「――――――誰だ…………!!!!」

 その声を耳にした瞬間、衛宮志保は弾けるかのように立ち上がり、自分が来た方向へと駆けだした。
 もつれる足、乱れたままの呼吸、全身に気怠く残る痛みの余波。そしてなにより、いまだに精神と肉体は混乱したまま。それでも志保は強引に体を引き起こして足を動かした。
「くぅ……っ!」
 ともすれば砕けそうになる腰を無理矢理引き起こす。全身を走る微細な震えがかちかちと歯を鳴らしていた。
 一瞬だけ視線を外に走らせて、志保は遠坂凛と――その従者の姿を視界に捉える。しかし、今度は先ほどのような狂乱に侵される事は無かった。
『――何だったんだ?』
 彼が視界に入ったのは一瞬だけ。鍛え上げられた長身、褐色の肌、白い髪。そして闇夜においても鮮烈な赤い――外套。その姿が、そのカタチが、その存在が、志保には酷く気になった。
『ク、今はそういう事を考えてる場合じゃないだろう!』
 視界を掠めたその姿は志保の脳裏にはっきりと焼き付いている。なら考えるのは後で良い。とりあえず今は生き残る――! 
 ちらりと外を見た視界に、蒼い戦士――おそらくはランサー、の姿は無かった。ということは、霊体化して自分を追ってきていると考えるべきだろう。サーヴァント中最速を謳うランサー相手に、何処までも逃げおおせは出来まい。志保の思考はそう結論を出していた。
『セイバー! ゴメン、ミスった。出てきて!』
 ラインを使い、志保は自身の"剣"へと声を送る。
 次の瞬間、自分の進行方向か何かを蹴破る激しい音が響いた。
『すぐ向かいます!』
 頼もしい声に油断が生じたのか志保の足がもつれ、一瞬だけ蹈鞴を踏んだ。その頭上を何かが高速で通り過ぎる。チ、と風が髪を掠める感触と同時に、志保は体を床へと投げ出した。
 前回り受け身の要領で床を一転。ちらりと見えた背後には、槍を撃ち抜いた姿勢で残心している蒼い戦士。
「チ、外したかよ。一発で痛みを感じるまもなく楽にしてやるつもりだったんだが……ま、悪く思うなよ、坊主」
「――坊主だなんて失礼だな。私はこれでも女の子なんだけどね。それに――、もう遅い」
 片膝を着いた姿勢で、志保は背後のランサーへと返事を返す。目前の廊下、闇に閉ざされた先、こちらに向けて駆けてくる彼女の気配。
「何を言って――な、んだと!」
 志保の台詞に戸惑ったランサーの気配が、その志保のはるか前方に突如沸き上がった圧倒的な気配に驚愕へと変わった。
 その機会を逃さず、志保は前方へと体を投げ出した。体の捻りを利用し、鞭のように腕をしならせながら、魔術回路を起動させる。
「――投影(トレース)」
 ガキン、と撃鉄が落ちる幻聴とともに、志保の神経を熱を伴った痛みが走る。それは彼女の脆弱な魔術回路を奔る魔力の余波。
「開始(オン)!」
 その痛みを無視しながら、その手に三本の小さなナイフを投影する。
「……ッ!」
 投影と同時に、志保はしならせた腕を振り抜き、手にしたナイフを蒼い戦士へと投げ打った。狙いは顔面、当てる必要は無く、当たるとも思っていない、相手の視界を一瞬でも逸らせる為だけのただの妨害。そして志保は、その勢いのままさらに体を横へと転がす。
「チ、魔術師だと! それに――」
 自身に向かってくるナイフを、煩わしげに手の槍の一閃ですべて弾き落とす槍の戦士。その一瞬の間で、志保は前方の教室の扉まで辿り着いた。
「――この気配、サーヴァントか! まさか七人目だったとはな!」





『セイバー! ゴメン、ミスった。出てきて!』
 ラインを通じての声に、セイバーは手にしていた6個目のおにぎりを口の中へと放り込み、一気に呑み込んだ。
『すぐ向かいます!』
 立ち上がりながら、お茶の入ったカップを掴み、中身を喉に流し込む。椅子を蹴倒しながらカップを机の上に戻す。そして扉を蹴り飛ばして廊下を疾走りだした。
 廊下の角を壁を蹴ることでクリアし、勢いを殺さずに走り抜ける。
『見えた!』
 廊下に膝を付くマスターと、その背後の……蒼い戦士。手にした深紅の槍の禍々しさ。
『けど、近すぎる――』
 マスターと槍の戦士の距離の近さに、セイバーは慄然とした。どれだけ速く疾走しても間に合わない距離――。
『クッ……』
 それでもセイバーは、速度を上げた。彼女の殺気を感じたか、驚愕の表情を浮かべた蒼い戦士と視線が交錯する。
 その時、ふらり、とマスター、志保の体が揺れた。次の瞬間、くるり、と軽業師のように前方に一転。戦士との間合いを開きつつ、さらにその手からナイフが放たれた。
「チ、魔術師だと! それに――」
 志保の投影を眼にした槍の男の声が廊下に響いた。
 ナイフ自体はサーヴァントである戦士に傷一つ与えられない。だが、それが視界を塞ぎに来るなら別だった。自分に向けて駆けてくるサーヴァントに対する隙を作りかねない。だから戦士はその、顔面に向かってくるナイフを槍で弾き――その結果、志保は一撃が確実に届く間合いから逃げ出した。
「――この気配、サーヴァントか! まさか七人目だったとはな!」
 蒼い戦士は、志保には注視せず、自身に駆けてくるセイバーに向けてその手の槍を構え直した。
『? マスターを……狙わないのか?』
 そんな蒼い戦士の様子に、セイバーは心の中で首を傾げる。
 余人には知らぬ事だが、ランサーのサーヴァントである蒼い戦士にある令呪の縛りが、マスターであったであろう少女、志保を狙うことを許さなかった。全てのサーヴァントと戦わなければならないランサーにとって、その機会を無くすマスター殺しは"出来ないこと"であったのだから。それにすでに機会は逸していた。志保を狙った場合、もし一撃に失敗したなら、向かってくるサーヴァントの一撃を受ける可能性が高くなっていたのだから。
『ヘッ、だがこの状況は悪くねぇ』
 ニィ、と蒼い戦士の唇が愉悦につり上がった。
「無手で向かってくるとは……舐められたものだな!」
 セイバーは、隣の部屋へと転がり込んだマスターとすれ違う。その酷く――真っ青な表情が少し気に掛かったが、今はそれどころでは無いと思い直し、戦士との間合いを詰める。
 セイバーは蒼い戦士に向かってその手の得物を振り上げた。風王結界。彼女の剣を包む鞘にして不可視の刃を。
 その動きに不穏なものを感じた戦士は、本能の命じるままに、その手の動きを注視して――。
 突進した勢いのまま打ち下ろしたセイバーの一閃。それは辛うじて間に合った蒼い戦士の槍に弾かれた。
 高い金属音が、夜の校舎に鐘の音のように響く。
「見えない、武器だと!」
 軽くステップして間合いを広げる戦士を、セイバーは油断無く剣を構えたまま見送った。
『セイバー、もう二人来るはず。この街の管理者とそのサーヴァントが。出来れば三つ巴は避けたい』
 彼女のマスターからの念話が、セイバーの追撃を止めた。不用意に敵に漁夫の利をくれてやる必要も無いだろうと思ったからだ。しかもその相手は、彼女のマスターが最大の仮想敵として認識しているこの街の管理者なのだから。
 セイバーは、武器を構えたまま一瞬だけ脇の教室に視線を向けた。
 彼女のマスターはそこへ逃げ込んでいる。冬木の管理者に姿を見られない為だろう。テリトリーを同じくしていながら正体を隠しているアドバンテージの重要性は、セイバーにもよく理解していた。
 しかし――セイバーは目の前の青い戦士を観察する。紅く、禍々しい槍を油断無く構えている精悍な男を。彼女の"見えない"武器を、あのタイミングで防いだその技量。間違いなく彼がランサーだろうとセイバーは結論付けた。
『しかし、この状況はいささかややこしいですね』
『ん。出来れば今日は分けたいんだけどね。それを許してくれる相手かどうか……』
『……来ました。もう一体です』
 ライン越しの会話の途中で、セイバーはもう一体のサーヴァントの気配に気が付いた。それはランサーと同じ方向から駆けて来る。
「――これはまた、面倒な事になっているものだな」
 セイバーとランサーの睨み合いから少し離れたところで、赤い外套を翻し、遠坂凛のサーヴァントが実体化する。
「しかも君が倒しきれない相手と来たか」
「ケ、放っとけよ」
 嫌そうに顔を背けるランサーに赤き英霊は肩を竦めることで答えた。そしてその視線はセイバーへと向けられ――。
「……」
「……?」
 セイバーはその視線を正面から受け止め、そして困惑した。彼の眼に敵意は無く、そして殺意も無く。まるで懐かしい旧友にでも会うかのような、大切な何かを見いだしたかのような。
 間違っても敵に向けるものではない優しく、そして哀しい色の瞳。
 次の瞬間、それが眼の錯覚だとでも言うかのように、彼は皮肉げな笑みをうかべて彼女の視線を受けて止めていた。
『……気のせい、ですか?』
 心の中で首を傾げる彼女の耳に、誰かの走る軽やかな音が聞こえてきた。廊下の端から一人の少女が駆けてきている。
「来たか、凛。だが少々ややこしい状況になってしまっている」
 リン。その名にセイバーは覚えがあった。そうか、彼女がトオサカリン――この街の管理者か。
 彼女の到着に合わせるかのように、窓の外の夜空、雲の切れ間から月が顔を覗かせ、月光が廊下を照らしだし、其処に立つ四者を浮かび上がらせる。
 黒髪を二つに分けて結んだ、勝ち気そうな瞳の少女が其処にいた。数年もしたらさぞ人目を引く容貌に育つであろう、整った顔立ち。息を整え、視線を走らせて状況を確認している。
 その視線が、セイバーのそれと交錯した。
 何処までも冷徹に"敵"を観察する視線と。自身より年下にしか見えないその可憐な姿に驚いた視線が。
 しかし凛の視線が驚愕に揺れたのは一瞬、すぐに冷静な魔術師の観察眼に切り替わる。
 なるほど、これがシホが最大の仮想敵に想定したトオサカリンなのですね――すっと切り替わった凛の表情にセイバーはそれを納得した。確かに彼女は容易ならざる相手だ、と。
 「―――サーヴァントが出てきたってことは、さっきの奴がマスターだったってことかよ。ハ、コイツは面倒なことになってきた」
 狭い廊下を苦にもせず、ぐるりとランサーは槍を回転させた。その切っ先はピタリとセイバーへと向けられる。と同時に立ち位置を、遠坂凛とその従者が視界に入るように動かした。 
「――アーチャー、他にも誰か居たの?」
「いや……私が追いついたときにはこの二人だけだった」
「おお、居たぜ。コイツのマスターはこの先の部屋に飛び込んだ。まだ居るんじゃねえか」
 遠坂凛の疑問に答える赤い英霊、とランサー。そして顎でセイバーの横を指し示す。 
「……何でアンタが答えるのよ?」
 呆れた顔の凛にニヤリと唇を吊り上げるランサー。
「おやおや、知りたかったんじゃないのかい? オレは答えてやっただけだぜ。……で、居るんだろうコイツのマスターよ。それともなにか、テメエもこそこそ隠れるしかない大腑抜けか」
 ランサーの視線が射抜くかのように教室へと向けられる。
「我がマスターの侮辱はやめてもらおうか、ランサー」
 シャン、と言う小手の鳴らす微かな音とともにセイバーの手がランサーに向けられる。何も握られていないその手を警戒するランサーを見て、凛は一瞬だけいぶかしげな眼をし――そして気が付いた。甲冑の少女の手には、"見えない"何かが握られていることに。
「ケッ、腑抜けを腑抜けと言って何が悪い。――――そんなことより一つ訊かせろ、貴様の獲物―――それは剣か?」
「――――フ、さて何だろうな。斧か、弓か、槍剣か、棍かもしれん。案外と杖だったりしてな」
「ハ、ふざけてろセイバー。――――しかし、この状況はいささか面倒だな」
 ランサーの台詞はこの場に居る全員の総意でもあった。サーヴァントが三体にマスターが二人。しかもそれぞれが敵同士なうえに、お互い手の内を可能な限り隠している。
「確かにこの状況は面倒ね。――――ランサーと……多分セイバー。そうね、一つ訊くわ。学校の結界……仕掛けたのは貴方達のどちらかかしら?」
 状況がややこしいのなら整理すればいい。凛は現時点での状況から一番対処しておきたい内容を選び出した。学校の結界。もし二体のうちのどちらかの仕業なら先にそちらを優先させる。ついでに台詞にささやかな罠を仕掛けておいた。引っかかればラッキーという程度の稚拙な罠。
「オレがそんな回りくどい陰険なことするかよ」
 吐き捨てるように答えを返すランサーと。 
「それは私に対する侮辱か、魔術師」
 硬質な声で答える甲冑の少女。その鈴を鳴らすような声に込められる殺気が凛を射抜いた。しかし、その殺気を受けてなお、遠坂凛は微笑みを浮かべた。
「……悪かったわ。これだけは確認したかっただけなの。―――セイバーであることは否定しなかったわね」
 ささやかな勝利、得た戦果は少女のクラス。自身のミスに言葉を呑むセイバーを見て、凛は苦笑してしまった。彼女こそが、遠坂凛が引き当てたかったカード、サーヴァント最優と謳われるセイバーなのか……。彼女を引き当てた姿無きマスターを微かに羨みつつも、凛は次の手を打つことにした。
「提案するけど……今夜のところは分けにしない? 貴方達があの結界を仕掛けたのでないなら、わたしにとっては、今日急いで戦う必要も無いわ。このまま三竦みでいるよりはいいと思うけど」
 それは結論の先送り。けれど、不確定要素の多すぎる現状においては有効な一手のはずだ。
「オレはいいぜ。むしろこっちから提案したかったくらいだ」
 凛の台詞に、渡りに船とばかりに同意するランサー。
「セイバーの方はどうなのかしら?」
「……良いでしょう。今日のところはこちらとしても戦いを望んでいません」
 不承不承同意するセイバー。彼女としては、その提案がマスターの望みに合致する以上、同意するしかなかった。なにより、先ほどから沈黙をしているマスターの様子が気になっていた。
「それじゃオレは引かせてもらうぜ――じゃあな」
 一瞬の間で、ランサーは霊体化してしまう。
「ではこちらも引かせて貰うわね、セイバー。セイバーのマスターも」
 凛はセイバーと、そしてその背後の教室の扉に向けて声を掛けた。そしてそのままゆっくりと後退る。その凛にセイバーは声を掛けた。
「――この結界は貴方達の仕業でもないのですね?」
「――――ええ、わたしたちじゃないわ。こんな外道な仕掛けはわたしの趣味じゃない。これはわたしの誇りに賭けて誓う」
「……失礼した、魔術師。貴方の誇りを犯した事を謝罪しよう」
「大したことじゃないわ……出来れば、貴方とは最後まで戦いたくは無いわね。ではまた」
「ええ、また」





「シホ――彼らは引いたようです。――シホ?」
 教室へと足を踏み入れたセイバーが見たのは、月の光を浴びながら小さく丸まるように座り込んで、己の体をかき抱いている志保の姿だった。
「ん、分かった」
 いつも通りの平静な声。まったく揺らいでいない視線。――しかし、志保の全身は微細に震え、その顔色は月の光を受けてなお青白かった。
「シホ、大丈夫ですか?」
「――何が?」
「いえ、……確かに今のは危険でした。死はすぐ間近に在った。恐怖するのは当然ですね――」
 冷静な魔術師とはいえ、彼女はまだ若い。この平和な世では、そうそう死に直面する事など多くない。なら、今のように死に恐怖する事は当然だろうと、セイバーは思った。むしろ、あの状況にあって、恐怖に身を取られてなお、打てる手を打っていったその胆力をこそ認めるべきだと。
「……恐、怖?」
 セイバーのその台詞に、志保は不思議そうに首を傾げた。
「恐怖。……そっか、恐怖か。私、怖かったのか……」
「……?」
「いや、ごめん。使ったことのない感情だったからちょっと混乱しただけ。理由が分かれば大丈夫」
 志保はスッと眼を閉じた。
「うん、大丈夫。もう大丈夫。――蒼い方はランサーのようだったね」
「……ええ、真名の方までは分かりませんでしたが」
 ゆっくりと志保の眼が開いた。その身の震えは完全に止まっている。
「セイバー、遠坂とそのサーヴァント、どう見た?」
「確かに、油断出来ない相手ですね。サーヴァントの方は分かりませんが、容易ならざる相手と思います」
「……他には? その――、あのサーヴァントを見て違和感とか本能的に何か、その、感じなかった?」
「? ――いえ、特には。手を合わせれば何か分かるかもしれませんが」
「そっか……」
 ゆらり、と志保は立ち上がり、ぱんぱんと埃を払った。
「とりあえず移動しよう。知り合いに言って足を用意して貰うから、待つまでの間に何を見たのか話すよ――」
 コートのポケットからプリペイド式の携帯電話を取り出しながら、志保はセイバーに声を掛けた。
「はい。――この結界は良いのですか? コレは良くないモノのようですが……」
 セイバーの疑問に、志保は肩を竦めて答える。
「残念だけど、調べた限りじゃ私には無理。解除不可能。仕方ないから餌として利用するさ」
 ま、起動しないことを祈ろうか、と言いながら携帯のボタンを押す志保。
 そんな二人を、ただ冷たい月だけが空高くから見下ろしていた。





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