――その光景だけは、今も鮮烈に焼き付いている。
 もはや詳細は朧げに。それでも、ああ、それでも。
 君のその姿だけは、擦り切れたこの記憶の中、はっきりと思い出せる。
 薄暗い空間で。月の光を背に。真っ直ぐにその視線をオレに向ける君を。
 気高く、誇り高きその身を、オレの剣として共に戦った君を。

 磨耗し、磨り減り、絶望に塗れてなお、
 己の道にすら裏切られ、永遠の牢獄に囚われてそれでも、
 オレはその姿を忘れる事など無かったのだ――





 普通の学生として授業を受ける己がマスターを、最後尾の壁際で霊体化したまま眺めていた赤い弓の騎士は、それなりに警戒心を張り巡らせたまま、意識を深い追憶の海へと沈めていた。
 守護者として過ごした、一瞬とも或いは永劫ともいえる時間が、彼の記憶のほとんどを摩り減らしてしまっている。それでも、召喚時の混乱した状況から抜け出し、その現状を確認した彼は、"今この時"こそが、自分の願い焦がれた"その時"である事を確信していた。
 遠坂凛の名前が。
 何処か見覚えのある風景が。
 忘却の彼方、それでもその精神に残っている幾許かの想いが。
 曖昧な感情とともに、この時間こそが、かつて彼が生きていた時間であることを主張している。
 これが、或る"望み"を手にしてから最初の機会なのか、それとも幾千幾万幾億の出番の果てに巡った機会なのか、今の彼に知る術は無い。すでに守護者として座に在る彼にとって、時の流れの楔すら意味を持っていないのだから。時間軸から切り離された存在である守護者は、出番があれば、あまねく時間、あらゆる空間に無色の力として顕現させられる。それ故、今回のように、狙った時間、願った空間に、ある程度の自由意志を行使可能な実体を伴って召喚されるという事がどれほどの奇跡なのか、彼は良く理解していた。
 背中だけが見える遠坂凛。
 今、教壇で教鞭を執るうら若き英語教師の姿。
 朝方、自身のマスターと会話を交わしていた、弓道部所属の後輩。
 何処か憶えのある街並み。
 それらを眼にする度に、脳裏に鈍い痛みを伴いながら、もはや覚えていない筈の記憶の断片を浮かび上がらせる。遠い昔に、自らが手放していった大切だった筈のモノ達。その想いは郷愁と言っていいものだったのかも知れない。そんな自己の内面に、赤い弓兵は己を嗤う。自分にそんな資格など、もはや在りはしないと言うのに、と。
 暗く、眩く、昏く。その手を染めた血を塗り込めたような闇色の願い。どちらにしても救われないし、救えない結末を望む自身の願い。彼自身の手による■■■■の否定。
 今この瞬間に、霊体のまま校内を探せば、おそらくはその対象が見つかる筈だった。殺害だけなら、そこでその首を刎ねれば、それで終わる。だが――さすがにそのような真似は彼のマスターが許しはしないだろう。
 何、機会はすぐにやって来るさ、それもそう遠い話では無く、な。声に出さない呟きと共に彼の唇が笑みの形に吊り上がる。それは皮肉げな形だけの自嘲。己の歪みを理解してなお渇望する自身への、そして彼が否定する存在への。近いうちに目にするであろう、在りし日の愚者の在りようへの。 
 その脳裏に浮かぶ、昨夜、この建物内での光景。
 薄暗い廊下。
 窓から射し込む月光の下。
 何時か何処かで見たシーンと重なるかのような彼女の姿。
 最優を誇る剣の英霊。たとえ我が身が煉獄に囚われようと、忘れることなど出来はしないその姿を。
 彼が見間違うことなど在りはしない。
『……セイバー、君はまだ……』
 未だ解き放たれていない彼女の姿に、一瞬だけ痛んだ心を、彼は振り払った。それは、今の彼には関係の無い事柄に過ぎない。
 そう、彼女が召喚されて、この道化騒動に参戦している事こそが、彼の望む機会が近いことへの証でもある。彼の記憶に眠る尊き幻想。並ぶもの無き理想のカタチ。彼女を召喚しうる人間がこの時代に居るというのならそれは――――。
 そこで、アーチャーはふとざらりとした小さな違和感を感じた。

 ……何処かがおかしい。夜の校舎をセイバーと共に巡回した記憶が無いという事は、ただ単に忘却の淵に沈んでしまった記憶なのかも知れない。だが……。

『コイツのマスターはこの先の部屋に飛び込んだ。まだ居るんじゃねえか』

 詳細に昨夜の行動を思い返していた彼の脳裏に、青い槍兵の台詞が浮かび上がる。
 そう。そこだ。昨夜、セイバーのマスターは、セイバーを戦場に残したまま、自身は後退していた。その判断は間違ってはいない。自分たちはセイバーのマスターを知ることは出来ず、逆にこちらは若干の手の内と、おそらくは彼のマスターの姿を相手に確認させてしまっている。
 結果として昨夜は、セイバーのマスターが優勢に事を進めていた。自身のサーヴァントの手のうちを晒す事無く、自身の正体を伏せたまま、サーヴァント二体とマスター一名の確認。
 この戦争に参加しているマスターとして、彼のマスターの一枚上を行ったその行動が、彼の心に言い知れぬ何かを呼び起こす。セイバーのマスターが、彼の知る存在が、そのような行動を取るという事が果たしてあるのだろうか。
 何かを見過ごしているかのような違和感を、しばらく考えた末に赤い弓兵は結局、放置しておくことにした。どのみち、七騎の従者との戦いにおいて必ず出会うことになるであろう。なにせ奴に付き従う英霊は彼女なのだ。そうそう相手に遅れは取るまい、と。
 彼自身を縛る令呪の残りは後二つ。これが彼自身の目的の障害とならぬように立ち回らなければならない。そう、己のマスターにとって、倒すべき敵になってもらわねばならないのだ、■■■■には……。彼の願いのためにも。






 己の主が授業を受けている間に、霊体のままざっと校内を巡回した彼の見立てでは、校内に張られた結界の状態は昨夜と変わることは無かった。現状においては対処療法しか存在しないとはいえ、何もしないよりは遥かにマシな状況。
「……なのよね。ま、仕方が無いか」
 昼休み、購買で購入したサンドイッチと缶のミルクティーを手に、彼と遠坂凛は屋上へ向かい階段を上っていた。結界の起点の確認のためである。
「うむ。……しかしな、凛」
「何か気がついた? アーチャー」
「ああ。……朝食抜きの上、昼食がサンドイッチだけというのは栄養が偏ると思うのだが。終わりに差し掛かっているとはいえ、君はまだ成長期なのだろう? ついでに言わせてもらえれば、この戦争が長丁場になった場合、体力勝負になる局面も出るかもしれん。君はもう少し食事の重要性を鑑みるべきだ。戦時中とはいえ今のところ食事を取る余裕はあるのだからな、我々は」
「……アンタね」
 怒るべきか笑うべきか、一瞬だけ遠坂凛は逡巡した。自身のサーヴァントの皮肉とも悪ふざけとも取れる台詞。特に成長期のくだりの部分などはかなり彼女の気分を逆撫でする内容だった。しかし、彼女の傍に在る彼の気配はあくまで大真面目だった。
「まともに食事を取れる戦場など無いぞ、凛」
 召喚時のミスで記憶の無い、正体不明のサーヴァントである彼。しかし、英霊として聖杯戦争に召還された存在であるからには、様々な戦場を渡った戦士だったのかもしれない。この平和な国に住む自分では考えも付かない経験に裏打ちされた内容なのだろう、今の台詞は。……ひょっとしたらただ単に小姑じみた口やかましい台詞だったのかもしれないが。そこまで考えた凛は、結局軽く肩を竦めて呟いた。
「……余計なお世話よ、アーチャー。ちゃんと自己管理くらい出来てるわ。わたしは執事とか栄養士を召還したつもりは無いの。わたしの心配も良いけど、己の本分を忘れないで」
「ああ、もちろんだとも、マスター」
 不機嫌そうな凛の台詞に、彼は何処か皮肉さを漂わせた何時も通りの応えを返した。
 若く、経験不足なのは否めないが、それを補って余りある才気。マスターとしては得難い存在だろう。ただの道具に過ぎないサーヴァントの意見を聞くだけの柔軟さも在る。いささか綺麗に過ぎる嫌いも在るが……そこで彼は霊体のまま唇を引きつらせ、昏く笑みを形作る。
 汚れ仕事は私が事後承諾でやれば良いだけだ、と。もとより、彼の望みは己が手を汚さずしては成し得ないことなのだから。





 そして、薄暗い階段を上りきり、彼の主は屋上へと通じる扉を開ける。その後ろに従う彼。
 灰色の雲を浮かべた青空。
 流れ込む冬の冷気。
 雲の切れ間から射し込む日差し。
 屋上への一歩を踏み出そうとした彼の主の足は、しかしながらそこで停止した。驚いて気配を揺るがせた彼女の視線の向いている方向。冬の寒空の下、人気の無い筈の屋上には、しかしながら先客の姿があった。

 小柄な、そう、それは彼のマスターと同年代とはとても思えないほどに小柄な少女だった。赤い髪を短くした、幼さをかなり残す童顔の少女。冬の屋上に他に人が来るとは思っては居なかったのだろうか、その瞳は遠坂凛の姿に軽く驚きに揺れていた。が、その動揺も一瞬、すっとその少女は視線を逸らせると、屋上の向こうの街の風景へと向き直った。その足元に置いてある弁当箱と水筒から、彼女がこの場で食事を取っていたことが知れる。つまり、こちらこそが闖入者という事か、アーチャーは霊体のまま肩を竦めた。その気配が伝わったのか、むっとした気配を返す凛。
「……」
「……」
「……」
 しばし流れる無言の空気。そんな微妙な緊張感の漂う空気にか、あるいは彼の主の視線に居心地が悪くなったのか、その小さな少女はすっとしゃがみこみ、弁当箱と水筒を小さなポーチへと手早く片付けた。そして立ち上がると、彼らの立つ方向、屋上の出口へと向かって歩き出す。
 ――? その動きに、アーチャーは首を傾げた。摺り足に近い足の運び、体軸のぶれの少ない歩み。それは、何らかの武術の経験、それもそれなりの修練によって身に付けたと思われる、そんな歩法だった。そこで彼は改めてその少女を注視した。
 おそらくは、成長を考慮に入れて購入したのであろう、ややサイズの大きな制服に身を包んだその体躯は、女性らしさの欠片も感じられない少年体型。赤い髪を短めのショートにしているため、ますます子供っぽく見える。微かに唇を微笑の形にしているその幼い顔つきは童顔ではあるものの、何処か幼さを拒絶した風情を漂わせていた。
 ちくりと針で突いたかのような違和感。しかし、こちらに向かってくる少女には、別段動揺も敵意も殺気も不安も感じられない。しかしその姿は、彼に何処か遠い記憶の中の誰かを思い起こさせる。いや、しかし――。
 彼の微かな動揺など関係なく、こちらへと進む彼女の歩みに、自分が出口を塞いでいる事に気が付いたのであろう遠坂凛が一歩体を横にずらして、少女に道を開ける。そんな凛の動きに、こちら側に顔を向けた少女が、凛へとにっこりと微笑みかけて会釈をした。
 ――?
 霊体である彼の姿は、当然その少女に見える筈も無い。だからこそ、少女の視線は彼を素通りし、遠坂凛へと向けられた。
 ――だから彼の気のせいだろう、その少女が彼の存在に目を走らせたようにも感じたのは。実際、少女の視線は彼の上を通り過ぎる際、一瞬の遅滞も無かったのだから。それに、その時の少女の瞳はまったくの平静だった。風の無い湖水のように。深い夜の闇のように。
 ――赤い廃墟に転がる骸の、モノと成り下がった眼球のように。
 灼熱の業火に包まれた世界を歩く誰かが見たその虚ろな瞳が、彼の深い部分を刺激する。もう思い出せない彼の記憶が、それでも彼の心を締め上げる。記憶でなく感情で判る。記録でなく感傷で分かる。それこそは彼の原風景なのだから。
 一瞬だけ奪われた心を引き戻してその幻視を振り払い、彼は再び少女の姿を見直した。そこには、淡く儚げな微笑を浮かべて、遠坂凛へと一礼し、すれ違おうとする少女が居ただけだった。体捌き以外ではいたって普通の少女の姿。彼の感じた違和感が嘘のように普通に歩み、屋上から出て行くその背中を、彼は自身の主と共に、ただ見送った。





 見ると、彼の主も奇妙に静かだった。となると、あの少女に感じた奇妙な感覚は、自分の気のせいでは無かったのか、そう思い、彼は凛に声を掛けた。
『……ふむ、さすがに突然一人で居たところに乱入してきた人間がじっと自分を見つめているとなると逃げ出すのも当然か。いや、マスター。君にそういう趣味があるとは思わなかった』
 ピシリ、と言う音が聞こえた、ような気がした。主に彼のマスターのこめかみの辺りから。
『――いやいや、マスターがどのような性癖を持とうと聖杯戦争には関係なかったな、これは失言だった。しかしまあ、朝の娘と今の娘とだといささかタイプが違いすぎる……守備範囲が広いな、凛』
 朝、彼女と話していた弓道部の少女と今の小柄な少女は体系的には真逆だった。その辺りのニュアンスも込めての、彼の台詞に、一瞬だけ凛は拳を握り、そしてその手から力を抜いた。
「わたしをからかっていて楽しいかしらアーチャー」
 一度の呼吸で冷静さを取り戻し、凛は投げやりに彼に答えを返す。そう、それでこそ遠坂凛。相手に呑まれるなど、彼女らしく無い。
『いやいや、怒鳴り出すかと思ったがなかなかに冷静だな。さすが私のマスターだ』
「おだてても何も出ないわよ。さて、さっさと調べてしまいましょう」
 微かに照れを見せながらも、凛は校舎へと続く扉を閉めると、魔術を使い施錠する。その冷静な行動に、いつもの遠坂凛で在ることを確認したアーチャーは、先ほどの少女の事を尋ねることにした。
『ああ、時に凛。――――今、ここに居た少女は知り合いかね?』
 アーチャーの問いを奇妙に感じたのか、凛は首を傾げて、姿無き従者へとそれでも顔を向けた。目敏い彼女の騎士が何かを感じたというのなら、それは重要な情報になる。
「同級生だけど…………なにか感じたの?」
『いや、そうじゃないが……足の運びや体の使い方が素人離れしていたからな。聞いてみただけだ』
 何処か歯切れの悪い彼の応えに、それでも凛は頷いた。少女とは別段親しいわけでは無かったが、彼女が知ってるあの少女の情報によれば、その辺りの事柄も当然と思われたからだ。
「ああ、なるほどね。彼女は確か弓道部だったはずよ。現部長が言うには天賦の才をもっているとかなんとか。武芸百般の彼女がいうからには間違いないんじゃない?」
『――――ふむ』
 それは凛の友人である、弓道部部長が直接言っていた情報だ。そう言う嘘を吐く人間では無いので、本当に天才なのだろう、あの少女は。それが凛の下した結論だった。そんな凛の返答に、何処か首を傾げる気配を見せるアーチャー。
「アーチャー、どうかしたの?」
『……いや、なんでもない』
「ふーん、ならいいわ」
何処か釈然としないまでも、彼は首を振って取り敢えずの疑問を振り払った。あの少女が無関係だというのなら、別段気にするほどでもない。そもそも、他に気にするべきは在るのだから。
 そんなアーチャーの様子に、凛は何も言わず、結界の起点へと歩き出した。





 ああ、そういえば――

 そこでようやく、凛の記憶から、以前聞いた彼女の名前が浮かび上がった。

 ――確か、“衛宮”って名前だったっけ、あの娘。





BACK  NEXT

前へ戻る