遠くで啼く蝉の声。
 夏の太陽は世界にくっきりと陰影を焼き付ける。それは光と影をきっぱりと分けてしまい。
 ねっとりとした大気の熱が、何処か現実感を失わせる。
 目の前の同級生の眼鏡が光を反射し、その視線を隠す。にぃっと吊り上がった唇は夜空に浮かぶ不吉なまでの朏のよう。
 その姿はまるで契約を迫るヨクナイモノのようだ。そして机に積み上げられているブツを契約書でもあるかのように俺に指し示す。
 ああ、これはきっと、夏の日差しが見せた蜃気楼――なわけ無いだろ!
 結論、現実とは逃避しようとしても追ってくるモノである。何時かは捕まる。それでも逃げたくなるのは間違いなんかじゃ、な、い、よな?





Fate after SS   交差点から空を見よう 〜俺と私の見た風景〜 5−2





 それは正しく不意打ちだった。
 ああ、油断してた。まさか校内で、それも休憩時間に堂々と目の前にこう、直球でこういうものが積み上げられるとは。
 もちろん、俺もこれでも一応健全な思春期の男子だ、もとい、だった。自分の部屋の押入れの奥底には秘蔵のアイテムくらいあるし、休み時間に健全な級友が持ってきたブツを教室の片隅とかでこっそりと回し読んだりとか貸し借りとか、野郎だけでのささやかなエロ話とか、そういった経験はある。あるんだけど、そういうのはもっとこう、こっそりとだな――。いや、判ってる。判ってるんだ。これは単なるカタログとかファッション誌とかで、健全で当たり障りの無いモノだってことぐらい、俺にだって判ってる。判ってるんだけどとっさに目の前に肌もあらわな女性の写真が積み上げられると、ちょっとだけ背徳感というか、イケナイことをしている気がするというか、かばんの中にエロ本が入ってるときのどきどき感というか、そういうのを思い出してしまう訳だが、いやでも、これは俺が男の子だからそう感じてるだけであって、女の子としてなら、こういう雑誌とかを休み時間に読んだりするのは当然なのかもしれない、のか? ああ、目の前の氷室も平然としているし、周りにいる人間も別段こっちに注視しているわけも無い。ということで、そうか、女の子なら別に良いのか? とはいえ、頬に血が上るのだけはどうしようもないよなぁ、不意打ちだし、女の子の下着なんかいまだ慣れてないし、いや、そりゃ見たことが無いわけじゃないけど、そのときはもっと他の事で頭が一杯だったわけだから下着のことなんか全然頭の中に残ってないし、そういえばあの時遠坂って下着何着てたっけ、覚えてないぞ、俺。履いたままのニーソックスしか記憶に無い、な。いや、いやいやいやいや、落ち着け俺。今そんなことを考えると余計頭に血が上るだろ。というか息が苦しいな、ってそうか、呼吸忘れてる。俺、息詰めたまま停止してるんだっけ。という訳で深呼吸だ。
「…………はぁ」
「……いや、なかなか面白い百面相だな、衛宮。何を考えていたのか興味深いが、ここはあえて尋ねまい」
「ああ、すまん。そうしてくれると助かる。本当に助かる」
 深呼吸を繰り返しながら、俺はまじまじと俺の表情を観察していた氷室に返事を返した。ああ、やっぱり顔に出ていたか。
 とりあえず、俺は表情こそ変わっていない癖に明らかに目が哂っている氷室から顔を背けるために、机の上のブツ達から一番分厚い奴を手に取った。まあ雑誌関係なら下着以外の記事くらいあるだろ。料理関係の記事とかなら俺も興味を持って読めるし、中身さえ氷室に見えなければ、ちゃんと内容に目を通してるように見える筈だ。おお、我ながらグッドアイデア。
 ぱらぱらと捲る。最初のほうはメーカー広告か。しかもすべてランジェリー関連。いや、シームレスとか紐なしとかワイヤー入りとかフルシルクとか言われてもなぁ。とりあえずこの辺は飛ばそう。
「……しかし、氷室がここまで面倒見が良いとは知らなかったぞ」
 さらにぱらぱらとページを捲りながら、俺は手持ち無沙汰っぽい氷室に話しかけた。む、これ良いな。伸縮素材を組み合わせたスポーツタイプのブラ発見。……とはいえ、この手の下着を選択させてはくれないんだろうな、今日に関しては。――ふむ、通気性が良いのか。湿気が溜まらないのは素敵だ。……うーん、でもまあカタログスペックだけだと実物見たときに裏切られる可能性もあるんだけどさ。
 と、目の前の記事を読んでいる俺に氷室の答えが返ってくる。
「む? そんなことは無いが。これでも一応部活では先輩だからな。後輩の面倒だってちゃんと見ているぞ。まあ、蒔ほどじゃないがな」
「――アイツのアレは"面倒を見ている"というのと少し違わないか? お山のボス猿が君臨しているだけのようにも見えるぞ」
 陸上部のガキ大将っぽい奴をを思い出して俺は苦く笑った。努力とか根性とか熱血とか似合わない癖に、後輩をしごくときだけはそっち系だからな、アイツは。ちなみに残りのコマンドは自爆と脱力と突撃に違いない。む、友情が入ってない辺りに真実味があるな。
「……それに関しては陸上部の一員としてノーコメントを貫かせてもらおう。私にも先輩としての立場や友人としての人間関係が在るからな」
「むむ。微妙に酷いことを言ってる気がするんだが」
 俺と同様、氷室は微かに苦笑いを浮かべた。どこか面白がってる節があるのは俺の気のせいじゃないだろう。
 うーん、しかしなー。これからの季節、やっぱり発汗性を考えたほうが良いんだろうなぁ。俺としても、デザインより性能重視でいきたいけど、その辺りが今一判らん。ああ、このページの白いのと、一個前のページの白いの、デザインもよく似ているというのに、なんでお札で一枚分も値段が違うんだ? 奥が深い……な。
「まあ、実際正直な話、放っておこうかとも思ったのだが、な。なにせ今日はなかなか濃い面子が揃う。意見の分裂やお互いの趣味を君に押しつけようとするのは目に見えているからな。普段なら楽しむところだが、今日の状況だと収拾がつかなくなりかねん。ならば、先に衛宮に購入に当たっての基本的な方向を定めさせておいた方がまだ良いだろう? さすがにデパート内で大騒ぎするわけにもいくまい。それとも君は面白おかしく他のお客さんに話題を提供したいのかね?」
「いや、それは困る。ご近所さんからこれ以上後ろ指を指されるような真似は控えたい。――だがなぁ。正直、お前が蒔寺の手綱を握っておけば騒ぎの半分くらいは抑えられると思うぞ?」
「はっはっは。……衛宮、そんなこと無理に決まってるだろう」
「……無理なのか」
「ああ、無理だ。そもそも衛宮、たとえばだが、君には遠坂嬢が本気で暴走したら止められるとでも言うのかね?」
 氷室の断言に、俺は記事に落としていた目を上げて、氷室と視線を交わした。そこに交わされているのは視線だけじゃなく、きっと深い共感。
「すまん、確かに無理だ」
「だろう? しかし……、ずいぶんと真剣に見比べているようだが、何か気に入ったものでもあったのかな、衛宮?」
「……? ………………あ、あれ!?」
 先ほどから前後ページの広告内容を比較してその違いを考察していた俺は、氷室の台詞に我に返り愕然とした。な、なんでこんなに真剣にパンツの広告にのめり込んでいるんだ、俺? いや、決して白レースとかワンポイントのリボンとかサイドのステッチとかそういったものが気になった訳じゃないし、もちろん、色と素材の違いに関して考え込んだりなんかしていない。ただ、こう……、そ、そう、身近な女の子である遠坂とかセイバーとかにはどんなのが似合うかなぁ、とか考えていたのであって、決して今の自分だとどういうのが似合うのだろうとか頭を悩ませたりなんかしてない。ああ、絶対にしていない。していない、筈だ。そうだよな、俺? 数秒前の自分を説得して自己防衛。ああ、女の子の下着に購入意欲を感じるなんて、そんな事がある訳無いじゃないか、ははは、ははははは、はは、……ハァ。
「……いや、いきなりどっと疲れた顔をされても困るのだが?」
「気にしないでくれ。ちょっと我が身を省みただけだ」
 ぱらぱらとページを捲る手を加速しつつ、俺は全力で誤魔化した。って、あれ?
「最初から最後まで下着の広告!?」
 俺が手に取った厚手の冊子は、紛うことなく最初から最後まで、すべてのページが女性下着関係の記事だった。
「いや、下着の通販カタログなんだから当たり前だろう」
 俺のリアクションに、呆れたような氷室の応え。な、何と! ……恐るべし女性下着。まさか下着だけでこの厚みのカタログだとは……。だってあれだぞ、セイバーが読んでいた全国名物物産食品カタログの二倍以上の厚みだぞ。いや、さすがにあり得なくないか? それとも、こんなことを考える俺が間違ってるのか?
「うーむ。……実に奥が深いな」
 彼方の女と書いて彼女、古来男から見て女性は世界最大の謎だとも言う。ああ、俺はオンナノコ道という底なしの深淵を覗き込んでいる気分だ。つまり、向こう側からも見られている、と。それは嫌な気分だな。気が付いたら引き返せなくなってそうで。……ああ、気を付けなければ。俺は衛宮士郎、れっきとした男の子なのだから。ううっ、最近不安定だな、俺。
「まあ、その総合下着カタログを一番最初に手に取るとは、衛宮も実は買う気満々だったのだな。少しは興味が有ったみたいでちょっと安心した。やはり無理強いはしたくないからな。で、こういうのが良いとか、そういうのはあったのか?」
 うんうんと満足そうに頷く氷室の、どこか嬉しそうな視線が痛い。ああ、それは誤解なんだ、誤解なんだよ、氷室。興味が有って手に取った訳じゃなくてだな……。まさに泥沼。毒の沼を歩くどこかの王子の気持ちが良く分かった。一体、俺のラーの鏡は何処なんだろう、な?   
 ごっそりと体力が減っていく光景を幻視しながらも、俺は不屈の根性でもって精神を立て直した。体は剣で出来ている。自身を表すその呪文。だから多少の事なら平気さ。ああ、きっと……いや、多分。
「というわけで、氷室には悪いが良く分からない。デザインを見れば良いのか、素材を考えれば良いのか、そもそもそれがどう違うのかも、俺……じゃない、私には今一つ分からないんだ」
 俺はこれ以上傷口が広がる前に白旗を揚げることにした。いやもう、これ以上は無理だ。色々なものが加速度的に磨耗してしまう。
「ふむ。素材にしてもデザインにしても最終的には好みの問題だろうな。天然繊維か化学繊維か、形状や幅や色、数種類取り揃えて色々試してみるべきだろう。まあ、ついでにパンツも一山幾らの量販品では無く、ブラと揃えて購入してみてはどうだ?」
「ぐ、む。ぱ、ぱんつもか?」
「ああ、一応衛宮も乙女だろう? 恋に恋することがあるかもしれまい。なら勝負下着の一着や二着程度、準備するべきだぞ、その……恋する乙女としては」
「……」
 停止。俺は一切の動きを止めて、まじまじと氷室の冷徹な顔を覗き込んだ。あー、今のヲトメ全開の台詞を言ったのは、間違いなく目の前の氷室、だよな? 俺の視線にたじろぐかのように、氷室は頬をやや赤く染め、こほん、と咳払いを一つした。
「と、ともかくだ。とりあえず、本当のところ、衛宮の正確なサイズは幾つなんだ? それによって色々と変わってくるのだが」
「む? いや、本当に知らないんだって。測ったことないし。……どうせ店で測るんだろ? なら別に今考える必要無いじゃないか」
 嫌だと言っても無理やりに計測する気だろ、お前ら? 言外にそう匂わせながら、投げやりに答える俺を、氷室はふふん、と鼻で哂う。
「何を言う、下着を購入するのなら、サイズは分かっていた方が良いに決まっているだろう?」
「なんでさ? サイズくらい別に事前に分かって無くったってたいして変わらないだろ?」
 首を傾げた俺の姿に、氷室は両手を肩の高さに広げ、首を振った。
「甘い、甘いな。フルールの季節の三色ジャムを載せたアイスクリームパフェ並みに極甘な考え方だぞ、衛宮。たかが下着、されど下着だ。特にサイズ。これが最重要点だということを、君は全く理解していない。昨今は幾分マシになったとはいえ、古来から一部女性にとっては最大の壁だったのだぞ。そしてその壁は今の君にもあながち無関係では無い問題なのだ」
 ぴしり、と氷室の人差し指が俺の鼻先に突きつけられた。
「え、えっと。その、つまり。私にも関係ある、と?」
「うむ。大有りだ。良いか、衛宮。サイズを舐めてはいけない。そもそも、CとD、DとEには深遠なる深い段差が存在するのだぞ。大きいと大きいなりの問題があるんだよ」
 その言葉に、俺は少し脱力した。氷室の顔がずいぶんと真剣だったから、てっきりもっと何か、重要な事柄があるのかと思えば、どうもブラのサイズの話のようだ。
「あー、つまり、……大きければ良いわけじゃ無い、と?」
 どことなく投げやりな俺の台詞に、ややむっとした氷室が、深く頷く。
「当然だ。大体、大きくて喜ぶのはおっぱい星人だけだろう? 所詮こんなものは脂肪の塊に過ぎない訳だしな」
 その返答に含まれた致死毒性に、俺は思わず辺りを見回した。
「な! いや、待て。その台詞を凛とかが聞くと危険極まりないぞ、主に私が。ついでにお前にも飛び火しかねないし。大体それは持てる者の傲慢だろう? 貧しい者の嫉妬より性質が悪いと思うんだが……?」
 とりあえず遠坂の気配が無いことにほっとした。周りの人間も、別段俺達に注目している気配は……多分無い。周囲の女の子達の微妙な感じの視線とか聞き耳を立てている様な様子は、その、きっと気のせいに違いない。お陰で俺達の周辺は男子生徒の近づき難い結界と化しているのも、きっと気のせいだろう。
「はっはっは、だからここだけのオフレコに決まっているだろう。大体、今は君も持てる者所属だしな、衛宮。うん、ようこそ巨乳連盟へ」
 底意地悪い、確信犯の笑みを浮かべる氷室。黒い羽とか尻尾とかが見えそうなくらいだ。くっ、やはりこいつもいじめっ子属性か。薄々そうじゃないかとは思っていたんだが。
「……話を戻すぞ。そんな話を凛が聞いたら、絶対私にとばっちりが来ることになってるんだから」
「うむ、良かろう。……巨乳の不便さに関する話だったな」
「ああ」
 ……あれ? そんな話だったっけ、何処か違うような? 俺の疑問を他所に、氷室先生の乳に関するありがたくも迷惑この上ないお話が続く。
「まあ、貧乳、いや、むしろ虚乳から半年でそこまで育った君なら大体は気が付いているだろう? 重いし揺れるし肩は凝るし男の眼は邪魔くさいし、な」
「……あ、ああ。まぁ」
 なんとなくは。って、ちょっと待て。最後のはどうだろう? 気にしたことが無かったぞ、俺。うーん、そうなのか、な? 大体男の視線なんて気にしたこと無いぞ。女の子の視線ならものすごく気になるけどさ。
「まあ、衛宮はまだまだノーチェック気味かもしれんな。しかし、もう少し身長が伸びたらまた変わってくるのではないか。……まだ伸びているんだろう?」
 不可解そうな俺の表情に、氷室は苦笑いを浮かべつつ口を開いた。
「あ、ああ。多分現在進行形で伸びてる筈だけど」
「まあ、その辺は今後気を付けた方が良いな。乳フェチは多分多いぞ。如何に潜在的マザコンが多いかということだろう」
「ストレートに問題発言な気がするんだが」
 俺の突込みを氷室はせせら笑った。
「気にするな。その内君も気が付くだろう。まあ、ここで話を本題に戻そう。今日の事に関してだ。要するにサイズの違いによる最大の問題なのだが……」
「……」
 むむむ。いよいよ本題か。ごくり、と俺の喉がなった。とりあえず氷室の台詞を清聴することに。
「ぶっちゃけると、サイズが大きくなるほど、加速度的にブラのデザインの種類が大幅に減っていくのだ。昔よりは改善されたとは聞くが、まだまだ品薄感は否めまい。特にキュート系のデザインは望み薄だ。カップ形状にもやや縛りが付くし、場合によっては値段も跳ね上がる」
「……なんだ、そんな事か。デザインなんてそんなに重要でもないだろ、下着なんだし」
 がっくりと俺は肩を落とした。どうせ服で見えないんだし、デザインなんかそれほど重視する必要も無いだろ。そんな俺の呆れたような様子に、氷室の額に青筋が浮かんだように見えた。気のせいか、その微かに微笑んだ唇の端がひくひくと引きつっている、気もする。あーっと、もしかして氷室さん、怒ってます? 何か地雷踏んだ?
「衛宮。……君は今の台詞で世の巨乳女性の全てを敵に回したぞ。育った時点で貧乳連合の敵だし、つまり世の女性全ての敵となった訳だな」
「いや、ちょっと。……なんでさ?」
 あー、氷室。その虐めてやるオーラは俺の気のせいだよ、な? と、とりあえず落ち着け、その背後に感じる氷点下のオーラが怖いから。って、もしかして俺、味方減らした?
 ――ジーザス。清く正しく生きてきた俺が、何か悪いことしましたか?





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