白鳳時代 |
奈良時代の法隆寺しか現存しない彩色壁画が出土した。 |
平安時代 |
京都の愛宕護山の僧「蔵算」がよ60歳を過ぎてから、夢に現れた一人の僧の告知によって伯耆国
大山に詣で、地蔵菩薩の垂跡である大智明権現に六年間勤行して帰った。 |
安永9年(1780) |
大山寺領の行政指針といえる「本坊西楽院要用雑録」に、登山が禁止されているという記述はない。 |
文化11年(1814) |
日向の修験者野田成亮 登頂し修行する。野田泉光院は、江戸時代の修験僧(山伏)。
本名は成亮。1812年10月8日~全国の諸山を巡る修行で全国各地を訪れ、6年2ヶ月の旅を
『日本九峰修業日記』に書き残している。 |
天保3年(1832)7月25日 |
岡部春平(浜田藩国学者)高橋正茂(石見の人)、金築晴久、斉藤篶磨らが大山寺から弥山に登る。
(奈良時代霊山として畏怖され、岡部らの登山の頃まで入山する者は一部の修行僧のみであった。) |
弘化3(1832) |
円流院の僧・嗒然が書いた「大山雑記」に、大山に登るのは年に一度「弥山弾正」と呼ぶ信仰行事を行なう。
5人の修行僧だけだった。と書いている。また「達磨門之慢僧、六十六部之獪(わるがしこい)徒、
衒法之道士」 らがひそかに登って天罰を受けていると書いている。 |
明 治 |
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5年7月6日~8月4日) |
鳥取県の女性 白山 に女性として初登頂 |
8年 |
神仏分離令で大山寺号廃絶され、明治36年復号となる。 |
34年~毎年 |
米子中学校(現米子東高)教諭沼田頼輔が中学校生徒全員を引率登山させる。 |
21年~27年 |
ウエストン 神戸に来日 |
35年~38年 |
ウエストン 再来日 |
39年8月8~14日 |
大山山頂で3泊4日のキャンプ。大阪毎日新聞社探検隊 桐生悠々(ジャーナリスト)、その他14名
大阪毎日新聞社主催の山行で、当時の大山登山の隆盛が知れる。 |
1943年7月 |
竹内 映紫楼(竹内 栄四郎)俳人 2回目の大山登山 |
43年冬 |
大山(積雪期初登頂?) 蓮尾亀彦、近藤健之助(以上島根県農林学校=現松江農林高校教諭)
2教師の在職期間から |
44年9月7日~10月23日 |
大山~三瓶山~英彦山~由布岳(単独徒歩旅行) 古家実三(倉吉の農業者)帰途は汽車に乗っている。
「山岳」8年には大山と三瓶山の登頂前後の様子がある。 |
44年~ |
ウエストン 三たび来日 |
45年1月28日 |
白瀬轟中尉 南極探検 大和平原に達す。 |
大 正 |
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3年 |
志賀直哉10日間滞在し、大山登山する。 |
5年7月20日(?) |
10:10北尾鐐之助 大山登頂 (飛騨山岳会、愛山会、日本山岳会を設立) |
5・6年頃 |
船上山の登山道が改修され、沿道に目印としてアスナロが植えられる。 |
6年 |
大山でスキーが始まる |
7年2月10日 |
鳥取歩兵第40連隊の雪中行軍隊、奥田連隊長以下700余名大山頂上にて万歳三唱、鳥取に行軍し帰営する。 |
10年9月 |
槇有恒 アイガー東山稜登攀 |
10年 |
藤木久三ら 大山の冬期登山を試みる。 |
10年 |
夏山登山道完成し、頂上(正面登山道の終了点)に岩室が造られる。 |
末期 |
大山北壁が、初登(ルート・沢名は?)されているのではと、藤木久三は記している。 |
昭 和 |
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3年 |
大山主脈縦走路 作成される。 |
5年1月末 |
大ノ沢から頂上に登り、奥大山(剣ヶ峰)までの往復を行う。
小出博氏、池田滋両氏。弥山~剣ヶ峰間の積雪期における初通過であろう |
5年2月(?) |
横手道 △887.8mより 少し一の沢よりの炭焼小屋、で六高学生清田氏ら5名が5日間閉じ込められる。 |
5年2月(?) |
大山一の沢から源頭の岩壁下まで登られた。 六高学生清田清、池田滋氏 |
5年9月 |
南壁・一ノ沢(初登) 小出博他3名(六高山岳部とそのOB) 大山南壁全体の初登攀である。 |
5年9月23日 |
南壁二の沢右と左の沢の岩稜を、試登 小出博 (東大大学院の地質学者) 南壁で残雪を見る。 |
5年10月17日 |
南壁二ノ沢・ノドの沢(初登) 池田滋、坂本壽夫(六高山岳部とそのOB)二ノ沢中央部にあるルンゼの登攀。
池田による精細な概念図つくられている。 |
6年 |
加藤文太郎 厳冬期単独縦走 真川~薬師岳~黒部五郎岳~鷲羽岳~烏帽子岳 |
6年1月 |
南壁二ノ沢・ノドの沢(積雪期初登) 清田清、池田滋、(六高山岳部)5年10月、池田らによって初登されたルート。
888m付近の小屋から往復8時間。 |
6年2月 |
北壁に挑む。藤木九三(神戸、関西RCC)他 |
6年7年1月6日 |
三鈷峰~弥山逆縦走 西面孝一(岡山山岳会)他 |
6年2月14日 |
桝水原~弥山~三鈷峰縦走 遠藤常忠(岡山 六高山岳部) |
6年5月22日(?) |
別山尾根の登攀(初登?)これが北壁の初登攀記録か? 馬場正義、池田滋(岡山 六高山岳部) |
6年5月23日 |
滝沢(初登?) 池田滋、馬場正義(六高山岳部) 滝沢を登攀、弥山に至り、弥山沢を下降していると思われる。 |
6年5月25日 |
元谷沢登攀(初登?)し、弥山に登り別山沢を下降している。 馬場正義、池田滋(岡山 六高山岳部)。
馬場氏は昭和16年2月10日遭難死 |
6年5月下旬 |
北壁・別山尾根(初登) 池田滋、馬場正義(六高山岳部) 別山沢と弥山沢との中間岩稜を登るルート。
(原文は「D尾根」) |
6年5月下旬 |
六高山岳部の森藤ら4名は、南壁の二ノ沢、ロノ沢を初登している。 |
6年5月下旬頃 |
南壁二ノ沢・口ノ沢を初登 森藤氏ら4名(岡山 六高山岳部) |
8年1 月4日 |
北壁・別山沢(積雪期初登) 馬場正義他(六高山岳部) 積雪期の大山北壁全体の初登攀記録であろう。
馬場は大山東壁の冬季登攀にも目をつけ、8年の冬に地獄谷に4度入り偵察する。 |
8年8月 |
別山岩壁 初登攀 ルート不明 勝間健之助、若山両名(下関山岳会) |
8年9月 |
RCC理事 水野祥太郎氏(当会名誉顧問)による ロッククライミング講習会 (鎌倉寺山にて) 叶、他23名 |
9年 |
無雪期の地獄谷の記録がある 松江中学校山岳部 |
9年7月 |
第一回大山縦走大会開催 |
9年 |
無雪期の地獄谷に松江中学校山岳部の記録がある。 |
10年 |
第一回大山国立公園記念スキー大会開催 |
10年3月21日 |
桝水原から大山山頂往復 積雪期の大山における山頂への初の単独行。井形健一(慶応大学山岳部) |
11年1月6日 |
石鎚山厳冬期初登頂 面河渓より登頂 藤木久三氏らの計画を知り先駆けて。
倉橋宋由(松山中学教師)、平田勉、松本園二郎(同校生徒) |
11年1月 |
藤木氏らは倉橋氏らに数日遅れて石鎚山に登頂 西岡一雄、山口孝次郎 |
11年2月 |
大山国立公園に指定される。 |
12年1月4~5日 |
滝沢登攀(積雪期初登) 勝間健之助他(下関山岳会) 弥山沢、元谷沢、行者谷で、
下関山岳会の集中登山が実施される。 |
12年2月12~14日 |
別山沢、元谷沢、滝沢登攀 中本友一(下関山岳会)他 |
12年 |
大山寺博労座で最後の牛馬市が開催される。 |
12年8月 |
大山~烏ヶ山~地獄谷に入る 広島山岳会 割方氏他2名 |
12年12月5日 |
草鳴社山岳会が大山8合目付近で遭難する。山本禄朗、奥田行雄(草鳴社山岳会)、
樋野巌(松江体協山岳部)(大山登山史上初の遭難)梶谷善之(大阪朝日松江支局、)生還。
草鳴社ケルンは13年に建てられる。草鳴社ケルン(大山登山史上初の遭難) |
13年1月2日 |
三鈷峰西壁(初登)積雪期初登攀 ルートは不明だが三鈷峰西壁全体の初登
松田辰雄(岳人社スキー部)18人のサポート隊員があったという。 |
13年の冬 |
下関山岳会は集中的に大山北壁を登る。冬季の大山北壁登攀が普遍化するのはこの頃であろう。 |
14年3月 |
泉尾、小野広島山岳会 大山・屏風尾根登攀 |
14年9月 |
大山・北壁研究会 広島山岳会 (会員50名他) |
14年12月27~28日 |
屏風中ノ沢 積雪期初登 石橋省三(九州大学旅行部)、加藤秀木、田中丸吉三郎(福岡高等商業高生徒)、
小野庸(九州医専山岳部) F1を経て「小削壁」を吊り上げで登り支稜に出た。 2名が凍傷で撤退 |
15年3月 |
船上山~甲ヶ山~大山~大山寺 スキー登山 広島山岳会 小野氏他 |
15年12月30~31日 |
元谷沢~剣ヶ峰~槍尾根下降(初踏破)~鳥越峠(ビバーク) 加藤秀木、中丸吉三郎(福岡高等商業高生徒)、
小野庸(九州医学専門学校山岳部) 剣ヶ峰は文殊沢(南壁)側を巻いて通過 槍尾根は積雪期初踏破か? |
16年2月 |
大山冬季登山特別鍛錬会 講師:藤木久三、今西銀二他 広島山岳会 井上、吉野他 |
16年2月10日 |
大山北壁のパイオニアの馬場正義氏 東面にて遭難死 |
16年12月 |
自転車によるスキー場行きが許可制となる。 |
17年12月24日 |
大山寺~剣ヶ峰(原文は「奥大山」)~地獄谷~三本槍谷(地獄谷本谷の右岸にある支谷?)~
1ルンゼ(積雪期初登)~。小野庸(九州医専山岳部)、佐藤慎作 「三本槍谷」とは、地獄谷本谷の
右岸にある支谷と思われる。 |
17年12月31日 |
米子測候所が大山豪円山頂で気象観測を開始 |
18年1月1日 |
豪円山頂の気象観測施設を、臨時大山観測所と命名 |
18年10月1日 |
豪円山頂の観測施設を、大山測候所と改称 |
18年12月1日 |
米子測候所が大山中腹(6合目避難小屋)で気象観測を開始 |
19年8月1日 |
米子測候所が大山山頂で気象観測開始 |
21年8月 |
大山山岳会発会 |
21年9月1日 |
大山山頂での観測終了。測候所の建物は、その後は山頂避難小屋として利用 |
22年8月 |
大山山岳会 地獄谷 |
23年3月31日 |
大山測候所を廃止 6合目の観測終了 山頂と6合目の小屋を避難小屋として利用開始 |
23年6月 |
別山バットレス右尾根、三鈷峰~弥山 青木巌、梅野、沖 広島山岳会 大山合宿(第1回北壁研究行) |
23年9月 |
滝沢、中ノ沢 青木他5名 広島山岳会 大山・北壁研究行 |
23年 |
港叶、高田允克さんらが別山正面、三鈷峰西壁を初登攀。 |
23年9月 |
滝沢、中ノ沢 青木他5名 広島山岳会 |
23年10月17~19日 |
大屏風岩正面ルート(左方カンテルート付近)の下部を登攀 17日1P固定ザイル、18日屏風の左肩に達し、
夜間下降で19日午前1時に基部に降り立つ。 青木巌、福間旭(広島山岳会)。
なお、時期不明で、青木巌氏は大屏風岩全体を安来山岳会の大森広吉氏らと登攀 |
23年11月23日 |
大屏風岩正面ルート「港ルート」初登
港叶(早稲田大学山岳部OB、大山山岳会、鳥取医専山岳部のコーチ)岡田(高田)允克氏、米子医専 |
24年1月 |
大山「ラクダの背」で米子の高校生が、北壁側に転落し100m下で停止。港叶氏らが北壁を降ろし救助する。 |
24年4月 |
大山剣ヶ峰沢左ルート登攀 福間旭、石島 広島山岳会 |
24年8月 |
別山バットレス、滝沢、中ノ沢、元谷沢等 加藤他12名 広島山岳会 |
24年夏 |
蒜山三山の縦走が地元の中学校教師らにより実施される。 |
24年(25年?) |
駒鳥小屋新設。甲川は昭和24年頃から踏査されていた。
(大山山岳会)(その当時「大山常連」という方々が居て、大山の各壁・沢を登っていたという。) |
24年10月18日 |
大屏風岩港ルート 広島山岳会 青木厳、福間旭氏 |
25年3月 |
伏見 広島山岳会 大山合宿 別山正面壁(右トイ)単独登攀 |
25年8月 |
高田允克氏他 大屏風岩東・西壁、天狗沢、三鈷峰東壁を初登攀 |
25年8月 |
南壁二ノ沢 塩田、田中 広島山岳会 |
25年8月 |
大屏風岩西面壁(2登) 三好、福岡、福間 広島山岳会 |
25年8月 |
南壁二ノ沢 塩田、田中 広島山岳会(大山夏合宿) |
25年8月 |
三ノ沢~剣ヶ峰 福間、桜井、菊岡 広島山岳会(大山夏合宿) |
25年8月 |
各ルートの仕上げ的研究(天狗沢、二ノ沢、三本槍、三鈷峰西壁等) 塩田、三好他29名広島山岳会 |
25年8月 |
元谷小屋完成 |
26年 |
別山に正面壁と西壁に1本ずつのルートが記載されていた。(岳人) |
26年3月 |
別山正面壁(右トイ)単独登攀 伏見 広島山岳会 |
26年8月 |
天狗沢、二ノ沢、三本槍、三ホコ峰西壁 塩田、三好他29名 広島山岳会 |
27年9月24日 |
大屏風岩鏡岩ルート 初登 ルートは同定しがたい。人工登攀を多用して登攀。
小林義明、上田満、小島勉、山村健児(八幡製鉄所山岳部)付図によってもルートは同定し難いが。
港叶によると本記録が鏡岩ルートの初登である。 |
28年1月3日 |
勝間健之助氏(下関山岳会51才)ユートピアから上宝珠に下る際剣沢を誤って下降。
雪崩と疲労で勝間氏剣沢にて遭難死 |
28年 |
岡山県高体連の登山競技が蒜山で実施される。 |
28年 |
エベレスト登頂 イギリス隊 ヒラリー テンジン |
29年8月22日 |
岡山大学山岳部 村上安之氏 大山二の沢上部を登攀中 墜落死 |
30年1月2日 |
前穂高東壁Aフェース ザイル切断事件発生 |
31年1月 |
大山稜線上での5日間の「ビバーク」のあと、岡山大学山岳部神田利男・土光格次郎氏が生還した。 |
31年8月 |
南壁、二ノ沢 塩田、三好他29名 広島山岳会 |
31年12月26日~1月6日 |
湯俣温泉~硫黄岳~赤岳~槍ヶ岳への往復 福岡山の会 諸岡久四郎、内野宏昭、佐野昇三他9名 |
33年1月3日 |
勝間田健之助(下関山岳会)は大山北壁剣沢で雪崩による遭難死(勝間ケルン) |
33年12月22日~1月6日 |
九州大学山岳部 槍ヶ岳集中登山 笠ヶ岳~西鎌隊(L青柳)、北鎌隊(L板楠)、
燕岳からの東鎌隊(L柳井)、槍沢隊(L松尾) |
34年2月6~7日 |
大屏風岩鏡岩ルート冬季初登攀 鷲田正志、前田精三、藤井博、鷲田漠(神戸三菱重工業造船所雪稜クラブ) |
35年 |
全国高校登山大会が蒜山で実施される。 |
35年9月 |
大屏風岩西ルンゼルートの初登攀は鳥取大学山岳部 委細不明 |
36年1月 |
別山バットレス右 花見、砂子 広島山岳会 |
36年8月14~15日 |
甲川の水線を概ね(水泳を試み)遡行した記録である。青井一、武山哲夫、岡本忠良(玉野山の会)。
甲川は昭和24年頃から踏査されていた。(大山山岳会) |
36年10月22日 |
北壁小屏風岩・北壁ルート(初登) 船木匡(鳥取・岩友会)、林原健蔵(伯耆山岳会) |
36年12月 |
串田孫一 上蒜山・中蒜山登頂 |
37年3月11~12日 |
北壁小屏風岩・北壁ルート(積雪期初登) 船木匡、大林正明、手塚英信(鳥取・岩友会)
36年10月22日に初登攀したルート。ボルトとアイスピトンにぶら下がりビバーク |
37年 |
深田久弥と串田孫一 大山を登る その後深田久弥、蒜山登山に向かう。 |
37年12月21日~28日 |
馬場島~奥大日尾根~奥大日岳~剣御前~剣岳の奥大日尾根隊(CL川西、SL竹内他13名)
早月尾根隊(L藤田他6名) |
37年 |
岡山国体で蒜山三山を中心に山岳競技開催。皆ガ山~鏡ガ成コースで整備される。 |
38年3月16~4月2日 |
岡大山岳部 馬場島~赤谷山~剣~雄山~五色ヶ原~南沢岳~葛温泉 サポート支援を受け縦走。
竹内良雄、山本浩平ら6名 |
38年 |
大山有料道路開通 |
38年 |
大山に隠岐・島根半島・三瓶山追加され大山隠岐国立公園と公園名が改称される。 |
38年8月 |
山下皇(すめら、岡山山岳会)氏と井上豊重氏(東郷町出身)「正面ダイレクト・カンテ」上部まで開拓した。 |
38年9月1日 |
山下皇、畠窪隆志(岡山山岳会)大屏風岩港ルートのT3より正面カンテ上部ルートを登攀中転落死亡。 |
38年? |
山下皇氏のケルン。元谷山下ケルンが造られる。 |
38年9月24日 |
大屏風岩正面カンテ下部ルート初登攀日下部昭八郎 佐々木弘麿(広島山の会) |
38年9月24日 |
大屏風岩 鏡岩正面カンテ下部初登攀 日下部昭八郎、佐々木弘麿(広島山の会) |
39年2月11日 |
大屏風岩鏡ルート登攀中転落宙吊り 宮本忠氏、宮本次夫氏(飯塚市)死亡。
大櫛八郎氏(北九州)は72時間後救出される |
39年夏 |
大屏風岩 鏡岩正面カンテ上部ルート初登攀 (山下皇氏追悼登攀) 長久実(宇部) 井上豊重(鳥取) |
39年12月20~21日 |
大屏風岩正面カンテルート冬季初登攀 長安浄、日下部昭八郎、圓田慶爾、岩副宏志(広島山の会) |
39年12月? |
大屏風岩港ルート冬期6登 山本一夫氏(現:国際ガイド)国立登山研修所運営アドバイザー |
40年3月 |
小屏風岩正面壁ルート冬季初登攀 平田恒雄、日下部昭八郎 |
40年8月 |
屏風岩、別山バットレス、滝沢、中ノ沢 西田、井上他広島山岳会 |
40年9月 |
鏡岩ルート 井上、郷地他 |
40年11月7日 |
大屏風岩西ルンゼルート登攀 長安浄、日下部昭八郎、佐々木弘麿 |
40年12月20日 |
大屏風岩西ルンゼルート(冬季初登攀) 鏡岩ルート右の凹角部を登る。(広島山の会)
日下部昭八郎、圓田慶爾、岩本正志。本記録中で、西ルンゼの初登は鳥取大学山岳部のようであるが、委細不明 |
40年12月31日 |
玉野山岳会槍尾根キリン峠下方90mで表層雪崩 3人で登山中1名が遺体で発見される。 |
41年3月15~16日 |
ユートピアの小屋(木造)が風で吹き飛ばされる(島大生坪内、岩本は近くの鳥大テントに避難する)。
その後コンクリートブロックの小屋になる。元谷小屋もトタン屋根が一部壊れる。 |
41年 |
大山環状道路開通 |
41年12月? |
大屏風岩中央カンテ山下ルート冬期第5登 山本一夫氏 |
42年2月3日 |
大屏風岩に積雪期単独初登 井上豊重(鳥取岳稜会) ルートは不明。 |
42年3月? |
大屏風岩港ルート~中央カンテ冬期第6登 山本一夫氏 |
42年4月29日 |
?康夫氏(大阪市) 大屏風岩登攀中落石により転落死亡 |
42年5月 |
隠岐の島磨天崖初登 奥鐘山西壁登攀(同年7.29~8.1))のトレーニング
森栄。長安浄、岩本正志(広島山の会)郷地三千春(広島山岳会) |
42年6月3日 |
「大山元谷同人」クラブ結成 会長は伯耆山岳会長の林原健蔵。大阪~北九州までの大山に集う者で会則はない。 |
42年6月18日 |
大屏風岩右カンテルート初登攀 長安浄、長藤茂夫、岩本正志、錦織治雄 |
42年7月30日 |
古沢義春氏(米子市)大屏風岩登攀中 旧ハーケン使用により転落 病院収容後死亡 |
42年 |
甲川を大阪わらじの会が偵察に入る。 |
42年9月22日 |
大屏風岩正面カンテ 登攀 城勝利、清水逸生両氏(峨眉同人)、小河氏 |
42年10月 |
別山バットレス、屏風岩鏡ルート 郷地、他広島山岳会(大山秋合宿) |
年代不明 |
米子山の会員中田氏天狗沢で遭難。その後天狗の頭に道標が設置される。 |
42年11月4日 |
大屏風岩ダイレクト・ルート 登攀 槙戸、小河両氏 |
42年12月2日 |
大山元谷小屋 ザイル祭りが始まる。小河、市橋、安田、槙戸、松尾ら7名で。 |
42年12月16~17日 |
大屏風岩港ルート女性冬期初登攀 山中昌子、森栄、野田勝巳 広島山の会 |
43年5月 |
大屏風岩東壁 峨眉ルート初登攀 峨眉同人 登攀者名不明 |
43年8月16日 |
峨眉ルートの2登 小河(高松市)MCC槙戸 |
43年8月? |
峨眉ルートの3登 小河(高松市)、岩本(島大)の両氏 |
43年8月? |
大屏風岩連続登攀 福山、奥 広島山岳会(大山夏合宿) |
43年10月? |
鏡岩ルート 市橋靖子、松尾氏 |
44年1月1~3日 |
北ア唐沢岳幕岩右稜 森栄、高見和成、野田勝巳、寺西洋治、檜垣清、山中昌子 広島山の会 |
44年1月(?) |
大屏風岩東壁峨眉ルート厳冬期初登攀 峨眉同人 登攀者名不明 |
44年3月 |
上宝珠沢で雪崩にて遭難。岡山大学山岳部部員・森本光明氏(兵庫県出身) |
44年5月3~ |
北ア唐沢岳幕岩正面壁S字状ルート初登攀 森栄、高見和成 広島山の会 |
45年2月21~22日 |
北壁 大屏風岩 東壁(積雪期初登) 小林照美、西本達治、伏見一徳(峨嵋同人)
天狗沢取り付きよりやや上からスタート(5Pの登攀) |
45年9月~ |
甲川の完全遡行を実施する。出雲山岳会、黒田、角森、杉原氏ら。
岡山大学山岳部の甲川の記事を見るが、未遡行とあり、黒田氏はこれ以降 日参し完登する。 |
45年2月21~22日 |
大屏風岩東壁 積雪期初登 天狗沢取付をやや上がり5Pの登攀 小林照美、西本達治、伏見一徳(峨嵋同人) |
46年2月14日 |
別山東壁登攀 高見和成、畠山三四郎、川崎文夫 |
46年5月 |
長安浄氏、穂高岳滝谷にて雪崩により死亡 |
46年8月 |
屏風岩からの落石による遭難死。水谷清氏(広島山岳会)井上他9名広島山岳会(大山夏合宿) |
47年8月25~26日 |
中庄谷直、小坂敦之、能勢唯司(大阪わらじの会)ゴムボートを準備し、完全遡行を目指すが、下の廊下で断念。 |
48年2月 |
陣武みや子氏 小屏風岩正面ハング帯登攀中疲労凍死 2/16~18高見氏他 遺体収容 |
48年3月 |
大屏風岩東壁ルート開拓 藤井広島山岳会 |
48年3月 |
滝沢フランケルート開拓 まぼろしのカンテ 藤井、名越 広島山岳会 |
48年3月 |
藤井、名越広島山岳会 大山・滝沢フランケルート開拓 まぼろしのカンテ |
48年5月20日 |
大阪わらじ会が、甲川の中の廊下から完全遡行として登山雑誌に発表する。
(この遡行の前に出雲山岳会の45年9月の記録がある) |
48年月日 |
大山隠岐国立公園管理事務所を大山寺に設置 |
51年1月31~4日 |
大屏風岩鏡岩ルート、港ルート、中央カンテルート単独冬期初登攀。寺西洋治初登攀。
57年7月or8月 寺西洋治氏 コングール峰にて行方不明 死亡 |
52年 |
大山主脈縦走路が縦走路の登山禁止になる。 |
57年 |
大山主脈縦走路が登山道から削除される。 |
57年9月 |
名越、他3名広島山岳会 坂根・屏風岩ルート開拓 |
60年 |
鳥取国体山岳競技の縦走コースとして皆ガ山~鏡ガ成コースで再整備されるがその維持はされていない。 |
60年 |
鳥取国体の登攀会場として船上山で実施される。 |
60年 |
「大山の頂上を保護する会」が組織される。 |
平 成 |
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元年2月 |
別山幻のカンテ 高見和成、? |
5年2月13~17日 |
振り子沢雪崩事故 高見和成氏 |
10年2月22日 |
天狗沢登攀中滑落 高見和成氏、森田恭充氏 |
12年10月6日 |
鳥取県西部地震発生 烏ヶ山山頂付近や宝珠尾根の崩壊の為登山禁止 |
13年6月 |
鳥取県西部地震のため 宝珠尾根が通行可能となる |
15年6月15日 |
長久実さん(故人)の追悼登山 大山で |