「……ん……ん? あれ?」
 遠くで鳴るチャイムの音に目を覚ました衛宮志保は、自分が何処で眠りに落ちてしまったのか気が付いた瞬間、呆然と頭を抱えてしまった。よりにもよって女子トイレの個室の床で寝てしまっていたということや、安物の腕時計に目を走らせた結果、午後の授業を全てサボってしまったという事実を知ってしまったことや、その授業の一コマが、よりにもよって彼女の保護者兼被保護者兼姉代わりであることなどの現実が、寝起きの彼女の脳裏に現実として圧し掛かってきたからだ。
「……はぁ」
 チャイムの残響を聞きながら溜息一つ。そして立ち上がると、志保は背筋を伸ばすと、スカートの裾を手で払った。首、肩、腕、手首を軽く回して、窮屈な姿勢で固まっていた凝りを解していく。
『……女子トイレの床で目を覚ます奴って、この学校始まって以来私が最初で最後だろうなぁ』
 天井を仰ぎ見てから、ぱしん、と志保は両の手でその頬を軽く叩いた。眠りのお陰か、疲弊していた精神も持ち直している。
 志保は個室の壁に背を預けた。こつり、と軽く打ち付けられた後頭部が脳髄に振動を走らせる。その鈍い感覚が、気付けとして心地良かった。
「……さて、と。まあ、過ぎたことは仕方が無いし。帰ろっかな」
 そうして衛宮志保は、トイレの床で寝ていたという事実を記憶から抹消するために、何事も無かったように帰宅する事にした。あえて姉代わりの授業をサボった件から意識を背けたまま。

 とはいえ現実はそれなりに非情である。世の中というものがすべて自分の思い通りになるなら、問題ごとなど存在しないだろう。
 放課後の教室へと戻った志保を待っていたのは、クラスメイトの無情な一言だった。
「お、衛宮殿、藤村様がお呼びで御座る。かなりご立腹の由、気を引き締めて行かれるが良かろう」
 時代掛かった口調は、おそらく昨夜の時代劇の影響か。そんなことを思いながら、志保は微かに唇を苦笑の形に歪めて、小さくその級友へと目礼してみせた。
「むむ? 顔色が悪いようだが、大丈夫でござろうか、衛宮殿? 体調が悪いのであれば拙者が藤村様に伝えておくが」
「いや、大丈夫。……かたじけない後藤殿」
 ここで逃亡した場合、間違いなく志保の姉代わりである藤村大河は帰宅後に衛宮邸に倍返しで混乱を引き起こすであることが予想された。これ以上好き好んで頭痛の種を増やす必要も無い訳で。
 級友の情けに軽く一礼し、そして志保は職員室へと足を向けた。





「で? 午後の授業を全てサボった理由を聞かせて貰いましょうか、衛宮さん?」
 目の前には教師モードに入っている姉代わり。その藤村大河の不機嫌そうな顔に志保は、とりあえずおどおどと眼を泳がせてみたが、藤村大河はむっとした表情のまま志保から視線を逸らさなかった。
 実のところ大河は、そのばつが悪そうに視線を宙に彷徨わせる志保のどこかユーモラスな挙動に苦笑しそうになっていたのだが、そこにある姿を見出してしまいさらに機嫌を悪くしていた。目の前の妹分の姿が、昔自分が祖父に叱られた時の挙動にあまりに似過ぎている、そんな事実が大河に知らず小さく溜息を吐かせてしまう。
「えっと……お弁当を食べてからトイレに入ったら眠くなって、気がついたら放課後のチャイムが鳴ってました……」
 大河の仏頂面と溜息に言い訳不可能と判断した志保は、仕方なく正直に事実の表層を口にした。実際の所すべてその通りなのだから。
「そっかぁ、お弁当食べた後って眠くなるわよねー、寝ちゃうのも仕方が無いかー」
 恐る恐る口を開いた志保の言い訳に、小さく数回大河は頷いた。確かに、おいしいご飯を食べたら眠くなるし、と志保の台詞を咀嚼し、その言に納得した大河はそのまま志保に笑みを……とそこで思考を巻き戻し、そして藤村大河は志保の台詞を脳内で数度反芻させる。
 大河の笑みに釣られるように、はにかむ様に笑う志保。二人の視線が絡み合ったまま、無言の時が流れ出す。
「……」
「……」
「……」
「……」
「…………えっと、藤ねえ?」
 実に爽やかな笑みの大河の額に浮かぶ青筋に、己の失敗を悟りつつ、志保は恐る恐る無言で笑顔の圧力を加えてくる大河に声をかけてみた。この行動が起爆スイッチであることくらい理解している。だからといって、後回しにし続けても爆発の威力が上がっていくだけに過ぎないのだし。
「………………な・ん・て・言う訳無いでしょうがぁーーーーーーーー! 後、校内では公私混同しませんー。お姉ちゃんのことは藤村先生と呼びなさぁーい!」
 がぉーっとばかりの叫び声が職員室に響き渡った。周囲の教師達は慣れたもので、その声にも驚かず平然と仕事を続けている。
「あの……藤村先生。いくら周りの先生方が何も言わないからといって、職員室で大声を上げるのはどうかと思うんですが」
「悪いことをした生徒を叱るのに遠慮なんか必要無いっ!」
 まったく欠片の罪悪感も無く言い切る大河に、志保は呆れた顔を見せた。その、何処か悟ったような表情が、大河の神経を逆なでする。何も分かって無い癖に何を、と。
「とにかく、お姉ちゃんに御免なさいは?」
「……藤村先生。校内では公私混同しないのでは?」
「ご・め・ん・な・さ・い・は?」
 志保の減らず口に、むにり、と大河の指がその頬を摘みあげた。ぎりぎりと締め上げる指に、志保の頬が引っ張られていく。
「ひょ、ふ、ふひねへ、たひばふ! たひばふ!」
「ご・め・ん・な・さ・い・は?」
「ほ、ほめんらさひー!」
 やや涙目の志保の表情をじっと見てから、大河はその指を離した。自分の頬を擦る志保を、大河は少しだけ物憂げに観察する。
「……何さ?」
「志保、アンタ……またお祖父様となにか変なことやってるんじゃないでしょうね?」
 首を傾げた志保に、何処か躊躇いがちに、大河はそんな問いを投げかけた。ここ数日、帰宅が遅い祖父、何処か空気のおかしい冬木の街、そして……普段と“ナニカ”が違う目の前の少女。そんな大河の真剣な目付きに、志保は苦笑した。
「藤村先生? くどいようですが校内では公私の混同はしないのでは?」
「む! まだ屁理屈を言うかこの馬鹿チン!」
「酷いな、藤村先生。教師の言う台詞じゃ無いでしょうに……」
「とにかく! ……あんたがおかしいのは今更だけど、あんまりにも変なことはしないように。年寄りの危険な遊びになんか付き合わなくていいからね。……あんまり心配かけさせないでよ、志保」
 何処か不安定に揺らいだ大河の言葉に、志保は虚を衝かれたように言葉を飲み込み……、そしてゆっくりと微笑んで頷いた。
「……ん」






 衛宮志保が職員室を出て行った後、残された藤村大河は溜息というには重過ぎる吐息をゆっくりと吐き出した。その脳裏に、十年前志保と初めて出会った時の光景が思い浮かぶ。大河の家が管理していた屋敷の縁側に座り、呆とその荒れ気味の庭に視線を固定したまま、微動だにしない少女の姿が。
 幼い体躯。細い手足。赤みを帯びた髪は男の子のようにざっくりと短く刈り取られている。それは、火災によって髪が焼き荒れていたための処置だと少女の保護者からは聞いていた。その少女が、先日街を襲った大火災で文字通り命以外の全てを失った事も。
 そう、初めて会った時、衛宮志保という少女は人形だった。ヒトとしての核を失ったヒトガタのナニカ。
 その時の大河は、その虚ろな空気に呑まれてしまった。
 実家の家業の関係からか、高校生にも関わらず彼女は、“怖い”人間や“危ない”人間を何人か見てきていた。実際、少女を引き取った男性も、どこかしら堅気の人間では有り得ない雰囲気を持っていたのを、大河の本能的な嗅覚は嗅ぎ取っていた。でも違う。この、目の前の少女に感じた危うさは、そういうモノとは一線を隔したモノだった。
 少女自身が危ういのではなく。
 少女の在り様が見ている者に危うさを感じさせる、そんな存在感。まるで呼吸をしている死者といるような違和感。
 一体、あの大火災の中、どれほどのモノをこの少女は見てきたというのだろう。それを大河は想像することすらできなかった。
 つい先日の、坂の上の彼女の家から見える街の一角が赤黒く夜空の闇を侵食していた光景は、まだ大河の記憶にも新しかった。そしてその後の街の騒乱も。実際、大河の知り合いにも被災者は大勢居た。そして、被災地の中心地域の生存者が殆ど居ないということも。そんな中を生き延びた少女。生き延びてしまった少女。
 心的外傷後ストレス障害による自閉症状、言語失調、睡眠障害。それが少女に対する医師の診断結果だと聞いた。外界からの刺激に対しての反応の薄さ。喋るという機能を忘れてしまった精神。そして、覚醒と睡眠の間にある隙間に固定化された意識。生きてはいるが、活きてはいない、まるで自動人形のようなその姿。戦火に遭ったり、大きな災害に巻き込まれた人間がたまに発症する精神障害だと、そう大河は少女を引き取った男性から聞いていた。
 ピンとこずに首をかしげた大河に、微かに笑って男性は分かり易く言葉を変えてくれた。「つまりね、大河ちゃん。受け入れたくない現実に遭遇して……心が折れて壊れちゃったんだよ」と。あんなにも哀しそうな微笑を大河が見たのは生まれて初めてだった。彼が火災の中から少女を助けてきたのだと大河は聞いていた。つまり、彼も何かしら少女と同じモノを見てきたということなのだろう。
 何が出来るだろう。大河は自問した。ただ単純に、何とかしたい、何かしてあげたいという彼女の善性。逡巡は一瞬だけ。シンプルで、だからこそ真っ直ぐな本質を持つ彼女は少女の手を取った。
 受けた刺激に対してゆるりと視線を巡らせる少女。その虚ろな瞳に、今度は大河は呑まれなかった。ただ、じっと少女の眼の奥を見つめた。少女が、自分を見てくれるように。
 どれ程の時間か。無言のまま少女と見詰め合って沈黙していた大河は、ふと少女の口が動いたように感じた。
 微かに。ほんの小さく、ただ唇を震わせただけのように。
 少女は話せない。喋れない。何故なら、言葉の使い方を失ってしまっているのだから。だけどそれでも、大河には少女が彼女に向かって語りかけたように思えてならなかった。のっぺりとした無表情のままで。洞のような空虚な眼差しのままで。それでも大河に対して言葉を紡ごうとしたのだと。声にはならず。ほんの少しの空気を震わせることも無く。それでも一言「ダレ」と、そう大河に向かって少女は口にしたのだと。それは大河の気のせいだったのかもしれないし、願望だったのかもしれない。それでも、大河は少女がそう言ったのだと信じた。
 だから大河はにっこりと笑って見せることにした。太陽に向かって誇らしげに咲く大輪の花のように迷い無く、まっすぐに。彼女の、新しい妹分に向かって。
「初めまして、志保。お姉ちゃんは藤村大河。よろしくね。今日からご近所のお姉さんなのだ!」
 この、小さくて儚く、虚ろで危うげな少女を支えられるだけの強さを示そうと。
 これが、藤村大河が持つ、衛宮志保との出会いの記憶だった。

 あれから十年。ある日を境にして、少女は加速的にその機能を回復させていき、衛宮志保という少女となった。そのことを大河は素直に喜んだ。志保は自分によく懐き、そして大河も志保を色々なところに連れ回した。会う人々に、大河ちゃんに似てるね、と言われることが単純に嬉しかった。時々、精神的に不安定なところを見せることがあっても、志保はそれでも“普通”と呼ばれるべき領域にまでその心を回復していったのだと。
 だから気付けなかった。少女の養父が時々、どこか諦めたように少女を見ることに。
 だから気付けなかった。少女の養父が亡くなった時、虚ろな眼で独り庭に立つ少女が、初めて会ったときのヒトガタのまま、何も変わって無かったことに気が付いてしまうまで。
 だから……気が付いた時には、どうすればいいのか大河には分からなくなっていた。ボタンを掛け違えたまま、それでも進み続ける少女に対して。
『本当、どうすればいいのかしらね、切嗣さん……』
 少女の養父が生きていれば、少しは何かが違っていたのだろうか。そうして再び大河は小さく溜息を付くと、過去の回想を振り切って騒がしい日常へと思考を切り替えた。






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