ブルーインパルス
2016年(平成28年)5月5日
5月5日山口県岩国市岩国フレンドシップディ
航空自衛隊の航空祭や国民的な大きな行事などで、華麗な展示飛行を披露するチーム、それが「ブルーインパルス」です。 正式名称は、宮城県松島基地の第4航空団第11飛行隊 青と白の6機の機体が、大空で展開する一糸乱れぬフォーメーション、そしてダイナミックなソロ演技…次から次へ繰り広げられる驚異のパフォーマンスは、初めて観る人にとっては驚きの連続である。 地上は大きな感動と歓喜の声に包まれ、その美しく雄大、華麗にして精密なフライトは、内外から高い評価を得ている。 私が初めて「ブルーインパルス」を見たのが、昭和44年(1969年) 山口において教育を受けた時、岩国において米軍の米軍岩国基地の一般公開があることを知り、初めて岩国基地に入ったが、その時ブルーインパルスは、F-86Fが演技した。 F-86Fはブルーインパレスの初代でアメリカから供与され、航空自衛隊の主力戦闘機だった。 次に、ブルーインパルスを見たのは1985年(昭和60年)でT-2 だった。 岩国周辺の駐車場を知らなかったので、錦帯橋の河川敷にある駐車場に止めて、タクシーで基地に向かった。その後数年おきに岩国基地までブルーインパルスを見たくて通った。岩国駅から基地まで歩いて行ったが、大勢の人の流れに従って延々と歩く。 通っているうちに臨時バスを知って行くこともあった。 初めて岩国基地に行ったときは、トイレを探すのが大変だったが、徐々に臨時のトイレが設置された。 米軍のトイレの男性用の小便器は、異常に高く驚きだった。 F-86F F-86Fはブルーインパレスの初代でアメリカから供与され、航空自衛隊の主力戦闘機だった。 ブルーインパルスでは1961年(昭和36年)から1981年(昭和56年)まで使用された。 全幅:11.3m 全長:11.4m 全高:4.5m 主翼面積:26.7m2 最大離陸重量:6,300 kg 空虚重量:5,046kg エンジン:J47-GE-27 推力:26.3 kN 最高速度:1,105 km/h) 実用上昇限度:14,330m 航続距離:2,454 km 固定武装:12.7mm AN/M3機関銃×6門 爆弾:最大900kg T-2 1982年1月から国産のT-2超音速高等練習機を使用する、2代目ブルーインパルスは、松島基地第4航空団第21飛行隊内に「戦技研究班」として発足しました。T2はF-86Fに比べて高速性能を重視した機体で、長い助走を使った力強い演技がファンを魅了、特に5番機による“単独機最大能力旋回”は、そのダイナミック音と動きが多くのファンに支持されました。 三沢基地航空祭でアメリカ空軍の「サンダーバーズ」とも競演しています。14年間に175回の公式展示飛行を行った。 T-2は1982年(昭和57年)から1995年(平成7年)の間使用された。 翼幅: 7.88 m。 全長: 17.85 m。 全高: 4.45 m (※量産機では4.39 m)。 動力: 石川島播磨重工業 TF40-IHI-801A ターボファンエンジン、3,240 kg × 2 運用時重量: 9.45 t 最大速度: 1958.4 km/h (マッハ1.6) 実用上昇限度: 15,240 m 上昇率: 10,668 m/分 離陸滑走距離: 914 m 着陸滑走距離: 610 m 固定武装: JM61 20mm機関砲 (後期型のみ) T-4 乗員:2人。 全幅:約9.9m。 全長:約13.0m。 全高:約4.6m。 自重:約3.7t。 エンジン:2基。 推力:約1,670kg/1基。 型式:ターボファン・エンジン。 全備重量:5,640kg。 最大速度:約1,040km/h。 実用上昇限度:約15,000m。 最大航続距離:約1,300km。 アクロバット飛行 数々のアクロバット飛行を披露するブルーインパルス。 現状に満足することなく日々の訓練に励み、新たなパフォーマンスを創り続けています。 ダイヤモンドテイクオフ&ダーティーターン。 ローアングル・キューバン。 ロールオン・テイクオフ。 ファン・ブレイク。 フォー・ポイント・ロール。 チェンジ・オーバー・ターン。 レイン・フォール。 サンライズ。 バーティカル・クライム・ロール。 インバーテッド・ロール。 スロー・ロール。 チェンジ・オーバー・ループ。 ハーフ・スロー・ロール。 レター・エイト。 カリプソ。 トレール・トゥ・ダイヤモンド・ロール。 キューピッド。 スラント・キューピッド。 など60種類の演技(課目)も持つ。 旧 軍 時 代 の 曲 技 飛 行 源田サーカス 1916年(大正5年)に開隊された横須賀海軍航空隊は、当初の任務は教育や飛行練成が主だったが、航空隊が各地に開隊される頃からは、戦技研究や航空機の実用試験を主な任務となっていた。 1925年陸軍の所沢陸軍飛行学校で行われた航空兵科独立記念祝典にて、数万の観衆が見守るなか空中分列式と並んで各種飛行曲技が実施された。 海軍では、一般からの献金によって製造された戦闘機や爆撃機を「報国号」と称し、1932年ごろから献納式典の際に、曲技飛行を行うようになり、これが日本におけるアクロバット飛行の始まりで、当時は「編隊特殊飛行」と称し、この編隊特殊飛行を考えたのは、当時海軍の戦闘機分隊長の小林淑人大尉で、小林大尉が率いる編隊特殊飛行チームは「三羽烏」「空中サーカス」と新聞で持てはやされた。 1933年に源田實が戦闘機分隊に配属され、編隊特殊飛行チームを受け継いだ時期と重なり、曲技飛行の機会も増加し、使用する戦闘機の数も9機にまで増加した。これらの編隊特殊飛行は、九〇式艦上戦闘機を使用して行なわれ、課目には「3機編隊で急降下し、引き起こし中に1機だけ背面飛行となり、そのまま急上昇」というものもあり、列機はほとんど姿勢を崩さなかったという。 こうして、編隊特殊飛行チームは「源田サーカス」という通称が定着していった。 分隊(少佐・大尉指揮)は戦闘機9機で編制。これは帝国陸軍航空隊における「中隊」に相当する。 分隊は3つの「小隊」(中尉・少尉・兵曹長指揮)は3機の航空機で構成された。 1944年以降の戦闘機隊小隊は、航空機4機編制。 自衛隊設立後ブルーインパルス 164-Blue-Impulse を参照下さい。 |