ブルーインパルス
2017年(平成29年)5月5日

 5月5日山口県岩国市岩国フレンドシップディ

 航空自衛隊の航空祭や国民的な大きな行事などで、華麗な展示飛行を披露するチーム、それが「ブルーインパルス」。航空ファン憧れのパイロットである。
 正式名称は、宮城県松島基地の第4航空団第11飛行隊
 青と白の6機の機体が、大空で展開する一糸乱れぬフォーメーション、そしてダイナミックなソロ演技…次から次へ繰り広げられる驚異のパフォーマンスは、初めて観る人にとっては驚きの連続で、地上は大きな感動と歓喜の声に包まれ、その美しく雄大、華麗にして精密なフライトは、内外から高い評価を得ている.

自衛隊設立後
 第二次世界大戦が終結した後、GHQによって、日本では航空機の製造や研究などが許されない時期が続き、これが解除されたのはサンフランシスコ講和条約によって日本の主権が回復した1952年で、同年10月には保安隊が発足し、1953年1月からは保安隊航空学校において操縦教育が開始された。
 1954年には自衛隊法が成立し、同年7月には航空自衛隊が発足し、1955年、航空自衛隊はアメリカからジェット戦闘機のF-86Fセイバーの供与を受けることになり、パイロットの一部は教官課程に進むためにアメリカに留学することになった。この時に日本のパイロットが留学していたのがアメリカ空軍のネリス空軍基地で、留学生の1人のパイロットは、基地で見たサンダーバーズのアクロバット飛行演技に深く感銘を受け、アクロバット飛行チームのメンバーになることが、戦闘機パイロットにとっては大変な栄誉であることも目の当たりにした。
 このパイロットは帰国後に浜松基地の第1航空団第1飛行隊の教官として着任し、当時在日アメリカ軍事援助顧問団に主任教官に赴任していたジョー・ライリー大尉の助言を受け、同僚を誘い、1958年ごろから飛行訓練の合間にアクロバット飛行の訓練を行うようになった。
 極秘裏に行なった訓練が、飛行隊長の知るところとなったが、飛行隊長は叱責するどころか訓練の趣旨に共感し、すぐに航空団の上層部にかけあって、正式に訓練できる環境を整え、1958年10月19日に、3名によるチームにより、航空自衛隊によるアクロバット飛行が初めて一般に公開された。
 使用機はF-86Fで、ジェット機のアクロバット飛行は映画の中でさえ珍しかった時代に、航空自衛隊関係者と観客に与えた衝撃はかなりのものだった。
 チームはいったん解散となったが、アクロバット飛行の訓練は継続され、その後、同年8月にアクロバット飛行チームのリーダーは交代することになり、リーダーの所属する第2飛行隊のコールサインが「インパルス」だったため、アクロバット飛行チームは「インパルスブルー」というコールサインから「ブルーインパルス」になった。
正式発足へ
 アクロバット飛行チームはいったん活動休止状態になったが、水面下では航空自衛隊アクロバットチーム設立に向けた準備が進められていた。
 1959年7月新たな航空幕僚長として着任したのは、戦前に「源田サーカス」と称してアクロバット飛行を披露していた経験がある源田實である。
 アクロバット飛行チームの制式化は源田の内諾を得られ、パイロットも7名に増員されて訓練が続けられ、1960年4月16日にアクロバット飛行チームの編成を下命した。
 この命を受けて、第2飛行隊内に「空中機動研究班」が制式発足し、空中機動研究班の目的は「戦闘機パイロットには不可欠の要素である操縦技術・チームワーク・信頼心・責任感・克己心を研究訓練し、技術と精神力の限りない練磨と向上」、展示飛行の目的も「チームの力を最大に発揮し、戦闘隊戦力の一端を多くの人に身近に観察する機会を与えるとともに、航空意欲の高揚を図る」と定められていた。
東京五輪で五輪を描く
 航空幕僚長だった源田は1961年(昭和36年)から1962年にかけて、自民党議員団や財界人等を浜松基地に呼んで展示飛行を行った。
 1963年1月、東京オリンピック組織委員会よりブルーインパルスに対して、1964年(昭和39年)10月10日の東京オリンピック開会式における祝賀飛行の要請があった。
 単なる航過飛行の要請が、第1航空団の飛行群司令から「スモークで五輪を描け」という指示があった。
 OOCから自衛隊への要望は「五輪マークを15時10分20秒から描き始め、位置は天皇が座るロイヤルボックスの正面で、全景が見えること」という細かいものとなった。
 開会式前日の東京は土砂降りで、もし開会式当日の10月10日が雨の場合は開会式は中止されることになっていた。翌朝東京の空は快晴。
 離陸したブルーインパルスは、湘南海岸の上空で待機した。入場行進の遅れから秒単位で指定されていた式の進行が乱れ、隊長はNHKラジオを受信しながら開会式の状況を確認してタイミングを見計らった。
 聖火ランナーが国立競技場に入場すると同時に、隊長は全機に突入の命令を下し、ブルーインパルスは江の島上空から国立競技場へ向かった。
 会場で君が代斉唱が終わった直後、赤坂見附の上空に着いたブルーインパルスは隊長の号令でスモークで五輪を描き始め、30秒後には東京の空に東西6キロメートル以上にわたる五輪が描かれた。
 展示飛行を終えたブルーインパルスは、銀座の上空を低空で通過し、上野・池袋・新宿・渋谷・品川の上空をスモークを引きながら「凱旋飛行」した。

 自衛隊創設までの曲技飛行は  163-Blue-Impulse を参照下さい。