この状況でも学校に通うようになって早くも3日目になりました。少しは慣れた心づもりでしたが、そんなことはフルールのスィーツより甘い幻想だったと、今この時を迎えて気が付いてしまいました。高く険しいオンナノコ道に俺、衛宮士郎の心は折れてしまいそうです。
早鐘のように鳴り響く俺の心臓。
右を見ました。肌色です。左を見ました。桃色です。
正面に向き直り、眼を閉じて深呼吸。大丈夫、落ち着いたさ。うん、大丈夫さ。
再び眼を開く。
左を見ました。極楽です。右を見ました。天国です。
どんな苦行だよ、これは。此処は男子禁制女子更衣室。次の授業は水泳です。俺の手には学校指定のいわゆるスクール水着、略してスク水。
……ほんと、なんでさ。




Fate after SS   交差点から空を見よう 〜俺と私の見た風景〜 4−1




「――ハライソね、衛宮さん。……嬉しい?」
「ヒョ!……って、え? え! 遠坂?」
 耳元で囁かれた聞き覚えのある声に、俺は奇声をを押し殺して振り向いた。そこに立つのは小さな手提げのバッグを手にした赤いあくま。ひとの悪い笑顔が今日も素敵です。
「……顔、赤いわよ。さっさと元に戻しなさい」
「ば、馬鹿。この状態で健全なオトコノコが平静でなんか居られるか。だ、大体だな、そんなに簡単にほいほいと顔色なんか戻せないだろ?」
 囁き声の応酬。お互いに顔をやや近づけての会話。遠坂の整った顔立ちが俺の眼のすぐ側にある。ふくよかに柔らかく、彼女の最近のお気に入りのフラグレンスが俺の耳鼻をくすぐっていく。ヤバイ、顔面の温度がまた少し上がったのを感じる。
「……そうなの? 士郎は出来ないんだ?」
 遠坂は狐狸にでも化かされたかのようなきょとんとした顔で、俺の顔をしげしげと見つめた。俺の顔色の変化を確認し、猫が喉を鳴らすようにクスクスと含み笑う。
「っていうか、普通の人間には出来ないと思うぞ。そんな器用な真似」
「ま、そうね。そうだったそうだった。ゴメンゴメン」
 何が嬉しいのか、その笑みは満面に。思わず引き込まれそうになるほど華やかに。そんな笑みにどこか憮然としてしまう俺。遠坂の笑顔は綺麗だけど、笑いの対象が俺だという辺りに何か釈然としないのだ。
「そんな事より、着替えないの?」
「いや、なかなか踏ん切りが、じゃなくて、そうじゃなくて。……何で遠坂がここに居るんだ?」
「アンタ本気で言ってる? ……言ってるのね。今日の体育はうちのクラスと合同でしょ? 何寝ぼけたことを言ってるのかしら」
「そうだったか?」
「……なんて、ボンヤリ」
 呆れたように声をあげて、遠坂は手にした荷物をどさり、と俺の隣の棚に放り込んだ。
「お、おい!」
「どうせ着替えるんだし、別にいいじゃない。わたしは気にしないわよ。……大体貴方私の裸くらい見たことあるんでしょ?」
「いや、そりゃあるかないかと言われればあるとしか答えようが無いんだが」
「やっぱりあるんじゃないの」
 うあ、これは当分、顔の火照りは引きそうにない。記憶にフラッシュバックされたあんなのやこんなのやそんなのが、俺の平静をどこか遠くへ蹴り飛ばしてしまったからだ。

「……ほう、面白いな。"あの"遠坂嬢があれほどまでに気軽な姿を見せるとは」
「馬っ鹿、鐘っち。こういうのはおもしろおかしく生暖かく見守って後で話のネタにするのがいいんじゃんかよ」
「ま、蒔ちゃん、聞こえちゃうよ」
 遠坂とは反対側、俺の背後、おそらくはすぐ真後ろから響く、文字通り女三人姦しい声。それが聞こえよがしに耳に入る。そっか、そうだった。この三人は遠坂と同じクラスだったっけ……。
 俺は目の前で優等生の仮面をかけ直した遠坂の額に浮かぶ、かすかな青筋に溜息をついてから振り返って後ろを確認した。
 そこに立っていて、間違いなく聞き耳を立てていたのは……陸上部のレッツ○ー三匹だった。
「だってよー、こいつら小声すぎて何話してんのか聞こえないじゃんかよー。だったらこっちに巻き込んでおもしろおかしくネタにするのが正しい遊び方ってもんだろ」
 ふざけた事を真顔で言ってる自称"穂群の黒豹"。陸上部の恥じる最終人型ずっこけ兵器。一言で言うなら馬鹿。名を蒔寺楓とも言う。というか聞こえるように言ってやがった訳か。
「ふむ、君の言うことももっともだな、蒔の字。しかし、こうして目の当たりにしてしまうと、噂の信憑性も増すというものだな」
 冷静に眼鏡を指で押し上げ、淡々と言葉を続けたのが氷室鐘。陸上部の黒幕だ。こいつ単体なら比較的まともな部類にはいるのだが、どういう訳か蒔寺と合体事故を起こすとおかしな化学反応を起こしてしまうのだ。まったくもって迷惑この上ない話である。
「え、え? 鐘ちゃん。噂って?」
 ほにゃっとした柔らかい雰囲気の最後の一人が、二人の暴走に困ったような笑みを浮かべながらも話に加わる。三枝由紀香、陸上部マネージャーにして最後の砦。最大の良心。惜しむらくは、彼女単体では他の二人の暴走を止めきれないということか。ただ、彼女の存在が抑止力にはなっている。その分、彼女も貧乏くじを引いているのだろうか。ふと我が身を省みて共感してしまった。がんばれ三枝さん、負けるな三枝さん。俺と陸上部の善良な後輩達だけは応援してるから。
「ふむ、由紀香は知らないのか。一部ではまことしやかに流れている話なのだが」
 言葉を切り、意味ありげに俺と遠坂に視線を走らせる氷室。値踏みをするかのようなその視線。底意地の悪そうな、何か腹に一物ありそうな、というか間違いなく腹に一物どころじゃないものが渦巻いている笑み。何故かゾクリ、と背筋に悪寒が走る。
「まあ、つまりだ。……遠坂凛と衛宮志保の百合疑惑という奴なのだがな」
 ……はい?
 俺を間に挟んで、冷静を装いつつ怒気を撒き散らしている遠坂と、冷静そうに見えつつ愉しんでいる氷室が、見せかけだけは優雅になにか言いあっている。だが、そんなことはまったく俺の耳には入ってこなかった。
 えーっと、百合――百合目百合科。その中の主に百合属に属する多年草の総称。……違うよな。
 人名。当然違う。
 スプーン曲げるのが上手などっかの外人って大昔居たっけ。もちろん違う。
 ……いや、分かってる。本当は分かってるんだ。つまりあれだろ。猫ちゃんと太刀さんとか、教室の真ん中で彼女と彼女がキスとか、ロザリオ渡して姉妹縁組とか、ようするに、同姓、しかもオンナノコ同士の恋愛というか、つまりそういうことで。遠坂と俺の百合疑惑の噂というのはつまり、遠坂と俺が恋愛関係にあるという噂ということだよな、でも確かに遠坂と俺はつき合ってるからその噂は事実な訳なんだがどこかおかしいような気もしないでもない、というか遠坂の恋人は俺なのであって、遠坂の恋人は断じて私では無い。いや、待て。落ち着け、衛宮士郎。確かに俺と遠坂は恋人同士だ。そこまではOK? OK。よし、ここまでは矛盾は無い。でもって、ここは俺が女の子という可能性の世界。つまり私は、俺が女の子だった場合の配役な訳だろう? ということは、私が遠坂と実は付き合っている、という可能性も……有る、のか? いや、いやいや、いやいやおや、おかしくないか? だって遠坂だぞ、アイツは衛宮志保は私の親友だ、って言ってたぞ、確か。そうだよな、なに馬鹿な事考えてんだ、俺。……いや、でも待て。ちょっと待て。時々、遠坂は俺の事をおかしな眼で見ていないか? やたらと俺の胸とか胸とか胸に注目してるし。人が着替えに手間取っていた時とか、お風呂上がりとか、俺の寝間着姿とか、む、そういえば妙に一緒にお風呂に入りたそうなそぶりだったりもしたような。というか、この間の夜、風呂で意識無くしたとき、寝間着は着せたけど下着着せなかったんだよな、アイツ。つまり……、つまり、その、あっと、見られた? も、もしかしてもしかするともしかするんだが、こっちの遠坂はまさか、まさか……。
「ちょっと、衛宮さん。貴方もフリーズしてないで何か言ったら……、衛宮さん? おーい、志保〜?」
 氷室との話し合いに埒があかないと見たのか、俺に話を振る遠坂。ぐるぐるとした思考に嵌り込んでいた俺はそれに気が付かず、ぶんぶんと目の前に振られた遠坂の手にようやく現実に復帰した。
「あ、と、遠坂!」
 間近にあった遠坂の顔に、思わず私はずさり、と後退った。とん、と後ろに居た氷室に肩が当たる。思わずくるり、と氷室を軸に一回転。遠坂と俺の間に氷室を割り込ませる。わかりやすく言うと、俺は遠坂の視線から逃げるのため、氷室の後ろに回ったのだ。
「……志保? 何の真似かしら?」
 遠坂の額の青筋が大きくなった。にこやかな微笑みの背後に燃えさかる黒い炎。
「と、遠坂。ま、まさか遠坂って、遠坂って……凛って、私の体が目当てだったのか!」
 ピシリ、という空気の凍る音が聞こえた気がした。ややざわめいていた更衣室の中が、今は耳が痛いくらいの静寂に包まれている。更衣室に居る他の娘たちの視線が痛い。凍り付いている遠坂の殺気にもろに矢面に立たされている氷室は硬直してしまっている。その脇の蒔寺も顔を青くして冷や汗をダラダラと流している。ふ、本能が真の殺気というものに当てられてしまったか。おろおろと、遠坂とこっちを忙しく見比べる三枝さん。ああ、君を困らせるつもりはなかったのに。だが申し訳ないが巻き込まれろ。
 更衣室の出口は……遠坂の後ろ方向か。窓は鍵がかかってるし格子付きだ。となると、逃亡ルートを確保するには何とか遠坂をスルーしなければいけないんだけど……無理か。
「そ、そ、そ」
「そ?」
「そんな訳、ないでしょうがぁーーーーーー!」
 がぁーーー、がぁーー、ぁーー、ーー。更衣室に反響する絶叫。遠坂凛の魂の咆吼。キーンと耳が鳴るほどに。
「……あ」
 自らの大声に、正気に戻った遠坂の顔が見る見る赤く羞恥に染まる。
「志ぃ〜保ぉ〜?」
「あー、落ち着こう、凛。ほら、みんな見なかったふりしてくれたみたいだしさ? ね?」
 私の視線に、皆さん丁重に視線を逸らしてくれる。ほら、人の優しさが身に染みるじゃないか。
 引きつった笑みの遠坂が、猛禽の瞳で私を狙っている。じりじりとした動きで回り込もうとする彼女と、反対方向に私も動いた。中央に氷室を置いたままで始まる駆け引き。
「お? お、お。おぉ?」
 凛の動きに合わせ、巧妙に自分の立ち位置を変え絶妙に手が届かない場所をキープ。なんとか出口までのルートを確保しようとはするものの、さすがにその動きは読まれているようだ。凛のフェイントには氷室の肩を、腰を、腕を、背中を押して氷室の立ち位置と姿勢を変更することで対処。突発的に全身をシェイクされている氷室が何か言ってる気もするが気のせいと言うことにしておこう。
「ク、ちょこまかと。良いから大人しく捕まりなさい。氷室さんに迷惑でしょうが」
 氷室の肩にある私の手を掴もうとした凛の手が、空振りして氷室の肩を掴む。それならばと凛は、そのまま氷室を脇に除けようとした。そうはさせじと、私は反対側の肩を引っ張り、氷室の体を半転させる。
「だが断る。氷室の迷惑より私の貞操の方が重要」
「く、何寝言言ってるのよ。私に、そんな、趣味は、無い、チ、この、ちょこまかと」
 ぶんぶんと氷室の体が揺さぶられる。まぁ、主に私が揺さぶっているんだけど。
「だって、凛。お前時々変な目で私見てるだろう。主に胸!」
「な、なに、人聞きの悪いことを。いい? 女の子としては、他の娘の発育具合とか気になるものなの。そういうものなの。特に貴女は最近成長著しいから、こう、何か特別なことでもやってるのかなー、とか秘訣でもあるのかなーとか思っちゃうの。それが自然なの」
 遠坂の台詞に、何故か生暖かい眼で見守っている周囲の娘たちがうんうん、と頷いている。
「……そういうもの?」
「えっと、うん。最近衛宮さん、最近、胸大きくなったもんね。髪も伸ばしだしてからすごく可愛くなったし」
 近くに居た三枝さんに視線を向けると、ほにゃっとした笑みでそんなことを言ってくれた。いやいや、三枝さん、可愛さなら貴女には勝てませんよ。
「大きさなら氷室の方が大きいだろうに」
 目の前の氷室の胸に眼を落とした。
「この場合は最近成長が著しい、というのが問題なのだろう。成長していない娘達にとっては君は今後の希望であり、そして現在の嫉妬の対象なのだろうからな。まあ、遠坂嬢がどちらなのかは分からんが」
「と言うわけで、納得したなら大人しく捕まりなさい、志保。まったく、おかしな順応してるんじゃないわよ」
 ……順応? どういう意味だろう。私は私なんだけ……む、何かおかしい。何か俺らしく無い言動だったような気がす……
「みぎゃ!」
 動きが止まった俺の背後、脇の下からにゅっと潜り込んできた手がむにゅり、と下からすくい上げるかのように俺の体の一部をもみ上げた。
「な、な、にゃ、ひゃ、ひゃ、にゃ、にゃにごと?」
 もにゅもにゅと、柔らかさとか重さとか、そう言うのを確認するかのように、揉み、這いずり、さすり、なで上げる手。
「おー、これが遠坂を魅惑した乳か。ちょっとまだ堅さが残ってる辺りが鐘っちとは違って将来性を感じるなー」
「ちょ、くすぐった、やめ、止め、ってお前、蒔寺か、ば、馬鹿、こら、テメエどこのエロ親父だ!」
「良いではないか、良いではないか。体は正直だぜ。嫌よ嫌よと言っててもそのうち……」
 がん、と氷室の拳骨が蒔寺の頭蓋に落ちる。その鳩尾には俺の肘が入る。がっしと俺の胸をもみ上げていた手は遠坂によって引き離される。
「痛ーー! なんだよ。ささやかな好奇心じゃんかよー。あの乳がわたしを誘うのが悪いんだぜ」
「君のは少々やりすぎだ、蒔の字。……で、どうだった?」
 氷室の質問にわきわきと手を動かす蒔寺。
「んー、多分D。へたすりゃEに届くかもよ」
「何! あの身長でか。それは確かにエロいバランスだな。遠坂嬢がとち狂うのも当然か」
 さらりと酷いことを言う氷室。オマエ鬼だな。何気なく酷いことを言われた方は、
「D……そんな。D、下手すればE……、先月までは確かにCだったはずなのに……」
 何かショック受けてらっしゃいます。ていうか、何で周りの皆さんまで、俺の胸を注視していらっしゃるのですか?
 突然、何かに取り憑かれたかのように、鬼気迫る雰囲気で俺に詰め寄る遠坂。ぽん、と俺の胸に片掌を当て、むにむにと、ってオマエもか!
「志保……明日からわたし、貴女と同じ食生活にするわ」
 何か言おうとした俺の言葉は、遠坂の一睨みで封じられてしまいました。……って、いや、今オマエ俺と同じ釜の飯くってんだけど?





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