志保が朝食の準備を始めだしてすぐに、間桐桜が衛宮邸に来訪した。
 何時もと変わらない朝の挨拶の後、志保の隣で朝食、及び昼食のお弁当の準備に入った桜は、志保との世間話の最中に何処か違和感を感じて首を傾げた。
「? どうしたの、桜」
 テンポ良く白葱を刻んでいた桜の手が止まったことに気がついた志保は、器用に巻いていた大型の出し巻き玉子を巻簾に取りながら、桜の方に視線を向ける。
「あ、いえ。……その。……先輩、何か良いことでもあったんですか?」
 何処か不思議そうな表情の桜に、志保はその姿を鏡に映したかのように同じように首を傾げて、不可解そうな顔で桜と視線を合わせた。
「……何で?」
 志保にとって、その台詞は久しぶりにかけられる類のものだった。自分としては何時もとまったく変わらない日常の一コマ。何千回と繰り返した何時も通りの朝の自分。考えるまでも無く素の自分の姿である筈。だからこそ、桜の台詞は志保の虚を突いた。
「あ、いえ……その」
 本当にきょとんとした志保の表情を珍しく感じながら、桜は志保の疑問に言葉を捜す。
「えっと。何か楽しそうっていうか、何時もと雰囲気が違うっていうか……何ででしょう?」
 何故自分がそう思ったのかを考えて、桜はその理由が思い当たらず、さらに首を傾げることになった。本当に不思議そうな桜の様子に志保は一瞬表情を失い、そして淡く苦笑する。
「いや、何って言われても私の方が知りたいんだけど。……私、何時もと何処か違う?」
 両手を軽く広げて、首を傾げたまま正面から桜と向かい合う志保に、今度は桜が苦笑した。
「いえ、何時も通りです、よね。……何時も通りちょっと変です」
「む、それは酷いな。藤ねえほど変じゃないぞ」
 やや憮然とした志保に、桜はくすくすと笑う。
「やっぱりあれです。長い付き合いの中で先輩、少しずつ藤村先生に染められていってるんですよ」
「……ということはあれだね。桜もそのうち染まってくる訳だ?」
「えっと、私もう結構染まっちゃってますよ、この家に」
 志保の反撃に、鮮やかに切り返す桜。そんな桜と顔を見合わせて、そして志保は微笑んだ。
「……うん、確かに。桜の味付けは我が家の味付けだ。そう考えれば桜は衛宮家に染まってるのかな」
「ええ、染まっちゃってますよ」
 交わされる軽口、そこに隠された重みをお互いに触れないようにし、ただ二人して穏やかに作業を続けていった。





 衛宮邸の朝食は、今朝も最前線(フロンティアライン)と化していた。
 新興勢力であるセイバーの台頭に伴い、対抗意識を燃やした虎が暴走。それに負けじとばかりにセイバーの箸捌きが唸りを上げる。
 かつては虎:桜:志保で5:3:2だった白米は、およそ1.5倍量を増量してなお足りず、割合として虎:セイバー:桜:志保が3:5:1.5:0.5となっていた。
おかずは軒並みハイペースで消化され、大皿に盛った山盛りの筑前煮に至っては、虎:セイバーが1:1の互角の勝負にて消費、弁当用に台所に避難させていた分量を除き全滅。志保と桜の胃袋に到達することはついに無かった。
「せ、先輩。緊急事態です。お弁当用のご飯がありません!」
「くっ、やはり先に盛っておくべきだったか。何時もより大増量して炊いてたから油断した」
「せ、先輩特製の筑前煮がぁ……」
「うん? あれは残り物適当にぶった切って炊き込んだ手抜き料理だからオッケー。お弁当用にキープ済みだし」
「……なら良いですね」
「クールだね、間桐上等兵。――うーん、とりあえずお弁当用のご飯を炊く……と桜は朝錬には間に合わない、ね」
「ううっ、困りました」
 顔を見合わせて溜息を吐く人並みの胃袋しか持たない二人。
 数瞬の黙考の後、ぽん、と膝を叩いた志保は、立ち上がりながら桜に指示をだした。
「よし、桜は食後のお茶を淹れてくれる? 私はご飯炊いてくる。桜の分は後で私が弓道場の方に持っていくから」
「え、え! でも悪いですよ」
 やや吃驚した顔を見せて遠慮する桜に、志保は苦笑いを見せて口を開く。
「気にしないで。何時も世話になってるしね」
「当然、お姉ちゃんの分も持ってきてくれるんだよねー、志保?」
 そんな、美しい師弟愛を、姉代わりの台詞がぶち壊しにする。
 邪気も無くさぞ当然とばかりの大河の主張に、志保は何かを堪えるかのようにこめかみを押さえた。
「黙れ、虎。何時もよりかなり食べただろ、節制しろ、節制」
「えーっ、桜ちゃんばっかり贔屓するのは良くないぞ。志保にはもうちょっとお姉ちゃん孝行することを要求します!」
「はっはっは。愛しい姉が行き遅れないようにダイエットに協力するなんて、私って姉孝行だよね!」
「むーっ、お姉ちゃんは志保より先にはお嫁になんか行きませんー。志保をよろしくって切嗣さんから頼まれてるんだから!」
「奇遇だね。私も雷画の爺さんから藤ねえを宜しく頼む、って頭下げられたんだけど。大体、年齢考えたら藤ねえの方が先にだな……あ、そうか、婿を取るほうだっけ?」
 どうしても頭の上がらない祖父の名前を出されて、大河の額にたらり、と汗が一滴流れ落ちる。
「じ、自分が不利だからって、お爺様の名前を出すのって、お姉ちゃん、卑怯だと思うの……」
「……あー、はいはい。とりあえずご飯炊いてくるわ」
 脂汗をかきながらも、なんとか反論しようとする大河を、冷ややかな目で眺め見た志保はそのまま踵を返して台所へと足を向けた。
「あ、私も行きますね」
 そしてその後を桜が追う。
「ううっ、志保にはお姉ちゃんへの愛が足りないと思うな……」

「……良いんですか、藤村先生拗ねちゃってますよ?」
 水を入れた薬缶を火に掛けた桜は苦笑いしつつ、計量した米を洗っている志保に声を掛けた。背後の居間では、いじけてお箸で皿の中にのの字を描いている大河と、マイペースに漬物を咀嚼するセイバー。
「良いよ、食べ過ぎなのは事実なんだから。たまには良い薬だよ。そんなことより、桜も急がないと遅れるんじゃない?」
「あ、そうですね」
 かちゃかちゃと桜は急須とお茶の葉、そして湯飲みを準備する。その合間にちらり、と志保の洗った米の分量を見た桜の唇が、微かに笑みを形作った。桜と志保、そしてセイバーの昼食分にするにしても、少しばかり多いその量に。
「朝錬終了までには間に合う、な。うん、大丈夫そうだね」
「……ええ」
「? ……何?」
 桜の暖かい笑みに気が付いた志保が不機嫌そうに口を開いた。それに対し、「いいえ」と首を振る桜。
「……だって仕方ないだろう。生徒にたかるような恥かしい真似なんかされたら、保護者としては情けないんだからさ」
「……そうですね」
 早口で呟く志保に同意し、桜はお茶の道具を居間へと運ぶことにした。口元の微笑をそのままに。





「……で。桜はとうの昔にに登校しているっていうのに、藤ねえはなにやってんのさ?」
 食後のお茶の後、水を吸わせていた米を炊飯器にセット、スィッチを入れた志保は、未だに居間でまったりとテレビを見ている大河に声を掛けた。
「うん?」
「いや、何で不思議そうな顔をするのか、そっちの方が不思議なんだけど」
「えー、ほら。うちの部って部長がシャンとしてるし」
 悪びれずにそんなことを口にする大河に、呆れ顔を見せる志保。
「美綴がしっかりしてるのは知ってる。だからと言って、顧問が登校しないでも良い理由にはならないだろ?」
「あはは、いや、そうなんだけどねー」
「今日はどうしたのさ、藤ねえ。さっきから変だけど何かあった?」
 首を傾げた志保を、何故か大河はじっと見つめた。その奥底までも覗き込もうかという真剣な目は大河にしては珍しく、だから志保はつられる様に大河と視線を合わせる。
 奇妙な緊張感を湛えた二人に、セイバーは見ていたテレビから視線を外し、二人の方を眺め見た。
「……うーん? ね、志保。何か、あった?」
 数瞬とも数分ともつかない時間の後、何処か不思議そうに大河は志保に尋ねた。漠然としたその問いに、志保は既視感を感じる。微かに首を傾げた志保は、すぐにその既視感に思い当った。先ほど桜に尋ねられた問い。おそらくは大河の問いはそれと同種のものだと。
「……何って言われても分からないんだけど。どうして?」
「んー。…………良く分かんないや。何も無いのなら良いんだけど、ね」

 志保の返答に何かを納得したのか、ちゃぶ台に手を突いて大河は立ち上がった。軽くスカートの裾を払うと、志保に笑いかける。
「じゃ、お姉ちゃんも行くとしますか。セイバーちゃん、留守番お願いねー」
「……ええ、お任せください」
 こくりと頷くセイバーと。
「で、志保はお弁当お願いねー」
「……あー、はいはい。良いから早く行きなよ」
 しっしっと手を振る志保。
 そんな二人に笑いかけて、そして大河は居間を後にした。

「……ね、セイバー。私、何処か変かな?」
「……いえ、別段昨日と変わったところは見受けられませんが?」
「……だよねぇ」
「……ええ」

 不思議そうな二人の背後を、テレビからの冬木の街のローカルニュースが流れていく。

『本日未明、冬木市でまた、ガス漏れ事故が起こりました。これで、同様の事故は……』





 桜と大河から遅れる事数十分。セイバーの見送りを背に、衛宮志保は衛宮邸を後にした。ゆったりとした普段通りの歩調で、何時もと変わらない通学路を辿っていく。長い坂の下に広がるのは冬木の街並み。手前側の深山町とその向こう、未遠川を挟んだ対岸の新都。今日までずっと志保が暮らしてきた街並み。そして……現在の志保の戦場。
 ようやく此処まで辿り着いた。ようやく。ようやく。
 準備期間は殆ど無く。未熟な自己は自分が一番理解している。それでも。
 それでも、この戦争を、確かに志保は望んでいた。この時が来るのを待っていた。ただその為にのみ走り続けてきた。
 その筈だったというのに。
 なのに、何故。
 何故こんなにも、落ち着かないのだろう。
 何時もと同じ朝、何時もと同じ風景。だというのに、其処に何か違う色彩が混ざっているかのような不自然感。ザラザラとしたガラス越しの景色を指で追うようなもどかしさ。何かを見落としているかのような不安定さ。収まりの悪い居心地の悪さ。
 原因は分かっていた。桜と大河からの疑問。志保にとって意味の掴めないその問いが。志保にとって答えを出しようが無いその問いが。心の一部に雑音を雑ぜたかのようにじくじくと違和感という名の存在感を主張していたからだ。振り払おうとしてもその違和感は澱のように深く沈殿し、堆積し…………志保の精神の奥底に楔を入れていくかのように纏わり付いていた。

 何かを見落としている。

 それは自分のことでありながら、志保自身には気が付かないよう何か。桜や大河には何となく分かる程度だけど、セイバーでは分からないような事柄。
 だが、その様な事が在るのだろうか。体調や気配というものの違いなら、仮にも剣の英霊たるセイバーが気が付かず、一般人である、かどうかいささか疑問は在るが、桜や大河だけが気が付くような事象が在るとは思えない。
 二人の勘違いという事であればそれだけの話。それで良い筈だった。けれど、どうしても志保はこの違和感を振り払うことが出来なかった。
 まるで、その違和感が志保の精神の深奥、眼を背けている場所から滲み出て来るかのように。

 振り払えない、奇矯な感覚。何時もと同じ、それでいて何時もと何処か歪んだ、世界。

 ――結局、志保はその思考を放棄した。振り払えないのなら思考ごと無かったことにすれば良い。余計な事に気を取られないようにその思考を閉ざし。精神を理解出来ないモノとともに鉄のように固めてしまう。少なくとも今は戦時中、余計なことを考える隙など不必要。故に、志保はその心を切り捨てた。自分の奥底、深く眩い深淵の彼方へ。

 そうして、衛宮志保はその存在を、彼女がそう在ろうとする方向へと固定した。揺らがないように、崩れないように。
 校内には戦争相手が居るのだから。少なくとも一人。遠坂凛とその従者が。可能性としては後二人。結界を張った相手と、そして、ひょっとしたらランサーのマスターも。隙は見せられない。油断も出来ない。そして、隙を見せていない事を、油断をしていないという事を、他人に悟らせてもいけない。普通の生徒として、ただの一般人として、周囲に溶け込む。
 結果、衛宮志保はいつもの通りに自分の存在を日常に埋没させる。





 目を背けた。
 耳を塞いだ。
 意識すら向けることなく。
 疑問すら抱くことなく。
 気が付いたことにすら、無かったことにしてしまう。
 識っては、いけない。知っては、いけない。何故なら、それは……。





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