人間は慣れる生き物だということを実体験として理解した。
肺に溜まっていた空気を深い吐息として吐き出す。
じんわりと全身に染み渡ってくる熱さが心地いい。
さすがに三回目の風呂ともなれば慣れないとやってられない。……まぁ、好奇心が無いわけでも無い。だって、心はオトコノコだもん。




Fate after SS   交差点から空を見よう 〜俺と私の見た風景〜 3−3





 今日の夕食当番は俺だった。旬ということで初鰹のたたきをメインに、焼きナスの煮びたし、ごぼうのキンピラ、素麺を具材にしたお汁などの和食で攻めてみた。ついでで作ったおまけの一品の茶碗蒸しが一番人気だったことにちょっとだけ納得いかなかったが、まぁそれでも本日の夕食も好評だったようだ。
 湯船の中、風呂場の天井を見上げながら、つらつらとそんなことを考えていた。実際、自分が状況に思いっきり流されているのは理解している。理解しているからといってどうにか出来る訳でも無いのが辛いところだ。なにしろどうすればいいのか分からない。
 問題は山のよう。でも手をつけることが出来ない。
「衛宮志保、か」
 結局、全てはそこに行きついてしまうようだ。けど、彼女の事を多分一番知っているはずの遠坂の口は重い。いや、あれは重いというよりむしろ……
「話したく、ない、かなぁ?」
 遠坂凛は、この状況を是とはしていない。それは確か。しかし彼女は、同時に俺が衛宮志保で居ることを許容している。いや、違う。むしろ俺で在ることを変えたくない、と言う感じだろうか。その事自体はありがたい事だけれど、遠坂の理由は俺の理由とは違うような気がする。
 俺が俺で在ることで何か利点がある、とか。
 うーん、無さそうだけど? う、自分で考えてちょっと落ち込んだ。魔術使いとして、投影魔術やそれを使用することなら志保より俺の方が遙かに前に進んでいる。それはこの体の魔術回路を診て理解している。けれど魔術師として、魔術を学ぶものとしての存在でなら、衛宮志保は俺のはるか上を進んでいる。遠坂の言葉の端々や、解析や強化に関して滑らかに起動してみせた魔力回路からそれは分かる。知識の習得なども桁が違うだろう。この辺はまぁ、我が身のへっぽこぶりを反省するべきかも知れないが。
 いや、ちょっと待て。
 遠坂への利点、じゃなくて俺への利点が何かあるとしたらどうだろう。もしくは他の誰かの。
 ……だめだ、思いつかない。なにせ情報が無さすぎる。
 思考が空回りしているせいか頭がぐるぐるしてきた。けど脳は考えることを止めない。答えが出ない解を、それでも求めようと回転数を上げながら空転を続けていく。
 ……止めないのは良いんだけど、
 何か/ぐらりと、
 世界が/歪んで、
 暗く……/あれ、なんで、さ……?
 





「俺の部屋だ」
 ボンヤリとした視界には見覚えのある天井。扇風機の風が体を撫でていく。
 柔らかい感触は布団。額の上には濡れた感触。これはタオルか。
 ……寝てる? でも、なんでさ?
「起きたみたいね」
 頭の上、すぐそばから遠坂の声が響く。すっと頭上から遠坂の顔が天地を逆に俺を覗き込んだ。かなり近い。
 ボンヤリとしたまま、俺は彼女の頬に手を伸ばし、そっと触れた。
「とお、さか?」
「まったく、お風呂でのぼせて意識無くすなんて何処の冗談よ。セイバーが気が付かなかったらアンタ朝までそのままよ?」
 すぐ側には柔らかい微笑み。ああ、遠坂だ。
 嬉しくなった俺はそのまま手を伸ばし、遠坂の顔を引き寄せ、その唇を……。
 ゴスッ、というか、ガスッ、というか。鈍く、重い音と共に俺の頭に衝撃が走り、そのまま俺は、遠坂の膝の上から転がり落ちた。
「ッ、痛! イタ! イタイ! 火花が、星が、眉間がゴンって、ゴンって! ……アレ?」
「……眼ぇ覚めたかしら、衛宮くぅーん? ん?」
 何故か額を抑えながら、ニコニコと殺ル気満々な笑みで遠坂が嗤っている。というか、頭突きですか、ヘッドバッドですか、チョーパンですか。オンナノコとして如何でしょう?
「女の子同士でキスする趣味無いんだけど、わたし?」
 う、ゴメンナサイ。
「いや、悪い。寝惚けてた」
 ぼんやりとしていた頭がようやく回り出す。あれ? 浴衣着てるぞ、俺。
「ああ、とりあえず着させやすそうだったから着せたわよ。……下着は履かせてないけどね」
 俺が自分の格好に気を取られたのを見てか、遠坂から声が掛かる。しかし、今の騒ぎで裾が乱れていて、こう……我が身ながら眼のやりどころにちょっと困る。とりあえずはだけた胸とか深く開いた裾とかを直しながら、
「あ、ああ、すまん。ありがとう」
 着替えさせてくれたことへの礼を言った。頬に血が上っているのは仕方ない。
「とりあえず、胡坐は止めなさい。ぱんつ履いてないんだから」
 布団に座った俺に入る突っ込み。慌てて俺は正座に脚を組みかえた。
「いや、どうせなら下着も着せてくれたほうが有難かったんだが」
「そう? エロ可愛くて良いじゃない」
 どうやら俺の反応を見て楽しんでる様子だ。遠坂は気を許した相手にはこうやって悪戯を仕掛けたりする。それは一種の甘えだと思っているんだけど、どうやらこっちの遠坂もそれは変わらないようだ。なんとなく微笑ましい。
 俺の微笑を見てか、遠坂も顔を綻ばせた。
「で、大丈夫なの? どこもおかしくない?」
 そして、ちょっと首を傾げて俺を覗き込んでくる。
「ああ、大丈夫。ちょっと考え事してて、気がついたらのぼせてた。悪い、心配かけた」
 ちょっと心配そうな顔を覗かせた遠坂に苦笑を返して、俺は軽く頭を下げた。
「いいわよ。別に何もしてないし」
 ぶんぶんと手を振って照れる遠坂。コイツは何もしていないと言った。でも、
「でも俺が気がつくまで居てくれたんだろ? だからすまん。感謝の言葉くらい言わせてくれ」
 俺の言葉に遠坂は視線を逸らせた。頬に少し血が上っている。
「べ、別に心配なんかしてないわよ。ただどこかに不調とか起きてたら問題だし、今"士郎"の何かあったらわたしの管理責任だし、夏の初めとはいえ風邪をひかないとも限らないし……、ちょっと、何笑ってんのよアンタ」
 俺のなま暖かい笑みに気がついて、遠坂はふて腐れたように俺を見る。
「いや。遠坂だなぁ、って思った」 
「ク、アンタ何にやついて…………ふぅ、もういいわ。心配した。しました。それでいいでしょ? この話はおしまい」
 頬の赤みに照れの残滓を残しながら、遠坂は強引に話を切り替える。
「それで?」
「ん?」
「だから……考え事してたんでしょ? 貴方が何を考え込んでいるのか想像はつくんだけど……聞きたいこと、あるんじゃない?」
「……なんで分かるんだ?」
「顔に書いてあるもの」
 む、そんなに俺は感情とかが表情に出ているのだろうか。思わずぺたぺたと自分の顔を触ってしまう。……お肌はすべすべです。いや違う、何考えてんだ俺!
 そんな俺のアクションがウケたのか、遠坂がくすくすと笑う。
「やっぱりいいわね、貴方。本当に、ね」
 俺を見る遠坂。その眼はやはり、俺を通してどこか遠くを見ている。こちらの遠坂が時々見せるその眼。多分、遠坂が見ているのは、俺の向こうの彼女の残響。
「衛宮、志保」
 小声で呟く。
「……」
 遠坂の笑みが消える。すっと表情が抜け落ちる。
「遠坂が俺の向こうに見てるのは、多分彼女なんだろ? それがどういう意味を持つのか分からないけど。遠坂は――凛は、俺が彼女を擬態することを歓迎してないんじゃないか? むしろその逆で、俺のままで居て欲しいと思っている。違うか?」
 二人視線を絡めたまま無言の時が流れていく。首を振る扇風機の奏でる静かな風の音と、何処からとも無く聞こえる虫の鳴き声だけが部屋を渡る。
「……」
「……」
「……そうね。うん、多分そう。ごめん、言われて初めて納得した。わたし、貴方にあの娘の真似なんてして欲しくないんだ」
 ゆっくりと視線を逸らす遠坂。
「あー、うん。そう言うことだったのね。だって、貴方があんまり自然なんだもの。それがたとえ本来のあの娘のものじゃないと分かっていても、それでも、わたしは嬉しかったんだ。本当、どうしてそんなにずれてるのかしらね、貴方たちは。本質は一緒だろうに、方向性は間逆に近いわね。一度二人を並べてみたいわ」
 軽くため息をついてから遠坂は視線を俺に戻した。
「ええ、そう。わたしは貴方に貴方のままですごして欲しい。貴方はまっすぐだから。貴方を曲げたくない。貴方は素直に感情を出せる。それが私には」
 嬉しかった、と最後は呟くように。どこか泣きそうなその瞳。
「全く、心の贅肉だわ。意味なんて無いのに。貴方が笑っているのは貴方だからであって、あの娘が笑ってるわけじゃないのにね」
「……複雑、なんだな」
「ええ、ほんと、複雑だわ。まだ聖杯戦争から半年も経ってないもの。認める。正直わたし、あの娘に対する感情が整理しきれてない」
 俺と遠坂は、眼を合わせて苦笑する。
「そっちじゃわたしは貴方と、その、えっと、付き合ってて、あまつさえ、その、あ、あれだって言うし」
「あ、ああ。その、なんだ。まぁ、色々あってだな」
 二人して頬を染める。何やってんだか。本当、なんでさ。
「まったくまぁ。そっちのわたしは何考えてるのやら。自分を殺そうとした相手とよく恋なんて語れるわねー」
「……は?」
 えっと、今、遠坂さんは、何と仰いましたか? あれ? 何かとんでもない事をさらっと仰いませんでしたか?
 俺は多分、呆けたような顔をしていたのだろう。俺の顔に思いっきり不審そうな顔をする遠坂。
「え? 何よ?」
「いや、逆だろう、遠坂。俺はお前に校舎の中で壮絶に追いかけられた記憶しかない。大体、俺みたいなへっぽこが遠坂に勝てるはずが無いだろう? ましてやあの時はまだまともに魔術すら使えなかったんだし」
「……」
 俺の呆れた台詞に顔を伏せる遠坂凛。
「……けたわよ」
 ぼそり、と小声で何か呟かれました。顔を伏せているせいで表情は窺えないが、何故かその両肩が微かに震えています。あー、何故か心の中で警報が鳴り響いているのですが。
「はい?」
「……負けたって言ってんの! きっちりと、完膚無いほどに、言い訳すら出来ないほど完全に! ええ、悪かったわね。こっちじゃわたし、負けました。大体、あんな手段を選ばないような娘とまともに喧嘩なんか出来るわけ無いじゃない!」
 うがーっと逆切れして喚いている遠坂凛。って、ええ!?
「俺が遠坂に勝てる世界があったのか!」
「その何気ない一言が人を傷つけると知りなさい士郎! ええい、わたしがセイバーを呼び出せてたらきっと、きっと、きっ…………ぅ、それでも勝てなかったわね」
 自分で言った台詞に自分で落ち込む遠坂。
「ま、まぁ落ち着け、凛」
「落ち着いてるわ、ええ、精一杯落ち着いてるわよ、衛宮さん。大丈夫、わたし冷静だわ」
 深呼吸を三回。遠坂凛は見事に猫を被ってみせた。その額の青筋は気のせいだろう。
「ま、まぁそういうわけだから。士郎は出来るだけ普通に生活してなさい。後のフォローなんかわたしや戻ってきた志保でなんとでもするから。させるから。ただある程度は考えてね。あんまり人には関わらない、OK?」
「ん、まぁOK」
 困ってる人が居たら多分助けちゃうんだろうなーとか思いつつ、この場は了承しておく。今の遠坂に逆らうのは確実に拙い。
「ん、ならいいわ。ま、貴重な体験が出来ると思ってオンナノコライフを楽しみなさい。こっちも精一杯楽しませてあげるわ、色々と企ん、じゃなかった、企画してるし」
「……あ、ああ。そうだな」
 嫌な輝きを宿した遠坂の視線から眼を逸らし、俺は布団から立ち上がった。ゆっくりと伸びをする。さて、そろそろ行くか。
「あれ、どこ行くの志保?」
「………………ぱんつ履きに」






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