11970年代の大山周辺の出来事
大 山 寺 の 思 い 出
当時、一般的に使用されていた言葉、その時代の歴史等を鑑みて、当時認識していたままを、そのまま記述しました。
他意はございません。ので、不愉快と思われる方は閲覧を止めて下さいますよう、お願い申し上げます。
あくまでも私個人の思いです。放送禁止用語等ありますが、ご勘弁をーーー
三鈷峰東谷の捜索(昭和46年(1971年)の11月) | スキー泥棒と大山のホラッチョ |
もう一つの遭難騒ぎ「大山の行方不明者が隠岐の島に」 | 国立公園管理事務所 |
大山国立公園管理事務所の池田さんや駐在さんの思い出 | 大山乞食 |
ナナカマドの不法伐採者逮捕 | 大山道と牛馬市 |
単車泥棒かガソリン泥棒の逮捕 | 大山登山について |
三鈷峰東谷の捜索 俺が大山に通いだしたころの公園事務所長が笠原さんだったが、直ぐに池田さんに変わった。 笠原さんの頃、元谷の小屋を無断で使用する人がいて、見回りで小屋で数回お会いした。 たしか50円であったと思うが、俺は事務所で支払って宿泊していた。 俺達大山の仲間たちは、管理事務所長の池田さんに親しくして頂いていた。 池田さんとの最初の出会いというか知り合う機会は、一市さんの弟さんのお蔭だった。 弟の一さんは大学生の時、大山のキャンプ場でアルバイトをしていて、その関係で池田さんとお話しできる機会が出来たのだと思う。 晴れの日、雨の日に関係なく事務所内に上がり込んでは、登山の話や恋の話などたわいのない話を池田さんに話していた。 その当時、大山の登山届は管理事務所に提出し登山していた。大山寺の駐在所は少し奥まった位置で、非常に判りにくい所にあり、普通の登山者は知らなかったと思う。(今の駐在所の少し上にあった。) 昭和46年(1971年)の11月初旬の話だ。 大山の仲間たちが、扇ちゃんの一周忌が終わった後で追悼登山をしようとして、OGさん、SZ、一ちゃん、会のTUNOら数名が大山の国立公園管理事務所内で話し合っていたらしい。 扇ちゃんの遭難当時、私は松山市にいた。毎日新聞の愛媛版に次の記事を見た。 「大山で学生、死ぬ 岩登り中に背中に落石」 [米子]1日午前10時10分ごろ国立公園大山四合目付近の北壁大屏風岩で、ロッククライミングをしていた福岡県○○市―○○大学‐年扇ちゃんの背中に約200m上から落ちてきた20キロほどの岩石が当り即死した。 扇ちゃんはこれまで何回も大山に登山したことのあるベテラン。前日の31日、大山の登山基地大山寺で山友だちの山口県○○のS氏ら五人のパーティーと出会い、元谷小屋で一泊したのち午前10時から大屏風岩に挑戦していた。 S氏さんの話だと「わずか3m登ったところで落石に気づいたが足元は積雪10センチで逃げることもできず、運悪く扇ちゃんにまともに当った」と言っている。 大山の仲間たちが「扇ちゃん」の件で話し込んでいるところに、九州から来たという中年の夫婦が事務所を訪れた。 御夫妻の話では、息子さんは1週間程前に大山に行くと言って家を出たが帰っていない。息子さんは一度大山に登ったことがあったそうだ。 池田さんや仲間たちが、ご夫妻の話を聞いていたが、最近の登山届にはそれらしい人がいないようで、駐在の山崎さんかテツさんを呼んだが、登山届がないので入山場所や目的地、経路も判らないので、大山のどこを捜索していいのか皆目わからなかった。 池田さんから事務所にいた仲間達に、個人的に捜索してもらえないかと相談があった。 その日、管理事務所にいた仲間から大山寺にいた元谷同人Uへと伝わり、その時全体の指揮を執ったのが、OGさんで駐在さんや池田さんと相談し捜索地域や人員の割り振りをした。手分けをして山に入っていった。 仲間たちは、大山の険しく奥深い山をどう探すか困ったが、北壁下部から上宝珠へ、下宝珠を越えて剣谷、縦走路から槍尾根からキリン峠方面と縦走路の上部を探したらしい。 誤って縦走路からの転落や、元谷沢などへの迷い込み。縦走路から短縮コースの上宝珠への下りを間違えて剣谷に入ったのか、天狗の頭から槍尾根を下り南壁方向に下ったのではないかと走り回った。 TUNOは剣谷から阿弥陀滝周辺まで捜索したらしい。阿弥陀滝周辺は険しく遭難騒ぎが起こる場所だから、岩登りの上手な連中が入ったが何の手がかりもなかったと聞いた。 管理事務所に居たTUNOがKUROに電話し、出雲山岳会員に出動の可否を打診し、俺にも電話してきた。 会のKUROから職場に電話がかかってきた。 「大山で行方不明者が出た。正式な救助要請でないけど、管理事務所からの相談だけど、出れないか」 直属の上司に相談したが、返事がもらえなかった。ダンマリである。無断欠勤をするか、行動を起こして電話で許可を得ることも出来たが、上司の目の前の電話で話したものだからそれも出来なかった。 俺はKUROに電話し、「週末に大山に入る」と話をした。 その時に「三鈷峰と野田ヶ山の東谷に入っていないだろうか、そこは誰も捜索に入っていない」とアドバイスをもらった。 土曜日、俺は一人で大山寺にある国立公園管理事務所の池田さんを訪ねた。 行方不明者の状況を尋ねたが、KUROの話から進んでいないようだ。 管理事務所の池田さんに、「三鈷の東谷を探した人がいるか」と質問すると、「捜索は誰も入っていない。あそこは素人は下れないだろうけど、下から間違えて入った可能性はある」とあった。 奥さんにお茶を入れて頂き、池田さんに「今から元谷小屋に上がり、一人で入ります」と言っている時、管理事務所に山岳会のSUGIさんがヒョコッと顔を出した。 私が捜索に上がっていると聞いたので来たと言った。 SUGIさんが同行してくれるのは助かる。前穂高のフリーの高難度5級のルートを一緒に登っているので登攀の技術も確かだし、人格も良いからザイルを結んでくれたら助かる。 池田さんに「明日早朝から東谷を捜索します」と言って、元谷に上がる治山道路の通行許可を受けて、SUGIさんの自動車で、元谷小屋下の堰堤まで上がった。 翌早朝、元谷小屋から中宝珠へ登りユートピアの小屋に上がった。小屋で登攀の準備をしいると、逆縦走の登山者が数名小屋に登ってきた。 ユートピアの三鈷の道標付近では間違えることがないだろうと、小屋から少し振子山向かって下った地点から、夏には高山植物が咲き乱れる斜面を東谷に下って行く。 登山者が「そんな所に入んなー」と叫んでいるが無視をして、高山植物の中を下りキャラボクの中を探しながら下って行くが、急峻で視界が悪いうえに広い面積などでよく探せない。踏み跡もない。 200m程進んでから「足元を確認しながら下ろうぜ」と、お互いに注意しつつ下って行く。沢登りは自分の目の前にスタンスやホールドがあるが、下りとなると草むらに何があるか判らずに踏み出すと、空中遊泳になる。 急傾斜の泥壁が出てきたので、キャラボクに捨て縄をセットし、40mザイル2本で懸垂下降する。 懸垂は泥壁からスラブ状の岩壁に変って行くが、どこかでピッチを切る必要がある。その時、横に走る長さ4〜5m幅5p程の岩溝を見つけて、スタンスにしてここでピッチを切る。 SUGIさんに降りてきてもらい、「ここにハーケンを打とうぜ」と言うと、「広すぎるし効かないだろう」という。 俺はザックから、大山用の特殊ハーケンを取り出す。 ハーケンと言うより長さが30p程ある鉄の丸棒で、8番線より細い鉄が溶接してある。 大山の壁は火山独特の逆層で剥がれ易い岩壁と泥壁と崩壊中の斜面を登攀している。冬季の壁は岩も泥も凍った壁を登攀者に提供してくれる。 泥壁で威力を発揮してくれるのがこの特殊ハーケンである。石溝の中に差し込み少し叩き込む。 ハーケンを打ちこむと時の金属音はない。 特殊ハーケンに捨て縄通してザイルをセットしザイルを投げると下の河原まで届いた。 私は「大丈夫だから。押さえておくから、静かに横揺れさせないで下って行けよ」とアドバイスすると、SUGIさんは静かに下り河原に降り立った。 私はゼルブストにエイトカンをセットして静かにザイルを滑らせる。顔は特殊ハーケンを凝視したままだ。 ゆっくりと足を運んで降りていく。ここでハーケンが抜けると40mは滑落し河原の岩に身体が叩きつけられる。 SUGIさんの所まで降りると、ザイルをゆっくりと引いて回収した。普段通りにやると30cmの鉄棒が飛んくる。 野田ヶ山の泥壁や三鈷峰の壁に囲まれた東谷を捜索しながら下る。 草は枯れ紅葉の谷は美しく、きれいな水の流れを見ながら捜索しつつ下って行く。 阿弥陀滝の下流300m位のところにある阿弥陀川の分岐まで下り一段と狭くなった沢を下り、数日前にTUNOらが捜索したんだなと、幾分気楽になったが、二人は右や左と捜索しながら初めての景観を眺めつつ下り、川床に降り立った。 今捜索では何も発見できなかった。 川床は昔木地師が生活した住居あとがあり、苔むした墓地もある。ここから大山のスキー場の中を歩いて大山寺に帰る。夕方、管理事務所に立ち寄り、池田さんに報告するとSUGIさんの車で出雲に帰った。 それから1・2年たって、赤崎の山深い地で白骨化した遺体となって発見されたと小藤さんから聞いた。 勝田川の上流にある鱒返しの滝か矢筈川の上部だったように聞いたが、どちらも山深く絶壁状態の場所と聞いたことがある。 山菜採取の人が発見したと聞いた。 その時、遺族の方から捜索に関わった人たちに、何がしかのお礼をしたいとの申し出があったようだが、山の仲間のとして受け取らないと断ると、山岳遭難防止協会にザイルなどの装備品を寄贈されたとKUROから聞いた。 注意 : 間違っても、東谷は岩登りの出来る人で、装具のしっかりしていないと、入ってはいけない。 谷の上部にはスラブ状の一枚岩と、垂直の泥壁が行く手を阻んでいる。 もう一つの遭難騒ぎ 大山の行方不明者が隠岐の島に 大山登山に行った娘っ子が、予定日を過ぎても帰ってこないと連絡が入った。 馬鹿な俺は「娘の捜索」なら参加したい。絶対見つけて、美人なら嫁っ子にするんだ。 ザイルで縛り上げビバークといって、2日位は連れ回して手なずけて。ウヒヒ! 登山届が出されていないが、女の子が2人で登ったとすれば、夏山登山道が一般的で行者谷か頂上台地だろうと推測した。 俺も捜索に参加し、頂上台地のキャラボクの樹林帯の中を探しまわった。 キャラボクは地上高3m位で水平に伸び、その下は空洞で夏季には風を遮り体力の温存に適し、ツエルトを利用するとビバークに最高となる。 冬季には雪洞が簡単に掘れるが、入り口が雪で覆われ酸欠になる。 そんなことより、娘の捜索は急を要する。声を張り上げ、頂上台地を走り回り、覗き込み捜索している仲間達に、大山寺の優秀警察官から無線で連絡が入り、直ぐに下山しろと言ってきた。 疲れた身体に充実感がない。捜索失敗の徒労で足取りも重く、敗北感に包まれ大山寺に下った。 管理事務所に帰り着くと、優秀警察官から「娘たちは無事に発見され境港に向かっている。」と意外な一言。 大山の遭難者が境港に、「てっ、言うことはーーー?」よく判らん。 娘っ子は、隠岐の島で発見されたと聞いた。 大山から隠岐の島は見えるが、「因幡の白兎」でもあるまいし、隠岐の島に行けるわけがない。 娘たちの話では「大山に登ると言って家を出て、山陰に着くや計画を変更、隠岐の島に渡り数日、美味しい魚を食べて歩き、観光を楽しんでいた。」 親は、大山登山に行き予定日に下山しないから、すわ遭難と捜索願を出したものだから、大山遭難防止協会以外の我々も狩り出され、山中を走りまわった。 新聞やテレビ報道で大騒ぎになっていることを知らないで、遊び回って港に帰り、自分たちが大山で遭難している。テレビを見て慌てて警察に連絡して出てきたという。 大山遭難防止協会は、警察官や大山寺の旅館の方や鳥取県の山岳会が構成員であるため、島根県の山岳会は所属していなかった。 その優秀警察官は、盲腸騒ぎの時に俺を射殺しようとして失敗した奴だ。 拳銃の腕が悪い為大山寺の駐在に飛ばされたが、体力だけはあった素晴らしい警察官だ。 ITI嬢が「テツの奴、射殺すればいいのにと」言い放った事件だ。 その「テツ警察官」とは、泥棒と警官みたいな親戚付き合いをしていた。 知り合いの喫茶店にスキーを置かない時は、駐在所に預けて下山したりしていた。 その日は、駐在所には誰もいないから、俺のスキーを持ち出し、大山寺をスキーを担いでいた。 突然「テツ警察官」が現れ俺は職務質問をされた。 「オイ、お前、何をしているんだ〜こんな昼、日中から・・・」 「俺は無実で、善良な市民だ」 「それは俺が決めることだ、悪人はみんな善良な市民と言っている」 「・・・」 「ウンで、暇か〜」と言い放った。 「危険なお前を放置できない。任意同行だ」 「俺は善良な市民だ」 「スキー場でお前が他人にぶつかったり、他人に怪我をさせたら、傷害罪で逮捕する。直ぐに逮捕して俺は表彰される。」 「ここに山岳遭難防止協会の腕章がある。右腕に付けてみろ」 「・・・」 「つけたら、俺と歩け」 駐在所にあった腕章を無理につけさせると、スキー場のリフトの係員に「協会の人です」と、大山中の原や上の原で、無料でリフトに乗せくれた。 スキー三昧の一日だった。 それで味をしめた俺が「腕章を貸してヤ〜」「腕章は無いのか」って、警官を脅迫したので指名手配され、射殺の許可が下りていたらしい。 これまでの遭難救助で、大活躍の俺に一日だけ感謝の気持ちを示したのだろう。 駐在さんは、本来任務の他に、犬猫の捜索から、山岳遭難・救助と複雑・多岐にわたるので、俺達山仲間にも気を配り、年間100万人もの観光客の対応にあたる。 1日あたり2,000人の動向を監視する必要がある。 住民や日常的に訪れる人とは、日常的に付き合いがあり良好な関係が築けるが、初めての人に対応するその苦労は大変なものがあると思う。 スキー泥棒と大山のホラッチョ 俺達がよく利用していた喫茶店が大山寺の真ん中にあった。 冬に大山に入り、翌週も入るときには喫茶店の地下室にスキーをデポさせてもらっていた。 地下室はトイレがあり、窓があり浴室もあったと思う。道に面した1階がお店で、2階が住居(?)だと思う。 「おばちゃん、来週 また来るけん、またスキー置かしてぇ〜や〜」 その時、オバチャンが 「置いて行ってもいいけど、亡くなってもしらんけんね〜」と、不吉なことを言った。 オバチャンが、これまでそんなことを言ったことが無かったのに。 帰りのバスの中で、俺が 「おばちゃん、おかしいぜ〜あんな事いって」と言うと、 誰かが 「最近、大山寺でスキーの盗難が起こっているんデ〜」 「俺も聞いた、スキー場だけでなく、オバチャンの地下室でも無くなったんで〜」 「そんで、さっきー」 「だって、オバチャンの地下室にスキーを置くのは、俺達の仲間だけだろー」 「ン〜だしなー」と、小首を傾げていた。 「そういえば、最近アイツ見かけんよな〜」 「あいつって、誰よ〜」 「何とか大学のヤツよ」 「鳥大か〜、島大か〜」 「違う、もう一人いるだろ〜」 「●って奴かー」 「アイツ、○大か○理科大だろー」 「違うらしいで〜」 「アイツ、管理棟でも、おかしぃんで〜」 「だって、アイツに連れられて○大山岳部の小屋に、泊まったの何人か居たんで〜」 「知り合いは、居なかったみたいで〜、現役でよ〜、おかしいじゃろー」と、色々な話が飛び交った。 そうして10年位経ったとき、北海道の山を一緒に登った東京の友人が、大山を案内してくれと広島にやってきた。 俺は「日本山岳会・北海道支部」に所属し、北海道や東京に知人がいた。 広島から三瓶山を案内し、大山に登る予定で三瓶にある国設の施設を訪れ宿泊した。 そこの総務課長と会計課長が山の友達だった。三瓶山に登頂し、その日に車で移動し翌日大山に登るため元谷小屋に泊まった。 早朝 元谷小屋を出発しようとしたとき、「おはようございます。小屋を綺麗にしていって下さいね」と、男が立ち寄った。 その男は「何とか大学の●って奴だった」俺は、唖然として突っ立っていた。 東京の知人は、俺の顔を見ながら「知っている人か」と聞いた。 その年の秋に、三の沢の小屋で山仲間と飲んだ。 倉吉の○○さんや出雲の連中や楽しく飲んでいると、先生に引率された米子の高校生が十数名やってきた。 先生は酒盛りの小屋を見て唖然としていたが、倉吉の○○さんは山岳連盟に加入していて先生たちを知っていたのでワイワイやった。 その時、「何とか大学の●って奴、この前元谷であったでー、元気そうだった」と、俺が話だすと、 「アイツ、中▲か東▲の辺で住んでいるらしいよ」 「山岳ガイドで、大山を案内しているみたいだよ」 「俺、頂上でも出会った」 「アイツ、何とか大学に籍が無かったらしいで〜」 「誰かが、何かの時に大学に確認したら、在籍していなかったし、卒業生名簿にもなかったって」 「あん時、俺も、駐在のテツに色々と聞かれたもんな〜」 「お前、テツに狙われていたもんな〜」 「あれは、一ちゃんが悪いんで〜、テツに撃て、撃てってそそのかすんだもん」 「○さんの金が亡くなった話、知っている。管理棟で〜」 「あれって、自殺騒ぎで、ずぶ濡れになり、吉野で風呂に入れてもらった時だろ〜」 「俺、あん時居たから、○ちゃんの500円札で〜。そん時から姿を見んように、なったげな〜」と尾ひれがついた。 それから2・3年後の春山のこと。 「オイ、大山でイワナを食おうで〜」 「誰が、釣っだいな〜」 「KUROとTUNOだぜ〜」 「スーパーのトレイに乗っていたりして、値札がついているかな〜」 「アイツらなら、養魚場で釣ってくるかもなー」 「中山の養魚場は、潰れえただが〜」 「そこから逃げた奴だぜ〜」 元谷小屋の土間に、木を集めて酒盛りを始めた。 岩魚かヤマメか忘れたが、20cmを超す形のいいものだった。炭火も起こして塩焼きを始めた。 KUROが「小屋の内部体積は・・空気濃度・・幾らだけ〜、炭をおこして火を燃やして密閉しても、何時間は生きられる、ブツブツ」と、根拠もない計算を始めた。 俺は、『また実験台かぁ〜、人体実験は何回目だろう〜』と昔を思い出した。 九○大学工学部出身のKUROは、ナチスもビックリの狂人で、国と時代が違っていたら英雄だったろうに。 翌朝、俺達は無事だった。 炭火などを処分していると、男が入ってきて「火事と清掃には十分注意して下さい」と、言うと小屋を出ていった。 俺達は、間が抜けたように突っ立っていた。 「あれは、何とか大学の●って、奴だったよな〜」 「うんだ〜、絶対にそうだぜ〜」 「何人か、連れていたよな〜」 「やっぱり、ガイドをしているんだぜ〜」 「うんだ〜」 これが、大山であった最後だった。 「●って奴」は、俺達仲間の中では珍しく岩を登っていなかったし、本当にツルンでいる奴もいなかった。 どこかで寂しそうにすれ違って、俺達が仲良くやっているのが羨ましかったんだろう.。 スキー泥棒とキャンプ場の500円札盗難事件は●が、犯人とは判りません。 今(H28年)「ホラッチョ」がテレビやネットで騒がれているが、上手く今の世を泳いでいるだろうか。 大山国立公園管理事務所の池田さんや駐在さんの思い出 笠原さんの後任が池田さんで、我々山仲間によくしてくれた。 管理事務所が管理している山小屋が、山中に数カ所あった。その中の一つが元谷小屋だった。 その当時、元谷小屋の使用料金は、1泊50円で宿泊できた。 小屋は大山北壁が扇上に広がりその一番狭い所にあり、北壁への登攀や、行者谷から頂上。宝珠尾根からユートピア小屋から縦走の基点となる絶好の地点に立っていた。 今は、土石流の関係で西側に100m程の地点に移設されている。 旧元谷小屋は、入り口を入ると石の土間に暖炉があり長椅子が置かれ、右側の暖炉の隣の戸を開けると天狗の間、土間の正面壁向こうに三鈷の間があり、大小のトイレがあった。常駐の管理人はいないし寝具も無い。 小屋は20人が定数と山日記(日本山岳会発行)に書かれていたが、詰め込むと50人は宿泊できた。 常駐の管理人が居ないので、管理事務所で小屋の利用料金を支払い小屋に宿泊していた。 山岳会に入会する以前から単独で小屋に宿泊していた。 金・土曜日の夜に管理事務所にて登山届を記入し、「元谷の宿泊代です」と言うと、笠原さんに「また、来たんネ〜」と言われるようになっていた。 管理事務所長と段々となじみになり、小屋の清掃をして帰るのが条件で、無料にしてもらった。 下山の時部屋と土間の掃き掃除をして、暖炉にたまったゴミを処分した。 冬期は、湿って直ぐに燃えないゴミには灯油とガソリンを混合して燃やした。 時にはガソリンを缶詰の空き缶に入れて、燃えているゴミの中に放り込んだ。そうしてゴミの分量を少なくして下山した。 小屋は石造りで、土間や暖炉の周りは完全に石で造られていた。 だから少し手荒くても火災の心配はなかった。火の気が無くなるまでは待機してげざんしていたが。 山仲間の一さんの大学生の弟さんが夏や冬には、管理事務所のアルバイトとして働いていた。 下山キャンプ場の責任者として働いていたので、その手伝いに何回か泊まった。 山開きの行事や、キャンプ場が満杯になる時に、下山キャンプ場の管理を手伝ったりして、管理室を時々使用させてもらったことがあった。 昭和45年〜50年にかけて冬山に登る人が増えて、金曜日や土曜日の夜には、元谷小屋が満員となる日が出来てきた。 元谷小屋に上がり、満室の場合は大山寺に帰る途中のある施設の軒下にビバークした。 雪と風を凌げれば最高(?)の宿になった。 大山寺の中を徘徊していると、なじみの店が出来たし、いっぱしの乞食として認知してもらっていた。 ある旅館のお風呂を使用させて頂いたことがあった。 これは山仲間の親戚筋の旅館だった。 単車泥棒かガソリン泥棒の逮捕 大山での盗難騒ぎに仲間が参加して、武勇伝を披露しては悦に入っていた事があった。 ある夜、俺は酔いつぶれてキャンプ場の管理室で寝ていたら、ガヤガヤと騒ぎながら五月蠅いやつらが帰って来た。 「単車泥棒かガソリン泥棒を捕まえた」と乞食達が得意そうに話していた。 数名の男たちを追い回して、山中に追い込み寒さと怖さで震え上がっている泥棒を締め上げ警察に突き出して来たと言っている。 大山寺は陸の孤島みたいなところで、泥棒しても逃げ切れるし、警察もいないと犯罪に走ったのだろう。 だが、第3の警察官と名乗る我々の仲間が見逃さなかった。 ナナカマドの不法伐採者逮捕 また、元谷の仲間で烏ガ山の性癖(西壁が正しいが)に出かけた時、頓挫して大山寺に引き返していた時、ナナカマドを伐採しているトラックを摘発したことがあった。 1トントラックの荷台に赤く色着いたナナカマドが満杯で積み込まれ、まさに出発する直前に捕まえた。 ナナカマドは生け花の材料になっただろう。駐在に連絡に行く者、トラックを押さえ、身柄を確保する者と大活躍だった。 烏ガ山の西壁は、大山環状道路の鍵掛峠を下り鳥越峠への登山口を過ぎ地点で車を降りて、ブナの樹林帯を進んで木谷の沢を渡り進んで行くと、岩壁の下にたどり着いた。 西壁登攀は壁の下部に沢山の虫の死骸があり、その厚さは5センチ以上幅50センチで壁下に数十mと凄く気持ちが悪かった。 一枚岩でホールド、スタンスも無いうえに岩の隙間が無いので単調なボルト打ちで20m位登って1日が終わった。 それ以後その壁には行っていないのでその後の状況は判らない。場所は鍵掛峠から東側の烏ガ山を見ると岩壁が見える。 その時、見つけた沢山の山ブドウの実を、数日後に収穫に訪れて奴隷としてこき使われた。 ある雨の日、元谷小屋を早々に撤収し、SUZAさんら数人で管理事務所に上がり込んで駄弁っていた。 その時、奥様が「お昼を食べていく」と聞いたので「いや〜そんな〜」と遠慮していると、池田さんが「広島から送ってくれたので、食べていけよ〜」と言われて「マツタケのご飯に吸い物」をふるまって貰った。 池田さんか奥様かが広島の出身だった。 大山乞食 厳冬期に元谷小屋を目指して、5・6人で夜道の雪道を登っていった。 小屋の土間に入ると、土間まで人が寝転んで居て宿泊できそうになかった。 すると誰かが「神社の物置かに畳の部屋があるで」 「左側の部屋で雪も入らんし」 「そうすっかぁ・・・」と、治山道路を下り神社に向かった。 翌早朝、誰も神社に登って来ない時に、神社を後にして元谷小屋を目指して登り返した。 小屋に着くと土間で朝食をとり、天狗沢を目指して登った。 優秀警察官たちとは、大山寺の治安の問題で俺達とは険悪な雰囲気になっていた。 金門といって、行者さんが修行する大山の神聖な場所であり、賽の河原で、石が積み上げられているその神聖な所。 観光客が北壁を眺め、写真を撮る所で、ハーケンを打ちこみ、ボルトを打ってゲレンデにして岩登りを楽しんだ。 ルートは3本で、一枚岩の中央、その岩の左側のオーバーハングに、そしてハングの隣の急峻なフリーのルートだ。 俺達は元谷小屋を根拠に、神社や下山キャンプ場の管理所の軒下に潜り込んで寝たりと、大山乞食として肩で風を切っていた。 大山寺に出没し喫茶店の娘さん、土産物屋の娘さん、旅館の、観光客達の周りを俳諧(徘徊)し、今で言う「ストーカー」行為をするものだから、駐在さんとは仲良くできなかった。 街中を歩きまわっていると、呼び止めて駐在所に任意同行し、炬燵に入れて身柄を確保し、時には喫茶店にて事情聴取や現場確認を取られた。 遭難騒ぎが発生すると、俺達を山に連れ出し、扱き使い、その代りに大山寺の治安を確保していた。 だから、池田さんがいないと駐在所に行き、大山寺の防火・防犯について真剣に邪魔していた。 大山寺の駐在さんは、遭難の第一報が入ると、現場に急行し救助活動をするから、若くて体力のみ(?)に優れた人が常駐していた。 ハンサムで背が高くがっちりしていた。 本当の遭難者もでた。自殺騒ぎの奴もいた。 北壁にある元谷沢を下山路とした娘もいた。 大山登山と称して隠岐の島観光の奴等と色んな人種が登ってくると、脆い壁、深い渓谷とブナ林、大山キャラボクの中へと俺達を酷使し、その後ろで鵜匠の如く操っていた。 でも、そんな優秀警察官や池田さんが転勤や交代で居なくなると、駐在にも寄り付かなくなり、管理事務所にも顔を出さなくなった。 俺も70近い。池田さんは20歳位上だったし、優秀警察官も同級生なら定年退官で鳥取県警にいないだろう。 大山の自然や歴史を後世に伝えるためや、今後の日本の治安や将来のために、俺が立ち上がらないと大山寺や日本が持たないだろう。 俺が警察官になって、大山寺の治安を守ってやろう。 悪い奴を逮捕する前に撃ってやる。 国立公園管理事務所 昭和38年 山陰海岸国定公園が山陰海岸国立公園に昇格 46年 環境庁が設置され、国立公園行政厚生省からに移管 48年 大山隠岐国立公園管理事務所を大山寺に設置 50年4月26日に、俺やTU、UEが結婚した。同じ山岳会員、同年齢の3人が挙式を上げた。こんな偶然ってあるだろうか。 平成元年 大山隠岐国立公園管理事務所を大山寺から米子市内に移転 昭和45年頃の鳥取県警八橋署大山寺駐在所は、現在駐在所の上にあった。 その後大山寺郵便局の付近にあった。 博労座のバス停には大山情報館が立ち、その情報館の道路向かいに現在の駐在所がある。 大山隠岐国立公園管理事務所の跡地に、大山歴史自然館が建っている。 大山道と牛馬市 大山寺博労座で行われる牛馬市に参加するものは、桝水原のリフト終了にある横手道を大山寺に向かう石の鳥居に番所があり、まず入場料を支払っていた。 牛馬の売買が成立すると、中番所(現在の八橋警察署大山寺駐在所あたり)で手数料を支払う。 売り手と買い手双方拍手を打ち、飲食をして売買が終了したという。 大山登山について 暗夜行路の作者「志賀直哉」は大正3年(1914年)夏、31歳の志賀直哉は伯耆大山に登っている。 以前には桝水高原から登る正面登山道(現在登降禁止)が利用され、石室も造れれている。 夏山登山道は、大正9年につくられた。だから、志賀直哉の大山登山は桝水高原から登る正面登山道を登っているだろう。 時任謙作が見た『影富士』と呼ばれるもので、ご来迎を見てしばらくした時間帯でなければ見ることが出来ないものでもある。 当時の大山登山は夜間行われていたらしい。夜の12時ころに出発し、大山山頂でご来迎を見るのが大山登山であった。 「暗夜行路」には、山陰本線で鳥取駅から伯耆大山駅、そして分けの茶屋と続いている。 「暗夜行路」には、阿弥陀堂周辺の様子は詳しく書かれているが、蓮浄院は少ない。 昭和31年頃に松江に旅した志賀直哉に米子市長が大山への再訪を懇請し、蓮浄院でもその訪れを待ったが彼は結局大山に来なかった。 「大山はなつかしいが、以前と変わっているはずだし、それを見るのは辛い」という理由であったという。 昭和31年11月8日付の葉書が蓮浄院に届いている。 昭和48年当時蓮浄院は、なお大正初年の姿を保持している。 大正5年の山陰日日新聞によれば、京阪神から大山に行く人のために鉄道の割引制度が作られ、大山口駅から大山寺まで通う馬が30頭ほど用意され、繁盛したとあります。 大正10年には登山者の増加に伴い、現在の夏山登山道や正面道を登っていた。 昭和3年晩秋には伯備線が開通し、益々登山者が増えた。 冬、夏を問わず北壁ルート、別山ルート、縦走ルートなど新ルートが数多く開拓され、北壁にそそり立つ大屏風岩が最後に残ったが、そこへクライマーが挑んだのは戦後のことでした。 最初に登ったのは、昭和23年港叶さんと鳥取医専山岳部でした。 その当時の、ルート開拓の歴史は後日アップして行きたいと思います。 「大山の登攀の歴史」 2016年5月にアップしました。 |