大 山 の 登 攀

大山北・南壁の初登攀及び登山の記録

 「ある登山者は、記録には眼もくれず、ひっそり、ひとしれず、ひとりで岩壁に挑む者もいる。」
(登山史の森へ 遠藤甲太氏)
その言葉を借りると、ひっそりと、ひとしれず、岩壁に挑んだパーティがいた。
その、記録を掘り起こしてみたい。この記録は、作成中の為情報提供をお願いします。
中国地方の登山家の初登攀(一部)を含む
白鳳時代     奈良時代の法隆寺しか現存しない彩色壁画が出土した。
平安時代     京都の愛宕護山の僧「蔵算」がよ60歳を過ぎてから、夢に現れた一人の僧の告知によって
           伯耆の国の大山に詣で、地蔵菩薩の垂跡である大智明権現に六年間勤行して帰った。
安永9年(1780) 大山寺領の行政指針といえる「本坊西楽院要用雑録」に、登山が禁止されているという記述はない。
文化11年(1814) 日向の修験者野田成亮 登頂し修行する。野田泉光院は、江戸時代の修験僧(山伏)。本名は成亮。
           1812年10月8日~全国の諸山を巡る修行で全国各地を訪れ、6年2ヶ月の旅を『日本九峰修業日記』に書き残している。
天保3年(1832)  7月25日 岡部春平(浜田藩国学者)高橋正茂(石見の人)、金築晴久、斉藤篶磨らが大山寺から弥山に登る。
            (奈良時代霊山として畏怖され、岡部らの登山の頃まで入山する者は一部の修行僧のみであった。)
弘化3(1832)  円流院の僧・嗒然が書いた「大山雑記」に、大山に登るのは年に一度「弥山弾正」と呼ぶ信仰行事を行なう
          5人の修行僧だけだった。と書いている。また「達磨門之慢僧、六十六部之獪(わるがしこい)徒、衒法之道士」
          らがひそかに登って天罰を受けていると書いている。
明治
5年7月6日~8月4日)  鳥取県の女性 白山 に女性として初登頂
8年          神仏分離令で大山寺号廃絶され、明治36年復号となる。
34年~毎年     米子中学校(現米子東高)教諭沼田頼輔が中学校生徒全員を引率登山させる。
21年~27年    ウエストン 神戸に来日
35年~38年    ウエストン  再来日
39年8月8~14日   大山山頂で3泊4日のキャンプ生活   大阪毎日新聞社探検隊 桐生悠々(ジャーナリスト)、その他14名
            大阪毎日新聞社主催の山行で、当時の大山登山の隆盛が知れる。
43年7月      竹内 映紫楼(竹内 栄四郎)俳人  2回目の大山登山
43年冬     大山(積雪期初登頂?)  蓮尾亀彦、近藤健之助(以上島根県農林学校=現松江農林高校教諭) 
          2教師の在職期間から
44年9月7日~10月23日  大山~三瓶山~英彦山~由布岳(単独徒歩旅行) 古家実三(倉吉の農業者) 
             帰途は汽車に乗っている。「山岳」8年には大山と三瓶山の登頂前後の様子ある。
44年~        ウエストン 三たび来日
45年1月      白瀬轟中尉 南極探検 大和平原に達す。
大正
3年          志賀直哉10日間滞在し、大山登山する。
5年7月20日(?)  10:10北尾鐐之助 大山登頂 (飛騨山岳会、愛山会、日本山岳会を設立)
5・6年頃       船上山の登山道が改修され、沿道に目印としてアスナロが植えられる。
6年          大山でスキーが始まる
7年2月10日    鳥取歩兵第40連隊の雪中行軍隊、奥田連隊長以下700余名大山頂上にて万歳三唱、
            鳥取に行軍し帰営する。
10年9月      槇有恒 アイガー東山稜登攀
10年        藤木久三ら 大山の冬期登山を試みる。
10年        夏山登山道完成し、頂上(正面登山道の終了点)に岩室が造られる。
末期         大山北壁が、初登(ルート・沢名は?)されているのではと、藤木久三は記している。
昭和
3年         大山主脈縦走路 作成される。
5年1月末      大ノ沢から頂上に登り、奥大山(剣ヶ峰)までの往復を行う。 小出博氏、池田滋両氏
           弥山~剣ヶ峰間の積雪期における初通過であろう
5年2月(?)    大山の西南麓横手道 △887.8mより 少し一の沢よりの炭焼小屋、で六高学生清田氏ら5名が
           5日間閉じ込められる。
5年2月(?)    大山一の沢から源頭の岩壁下まで登られた。 六高学生清田清、池田滋氏
5年9月 南壁・一ノ沢(初登) 小出博他3名(六高山岳部とそのOB) 大山南壁全体の初登攀である。
5年9月23日    南壁二の沢右と左の沢の岩稜を、試登 小出博 (東大大学院の地質学者) 南壁で残雪を見る。
5年10月17日   南壁二ノ沢・ノドの沢(初登) 池田滋、坂本壽夫(六高山岳部とそのOB)二ノ沢中央部にあるルンゼの登攀。
           池田による精細な概念図つくられている。
6年         加藤文太郎 厳冬期単独縦走 真川~薬師岳~黒部五郎岳~鷲羽岳~烏帽子岳
6年1月      南壁二ノ沢・ノドの沢(積雪期初登) 清田清、池田滋、(六高山岳部)5年10月、池田らによって初登されたルート。
           888m付近の小屋から往復8時間。
6年2月       北壁に挑む   藤木九三(神戸、関西RCC)他
6年5月22日(?) 別山尾根の登攀(初登?)これが北壁の初登攀記録か?   馬場正義、池田滋(岡山 六高山岳部)
6年5月23日    滝沢(初登?) 池田滋、馬場正義(六高山岳部) 滝沢を登攀、弥山に至り、弥山沢を下降していると思われる。
6年5月25日    元谷沢登攀(初登?)し、弥山に登り別山沢を下降している。 馬場正義、池田滋(岡山 六高山岳部)
             馬場氏は昭和16年2月10日遭難死
6年5月下旬    北壁・別山尾根(初登) 池田滋、馬場正義(六高山岳部) 別山沢と弥山沢との中間岩稜を登るルート。
         (原文は「D尾根」)
6年5月下旬    六高山岳部の森藤ら4名は、南壁の二ノ沢、ロノ沢を初登している。
6年5月下旬頃    南壁二ノ沢・口ノ沢を初登 森藤氏ら4名(岡山 六高山岳部)
6年7年1月6日   三鈷峰~弥山逆縦走 西面孝一(岡山山岳会)他
6年2月14日    桝水原~弥山~三鈷峰縦走  遠藤常忠(岡山 六高山岳部)

8年1 月4日    北壁・別山沢(積雪期初登) 馬場正義他(六高山岳部) 積雪期の大山北壁全体の初登攀記録であろう。
           馬場は大山東壁の冬季登攀にも目をつけ、8年の冬に地獄谷に4度入り偵察する。
8年8月       別山岩壁 初登攀 ルート不明   勝間健之助、若山両名(下関山岳会)
8年9月        RCC理事 水野祥太郎氏(当会名誉顧問)による ロッククライミング講習会 (鎌倉寺山にて) 叶、他23名
9年          無雪期の地獄谷の記録がある 松江中学校山岳部
9年7月       第一回大山縦走大会開催
9年          無雪期の地獄谷に松江中学校山岳部の記録がある。
10年         第一回大山国立公園記念スキー大会開催
10年3月21日   桝水原から大山山頂往復 積雪期の大山における山頂への初の単独行  井形健一(慶応大学山岳部)
11年1月6日    石鎚山厳冬期初登頂 面河渓より登頂 藤木久三氏らの計画を知り先駆けて。
             倉橋宋由(松山中学教師)、平田勉、松本園二郎(同校生徒)
11年1月      藤木氏らは倉橋氏らに数日遅れて石鎚山に登頂 西岡一雄、山口孝次郎
11年2月      大山国立公園に指定される。
12年1月4~5日  滝沢登攀(積雪期初登) 勝間健之助他(下関山岳会) 
           弥山沢、元谷沢、行者谷で、下関山岳会の集中登山が実施される。
12年2月12~14日 別山沢、元谷沢、滝沢登攀 中本友一(下関山岳会)他
12年         大山寺博労座で最後の牛馬市が開催される。
12年8月      大山~烏ヶ山~地獄谷に入る   広島山岳会 割方氏他2名
12年12月5日   草鳴社山岳会が大山8合目付近で遭難する。山本禄朗、奥田行雄(草鳴社山岳会)、樋野巌(松江体協山岳部)
           (大山登山史上初の遭難)  梶谷善之(大阪朝日松江支局、)生還
            草鳴社ケルンは13年に建てられる。
13年1月2日    三鈷峰西壁(初登)積雪期初登攀 ルートは不明だが三鈷峰西壁全体の初登 松田辰雄(岳人社スキー部)
            18人のサポート隊員があったという。
13年の冬    下関山岳会は集中的に大山北壁を登る。冬季の大山北壁登攀が普遍化するのはこの頃であろう。
14年3月      泉尾、小野広島山岳会 大山・屏風尾根登攀
14年9月 大山・北壁研究会   広島山岳会 (会員50名他)
14年12月27~28日  屏風中ノ沢 積雪期初登 石橋省三(九州大学旅行部)、加藤秀木、田中丸吉三郎(福岡高等商業高生徒)、
           小野庸(九州医専山岳部) F1を経て「小削壁」を吊り上げで登り支稜に出た。 2名が凍傷で撤退
15年3月       船上山~甲ヶ山~大山~大山寺 スキー登山  広島山岳会 小野氏他
15年12月30~31日 元谷沢~剣ヶ峰~槍尾根下降(初踏破)~鳥越峠(ビバーク) 加藤秀木、中丸吉三郎(福岡高等商業高生徒)、
           小野庸(九州医学専門学校山岳部) 剣ヶ峰は文殊沢(南壁)側を巻いて通過  槍尾根は積雪期初踏破か?
16年2月       大山冬季登山特別鍛錬会 講師:藤木久三、今西銀二他 広島山岳会 井上、吉野他
16年2月10日    大山北壁のパイオニアの馬場正義氏 東面にて遭難死
16年12月      自転車によるスキー場行きが許可制となる。
17年12月24日   大山寺~剣ヶ峰(原文は「奥大山」)~地獄谷~三本槍谷(地獄谷本谷の右岸にある支谷?)~1ルンゼ
      (積雪期初登)~  小野庸(九州医専山岳部)、佐藤慎作 「三本槍谷」とは、地獄谷本谷の右岸にある支谷と思われる。
17年12月31日   米子測候所が大山豪円山頂で気象観測を開始
18年1月1日     豪円山頂の気象観測施設を、臨時大山観測所と命名
18年10月1日    豪円山頂の観測施設を、大山測候所と改称
18年12月1日    米子測候所が大山中腹(6合目避難小屋)で気象観測を開始
19年8月1日     米子測候所が大山山頂で気象観測開始
21年8月        大山山岳会発会
21年9月1日      大山山頂での観測終了。測候所の建物は、その後は山頂避難小屋として利用
22年8月        大山山岳会 地獄谷
23年3月31日    大山測候所を廃止 6合目の観測終了  山頂と6合目の小屋を避難小屋として利用開始
23年6月       別山バットレス右尾根、三鈷峰~弥山  青木巌、梅野、沖 広島山岳会  大山合宿(第1回北壁研究行)
23年9月      滝沢、中ノ沢  青木他5名 広島山岳会 大山・北壁研究行
23年          港叶、高田允克さんらが別山正面、三鈷峰西壁を初登攀。
23年9月       滝沢、中ノ沢   青木他5名  広島山岳会
23年10月17~19日 大屏風岩正面ルート(左方カンテルート付近)の下部を登攀 17日1P固定ザイル、18日屏風の左肩に達し、
           夜間下降で19日午前1時に基部に降り立つ。 青木巌、福間旭(広島山岳会)   なお、時期不明で、青木巌氏は
           大屏風岩全体を安来山岳会の大森広吉氏らと登攀
23年11月23日  大屏風岩正面ルート「港ルート」初登 港叶(早稲田大学山岳部OB、大山山岳会、鳥取医専山岳部のコーチ)
            岡田(高田)允克氏米子医専
24年1月       大山主脈「ラクダの背」で米子の高校生が、北壁側に転落し100m下で停止。港叶氏らが北壁を降ろし
            救助する。
24年4月       大山剣ヶ峰沢左ルート登攀  福間旭、石島   広島山岳会
24年8月       別山バットレス、滝沢、中ノ沢、元谷沢等  加藤他12名  広島山岳会
24年夏        蒜山三山の縦走が地元の中学校教師らにより実施される。
24年(25年?)   駒鳥小屋新設
      甲川は昭和24年頃から踏査されていた。(大山山岳会)
     (その当時「大山常連」という方々が居て、大山の各壁・沢を登っていたという。)
24年10月18日  大屏風岩港ルート  広島山岳会 青木厳、福間旭氏
25年3月       伏見  広島山岳会  大山合宿 別山正面壁(右トイ)単独登攀
25年8月       高田允克氏他  大屏風岩東・西壁、天狗沢、三鈷峰東壁を初登攀
25年8月       南壁二ノ沢  塩田、田中  広島山岳会
25年8月       大屏風岩西面壁(2登)  三好、福岡、福間  広島山岳会
25年8月      南壁二ノ沢  塩田、田中    広島山岳会(大山夏合宿) 
25年8月     三ノ沢~剣ヶ峰  福間、桜井、菊岡  広島山岳会(大山夏合宿)
25年8月     各ルートの仕上げ的研究(天狗沢、二ノ沢、三本槍、三鈷峰西壁等) 塩田、三好他29名広島山岳会(大山夏合宿)
25年         元谷小屋完成
26年         別山に正面壁と西壁に1本ずつのルートが記載されていた。(岳人)
26年3月       別山正面壁(右トイ)単独登攀  伏見  広島山岳会
26年8月      天狗沢、二ノ沢、三本槍、三ホコ峰西壁  塩田、三好他29名   広島山岳会
27年9月24日   大屏風岩鏡岩ルート 初登 ルートは同定しがたい。人工登攀を多用して登攀。
            小林義明、上田満、小島勉、山村健児(八幡製鉄所山岳部)付図によってもルートは同定し難いが。港叶に
            よると本記録が鏡岩ルートの初登である。
28年1月3日    勝間健之助氏(下関山岳会51才)ユートピアから上宝珠に下る際剣沢を誤って下降 
            雪崩と疲労で勝間氏剣沢にて遭難死
28年         岡山県高体連の登山競技が蒜山で実施される。
28年         エベレスト登頂  イギリス隊 ヒラリー テンジン
29年8月22日   岡山大学山岳部 村上安之氏 大山二の沢上部を登攀中 墜落死
30年1月2日    前穂高東壁Aフェース ザイル切断事件発生
31年1月      大山稜線上での5日間の「ビバーク」のあと、岡山大学山岳部神田利男・土光格次郎氏が生還した。
31年8月      南壁、二ノ沢  塩田、三好他29名 広島山岳会
31年12月26日~1月6日 湯俣温泉~硫黄岳~赤岳~槍ヶ岳への往復 福岡山の会 諸岡久四郎、内野宏昭、佐野昇三他9名
33年1月3日     勝間田健之助(下関山岳会)は大山北壁剣沢で雪崩による遭難死(勝間ケルン)
33年12月22日~1月6日 九州大学山岳部 槍ヶ岳集中登山 笠ヶ岳~西鎌隊(L青柳)、北鎌隊(L板楠)、
             燕岳からの東鎌隊(L柳井)、槍沢隊(L松尾)
34年2月6~7日  大屏風岩鏡岩ルート冬季初登攀  鷲田正志、前田精三、藤井博、鷲田漠(神戸三菱重工業造船所雪稜クラブ)
35年         全国高校登山大会が蒜山で実施される。
35年9月       大屏風岩西ルンゼルートの初登攀は鳥取大学山岳部 委細不明
36年1月       別山バットレス右  花見、砂子  広島山岳会
36年8月14~15日  甲川の水線を概ね(水泳を試み)遡行した記録である。青井一、武山哲夫、岡本忠良(玉野山の会)。
              甲川は昭和24年頃から踏査されていた。(大山山岳会)
36年10月22日   北壁小屏風岩・北壁ルート(初登) 船木匡(鳥取・岩友会)、林原健蔵(伯耆山岳会)
36年12月      串田孫一 上蒜山・中蒜山登頂
37年3月11~12日   北壁小屏風岩・北壁ルート(積雪期初登) 船木匡、大林正明、手塚英信(鳥取・岩友会) 
              36年10月22日に初登攀したルート。  ボルトとアイスピトンにぶら下がりビバーク
37年          深田久弥と串田孫一 大山を登る その後深田久弥、蒜山登山に向かう。
37年12月21日~28日 馬場島~奥大日尾根~奥大日岳~剣御前~剣岳の奥大日尾根隊(CL川西、SL竹内他13名) 
              早月尾根隊(L藤田他6名)
38年3月16~4月2日 岡大山岳部 馬場島~赤谷山~剣~雄山~五色ヶ原~南沢岳~葛温泉 サポート支援を受け縦走 
              竹内良雄、山本浩平ら6名
38年          大山有料道路開通
37年          岡山国体で蒜山三山を中心に山岳競技開催。皆ガ山~鏡ガ成コースで整備される。
38年          大山に隠岐・島根半島・三瓶山追加され大山隠岐国立公園と公園名が改称される。
38年8月       山下皇(すめら)氏と井上豊重氏 「正面ダイレクト・カンテ」上部まで開拓した。
38年9月1日    山下皇氏 畠窪隆志氏(岡山山岳会)大屏風岩港ルートのT3より正面カンテ上部ルートを登攀中転落死亡 
              山下ケルンが造られる。
38年9月24日    大屏風岩正面カンテ下部ルート初登攀日下部昭八郎 佐々木弘麿(広島山の会)
38年9月24日    大屏風岩 鏡岩正面カンテ下部初登攀 日下部昭八郎、佐々木弘麿(広島山の会)
39年2月11日    大屏風岩鏡ルート登攀中転落宙吊り 宮本忠氏、宮本次夫氏(飯塚市)死亡。大櫛八郎氏(北九州)は
              72時間後救出される
39年夏        大屏風岩 鏡岩正面カンテ上部ルート初登攀 (山下皇氏追悼登攀) 長久実(宇部) 井上豊重(鳥取)
39年12月20~21日 大屏風岩正面カンテルート冬季初登攀 長安浄、日下部昭八郎、圓田慶爾、岩副宏志(広島山の会)
39年12月?     大屏風岩港ルート冬期6登 山本一夫氏(現:国際ガイド)国立登山研修所運営アドバイザー
40年3月       小屏風岩正面壁ルート冬季初登攀 平田恒雄、日下部昭八郎
40年8月       屏風岩、別山バットレス、滝沢、中ノ沢 西田、井上他広島山岳会
40年9月       鏡岩ルート    井上、郷地他
40年11月7日   大屏風岩西ルンゼルート登攀  長安浄、日下部昭八郎、佐々木弘麿
40年12月20日  大屏風岩西ルンゼルート(冬季初登攀)  鏡岩ルート右の凹角部を登る。 
             日下部昭八郎、圓田慶爾、岩本正志(広島山の会)
             本記録中で、西ルンゼの初登は鳥取大学山岳部のようであるが、委細不明
40年12月31日  玉野山岳会槍尾根キリン峠下方90mで表層雪崩 3人で登山中1名が遺体で発見される。
41年3月15~16日 ユートピアの小屋(木造)が風で吹き飛ばされる。その後コンクリートブロックの小屋になる。
41年         大山環状道路開通
41年12月?     大屏風岩中央カンテ山下ルート冬期第5登 山本一夫氏 
42年2月3日    大屏風岩に積雪期単独初登  井上豊重(鳥取岳稜会) ルートは不明。
42年3月?      大屏風岩港ルート~中央カンテ冬期第6登 山本一夫氏 
42年4月29日   ?康夫氏(大阪市) 大屏風岩登攀中落石により転落死亡
42年5月       隠岐の島磨天崖初登 奥鐘山西壁登攀(同年7.29~8.1))のトレーニング 森栄。長安浄、岩本正志
             (広島山の会)郷地三千春(広島山岳会)
42年6月3日    「大山元谷同人」クラブ結成 会長は伯耆山岳会長の林原健蔵氏 大阪~北九州までの大山に集う者で
            会則はない。
42年6月18日    大屏風岩右カンテルート初登攀 長安浄、長藤茂夫、岩本正志、錦織治雄
42年7月30日    古沢義春氏(米子市)大屏風岩登攀中 旧ハーケン使用により転落 病院収容後死亡
42年          甲川を大阪わらじの会が偵察に入る。
42年9月22日    大屏風岩正面カンテ 登攀  城勝利、清水逸生両氏(峨眉同人)、小河氏
42年10月      別山バットレス、屏風岩鏡ルート  郷地、他広島山岳会(大山秋合宿)
42年11月4日    大屏風岩ダイレクト・ルート 登攀 槙戸、松尾、小河の3氏
42年12月2日    大山元谷小屋 ザイル祭りの始まり
42年12月16~17日 大屏風岩港ルート女性冬期初登攀 山中昌子、森栄、野田勝巳 広島山の会
43年5月       大屏風岩東壁 峨眉ルート初登攀  峨眉同人 登攀者名不明
43年8月16日    峨眉ルートの2登 MCC槙戸、小河(高松市)の両氏
43年8月?      峨眉ルートの3登 小河(高松市)、岩本(島大)の両氏
43年8月?      大屏風岩連続登攀  福山、奥 広島山岳会(大山夏合宿)
43年10月?     鏡岩ルート 市橋靖子、松尾氏
☆44年1月1~3日 北ア唐沢岳幕岩右稜  森栄、高見和成、野田勝巳、寺西洋治、檜垣清、山中昌子  広島山の会
44年1月(?)    大屏風岩東壁峨眉ルート厳冬期初登攀 峨眉同人 登攀者名不明
44年3月       上宝珠沢で雪崩にて遭難          岡山大学山岳部部員・森本光明氏(兵庫県出身)
☆44年5月3~   北ア唐沢岳幕岩正面壁S字状ルート初登攀  森栄、高見和成  広島山の会
45年2月21~22日    北壁 大屏風岩 東壁(積雪期初登) 小林照美、西本達治、伏見一徳(峨嵋同人) 天狗沢取り付きより
             やや上からスタート(5Pの登攀)
45年9月~     甲川の完全遡行を実施する。出雲山岳会、黒田、角森、杉原氏ら。
            岡山大学山岳部の甲川の記事を見るが、未遡行とあり、黒田氏はこれ以降 日参し完登する。
45年2月21~22日 大屏風岩東壁 積雪期初登 天狗沢取付をやや上がり5Pの登攀 小林照美、西本達治、伏見一徳(峨嵋同人)
46年2月14日    別山東壁登攀 高見和成、畠山三四郎、川崎文夫
46年5月       長安浄氏、穂高岳滝谷にて雪崩により死亡
46年8月       屏風岩からの落石による、遭難死  水谷清氏  広島山岳会  井上他9名広島山岳会(大山夏合宿)
47年8月25~26日   中庄谷直、小坂敦之、能勢唯司(大阪わらじの会)ゴムボートを準備し、完全遡行を目指すが、
              下の廊下で断念。
48年2月       陣武みや子氏 小屏風岩正面ハング帯登攀中疲労凍死 2/16~18高見氏他 遺体収容
48年3月       大屏風岩東壁ルート開拓  藤井広島山岳会
48年3月       滝沢フランケルート開拓 まぼろしのカンテ 藤井、名越  広島山岳会
48年5月20日   大阪わらじ会が、甲川の中の廊下から完全遡行として登山雑誌に発表する。
             (この遡行の前に45年9月の記録が有った)
48年3月        藤井、名越広島山岳会   大山・滝沢フランケルート開拓  まぼろしのカンテ
48年         大山隠岐国立公園管理事務所を大山寺に設置
51年1月31~4日 大屏風岩鏡岩ルート、港ルート、中央カンテルート単独冬期初登攀。寺西洋治初登攀。
             57年7月or8月 寺西洋治氏 コングール峰にて行方不明 死亡
52年         大山主脈縦走路が縦走路の登山禁止になる。
57年         大山主脈縦走路が登山道から削除される。
57年9月   名越、他3名広島山岳会  坂根・屏風岩ルート開拓
60年         鳥取国体山岳競技の縦走コースとして皆ガ山~鏡ガ成コースで再整備されるがその維持されていない。
60年         鳥取国体の登攀会場として船上山で実施される。
60年         「大山の頂上を保護する会」が組織される。
平 成
元年2月        別山幻のカンテ  高見和成、?
5年2月13~17日  振り子沢雪崩事故 高見和成氏 
10年2月22日    天狗沢登攀中滑落 高見和成氏、森田恭充氏
12年10月6日     鳥取県西部地震発生  烏ヶ山山頂付近や宝珠尾根の崩壊の為登山禁止
13年6月         鳥取県西部地震のため  宝珠尾根が通行可能となる
15年6月15日     長久実さん(故人)の追悼登山 大山で

参考文献
 岳人登山講座
 日本山岳会広島支部会報
 山と渓谷社 日本登山史年表
 日本山岳会広島支部会報
 広島山の会 ぶな林
 大山-その自然と歴史
 山と渓谷
 単独行   加藤文太郎
 岳人           等の文献を参考として作成しています。