幾重にも重なる、冬の灰色の雲の切れ間から差し込む日差しが、遠くまで広がる景色に奇矯なコントラストを作り出していた。俗名で天使の梯子と呼ばれるその光が、冬木の街並みをスポットライトのように浮かび上がらせている。かつて大きな火災で多くの命が失われた街も、今ではその傷跡を忘却し、祝福するかのような天上からの光がその全てを覆ってしまっている。
 そのある種の皮肉にも取れる光景を、衛宮志保は何の感慨も無くただ眺めていた。
 雨が降っていない時は、屋上で昼食を取るのが衛宮志保の何時もの習慣。
 ――だから今日も此処で昼食を取った。
 時間があるときは、衛宮志保は良く此処から遠くを眺めている。
 ――だから今もこうして遠くを眺めている。
 ざらざらした肌触りの、すりガラス越しの世界を俯瞰する。思考の大半を停止させ、過去経験の蓄積を以て日常を反応する。もとより、校内での彼女は殆ど他人と関わらない。居るのか居ないのかすら気付かれない程の存在感で廻していた常の日々。それが、今という状況で生きていた。
 明晰夢を見ているよう。ただしその夢と現実は逆転している。肉体は現実を動き、思考は無意識へと沈み込む。大半を停止させた思考の中、反射行動の為に起動している幾分かの意識が、ぼんやりとそんなことを脳裏に浮かび上がらせ、そして沈めてしまう。それは泡沫の夢の如き想い。浮かんでは消えるだけの浸み出した思考の断片。

 昼休みはもうしばらく続く。なら、その間はこうして過ごすことにしようと結論。
 五時限目は英語、虎。虎は拙い。衛宮志保を知っている。ならサボる。冗談、サボると殺される。殺されるなら殺し返さないと。それは無理だ、死者は殺せない。なら殺されはしないからサボろう。いや、今のはおかしい。いや、おかしくない。矛盾してない矛盾。ノイズ発生、放棄。
 空。雲。太陽。日差し。光の帯。ヤコブの梯子。梯子。廊下の電球切れそう。予備無い、放課後購入? 財布忘れた。桜に借りる? 後輩に借りてどうする。なら虎、が持ってるわけ無い。いったん家に。家といえばセ■バー何やってるんだろう。NGワード。エラー、放棄。

 浮かんでは消える思考の欠片の泡達に止められる事無く流される事無く関わる事無く、ただ自我を殺したまま、衛宮志保を擬態する衛宮志保は、無為に流れる時間が過ぎていくのだけを待っていた。
 ……だから気が付かなかった。
 鉄の扉が閉まる音がするまで、ただ一人だけの世界だったこの屋上に闖入者が現れた事に。
 バタン、という重い音が聴覚を刺激、そこで志保は反応すべき反応として、音のした方向へと頭を向け――。
 そこに立っていた存在に、停止していた自我がどくり、と脈動した。

 遠坂凛。

 この冬木の街の管■者。NG。颯爽と鮮やかナその表情は、こちラの存在に驚き――。
 エラー、エラー、エラー
 たダ一人、校舎へノ扉ヲ開け放っテ立つ。……タだ一人?
 そウ、彼女ハ一人だケだ。
 私は見てナい、私ニは見エていナい、私ナどにミえル筈なンか無イ。
 遠坂凛ノ背後ニハ、誰モ居ナイ。彼女ハ一人デ、コノ屋上ニ立チ入ッテイル。
 エラー、エラー、エラー、見エナイ筈ノ何カガ……。

 疾走しかけた自己を強引に眠らせて、志保は遠坂凛から視線を外し、フェンスの外へと戻した。
 遠坂凛の視線が居心地悪い。
 ……ソノ背後ノ存在ガキモチワルイ。
 ――崩れる。
 固定化した筈の自我が、罅割れる。
 夢が――――醒める。
 このままこの場所に居る事の危険性を、志保の本能より深い場所が警告していた。
 眼を瞑るイメージで意識を押さえ付け、志保は覚醒しだした自分を引き止める。
 罅割れ、崩れ、揺らぎ、幾重にも分裂したようなぼろぼろの擬態でもなお自分を表に出さず、志保は腰を屈めて足元に置いてあったランチボックスと水筒をポーチへと仕舞いだした。自分が暴発する前に、一人になれる場所へ、と。
 だけど……。
 だけど、屋上の出入り口は、遠坂凛の背後にある。
 遠坂凛の……背後。
 ――壊れる。その事実だけで壊れてしまいそうになる。
 ぼろぼろに欠けてしまい、崩壊寸前の外殻が、罅の入った硝子のような心が、バラバラになってしまう悪寒。それは駄目だ。遠坂凛に、そしてソノ背後ノナニカに、隙を見せる訳にはいかない。
 だったら……。
 唐突に。その脳裏に浮かぶ幻視。それは、その歪な心の奥底に在る衛宮志保の原風景。燃える世界。肌を灼く熱。そこで彼女は全てを無くし――。

 だから……。

 灼熱の業火。ただ一人、全てを切り捨てて歩いたその道程が蘇る。そう、その時の自分を忘れない。忘れられない。忘れようがない。忘れては、いけない。ただ一人死に損なった自分は、それ故にそこで失われた多くのモノ達の延長なのだ。この身は多くの死者の果てに在る。その事実は変えられない。だから、だから。
 だから一振りの剣になってしまえばいい。無機に硬質に鋭利に愚直のまでに単一な一振りに。


   ――I am the bone of my sword.――
       体は 剣で 出来ている


 自然に脳裏に浮かんだその一節。意味は知らず、意義も識らず。それでもその言葉を胸に刻みつけて、衛宮志保は立ち上がった。
 日常浮かべている淡い微笑を浮かべ。
 真っ直ぐに背筋を伸ばし。
 何時もの自分のままで、歩き出す。
 徐々に遠坂凛との間合いが狭まっていく。同学年の優等生、この霊地冬木の管理者、聖杯戦争のマスターの一人、そして……。
 擦れ違う一瞬、志保と凛の視線が交錯した。何処かきょとんとしている遠坂凛に、志保はその笑みを深くし……軽く一礼。
 擦れ違う。最初の近距離での邂逅が終わる。
 そのままペースを変えることなく、志保は屋上を後に、階下へと向かって歩みを進めていった。





 歩調を変えずに屋上から続く階段を下りた志保は、特殊教室が並ぶ人気の無い廊下を進み、その一角にある女子トイレへと足を踏み入れた。全ての個室のドアが開いているのを一瞥、そのままそれぞれの個室が無人であることを実際に自分の目で確かめながら、一番奥の個室へと向かっていく。
 辿り着いた最奥の個室に入ると、志保は後ろ手に扉を閉めた。そしてかちゃりと鍵を掛ける。ようやく辿り着いた密室で、ようやく彼女はその表情に貼り付けていた淡い微笑を引き剥がす。
「……ッ!」
 扉に背を預けたまま、込み上げてくる悪寒を噛み砕いて飲み込む。そのまま、ずるずると志保は床にへたり込んだ。ようやく許されて、早鐘のように鳴り打つ自身の心音が酷く耳障りだった。背筋を這い登ってくる蟻走感。胃の腑を刺激する嘔吐感。目の前が眩くなり、精神が落下しようとする浮遊感を、掌に噛み付くことで押さえつける。
 焦点の合わない瞳、貧血でブラックアウト寸前の青白い顔。うち捨てられた人形を思わせる虚ろな姿で、志保はぼんやりと中空に視線を彷徨わせた。
『何て、……無様』
 今朝、あれほどに己の有り様を固定化したというのに。ただ一度。短時間の突発的遭遇で、こうまでも揺らいでしまう、崩れてしまう。ぎりぎりのラインで"ただの学生に過ぎない衛宮志保"で居られたとは思うが、正直なところ、絶対の自信は無かった。
 遠坂凛。
 鮮やかで颯爽とした少女の姿が志保の脳裏に思い返される。こちらを見て、驚きに軽く目を見開いているその姿を。己の見通しの甘さを、志保は痛感していた。少しだけでも考えればその可能性に辿り着けた筈だというのに。結界の起点が屋上にある限り、彼女がその様子を見に来る可能性が在るということを。
 幾分を費やしたのか、時の経過は知らず。それでも時間とともに、呼吸とともに、少しずつ手の震えが収まっていった。体内状態を狂わせていた違和感が、平常な感覚へと復帰していく。それに伴い、呆と焦点が合っていなかった瞳に、深い深淵の様な意思の光が宿っていった。魔術師では無い、一般人の衛宮志保から、聖杯戦争の参加者である衛宮志保へと思考をシフト。
 大きく深呼吸をし、それで心と体に残っていた澱のような感覚を振り払った。そして、志保は苦笑を浮かべようとして……止めた。その選択が間違っている気がしたからだ。この場合は自嘲だろうか? それとも恐怖、恐慌? あるいは畏怖か? 怒り? 憎しみ?
 結局、選択出来ない自分の未熟を理解して、志保はまだ青白さの残る顔に何の意思も表示させなかった。揺らがない、崩れない、そもそもそれ以外に何も無い、鋼のように硬質な顔のまま、志保は記憶を先ほどの遭遇まで巻き戻す。
『……居たな。確かに、……居た』
 震えそうになる手を志保は、きつく握り締めることで押さえ込んだ。ぐっと瞳を閉じ、身体の隅々までを意識することで自己を認識する。イメージは八節。心の内で弓を引く。そして撃つ。己を穿ちて残心する、残身する。身体の隅々まで意識を往き通らせて、志保は自身を調整した。魔術回路は起動出来ない。此処は戦場、迂闊に魔術は使用できない。もとより己の制御程度、魔術回路に魔力を通すまでも無い。
 無い筈なのに、何故こうまでも自身を制御出来なくなるのだろうか。
 遠坂凛の背後。何も無い空間。
 確かにそこには何も無く、何者も居なかった。目には見えず、音にも聞こえず、空気の動きすら感じられず、そして肌に刺す気配すら無く。
 けれど。そう、けれど分かった。其処だけ空気が幾重にも反響しているかのように。其処だけ色彩が匂いと味を持つかのように。其処だけ音声が形状として存在するかのように。
 狂う、狂う、クルクルと狂う感覚器が、本来在り得ない矛盾した感覚を拾うように、粘着質の汚濁で志保の存在をじわじわと侵食する。じくじくと狂っていく精神が、志保そのものを蝕み、壊していくのが、理屈ではなく結果として判る。其処に在る、本来認識すら不可能な筈の"何か"はつまり、衛宮志保にとってそういう致命毒な存在である、と。
 通常のサーヴァントは本来、基本的には霊体であり、霊体化している限りその存在は普通の人間には知覚出来ない。しかし、あのサーヴァント、遠坂凛が従えるアレを、衛宮志保は知覚出来た。いや、違う。知覚なんか出来ていない。ただ居るいう事実が“判る”。アレは衛宮志保において、決して相容れない存在だから。本能より深いところが、衛宮志保という存在そのものが、あの存在そのものを否定する。“在る”という事象自体を否定する。そう、否定する。否定している。だというのに。
 志保の脳裏にフラッシュバックする、夜の校庭で双剣を振るう赤い外套。
 ――だというのに、どうしてこんなにもあの存在に惹きつけられてしまうというのだろうか。
 吐き気、悪寒、嫌悪、憎悪、怒り、哀しみ。そんな負の感情を混ぜこんだ思考だけじゃなく。
 泣きそうなくらいに、志保にとってその姿は眩しかった。どうしようもなく誇らしかった。手を伸ばしても伸ばしても、それでも届かない星を、それでも掴もうとするような、渇望にも似た羨望。それは養父にも感じたことの無いほどに、……いや、十年前の夜以降一度として感じたことの無いほどに強い……想い。目映いばかりに尊いそれを、志保は理解出来なかった。だからこそ……持て余す。その存在に対して混乱する。
 そこまで考えて志保は、自身の思考の馬鹿馬鹿しさに首を振った。まったくもって愚かな考えだ、と。英霊。人の憧れの先に在るモノ。英雄と呼ばれた存在の果ての存在。人という存在の有る意味での究極。それが矮小で脆弱な衛宮志保という存在と、どういう関わりが在ると言うのか。
 分かっていることは一つ。あれは衛宮志保の敵。そう、倒すべき……敵。何度も何度も志保は自身に言い聞かせた。遠坂凛とその従者は……倒す。倒さなければ……ならない。これ以上、自分を壊さない為にも。
 眼を閉じたまま志保は、疲弊した精神の命ずるままに、床に座り込み、背を扉に預けたまま脱力した。
 少し……、休もう。
 そうして志保は、そこが女子トイレの個室の中であることを忘却したまま、一時の眠りへと心を引き落とした。





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