大山滝と大山道(大山古道)

  大山滝は、鳥取県の中央にある東伯町を流れる加勢蛇川の上流にある。
 加勢蛇川は、大山主稜線の天狗ヶ峰と東壁を源流として振子沢、烏谷や野田ヶ山の左右の谷(大休谷)等の水を集めて地獄谷を急流となって駆け下る。
 流れ込む各沢は全て大小の滝であり、ナメ滝有り数十丈の滝に一筋の細い滝であったり、ゴウゴウと落ちる滝であったりと、見飽きる事のない渓流である。
 本流の「加勢蛇川」は滝のようであり「加勢蛇滝」と言った方がよく表していると思う。
 地獄谷の河原は初めは小さな流れだが、地獄谷を下る間に各沢が全て滝となり水量を増して大山滝となり、鮎返の滝を過ぎ一向ヶ平(いっこんがなる)付近から川巾は大きくなり加勢蛇川となり平野に出て日本海に流れ込む。
 多くの滝を集めて流れ谷を浸食し北東に流れ東伯町内で流れを北にして日本海に流れ込んでいる。
 上流の各集落等は河岸段丘の上に発達し、下流部は扇状地の氾濫源である。
 川床は流水が少なく伏流水となっているが、昔は一度豪雨となれば大洪水となり堤防を壊し田畑を土石で埋め尽くした。そのため集落は段丘の上に発達した。
 加(か)勢(せい)蛇(ち)川とは、沢山の川の水を集めて勢いを加えて、蛇のように蛇行し流れを変える手がつけられない暴れ川の意味であろうか。
 川の名前は八岐大蛇の伝説にちなんだ古歌「つまおもい 友をたのみて いのちかけ 八ツ橋こえて 来る加勢蛇」に由来する。
 私は、大山滝と大山道(大山古道)の探訪に行くことにする。
 鳥取県東伯郡東伯町のJR浦安駅から車で加勢蛇川沿いに進むと、河岸段丘の各集落の中を走り一向ヶ平(いっこんがなる)の牧場の中を進と一向ヶ平県営野営場に着く。
 野営場管理事務所前の駐車場に車を入れる。
 事務所に入山(登山)届けを終わると、野営地の舗装された道を歩くと右手に広場がある。右手に折れると作業道(砂利の道)となる。
 木漏れ日が心地よく楽しく感じられるのは車社会の中で生きている私だけであろうか。
 道は少しずつ下って行く。右手の谷は加勢蛇川である。
 管理事務所から10分程歩くと右手に小さなお墓がある。お墓は安永四未年十一月?日に建立されたものであり、太郎兵衛(地名、この辺り一帯)の亡くなった人のものであろうか。
 お墓から数分の所に、立派なお堂があり「不動明王」が祭られ『山の安全』が祈願されている。
 不動明王のお堂の右手に手水鉢があり綺麗な美味しい水が出ているので頂戴し、私はお堂に手を合わせ「道中の安全と家族の健康」をお願いし先を急ぐことにする。
 お堂には杖や傘まで置かれていた。
 行く手に「鮎返の滝」の看板があり、木々の隙間からゴウゴウと流れ落ちる滝を見学する。
 鮎返滝は、昭和30年頃までは「かずら谷(こ)ドンド」と言われていた。
 「かずら」は「葛の橋」、「谷(こ)」は小さな谷(滝)、「ドンド」は滝の音である。
 しかし、国土地理院がこの滝の名を「鮎返滝」とした。
 古老の話では、「昭和7年頃までは日本海から鮎や鱒が昇っていたが、この滝で登れず引き返した」と、聞いた。
 鮎返の滝見を過ぎると、加勢蛇川に大山滝吊り橋が架けられている。長さ42m高さ35mである。
 吊り橋を渡ると右手に鮎返の滝を見に下る道(本来の道でカズラの吊り橋で対岸に渡った。)がある。
 滝の落ち口まで来ると地獄谷の全ての水を集めて落ちる様は素晴らしい。付近の岩肌は柱状節理で溶岩台地をえぐり流れる加勢蛇川の凄さが思い出される。滝壺の下はS字状に岩盤をえぐり流れている。
 滝の見学をすませると、分岐まで引き返し台地の上に出ると「旦那小屋」の跡地に着く。
 ここの住所は「東伯町大字野井倉字一向ヶ平」であり、元たたら師の住んでいた所である。旦那小屋の北側飯盛山の方に少し分け入ると、直径4m深さ1m程の窪地と沢を利用し切り崩したような山や人工的な丘がある。
 道は植林の中をゆったりと登っていくと「木地屋敷跡」がある。周辺に石垣で築かれた「コ」の字の人工物が数ヶ所見られる。この木地屋は、近在の人達との物々交換で生活必需品や食料品を得たり、大山詣での土産物になったが、大山詣でや過疎化等で離散したのであろうか。
 そこから200m程登った地点に墓石の様な石4個が見られ地蔵さんがある。地蔵さんには中央に「大山」。右に「七十一」。左に「木地や--」の文字が見られる。しかし以前には墓石の石は無く誰かが集め建てたものであるという。
 地蔵さんから100m程登った地点に滝見広場があり、大山滝の姿を見ることができる。
 大山滝は最大巾4m落差43mを二段(上段28m下段15m)に分ける大滝である。矢筈ヶ山から野田ヶ山、天狗ヶ峰、烏ヶ山等から流れた水は地獄谷の深い谷を削り流れ下ってきたが、浸食を受けにくい二枚の溶岩が造瀑層(滝が出来るきっかけとなる浸食されにくい地層や岩石)となり滝を造ったといわれる。
 以前は三段の滝だったが、昭和9年の室戸台風の豪雨により中の一段が崩壊し現在の二段となった。
 一向ヶ成野営場管理事務所には、古い大山滝等の写真が展示されている。その中に、昭和8年8月15日倉吉市の市場敏夫氏撮影の三段の大山滝が展示されている。
 山岳仏教が栄えた大山と三徳山を結ぶかつての修験道沿いに大山滝があったため古くから多くの旅人が訪れている。
 また、昭和6年8月9日の因伯時報には[初秘の大渓谷「大山地獄谷」盛暑残雪寒き別天地]として紹介され真夏でも身を切るような冷たい水を求めた庶民の憩いの地と信仰の地とで善男善女が往来したのであろう。
 何時も水量豊富でドードーと水音大きく水煙を上げていた。
 展望広場にはベンチがあるが、大山滝の全景を見るには最近整備された展望台に行くほうがよい。展望台から滝壺に下る踏み跡があるが、危険であり自信のない人は止めた方がよい。
 鎖等に掴まりながら滝壺に下ってみると、滝の両サイドに洞窟が出来ているが、数年前までは無かったものでる。
 滝の下流数十mに三日月型の中州と立ち枯れの木があった。
 この中州は13年9月15日の台風15号により地獄谷の土砂により出来たものであるが、14年の春に取り除かれた。
 対岸には高さ200m程の崩壊地が見えるがこれは平成13年6月20日の大雨により崩壊し堰止め湖が出現し、水位が16.69mまで上昇し、土石流の発生が予想された。
 しかし、岩の間から静かに水が抜けため等で土石流の危険性は無くなった。まだ崩壊地は落ち着いていない。立ち枯れはこの崩壊で出来たものである。
 展望広場の看板は「この滝は加勢蛇川の上流にあり烏ヶ山、三鈷峰等から流れ出た水が--」とあるが、加勢蛇川は三鈷峰の500m程南側の主稜線からであり、このように間違った看板は色々とある。
 大山国際スキー場の近くにある標識は大山寺と夏山登山道までの距離が表示されているが近い大山寺が遠くのように表されている。
 大山滝から大休峠に向かうには植林された林の中をゆるやかに登ると、小さな沢を渡る。
 この沢は落差30m位あろうか斜度70度くらいのナメ滝があり、大山滝の展望広場から30分で大休口に着く。大休口は地獄谷に下る道と大休口に向かう分岐点であり、ここから奥地は登山の世界である。
 道は林の中をゆるやかに登るから安心して入ることが出来そうであるが行動食や時間によっては寝袋等の宿営準備が必要となる。
 大山滝の見学が終わると「地蔵さん」「木地屋敷跡」そして「旦那小屋」へと帰ると「旦那小屋」の標識から河原に下る道がある。大山滝吊り橋が出来たため廃止となった旧道であり立ち入る際は足下に十分に注意して下さい。
 下り始めると右手の沢はミニ大山滝でありカジカ蛙の声が聞こえる。河原に降り立ち丸太橋を渡りの河原に降り立つと野外活動の跡があり、大山滝吊橋を見上げる。昭和51年まではこの丸太橋を使用していた。
 河原の奥にある道は草や木々に隠れているので注意しつつジグザグに登っていくと吊り橋の広場に登ることが出来る。


裏大山のぬし「松本薫さん」

 地獄谷周辺を「裏大山」といって愛している裏大山の主「松本薫」さんは、昭和47年国立公園の指導員になられ、現在は一向ヶ平野営場管理事務所で若者達を指導している。裏大山の生き字引である。
 松本さんは、この裏大山の自然を愛し、素晴らしさを知っていただくために、東伯の方を中心に「裏大山を見つめる会」「らくらく山歩会」を仲間と立ち上げられ、益々活躍中である。
 松本さんから残雪の地獄谷、新緑、真夏の清涼感、紅葉、新雪の地獄谷と四季を紹介して頂き、私の知らない色々なお話しを聞くことが出来た。
 世界的に有名な登山家高見氏が、厳冬期に振子沢上部での雪崩により加勢蛇川に迷い込み地獄谷を彷徨し大山滝を下った苦しい戦いが繰り広げられた所である。
 世界的な登山家の高見氏の思い出を話していただいた。
 平成4年12月29日、松本さんはお正月のために不動明王堂に注連縄をして正月の準備をした。
 平成5年1月17日にお堂の注連縄を外すため入山、注連縄に付いていたミカンと新しいミカンなどをお供えすると、また春までという思いで下っていった。
 高見氏は5年1月31日大山北壁の墓場尾根の登攀後、主稜線から滑落し消息を絶った。
 高見氏は、雪崩とともに振り子沢を流され、地獄谷へと下り、数度の渡渉のすえ大山滝を降りた。
 大山滝を降りた高見氏は、鮎返の滝の吊り橋の下から右岸の吊り橋のたもとに登り、不動明王にお供えしてあった2個のミカンを食べて、遭難後始めての食べ物となった。
 その時不動尊のライターと蝋燭で一時の暖を採った。
 2月3日夕方 警察から松本さんに電話があった。「高見さんが一向ヶ成の牧場に辿り着いた。」
 松本さんは急ぎパンと毛布などを携行して牧場に上がった。
高見氏は既に牧場の田中さんご夫婦に厚いおもてなしを受けていた。
 後日、松本さんは不動明王のお堂近くにいってみると、高見氏の足跡は吊り橋からお堂へ、地蔵さんから管理棟の前を通り一直線に牧場に歩いていた。
 後日 高見氏はこの恩返しにお不動様に故郷の伊予かんを沢山をお供えしたそうである。
 松本さんに、不動明王について伺うと、次のようなお話を聞くことが出来た。
 不動明王は元々大山滝吊り橋の下30mの所に安置してあったが、地形が急峻であり狭い所にありいつ崩壊するか判らないため、現在の地点に移動させて頂いたものである。
 この不動尊建立は、松本氏が過去4回の災難に遭遇された。その中で特に昭和34年の伊勢湾台風で加勢蛇川が大洪水となり、家屋が濁流に呑まれそうになり不動さんに助けを求め祈願したところ、上流部で崩壊した大岩のお陰で濁流の勢いが変わり家屋流失の危機を免れた。そのような災害に幾度となく遭遇されたが多くの人たちに助けられた。松本さんは現在地(松本さんの私有地)に不動尊等を安置されたものである。
 大山寺には、5筋(一説には6筋)の道が各方面かつながっている。

大 山 道
 本文に出てくる道や、川床道、坊領道、尾高道、溝口道があり総称して大山道という。はじめは修験者がたどる道であったが、その後は信仰の道として一般に利用され、大山寺で行われた牛馬の市の道としても使われた。
 香取から登ってくる道の分岐から大休峠までは至る所に石畳が残っている。
 また、苔むした地蔵や木地師の集落跡、タタラ師関係の旦那小屋跡や古い墓等があり、そしてブナやミズナラの自然林等大山の素晴らしい自然・景観が残り、一向ヶ平から大山滝、大休峠を経て川床に至る道は歴史と文化を持ち他の大山道よりも当時の面影がよく残っている。
 大休峠には大山詣でが盛んなときに2・3軒の茶屋が開かれたり、茶屋が博労宿を兼ねたりしていたそうである。また。笠松(大休口付近)や川床にも茶屋があった。
 大休峠から北西の方向に進むと石畳道が出てくるがこれは大山の別所の庄屋が私財をなげうち造ったものである。火山灰の道が泥濘化して歩きにくい所に造ったものである。
 大休峠から岩伏別れ、香取別れの道標に従って川床に向かって進んでいくとジグザグの道を下ると阿弥陀川に下る。橋を渡り木地師の集落跡に出る。この木地師の集落は昭和24年頃までは2軒の民家があった。現在は住居の様な平らな地形と墓地だけが残っている。
 車道を横断し旧道を歩くと再び車道に出たりしつつ国際スキー場方向に歩くと自然遊歩道の標識が林の中にある。
 そのままスキー場の斜面が出るまで歩きその斜面を登り途中右手にある階段を上ると自然歩道の道標により進み再び車道に出ると、「烏栖佐摩明王」がにらんでいる。
 中ノ原スキー場の中腹に大山寺・大神神社に至る道があるが、大山寺集落に至るには車道を歩く方が良いであろう。

 昨今、三徳山(古くは「美徳山」)投入堂が世界遺産の話が持ち上がっているが、三徳山から三朝温泉街~倉吉市役所付近~関金~地蔵峠~一向平~大山滝~大休峠~川床~大山寺への57K余りは行者の歩いた道として世界遺産の一部として挙げられてもよいと思う大事にしたい道、歴史と文化のある道である。。
 山岳仏教の修験者の道として往来され、1丁毎に地蔵尊が安置され、信仰、旅人の守護や道しるべとされ、その後庶民の往来が多くなると庶民に深く信仰されてきたが、現在地蔵尊は数少なくなってしまっている。

 本文は、大山地獄谷を歩き、一向ヶ平の松本氏にお聞きしたり、デジカメやメモを参考にし、記憶を絞り出して書き綴ったものである。細部不鮮明なところもあるので、もしお気づきの点がありましたら、ご一報下さい。