大気までも灼けついたかのような世界を歩き続けた。
 ただ、本能の命じるままに。
 伸ばされた手を掴むことをせず、付き纏う嘆願を拾うことも無く、空に響く怨嗟を切り捨てて。
 そして、自分だけが命を長らえた。
 故に、この身は数多くの死の果てに在る。

 それが――■■■■がその心の奥底に刻んだ罪悪だ。





Fate after SS   交差点から空を見よう 〜俺と私の見た風景〜 5−1





 始まってしまえば覚醒は速やかに。俺という存在が急速に意識の深奥から浮上していく。
 取り毀れていく幾多の想いは喪失感すら失われ。
 だから俺は夢を見ていた事すら忘れてしまう。
 ■■へと伸ばした手は届くことなく。
 皮肉げな微笑は何処かアイツに似ていて、それでいて何処か懐かしい感じがした。





 ……茹だるような暑さに眠りの園から蹴落とされ、そうして俺は眼を覚ました。

「――暑……ぅ」
 胡乱な思考のまま、眼を開けた。やたら硬い床、朝だというのに薄暗い空間、独特の古びた臭い。どうやら、土蔵で朝を迎えてしまったらしい。
 一瞬感じた妙な違和感は、この世界の此処が、可能な限り整理整頓された空間である所為だろう。
 蒸し暑い空気に呆としたまま、俺は座布団の上で猫のように丸まっていた体を引き起こして、両手を広げて背筋を伸ばし、欠伸混じりで大きく伸びをした。長時間窮屈な体勢で寝てたせいか、バキバキと全身が音を立てる。
 汗に塗れた下着が気持ち悪い。寝巻き代わりのTシャツまでじっとりとしていた。顔面も寝汗のせいで、まるで泣いていたかのよう。ま、欠伸のせいで涙が滲んでいるのもあるだろうけど。
「――――暑いわけだよな」
 俺は土蔵の入り口から差し込む朝の日差しの眩しさに眼を細めた。今日も良い天気だ。洗濯物がよく乾くだろう。
「……確か、昨夜は……」
 何故こんな所で寝ていたのか、考えるまでも無く答えは脳裏に浮かんだ。今のこの自分がどの程度なのか、それを知りたくて昨夜は土蔵で魔術回路をチェックしていたんだっけ。
 そもそも、衛宮士郎にとって自己修練というものは強迫観念の域に近いものがある。何日もサボっている訳にはいかないのだ。何より俺が落ち着かない。……まあ、今の状態で修練することにどんな意味があるのかは分からないけれど、今現在の自分に出来る事を伸ばそうとする意思は間違いなんかじゃない、筈だ。
「……………………………………、っ!」
 座布団に座った体形のまま考え事をしていた結果か、うつらうつらと船を漕ぎ出した頭が崩れ落ちそうになり、俺はこの蒸し暑い空間に居る危険性を理解した。このままでは間違いなく二度寝してしまう。
「……なんか寝覚め悪いよなぁ?」
 寝足り無い感じがする。こんなにも寝汚かったっけ、俺?
 とりあえず汗だくなのが気持ち悪いし、軽くシャワーでも浴びてすっきりしよう。顔の汗だけでも拭こうかとタオルを探したけれど、土蔵にそんなものがある筈も無く、仕方が無いので着ていたTシャツを脱いで顔を拭った。こいつはそのまま洗濯機送りにしよう。
 ということで、顔を拭ったTシャツを肩に引っ掛けた俺は、シャワー→着替え→朝食の準備、と朝の予定を半分寝ているような脳内で組み立てつつ、土蔵の外、夏の朝日の射す衛宮邸の庭へと足を踏み出した。
「眩しっ……、今日も暑くなりそうだなぁ……」
 急に明るいところに出た事に眼を細めながら、俺はふらふらと母屋に向かって歩き出した。うー、眠いなぁ。向こうに居るときとあんまり変わらない程度には寝た筈なんだけど……。
 と、庭を歩く俺は、道場の方から廊下を向かってくるセイバーを発見した。どうやら、セイバーも俺に気が付いたようで、……って、ピシリ、と音がするような感じで、セイバーの表情が驚愕に固まってしまった。うん?
「……お早う、セイバー。今日も早いな……」
 うわ、喉がカラカラのせいで声を出すと痛いな。水分足りてないか。そんな半分惚けた感じの俺の挨拶に、ようやくセイバーが解凍されたようだ。何故かふるふると震えだす。そして次の瞬間――、
「……シ、シ、シホっ! な、何を考えているのですか、貴女はっ!! シャツっ、シャツを着て下さいっ! じょ、上半身裸で庭を歩くなんてどういうつもりなんですかっ!!」
 がぁっとばかりに庭に飛び降りると、セイバーは俺の肩からTシャツを奪い取り、強引に俺の体に被せてきた。って痛、痛いって! 首の処を無理矢理通すわ、腕の部分は無視するわで、すっぽりとTシャツに拘束される感じの俺。
 ……アレ?
 何か怒り顔のセイバーさんにがっしがっしとTシャツに押し込まれながらシェイクされたお陰で、ようやく俺の意識がはっきりと覚醒しだす。 ――あ、俺って今、オンナノコだったんだよな……。で、昨夜はお風呂上がってから後は、寝るだけだからってことで……ブラ、してないや。つまり、寝間着代わりのTシャツを脱いでしまっていたということは、えっと、ストリーキング?
「ぎ、ぎゃわーーーっ、ふ、服、服っ、ああっ、も、目撃者居ないよな! 塀が高くて良かったっ、本当に良かったっ!」
 俺は大慌てで、わたわたとTシャツの袖を直し、裾を引っ張った。い、幾ら寝惚けてたからって……気が付けよ、俺っ!
「いや、セイバー。本当に助かった、ありがとう」
 パニックになりながらも涙目で感謝する俺に、逆に平静に戻って、冷たい目を俺に向けるセイバー。
「……貴方、結構馬鹿ですか、シロウ?」
 靴を履いていない自分の靴下を見て、セイバーは溜息を吐いた。
「う……、ご、ごめん。洗濯させてもらう……な?」
 ううっ、羞恥此処に極まれり。穴があったら埋まりたい……。
 




 かちゃかちゃと食器の音が居間に響いている。とりあえず、本日の朝食のおかず一品追加を含めた幾つかの裏取引の結果、先ほどの醜態をセイバーの記憶から消去して貰った俺は、何時も通りの平穏な朝を迎えていた。……ああ、遠坂にあの醜態がばれるくらいなら、今月のエンゲル係数の増加程度などどれほどのものか。
「シホ、醤油を取ってください」
「はいよ」
 醤油の小瓶をセイバーに渡す。
「志保ー、お姉ちゃんにお代わり!」
「はいはい」
 ドンブリを受け取って、持ってきた炊飯器からご飯を山によそって藤ねえに返却。
「先輩、今日の晩御飯、何が良いですか?」
「あ、今日は桜だっけ。……んー、暑くなりそうだし、精の付くものにしよっか」
 桜の相談に俺は一瞬だけ考え込んで返答した。
「志保ー、お財布にちゃんとお金入れておきなさいね」
「……」
 チ、忘れるわけはないよなぁ、遠坂が……。遠坂のニヤニヤとした笑みに溜息を以て返事とする。
「あれ、志保、遠坂さんとお買い物?」
 そんな俺達のやり取りに、当然のように藤ねえが口を挟んできた。ああ、無かったことにしようと思ってたのになぁ……無理だな。
「ええ、志保のランジェリーを買いに行こうかと。さすがにスポーツブラばかりだと形が崩れちゃいますし、ついでに少しはお洒落に目を向けさせようかと」
 横目で俺をニマニマと見遣りながら、あかいあくまが確実に包囲網を狭めていく。いじめっこは外堀から確実に攻めていくつもりらしい。
「ああ、そうよねー。志保ってば急に育っちゃったしねー。折角だからせくしーな奴も買ってお姉ちゃんに見せて欲しいなー」
 キラキラと瞳を輝かせながら面白がっている虎。そういう藤ねえこそ良い歳なんだから勝負下着の一つや二つくらい買いやがれ。量販店の安売り品ばっかりじゃなくてさ。
「えー、先輩の下着を買いに行くんですか。……いいなぁ」
 心底羨ましそうな間桐さん家の娘さん。えっと、桜も下着を買いに行きたいのかな?
「間桐さんは部活あるでしょう。部活と志保の下着とどっちが大切なのかしら」
「先輩の下着に決まってるじゃないですか」
 ……なんか、深く考えるとやばそうな台詞だぞ、桜……。というか、俺の下着なんか別段気にする必要も無いだろうに。いや本当、なんでさ?
「――美綴さんも来るんだけど?」
「……チェ」
 さすがに前部長の存在に、桜も部活サボって付いて行きます的発言だけは飲み込んだようだ。……まあ、これ以上のギャラリーの増加は勘弁して欲しいな。
「でもセイバーは暇よね。よかったら一緒に来ない?」
「……良いのですか」
 ごくん、と行儀良く口の中の物を飲み込んでからセイバーは答えた。
「ええ、もちろん。……(わたし以下の人間が三枝さんだけという状況は避けたいし)」
 遠坂が口の中で呟いた言葉は、聞こえなかったふりをしておいた方がよさそうだ。後、蒔寺もお前より下だと思うが……もしや、アレをオンナノコの範疇に入れてないな、お前。
「……それではご一緒させて頂きます」
 少しだけ迷ってからセイバーは答えた。……ああ、これで俺の現場からの逃走はほぼ不可能になってしまった。スプリンター蒔寺だけならまだしもセイバーの移動速度相手に逃走しろというのが無理だ。となると、残る手段は校内での逃亡、か。とりあえず、ココロは健全な青少年、ランジェリーに興味が無いといえば嘘になるが、それはオンナノコが履いている場合であって、自分が履くという状況は想定の外なのだ。なにより、このままあの面子と一緒にランジェリーショップに放り込まれた場合、何か大切なものに膝を屈してしまうような気がするし。
 という事で、勝負は授業がすべて終了する一瞬だな。放課後突入と同時に雲隠れといこう。
「…………………………」
 ? 俺の表情を観察していた遠坂の唇がにい、と意地悪く吊り上り、無音のままパクパクと動く。その動きをつい読み取ろうとする俺。
えっと、に……げた……ら、も……っ……と……はず……か……し……いめに……あ……わ……す……?
 逃げたらもっと恥ずかしい目に遭わす、だろうな、やっぱり……。ううっ、どうしようか……。










「ふむふむ、どうしようかと言われてもな。……たとえ今日逃亡に成功したとしたところで、そもそも何時までも逃げ切れる筈も無かろう。大体あの遠坂嬢がそう簡単に諦める性格かどうか、君の方が詳しかろうに? ついでに言えば衛宮、成長期とはいえ、君も女の子だ。きちんと体に合った下着を着けるべきだと思うが?」
 休み時間、どういう理由か、俺は陸上部の策士、氷室鐘と向かい合って座っていた。どんよりと考え込んでいた俺の向かいの席に突然氷室が座ってきたときは思わず身構えてしまったが、なかなか聞き上手、というか巧妙な誘導尋問っぽい会話の流れで、ついつい放課後どうしよう、とか言ってしまった訳だ。
 ……って、よく考えたら、こいつ主犯の一人だし!
「ふむ、今頃気が付くとは君もなかなか愉快だな、衛宮」
「いやまぁ、藁にも縋りたかったんだと思うぞ、私」
「フフフ、助け舟が実はブービートラップだったようなものか」
「そのまんまだろっ」
 ふん、とばかりに頬杖を付いて視線を逸らせた俺に、苦笑いしながら、氷室は言葉を続けた。
「まあ、言わせてもらうなら、ここは諦めて折れておいたほうが良いと思うが? 遠坂嬢は衛宮の家に入り浸っていると聞く。あんまり逃げまくっていると、彼女の手で君の下着が全て、恥ずかしいブツと入れ替えられてしまうかも知れん。それなら、多少なりと君の好みのデザインのものを購入しておいた方が良いのでは無いか?」
「むぅ……、凛がそこまでするかな? というか、そういう子供の悪戯レベルの行動なんか思いつかない気がするけどさ」
「ふむ。……その時は私が入れ知恵するとしよう」
「待て。お前、どっちの味方してるんだ!」
「もちろん、私は私が面白いと思う方の味方だ。という訳で、今日のところは折れたまえ。遠坂嬢だけじゃなく、君のために時間を空けた私達や美綴嬢まで敵に回すのは宜しくないのではないか?」
「むむむ」
「何より由紀香ががっかりするぞ。君はあんないたいけな少女を残念がらせて良心が痛まないのか」
 くっと人差し指で眼鏡を押し上げながら、顔色ひとつ変えずに俺の顔を覗き込むメフィストフェレス氷室。
「って言うか、私はお前の良心に問うてみたい」
 かわいそうな学友が、寄ってたかって弄られている件に関してを。そんな俺の台詞に、わざとらしい溜息で答える氷室。
「うむ、由紀香の悲しそうな顔を想像すると胸が痛む」
「……つまり、私の立場の方はどうでもいい訳だな」
「どうでも良くはないから、こうやってわざわざ足を運んでいるのだが? 大体、どうせなら自分が納得して買ったほうが、買い物は楽しいだろう?」
 氷室は肩を竦めて見せた。そして、
「ま、逃げられると私達が楽しめないというのもある訳だが」
 と、本気とも冗談ともつかない内容を口にする。
 ……案外、こういう所が氷室なりの気の使い方なのかもしれない。決して自分の意見を押しつけようとはしない辺りが。
「…………まあ確かに、家の下着が全部入れ替わっていたら困るしな。…………分かった。今日は逃げない」
 少しだけ考えてから、俺は渋々と頷いた。ああ、何かに屈したような気がものすごくしないでもない。でも……仕方ないだろ、この場合?
「ああ、賢明だと思う」
 かすかに、口を笑みの形に歪めた氷室が、軽く頷いた。その目が微妙に笑っている。こいつって微表情だけど、意外と目に感情が出るのな。ちょっと発見。
「で? 私に用事があるんじゃないのか? 今の会話が用事って訳じゃないんだろ?」
「うむ、まさか君がこの期に及んで足掻こうとしているとは思わなかったのでな。ここまでの話は枕に過ぎない」
 と、ここで氷室は手にしていた小振りのトートバックからどさどさと中身を取り出して、俺の机の上に並べだした。
「……えっと、何だこれは?」
 白、ベージュ、ピンクの布きれの写真の乱舞。さらに、肌も露な女性たちの写真が並ぶ。俺の机の上にあるのは、通販カタログ、ファッション誌、チラシ……etcetc.
「まあ君はどうも、お洒落関連、特に下着には詳しく無いようだし、デザイン等も分かるまい。放っておいて蒔や遠坂嬢の玩具にされるのを放置するのも忍びないからな」
 うんうん、と頷いた氷室は、ぴしり、と人差し指を立てて、ニヤリと笑った。
「リサーチだ。さあ、どのような下着が良いのか、考えようではないか」





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