私は、小説『氷壁』から『ザイル事件』と『松濤明』から終戦後の登山者等の生き様を見たくなった。
[氷壁の舞台]
[氷 壁] [松濤 明]
[北穂高小屋]
小山義治氏は、昭和23年北穂高の山頂に山小屋を建設する。
小山氏は大正9年(1920年)八王子市(旧恩方村)に生まれた。
1936年8月初旬、16歳のとき友人と3名で富士山に登った。
8月1日食料と露営具一式を担ぎ、八王子から歩いて案下峠を越え甲州街道を重荷に喘ぎながら3日の夕方吉田に着き、4日頂上に立った。
1938年乾性の慢性腹膜炎に罹った。この病気を徴兵検査不合格に利用し、兵役を逃れようとした。
医者の手当てと服薬を受けつつ、食事の量を極度に減らし、薬を便所に捨てた。
1939年5月徴兵検査を受けるが丙種合格であった。
すなわち徴兵検査は努力の結果、見事に不合格(?)であった。
不合格のあと、山登りに出かけたり、三つ峠で岩登りの訓練を見学し、1941年秋には雲取山に登り、12月8日第二次世界大戦が勃発すると、越後湯沢のスキー場に遊び東北の山や白馬山麓の山スキーで楽しんだ。
兵役逃れの為に色々と工作し、生きた人間が、生きようとして悪あがきをしていた。
戦時下の村祭りでは、色々と反戦的な活動をやっていた。
戦況が厳しくなる中で、楽しいい登山を続け、Sさんとの恋に破れると、死を考えたり(反戦に生きた人間が死を考えるとは)、山小屋の建設を考え、自分だけはどうかして助かりたい一心で戦争から逃げ回っていた。
終戦1週間前まで滝谷を登り、8月15日前穂の東面。
8月16日にはW峰の正面壁を登攀していた。
昭和22年春に、山小屋の認可を受けると、建設の準備に入った。
翌23年8月に3帖の小室が出来た。
10月20日10坪ほどの山小屋が完成した。
そんな北穂高の山小屋に、松壽明氏が訪れたのが秋の夕方であった。
滝谷の下から登ってきた松壽氏は二人連れであった。
兵役回避に苦心し、戦争から逃げ回り、山小屋造りに奔走した。
そして財をなした。
戦争で死んだ人の苦労の上にこの小屋が出来ている。
戦争で亡くなった人の子孫が登っていきたなら、安価で泊めてくれるのだろうか。
戦争協力者の家族だから、泊めないのだろうか。
非難するのだろうか。
今思うと、卑怯者の山小屋だから、人命救助するのは当たり前で、費用の請求をしない山小屋であるべきだ。
それとも、兵役拒否をしたように、人命救助も拒否するのだろうか。
卑怯者のすることだ。何をするのかわからない小屋だろうか。
[穂高周辺の壁の現状等]
平成10年に穂高周辺を襲った地震の影響が大なり小なり壁などに影響を与えた。
前穂東壁の右岩稜 崩 壊
北穂滝谷のP2フランケ 崩 壊
同 グレポン
崩 壊
各壁の取付及び終了点もかなり影響が出ているし、壁自体が非常に脆いためどんな影響が出ているか、判らないので山小屋等の関係者から情報を集めてください。
大山の北壁を登った人間には、日本全国全ての岩場は安定していると感じているのだが。
[参考文献]
小山義治 穂高を愛して二十年 中央文庫
武田文男 続・山で死なないために 朝日新聞社
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