草鳴社ケルン(大山登山史上初の遭難)

   大山の夏山登山道を登っていくと、ブナ林が覆い被さるが五合目過ぎから低い灌木、六合目から上部は視界も広がり心地よい風が吹き、米子の町から松江の方向が望まれる。
 現在では、八合目付近から木道が始まり大山の自然保護に一役を買っている。
 昭和40年代の頃から見ると頂上(弥山)の景観が著しく変化しているのは、一抹の寂しさを感じるが、自然保護等の担当の方は保護との板挟みの上決断されたのであろう。感謝の気持ちで一杯である。
 木道が始まる手前に、高さ2m以上ある電柱のようなケルンが建っている。
 このケルンが「草鳴社ケルン」である。
 大山の頂上台地は標高1600mから1700mにかけて広がる幅250m奥行500m以上の広大な台地である。地形は海原のごとくうねりながら続く。
 頂上(弥山)に近づくと下りそして登り下りつつ進まなければならない。北壁側に近づくと高くなったり低くなったする、複雑怪奇の地形を通過しつつ頂上(弥山)に登ることになる。
 夏山では、木道の上を歩いていけば頂上にいつしかたどり着くが、厳冬期には、木道は雪の下となり、台地は白一色の世界となる。たかが幅250mであるが、これが一番恐ろしい。吹雪かれると、下っているのか、登っているのか判別出来なり、ラッセルとリングワンデリングの可能性が非常に高くなる。
 大山遭難防止協会の方々が雪原に目印を付けられているが、完全に安全とはいえない。
 私は、昭和57年1月に一人で大山山頂に登った。頂上小屋にて休憩し、下山のため小屋を出てみると、猛吹雪の如く荒れ狂っていた。1時間程前の私の踏み跡は吹き消されている。
 風は北風で正面から吹いてくる。堅い踏み跡をたどろうとするが、いつしかラッセルになってしまった。時折遠くを見ながら全体を掴みながら下ろうとするが、視界は数m程となった。
 有る地点でかすかに残る踏み跡のような雪の形に従って踏み込んでいった。十数分進んだところで何か不安を感じて、眼を凝らして周囲を見渡すと、鍋の底のような処に立っていた。登山道からはずれているのが判った。
 今下ってきた踏み跡に従って元の地点まで帰ろうとした途端に、身体が雪の中に潜り込み、キヤラボクの木の間に落ち込んだ。キャラボクは密生しており潜り込んだときは出るのに多大の労力を使う。雪面にようやく出て、道を間違えた地点に戻ったようだ。
 改めて周囲の状況を確認して歩き始めようとするが、現在地が判明できない。頂上台地は東側を進むと夏山登山道沿いに六合目の避難小屋まで進むことが出来るが、北西の季節風で出来る雪庇を踏み抜く危険性が高くなる。用心しつつ吹雪く頂上台地を進む。単独のラッセルに苦しみながら進み、15時頃に前方に1m程の氷柱を発見した。
 頂上台地には氷柱は草鳴社ケルンしかない。ケルンはエビの尻尾を着け寂しく立っているが、私にとっては、生命が保証された一瞬である。現在地を確認できたことは、生命の希望の光が、体中を走る。
 夏山登山道に立っていることが確認できると、歩は一段と早くなる。高度が低くなるに連れ視界は戻り風も弱まり六合目の避難小屋までくると、朝のラッセルの跡が残り、雪面に腰を下ろした尻セードで一気に下る。阿弥陀堂の近くまで着たときには雪明かりで足下がやっと見えるくらいとなっていた。こうして大山寺のキャンプ場に帰ることが出来た。
 あの時、草鳴社ケルンが発見できなければ、旧正面登山道方向に迷い込み雪崩に巻き込まれ、又は頂上台地でリング・ワンデリングを繰り返し体力の消耗、雪庇を踏み抜き北壁に転落していたのかも知れない。

 草鳴社ケルンにまつわる悲しい記録がある。
 草鳴社山岳会が安来町(現安来市)にあった。
 山岳会の会長は山本禄郎氏であった。
 山本氏がリーダーとなり、会員奥田氏、松江の樋野氏、大阪朝日松江支局員の梶谷氏の4氏は、昭和12年12月5日松江市から車にて安来町を経由し大山寺に向かっていた。
 一行は大山登頂を目的に大山寺に向かった。
 赤松の集落に8時に到着したが、新雪のため車はスリップして進めず、バスに乗り換えようとしたが満員で乗車できずに歩くことなった。
 大川寺に着いたのが昼の11時過ぎで、直ちに旅館で昼食をとる。
 彼らは、蓮浄院の横の登山口から大山夏山登山道を登り、頂上そして同じ道を引き返し、昼食をとった旅館に宿泊する予定である。
 大山寺の積雪は1m以上、気温は2度位と少し高め、風はなく天候は晴れと最高のコンディションであった。
 登山の装備は当時としては最高のものを装備し、ヤッケを着込みピッケル、アイゼン等を持ち食料も充分過ぎる準備をし、二合目が午後1時、七合目を過ぎた辺りで零下五度くらい。
 頂上小屋に4時55分到着、軽い食事のあと頂上に立つこともなく下山を始めた。
 頂上台地は薄暗くなり、山本氏を先頭に一列になって下り始めたが歩くこと十数分で猛烈な吹雪に遭遇した。
 大山は独立峰で日本海から15キロ程しか離れていないため、厳冬期では天候の急変はよくあることである。無風状態から北西の季節風が突然吹き始め、草鳴社山岳会の仲間が襲われたのも大山特有の局地気象である。
 想像を絶する吹雪に踏み跡はかき消され、夕闇と複雑な地形のため方角も判別できず体力も消耗する雪との戦いが続いた。前後を歩く者の姿も見失い、先頭の2人が、吹雪の中で待ち、一緒になるとまた前進する。
 九合目付近まで下ったときに、リーダー山本氏は警戒を厳重にするように指示した。彼が一番恐がったのが右手の元谷側に出来る雪庇である。右に寄ってはいけないと思いつつ歩くため正面から受ける風雪のため顔は次第に左を向いていたと思われる。
 八合目付近まで下ったとき、山本氏は現在位置が夏道から外れた地点であることに気がついた。後日判明したことであるが、八合目から発生する枝尾根に紛れ込んでいた。
 午後7時になりルートが判明しないことで、山本氏はビバークの指示を出した。全員で灌木の下に穴を掘り、雪穴に入り込むと肩を寄せ合って腹拵えをした。マッチも湿り暖を採ることも出来ない。各自が自分の手足を叩きマッサージして寒さを堪えたが、着ている物は雪と汗のため全部濡れ気温の低下と風のため体力は消耗していった。
 4人は励まし合ったが、大声を出して叫ぶ者が出た。全員のザックを集めると彼を寝かせ彼の手足をマッサージし、山本氏ともう一人が自分のジャケットや上着を着せた。
 午前3時頃であろうか、山本氏は「僕が救助隊を連れてくる」と、言い出したが3人は引き留めた。この行動は無謀か適切か判断は出来ないが、山本氏は「私は、ここに残る。共に頑張ろう」と、声を大きく言い切った。
 朝方の厳しい状況の中で、弱まった隊員の一人も元気を取り戻しつつあった。数時間過ぎたのか、手元も明るくなり、時計は朝6時10分をさしていた。誰一人昏睡せずに朝を迎えることが出来た。簡単な朝食を採りつつ仰ぐ空は晴れていた。
 雪の下からピッケル等の装具を苦労して掘り出していると、昨日疲労困憊していた一人がまた雪の上に座り込んでしまった。皆の努力で何とか動くことが出来るようになった。
 下る隊形を整えると、山本氏の「暖かい食べ物が待っている」「大山では遭難しないぞ」励ましあって、7時に露営地をあとにした。
 七合目付近まで下ったところで、昨夜から様態が悪かった隊員が倒れた。山本氏がいった「俺がおぶっていく」。ザックは隊員に持ってもらうと、山本氏は友に背を貸して下り始めた。
 寒さと風のため体温が下がり、上着を与えたり、不眠で戦い、荷物を持ったりしたため、この頃には全員の体力も限界に着ていた。山本氏は現在の状況から合議により、次の行動に出た。
 山本氏と梶谷氏が救援のため下山し、現場には奥田氏と樋野氏が居残ることになった。下山する両氏は8時に二人と別れ雪の斜面を下り、藪をこぎ突き進んで行くが、誰も踏んでいない新雪は深く悲惨な状況に向かって行くだけであった。
 山本氏は梶谷氏に現在の状況を手帳に書くように指示するが、梶谷氏は励ましたが「少し眠らせて欲しい」と言うと目をつむり、揺り起こされると、「ここは何処だ」と言いだし、また眠り始めた。揺り起こされると「梶谷君不思議なご縁でした。ダンダン」といった。「ダンダン」は出雲の方言で「感謝の言葉」である。
 一人となった梶谷氏は10時15分単独下山することになった。
 梶原氏は一人で下ること8時間、午後6時5分に横手街道の鳥居(大山寺から桝水に行く道路の左に見える)付近にて大山寺の人に出合い、遭難の状況が伝えられた。
 同夜(6日)7時半に救援隊が出発し、7日午前零時に第2班、同3時半には第3班が大山寺を出発していった。
 救援隊は7日午前零時20分に横手道の桝水道と溝口道の分岐点近くの谷で眠る等に亡くなった山本氏を発見した。標高1050mの地点である。
 奥田氏と樋野氏は山本氏の地点から直登した標高1300m付近で7日午前10時過ぎに死体で発見された。

 これは、大山登山史上初の遭難事故死である。
 このあと、草鳴社ケルンが建てられ、冬の登山者の安全を祈るように立っている。
  大山登山者は、是非ともこのケルンの有り難さとともに、亡くなった山本氏達の大山登山先達への思いを新たにして欲しい。

教 訓
1 大山寺(標高780m)の気温+2度

 
 旧正面登山道への道標(頂上台地)

  冬季に2度は高い。天気図を見ていないが、日本海に低気圧があり南風が吹き込んでいたのではないのか。
  低気圧の移動により、冬型の気圧配置となり北西の風が吹き始め、頂上台地の一行の正面方向から吹き始めたため、東(右)側の雪庇から逃れるため左側に寄りすぎ、八合目付近では既に夏山登山道からかなり離れた正面登山道(現在は廃道)の上部に入り込んだ。
2 出発地でのヤッケ
大山寺から六合目までは樹林帯であり風はない。まして大山寺で気温2度の状況で、上下のヤッケを着ることは汗をかくことである。冬季に下着を濡らすことは、ビバーク時には凍結し凍傷・死につながる。
  現在の登山者は、夏山でもヤッケを着ているが、ゴアテックスの良品が出ているからかもしれないが、一考を提議したい。
3 大山登山開始時間
二合目が午後1時であった。
  夏の登山でも頂上まで3時間弱であり、このまま登頂しても踏み跡が有っても午後4時と遅くなる。実際は5時前に到着している。冬の日没時間を考えると樹林帯に入るか、テント又は小屋に居てもいい時間である。
4 睡眠と体感温度
  一睡もしていない。
  体感温度は零下30度近くになったのではないか。
  風速1mは、体感温度を1度下げるため、強風というから20m/秒位の風は吹いていたとして20度は下がったのではないだろうか。ヤッケや下着が濡れていたとすれば体力が奪われ、気力だけの勝負になっていたのではないか。
5 山本氏の発見地点と横手道
1050m地点で発見されたが、横手道は標高850mから900m付近を走っている。150m程下れば、生き延びたかも知れないが、正面登山道が廃道になってから、小生は秋に登ったことがあるが、ブッシュが酷くとても道以外は歩けなかった。道の跡でも凄かった。
  そのことから、容易に下れないことに気づいて戴きたい。
6 最後に生命を維持するモノ
  山本氏の責任感、体力、精神力、気力等鬼神の如しである。
  梶谷氏の強い体力と精神力。
  最後は、精神力、責任感、気力。そして「経験」である。

参考文献  大山のぬし大山に逝く 春日俊吉著