位あろうか斜度70度くらいのナメ滝である。大休口から30分で大山滝の展望広場に着く。
 大山滝は最大巾4m落差43mを二段(上段28m下段15m)に分ける大滝である。矢筈ヶ山から野田ヶ山、天狗ヶ峰、烏ヶ山等から流れた水は地獄谷の深い谷を削り流れ下ってきたが、浸食を受けにくい二枚の溶岩が造瀑層(滝が出来るきっかけとなる浸食されにくい地層や岩石)となり滝を造ったといわれる。
 詳しくは「大山滝と大山古道」を参照して貰いたい。
 大休口から笠松尾根に取り付き急坂を大休峠に向かって進むと、急坂を登ること40分で尾根の上に出る。尾根の左手は大休の谷である。尾根のブナ林の中を登っていくと先程の急斜面が嘘のような緩やかな尾根であり、地獄谷や大休谷越しに緑豊かな原生林を見ることができる。
 尾根道から中腹の道にかかるとお地蔵さんがある。石のお地蔵さんを過ぎると傾斜は強くなりしばらくすると三本杉別れ(現在は廃道)の道標から水平道になり矢筈ヶ山の中腹を巻く、大休小屋までは烏ヶ山の双耳峯を眺めつつ歩く。ゆったりとした道を歩いていると30年程前に植田と作った大山ブルースを思い出す。
 小さな沢が数カ所あるが水は流れていない。大休の小屋近くになるとコンクリートで造った水場が右手にある。この水場は採水時と飲用時には注意が必要となってしまった。
 まず採水は、コンクリートの水溜から採らないで、その上から採ることである。何故なら水たまりの中に、イモリの卵がありイモリの親が落ち葉の中から様子を伺っていた。自信があればイモリの水も美味しいかもしれない。飲用は、必ず沸騰して貰いたい。水量が少なく渇水時には涸れる可能性があるのが不安である。
 この水場から2〜3分で大休小屋である。大休峠は大山詣でが盛んなときに2・3軒の茶屋が開かれたり、茶屋が博労宿を兼ねたりしたそうである。小屋は新しく出来た綺麗な小屋であるが、先程書き込んだように水には注意が必要であろう。厳冬期には小屋の南側にある壁に着けられたハシゴを使い2階から入るようになる。
 大休峠は野田ヶ山を越えて親指ピークから主脈縦走路に行くか、矢筈ヶ山から甲ヶ山、歴史の船上山に縦走できる十字路である。
 この大休峠はブナの林に囲まれた、落ち着いた山小屋であったが、平成3年9月27日の台風19号の時にブナの大木に大きな被害が出た。大休峠周辺の野田ヶ山や、矢筈ヶ山に沢山の倒木が見られ無惨な山となってしまった。
 この台風は米子市で風速48.6mの強風であり大山や烏ヶ山、矢筈ヶ山の地形のため大休峠に風が集中したために倒れたのではないだろうか。
 峠から北西の方向に進むと石畳道が出てくるがこれは大山の別所の庄屋が私財をなげうち造ったものである。火山灰の道が泥濘化して歩きにくい所に造ったものである。
 岩伏別れ、香取別れの道標に従って川床に向かって進んでいくとジグザグの道を下ると阿弥陀川に下る。橋を渡り木地師の集落跡に出る。車道を渡り旧道を歩くと再び車道に出る。国際スキー場の斜面が出たらその斜面を登り途中右手にある階段を上ると自然歩道の道標により進み車道に出ると、「烏栖佐摩明王」の石像がにらんでいる。

 文中「大山滝」からの道は、「大山道」として修験者が三徳山(古くは美徳山)から大山寺の間を歩いた古道である。

 文中、焚き火の記述があるが現在では殆どの山等では禁止されているし、国立公園内では一木一草、小石等の採取・移動は禁止されている。また、地獄谷への立ち入りは山の知識経験が少ない方は、十分な研究や経験豊富な方との同行をお勧めするともに、雨天時には入谷してはいけない。

 本記録は、メモやデジカメを参考に記憶を絞り出して書き綴ったものである。細部不鮮明なところもあるので、もしお気づきの点がありましたらご一報下さい。