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 深夜、古い石油ストーブの燃える灯火だけが光源の薄暗い土蔵の中で、衛宮志保はぼんやりと微かに揺れるその炎を眺め見ていた。
 日が変わってすでに二時間近く経過している。
 帰宅後、一旦は布団へと潜り込んだ志保だったが、収まらないざわざわとした感覚の所為で眠りに落ちることが出来ず、仕方なく横で寝ていたセイバーを起こさないよう部屋を抜け出して、先ほどからこうして土蔵の中で膝を抱えていたのだった。
 考えなければならないことは無数にあるし、しなければいけないことも山のようにある。なにより、体力を回復させるために睡眠を取るべきなのは志保にだって解ってはいた。しかし、千路に乱れ惑う精神がそれを許さなかった。
 夜の校舎での一件からの一連の出来事が、統合性無く志保の脳裏に浮かんでは消えていっていた。始めのうちは何とか思考を制御しようとした志保だったが、巡り廻る記憶の流れに流されてしまい、その方向性すら定めることができなかった。仕方無く、志保は浮かびは消える泡沫のような情景と取り留めの無い感覚の揺れに任せるまま、その思考に結論を出そうとする試みを放棄した。




聖杯戦争……セイバー……遠坂凛……赤い……間桐桜……奔る槍……ただ歩いた……拳銃の鉄、刃の鋼……耳を塞げ……手を伸ばせない……痛み、痛み、痛み、悼むには資格がない……赤い赤い果ての世界……白と黒の……同調……長身の神父……翻る赤い色彩……軋む回路……それは矛盾……「問おう、貴女が私の」……鍛え上げた戦闘理論……打ちて弾いて流して避けて受けて……失われたモノ、封印したモノ……銀の髪の少女……それは無数に……無銘の刀、無銘の私……だから蓋をしてしまう……管理者……理解出来ない、でも理解出来る……英霊……全て遠き……願いなんか無い……「自身の痛みを」……死は隣に、命は遠くに……手品のように……声は嗄れ、願いは忘れ……痛みは生きているから……「一度だけ、助けて」……褐色の、白髪の……燃える太陽……黒い孔……荒野……無限の■……見てはいけない……赤と青の色彩、乱れ打ちて……考えるな……投影開始……蘇る幻痛……陰陽の双剣……ただ鮮やかに……体は……駄目だ、この先は駄目だ……体は、剣で……でも届かない、今の私では届かない……だから一際鮮やかに記憶に焼き付けられたその姿を……




『……そう、か。やっぱりあれは……』
 とりとめも無く浮かんだ映像の中、ふと気になることを思い出して、志保は記憶からその事柄を引きずり出した。
 赤い、英霊。遠坂凛のサーヴァント。クラスは不明、戦力も不明。だが、おそらくは強い。ランサーを相手に近接戦闘で互角に戦っていた技量。そして――今なら冷静に判断できる。何度も弾き飛ばされながらも、その度に彼の手に現れたあの双剣。
『――投影魔術、か』
 あの双剣から読み取れた情報は、志保の想像を超えていた。基本骨子、作成理念、超えてきた戦場、担い手の戦闘経験すらをも練りこんで結ばれた幻想。本物に限りなく近い贋作。いや、むしろ捨て駒としての使用も想定するなら、使い方次第で本物をも凌駕しうるだろう。
『ということは、遠坂のサーヴァントは生前魔術師だった、ということか。――まったく、正体不明にも程があるな』
 双剣を振るその姿を、はっきりと志保は思い出せた。焼き付けられたかのようにその姿は記憶に張り付いている。身を切られるような痛切な感覚とともに、その存在を脳裏に浮かべられる。届かない届かない届かない、彼女では足下にも及ばない高く遠い領域。けど――。
「投影、開始(トレース・オン)」
 志保の手に現れる、小さなナイフ。投げ打つことを念頭に彼女自身が作成した一振り。自身では完璧な投影だと思っていたソレが、今は玩具のように感じられた。基本骨子の甘さが目立つ、素材の再現に粗がある、圧倒的に練り込みが足りない、不意をついて投げ打つぐらいにしか役に立たないような出来損ない。
「ッ!」
 腕を一閃して志保は、離れた位置の棚の側板目掛けて、投影したナイフを投げ打った。カコン、という軽い音とともに板にナイフが刺さるのを確認せず、そのままさらに腕を振る。
「投影開始(トレース・オン)ッ!」
 腕を振りながらその手に同形状のナイフを三本投影、最初に投げたナイフを追うように投げ打った。二本が命中、一本は角度が甘かったのか板に弾かれて床に落ちる。
 その動きを眼で追いながらも、志保は自身の精神に埋没する。
「フッ!」
 さらに一閃、反対側の手に投影した三本を投下。全身の神経がやすりで削られるかのように熱く痛む。あまりの激痛に赤く染まる視界。それでも志保は、くるりと身を回転させて両手を振りかぶった。
「投影(トレース)ッ!」
 志保の視界が紅く霞んだ。でも的の位置は覚えている。なら――。
「開始(オン)ッ!!」
 両手を振り抜いて、左右に一本ずつ投影したナイフを、同時に記憶の中の的へと打ち抜いた。
 半ば崩れ落ちて、両手を床に着いて息を荒げる志保の耳に、ほとんど重なって聞こえた命中音。その音を確認した志保は、そのまま倒れるように床に寝転がった。ゆっくりと元に戻る視界を動かして、的のナイフを確認する。9本中8本命中。外れた一本も板に傷を残していた。
「は、ははは。……無様なものだね」
 大の字に手足を広げると、志保は暗い天井を仰ぎ見た。燃えるような鋭い痛みに苛まれていた神経が、今は熱を伴った深い鈍痛に軋みを上げている。早鐘のように鳴り響く心臓の音が耳に触る。もはや指一本すら動かせそうに無かった。
 投影精度を上げるためにわざわざ自作したナイフ。おそらく自分にとってこれ以上投影しやすいものは無いだろうというソレを投影してすら、ただの9本で悲鳴を上げる魔術回路。魔力のほうもごっそりと抜け落ちてしまっている。そのあまりの使い勝手の悪さ故、志保はかなり早い段階で魔術をメインの戦闘手段にすることに見切りを付けていた。だからこそ、魔術回路自体の鍛錬や魔力量の増加はほとんど考慮に入れず、いかに投影を戦闘の流れに組み入れるかだけに腐心していた。そのこと自体を、志保は後悔してはいない。他に鍛えるべき所は無数に在ったのだから。
 ――しかし、彼女は見てしまった。自身が切り捨てていた、投影魔術を主流に組み入れた戦闘技術の完成型を。それが彼女の心に皹を入れていた。羨望、理想、追い求めるべきモノ、ただ真っ直ぐに純粋な……憧憬。そんな感情に自身では気が付くことが出来ず、ただその心の苛立ちだけを持て余していた。
「最優を引いたところで、これじゃあ……ね」
 サーヴァント中最優を謳われるセイバーを引いたところで、志保では彼女を使いこなせていない。そもそも志保の魔力量では、魔力を乗せる事によってブースト可能なセイバーの全力戦闘を維持しきれない。セイバーを従えているという最大のアドバンテージすら、志保にとっては利点となり得ていない。
 脆弱な魔術回路。底の浅い魔力。女性であるという以前に、子供にしか見えない体躯。社会的にも未成年であるというハンディキャップ。そんな確認するまでも無い数多くの自身の問題点達。
『――でも、それでも、戦うって決めたから』
 魔術を行使した事による倦怠感が志保の体にじわじわと滲み出して来る。その体の欲するままに、志保はゆっくりと目蓋を閉じた。










 ―――見覚えのない(/見慣れた)風景だった。
 燃える空、荒れた地面、砂混じりの風。
 果てのない大地に突き立つ無数の■は、まるで墓標を連想させる。
 ならば此処は、きっと墓場なのだろう。
 生物の気配の途絶えた、無機質な世界。
 無数に突き立つ鋼の群は、担われることもなく、ただ朽ちていくのだろうか。

 ――私の、ように――

 そうして、私は瞳を閉じて、この居心地の悪い、懐かしい世界から背を向ける。











 視界に感じる白さに違和感を感じ、志保の意識は覚醒に向かった。それに反比例するように、記憶の中のナニカがこぼれ落ちていく。覚えておくことは出来ず、忘れてしまったことすら気が付かず……ただ言い知れぬ喪失感だけを抱えたまま、志保は目を覚ました。
「――あれ? 土蔵……だ」
 座布団の上で猫の様に丸まっていた志保は、ゆっくりと半身を引き起こした。
「……?」
 顔の上に違和感を感じた志保は、ぺたぺたと手のひらを顔面に這わせてみた。その手に触れる、湿った感触。
「――涙? ……なんでさ?」
 少しだけ首を傾げた志保だったが、心当たりを思いつかなかったため、考えることを放棄した。窮屈な姿勢で眠っていたせいか、体のあちこちが凝り固まったようになっている。とりあえず立ち上がろうと、床に手を付けて体に力を入れ――。
「ッ!」
 全身の神経を走る引きつるような痛みに顔を顰めた。それは限界まで使用した魔術回路がヒートアップした余波。
「……わ、すれて、た。昨夜、や、っちゃった、んだっけ」
 志保は視線をずらして、離れた箇所の棚に眼を奔らせた。木製の側板に今だ突き立ったままの八本のナイフへと。それを確認した志保は軽く溜息を吐くと、鈍く脈打つ痛みを無視して強引に体を引き起こした。
『それでも、いつもよりは痛みが無い、な?』
 今までの志保なら、限界まで魔術回路を行使した場合、立ち上がることすら一苦労だった。だというのに、今朝は痛みこそ感じるものの、行動に支障が出るほどではない。
 志保は昨夜の校舎での投影の後のことを思い出した。回数にして一回、ナイフ三本だけの投影とはいえ、志保にとってもほぼ最速での投影、それなりに魔術回路への負荷があったはず。だというのに、気が付いたら痛みすら残っていなかった。
『それどころか、あれを回数に入れたら、昨日は12本投影したことになるんだよね。……どういうことだろ?』
 グリスの足りない歯車のようにぎしぎしと軋み音を上げる躯を、志保は強引に引きずり起こした。痛みの存在を念頭に入れておけば、動かすこと自体に不都合は無い。そして志保は一晩中付いていたストーブの火を落とし、そのまま全身の鈍痛を無視して、土蔵から冬の早朝の庭へと歩きだした。

 庭へ出た志保は、朝の陽に眼を細めながら、大きく深呼吸して冬の澄んだ空気を肺に送り込んだ。土蔵の中の独特の籠もった空気と違う新鮮な酸素と、早朝の冷えた気温が、彼女の脳に残っていた、紗を掛けるかのような胡乱な部分を吹き飛ばす。
「……?」
 冬の鈍色の雲の浮いた空を見上げていた志保は、ふと視線を感じて母屋へと眼を向けた。
「――えーっと」
 土蔵に一番近い縁側。何故かそこには、いつもならこの時間は道場で瞑想しているはずのセイバーが、板張りの廊下の上に座布団を一枚引いて身じろぎ一つせずに鎮座していた。その眼は冷ややかに志保を眺め見ている。
「――おはよう、セイバー?」
 どことなく不機嫌そうなセイバーに、志保は遠慮がちに声を掛けた。
「ええ、お早うございます、マスター」
 じーっと志保から視線を逸らすことなく、何処かよそよそしげなセイバーの台詞。そんな彼女の様子に軽く首を傾げた志保は、ふと気が付いた。セイバーの座っている場所からは土蔵が一番よく見えることに。
「えっと……、何時からここに?」
「――昨夜マスターが布団を抜け出してからすぐに、ですね」
「つまり一晩中……。寝ててくれて良かったのに」
 そんな志保の台詞に、微かにセイバーが息を吐いた。溜息未満呼吸以上の、小さな吐息。
「何か……悩んでいるようでしたから。一人で考えたいこともあるでしょう、しかし今はまかりなりにも戦時中、これからは私に一声掛けて頂きたい」
「いや、よく寝ていたみたいだし……」
「シホ、お忘れのようですがこの身は英霊、そもそも睡眠を必要としていません。一応魔力の節約のために睡眠を取ってはいますが絶対に必要と言うわけではないのです」
 呆れたようなセイバーの言葉。そこでふと気が付いた志保は、微かに悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「じゃ、食事も必要ないのかな。もしかして余計なお世話だった?」
「いえ! それとこれとは話が別です! シホからの魔力の供給は十分ではない。なら節約するに超したことでは無いでしょうし、他に摂取する機会と手段があるのなら摂取するべきでしょう。むしろシホにはマスターとして私を十全に運用するために努力する義務があると思います!」
 要約すると、食事の量とグレードを上げろということかな、と苦く笑う志保。そんな志保を見て、自分の台詞を思い返してバツが悪そうに頬を染めるセイバー。
「ん、了解。と言うことでまずは朝食だね。ここは寒い、そろそろ家の中に入り……?」
 縁側から母屋に上がろうと、サンダルを脱いで廊下に足を掛けた状態で、志保の動きが止まった。
「? どうしました、シホ」
 不思議そうに首を傾げる志保を見て、座布団から立ち上がったセイバーが声を掛けた。
「ふむ」
 セイバーの問いに答えず、志保は廊下へと上がると、じっとセイバーを見詰めた。それは何の感情も何の感慨も何の感性も存在しない、機械のような瞳。
 その表情のない硬質な志保に、セイバーは訝しげな視線を向けた。
「……いや、何でもない。朝食の準備をするから待っていて貰えるかな」
 セイバーの視線に気が付き、すっと志保の表情に淡い笑みが戻った。それはまるで切り替えるかのように、貼り付けるかのように。
 首を傾げるセイバーを背に、くるりと志保は台所へと踵を返した。
 ゆっくりと、手のひらを握ったり開いたりして、セイバーとの会話の最中、いつの間にか感じなくなっていた全身の痛みの残滓を探しながら。





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