深夜の冬木の教会の前に、窓にきっちりとスモークが貼られた黒塗りの高級外車が停車した。
 藤村組から出して貰ったその車を降りて、志保は目の前の建物に眼を送る。その屋根の上のシンボルに。
「神は天に在りて、か。世はすべて事も無しとは行かないみたいだけどね」
「教会――ですか」
 同じように車から降りたセイバーがその建物を見て呟いた。もちろん武装は解除しており、今は普通のカジュアルに身を包んでいた。
「そう――ここには聖杯戦争の監督役が居てね。ま、参加登録みたいなことをしておこうかと、ね」
 冗談めかして言う志保の双眸は、硝子玉のように何の表情も浮かべていなかった。
「……昨夜、電話でコトミネ神父と言ってましたが……」
「そう、言峰綺礼、だったかな。君も覚えて居るんだね。前回の参加者だよ」
「……ええ、キリツグは彼を最も警戒してました」
 厳しい視線で教会を見遣るセイバー。
「ん、らしいね。ということでセイバー、悪いけどここで待っててくれる? 相手に君の姿を見せたく無い」
「はい、……どうか気を付けて、シホ」
「一応ラインに注意しておいて。何かあったらすぐ呼ぶから。ま、車の中で夜食の続きでもしててよ」
「……なにか含みのある台詞な気がしますが……」
 首を傾げるセイバーに、志保は軽く笑いかけた。
「いや、別におにぎりを全部食べられたから怒ってるなんて事はないよ。……まだサンドウィッチは手付かずだしね」
「――き、きちんと残しておきます……」
 そしてセイバーは車の中へ戻り、志保はゆっくりと教会の扉へと歩き出した。
 身の丈に対して少々大きめのコートをはためかせながら、志保は緩やかに歩を進める。その姿はどこか夜の校舎で遭遇した、赤い外套を纏った英霊に酷似していた。
 歩きながら、二、三度、志保は拳を握りしめた。
『……痛みが、無い……どういう事だろ?』
 先ほどは気にしなかったが、いつもなら魔術を使った余波で熱と痛みが残るはずの神経が、今回は全く違和感を感じない。
 それどころか、夜の校舎での一件で全身に残った痛み、倦怠、発熱、吐き気、そういった不調全てが拭い去られたかのように消え失せていた。体内にはまったく異常が感じられない。
『――まあ、良いや。今は考えるのは止そう。余計な思考に気を取られてて良い相手じゃないはずだしね』
 考えるべき多くの事を凍結し、志保は目の前の扉に手を掛ける。
「……」
 扉から微かに漏れる灯。一度だけ大きく呼吸をし、そして志保は目の前の扉を開いた。

 広く、荘厳な礼拝堂。扉からまっすぐ進んだ先の祭壇の前に、その男は立っていた。
 神父服を着た長身の、深く暗い眼をした男を見た瞬間、志保は理解した。彼こそが切嗣が最大に警戒した言峰綺礼という存在なのだと。
 志保と男、両者の視線が交差する。
 男の、値踏みするかのような、鑑定するかのような視線を、志保はただ冷徹に受け止めた。
「君が――衛宮切嗣の娘かね?」
「ええ、初めまして、ですね。言峰神父」
 ヘドロのような眼だ、志保は言峰綺礼の眼にそんな感想を抱いた。陸に揚げられた魚の様な、生気を感じさせない硝子のような瞳だと。その眼には酷く見覚えがあった。
『……鏡を見ているようだね』
 何のことはない、その瞳は志保自身の眼にそっくりなだけだった。ただ虚ろに世界を傍観するかのような眼球。その事が今夜の志保には少しだけ不快だった。
「……フ」
 志保の眼の奥に何を見たのか、言峰綺礼は微かに口を綻ばせた。
「――さて、大まかな処は衛宮切嗣から話を聞いていると思って良いのかね、衛宮の名を持つ娘よ」
 まとわりつく泥土のような愉悦の響きを伴った言峰の声が、静まりかえった礼拝堂にじっとりと堆積していく。
「ええ、それで結構です」
 その志保の答えに――、今度こそ言峰綺礼は愉快そうに笑った。
「なるほど、なるほど。フム、では尋ねよう。君がセイバーのマスターとしてこの第五回聖杯戦争に参加する、ということで間違いは無いか」
「――ええ」
 その答えに言峰綺礼は軽く、それでいて満足げに頷いた。
「宜しい、では……君をセイバーのマスターと認めよう。この瞬間に今回の聖杯戦争は受理された。――――これよりマスターが最後の一人になるまで、この街における魔術戦を許可しよう。――存分に殺し合いたまえ、衛宮の名を継いだものよ」
「…………」
 志保は無言で、ただ軽く頷いた。
「……何か聞きたいことでもあるようだな。良いだろう。ルールに則って此処を訪れたのだ、答えられることなら答えてやろう。だがその前に――」
 ゆっくりとした動きで、言峰綺礼はポケットから携帯電話を取り出した。
「電話を一本かけさせて貰ってもかまわんかね?」





 深夜の遠坂邸。
 遠坂凛は、居間で今夜までの出来事について思いを巡らせていた。
 アーチャーの召喚、学校の結界、ランサーの出現、ランサーとアーチャーの戦闘、姿無き闖入者と、そのサーヴァントらしい剣の英霊……。
 思考の海に沈み込む凛の鼻腔を、ふとふくよかな香りが擽った。
 顔を上げた凛の前にすっと差し出される紅茶のカップ。凛は一口啜って、乾いていた喉を潤した。そしてその絶妙な味加減に感心する。
 凛はちらり、と紅茶を差し出した自身のサーヴァントに視線を走らせた。召喚時のささやかな事故で、記憶を混濁させたままの正体不明の弓の英霊。しかしその実力は、白兵戦で槍の騎士と互角に戦えるほど。
「ああ、ありがとう」
 とりあえず紅茶の礼を口にしてから、凛はふと思い出したことをアーチャーに尋ねた。
「……そういえば貴方、ランサーとの戦いの時に何か言ってなかったっけ? アイツの真名に関すること」
 戦闘中のアーチャーの台詞に、それを臭わすような処があったはず。その凛の疑問に、アーチャーは軽く肩を竦めて答えた。
「ふむ、ランサーか。……彼の真名は分かりやすいな。おそらくはアイルランドの光の御子だろうさ」
「アイルランドの光の御子……って、クー・フーリン!? ってことはあの槍って」
「ああ、彼がクー・フーリンならまず間違いなく"ゲイ・ボルク"だろうな」
 ゲイ・ボルク。"幾たび躱されようと必ず相手を貫く"と言われる呪いの魔槍。なるほど、あの悪寒は当然だったと、凛は思い出して慄然とした。打たせてはいけないと思ったわけだ、と。
「やばかったわね。で、セイバーの方は? 何か気が付かなかった?」
 凛の脳裏に浮かぶ可憐な剣士。格好から欧州方面の英霊ではないかと予想したものの、女性の剣士の伝承はそれほど多くなく、その中で彼女に当て嵌まりそうなものは凛には思いつかなかった。
「いや。残念ながら私は彼女と剣を交えていないのでね。予想も立てられない」
「結局、分からずじまいか。少女の姿の剣の英霊なんてそうそう居ないと思うんだけど……。せめてマスターの顔でも見れてたらね」
 再び思考に入ろうとした時、居間に電話のベルが鳴り響いた。
「……」
 時刻はすでに11時を回っていた。嫌な気分のまま、凛は受話器を取った。

『凛か。私だ』
 受話器の向こうは、凛の後見人にして兄弟子にあたり、しかも現在は聖杯戦争の管理人という、いささかややこしい関係にある言峰綺礼だった。
「こんな時間に何の用? 綺礼」
 不機嫌さを隠そうともせずに、凛はつっけんどんに答えを返す。
『ご挨拶だな。―――まぁいい。先ほど七人目から連絡があった。これにより、今回の聖杯戦争は受理されたわけだ』
「そう。……一つだけ質問するけど、最後に召還されたのはどのサーヴァント?」
『その程度の情報ならいいだろう。最後に召還されたのはセイバーだ。一昨夜召還された』
「そ、ありがとう。それじゃこれで正式に」
『そう、聖杯戦争は開始された。おそらく君が勝者になるだろうが、せいぜい油断はしないことだ』
「ご忠告感謝するわ」
『では、な』

 言いたいことだけを言って切れた受話器を忌々しげに戻し、凛は再びソファーへと腰を下ろした。
「……これで正式に聖杯戦争が始まった、ってことよね」
 嘆息するかのような凛の呟き。そんな凛の様子を観察していたアーチャーが、凛に質問した。
「そういえばマスター、大切なことを一つ聞き忘れていたのだが。凛、君は聖杯に何を望む。君の願いは何だ。主の願いを知らなければ私も剣を預けられない」
「願い? 別にないわよ」
 凛はアーチャーの問いに迷うことなく考えることもなく、さらりと答えを返した。
「――――――何?」
 愕然と、あるいは呆然と、アーチャーは凛を見つめ直した。そんなアーチャーの姿に、軽く首を傾げる凛。  
「では一体何のために戦うというのだ。聖杯戦争とは聖杯を手に入れるための戦い。なのにその聖杯に願う願いがないというのはどういう事だ……!」
「だって自分で叶えられる願いなら自分で叶えるべきでしょう。自分で叶えたい願いなら聖杯に頼らず自分で叶えないと意味がないことだし。わたしが戦う理由はそこに戦いがあるからよ。聖杯なんてその結果。貰えるから貰うけど、現時点での使い道は考えられない。ま、なにか欲しい物が出来たら使えばいいだけでしょ?」
「―――つまり、君の目的は」
「ええ、勝つのが目的よ。勝つために戦う。それだけ」
 凛の、どこまでも真っ直ぐに揺れること無い視線がアーチャーを射抜いた。
「………まいった。確かに君は、私のマスターに相応しい」
 しばらくの無言の後、誇らしげにアーチャーは言葉を紡いだ。その瞳は真摯に、自身の主に向けられている。その実直な視線に、遠坂凛はやや顔を赤らめた。
「え、ええ。そうよ。だからアーチャー、貴方は私を勝たせなさい。そうしたら、わたしは貴方を勝たせてあげる」
「ああ、了解した。マスター」





「では、な」
 その台詞を最後に通話を切り、携帯をポケットへと戻す言峰を、志保は表情を消し去った眼で観察していた。
「……どういうことです、言峰綺礼。何故私にわざわざ他のマスターの情報を晒すような真似を?」
 冷徹な刃物の視線が、深く瞑い底のない視線と交錯する。
「お前が正しく衛宮切嗣の後継なら……この街の管理者の調べぐらいは当然済んでいるのだろう。わざわざ目の前で話して見せたのは、私が凛と結託していないという証とでも思って貰おうか」
 くくく、と愉悦を含んだ笑いを口の中で転がす言峰綺礼。
「しかし――凛の勝ちは動かないと思っていたのだが――」
 心の奥底まで覗き込むような眼が志保の全身をなぞる。
「だが、お前が参戦するのなら話は別だろう。お前は正しく衛宮切嗣だ。――いや、違うな。違う」
「……」
「最初は出来の悪いイミテーション(模造物)かと思っていたのだが、まさか質の悪いミューテーション(変異物)だったとはな。在る意味に置いてお前は衛宮切嗣すら超えている。これで結果が分からなくなったな」
 言峰の戯れ言を、志保は振り返ることで黙殺した。
「どうした。聞きたいことが在るのではなかったのか」
「――貴方は答えない。だから聞くだけ無駄だろうさ」
 それがずっと言峰綺礼を観察して、志保が出した結論。嘘を吐かず、真実を語ることで虚構を組み上げるような存在。ならば下手に質問などして余計な情報を与えるべきではない。
「フン――では私から一つ尋ねよう」
「……何?」
 その言葉に、志保は足を止め、言峰の問いを待った。
「お前は自分の歪みを――いや」
 言葉を選ぶように、言峰は台詞を切って一拍おいた。
「――お前は、自身の痛みを感じるかね?」
「……あたりまえだろう。別に無痛症になんかなった覚えは無い。……貴方の言葉の意味が分からないな」
「……なるほど、お前の存在は面白いが、お前自身はつまらない。たとえその傷を切開したところで痛みを感じない患者とは。いや、そもそも発痛点の認識が無いお前はその痛みを理解出来ない。実に――意味がない。お前の切開は私の役目では無さそうだ。お前はその歪みを抱えて行くがいい」
 淡々と響くその言葉を背に、志保は出口へと歩き出した。
「もし保護が必要なら――いや、お前に保護が必要な筈も無いな。では聖杯戦争の最後に会おう、衛宮――志保」
 言峰の視線を背中に感じながら、振り返ることなく志保は礼拝堂から外へと出た。
 何故か全身にじっとりと嫌な汗をかいている。

――自身の痛みを感じるか――

「……」
 志保の心の奥底がざわざわとざわめいていた。

――お前はその歪みを抱えて行くがいい――

 言峰の言葉が呪縛のように志保の意識にまとわりつく。
 一瞬だけ振り返りたい誘惑を振り切り、そして志保は待たせていた車へ向かって歩き出した。





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