「で、なんなのよ、これは」
 数分ほど前に、奇しくも同じ場所で同じような台詞を呟いた少女の存在も知らず、正門を通り抜けた彼女は、優等生然と澄ました顔を崩すことなく、しかし思考の中では呆然としながら思わず呟いてしまっていた。
 ギリ、と奥歯の鳴る音に彼女は我に返った。軽く嘆息した彼女は、思考を強引に通常状態に引き戻す。瞳の奥をを掠めるのは苛立ち、怒り。
 立ち止まる彼女の脇を校舎へと向かう生徒達が通り過ぎていく。時刻はまもなくホームルーム開始を告げる頃合い。流れる人並みは彼女を気にすることなく、我先にと進んでいく。
『驚いた。もしもの話ってホントにあるのね』
 声には出さず、それでも相手には伝わる"声"で彼女は話しかける。レイラインを使用する念話。
『ああ、私も驚いている。いや、何事にもケチをつけておくものだな。思わぬところで役に立った』
 答えるのは姿無き従者。いつもの皮肉っぽい響きも、今回だけはいささか呆とした感がある。
 どんよりとした澱んだ空気。ちりちりと感じる重圧が気持ち悪い。感覚器の魔術的な部分が違和感を否応なく訴えかけてくる。
『参った。完成はしてないみたいだけど……結界?』
 結界。世界を分割する地形魔術。その内の空間そのものに効果を及ぼす広域な魔術行使。範囲が広ければ広いほど、効果が大きければ大きいほど準備に時間が掛かる魔術でもある。そういう点で言うなら、この結界は未だ未完成。しかし未完成ながらこの影響、実際に完成した場合の効果はまず間違いなくかなり酷いものであろう。
『おそらくは、な。しかし派手な事だ。ここまでやるとは、よほどの大物なのか、もしくは』
『よっぽどの素人か、かしらね。まったく……』
 朝、家を出る前に自身が否定した可能性。学校という人目の多い閉鎖空間に敵が潜んでいるかもしれないという状況。"有り得ない"の一言で済ませた話だったのだが……。
『本当、参った。私の見通しが甘かったわね』
 彼女は自分の未熟を認めた。今、それを否定しても意味は無い。要は自身の未熟を認めた上で、その反省を踏まえて前に進めばいいだけのことなのだから。
『ほう、殊勝な事だな。……で、どうするかね、凛?』
 揶揄するかのような皮肉げな従者の声に、彼女――遠坂凛は、毅然と前を見たまま、名前の如くに凛と宣言する。
『潰すわ。大物だろうが素人だろうが関係ない。私のテリトリーでここまで派手な事をしてくれたその対価、きっちりと払わせてやる』
 そのまま彼女は颯爽と校庭を校舎に向けて歩き始める。迷いを見せず、背筋を伸ばし、前を見据えて。





 二時間目が終わった。音楽室から出た遠坂凛は、こっそりと溜息をついた。
『おもったよりストレス溜まるわ。この違和感』
 微妙な圧迫感が彼女の癇に障ってしまっていた。苛立ちを押さえることで、さらに苛立ちが増大していく。
『まあ、仕方有るまい。魔術的な感覚を押さえれば少しは楽になるはずだ。大体そうすぐにすぐ起動するモノでも無かろう。今からそう気を詰めていると後が辛いぞ』
 さらり、と余裕を見せる従者の声。
『とは言っても、ね……』
 凛は苦く笑みを走らせる。どんな時も余裕を持って優雅たれ、それは遠坂家の家訓。その実践の難しさを、今日ほど彼女が感じた日は無かった。
「――あれ?」
 視線の先に居るのは、凛の見覚えのある一年生の少女。両手一杯にプリントの山を抱え、よたよたと危なげな足取りで歩いている。
 一瞬。本当に一瞬、遠坂凛の眼に迷いが浮かぶ。脳裏に刹那過ぎる感傷。記憶の底から染み出る感情。
 躊躇いはその一瞬だけ。一度の吐息で全てを切り替え、そして遠坂凛は、その顔見知りの後輩、間桐桜に声を掛けた。
「手伝うわ、桜」
「え? ……あ、遠坂、先輩――――」
 一瞬だけ桜の瞳に浮かぶ驚き。怯えにも似た視線の動き。そして、凛を見て浮かべる遠慮がちな笑み。そんな間桐桜の表情の動き全てが、遠坂凛の心の奥底の柔らかい部分に、軽く爪を立てる。ほんの微かな痛痒。それでも、そんなことは全く表に出さず、凛は優雅に微笑んでみせる。遠坂凛は間桐桜にだけは、絶対に無様な姿は見せられない。見せたくない。それはある種の見栄と言っていいほどに。何故なら遠坂凛は、間桐桜にだけは常に格好の良い存在で在りたかったのだから。
「世界史、か。って、と言うことはうちの担任? 葛木のヤツ、女生徒に使いをさせるなんて何考えてるのやら。ほら、半分貸して」
 そう言いながら凛は、桜の手のプリントを半分少々受け取る。
「あ……はい、ありがとうございます、先輩」
「いいっていいって。コレ、桜のクラスまで?」
「いえ。葛木先生のところです。誤字があったから回収するって言ってました」
 凛の脳裏に、担任の何を考えているのか分からない顔が浮かんだ。穂群原学園最大の堅物教師の顔が。
「……あー、災難だったわね、あの堅物なら仕方ないわ」
 ゆっくりと、二人して廊下を歩く。
 居心地の良い、または居心地の悪い、そんな時間。意味のない世間話を重ねながら歩くだけの、ただそれだけの時間。
 凛が話し、桜が受ける。ただの先輩と後輩の立場での、些細な会話だけが重ねられていく。そんな時間の貴重さを、当人達だけが判っていた。
 しかし、長いような短いような、そんな時間もすぐに終わりを迎える。
「あ、もうここまでで大丈夫です。後は届けるだけですから」
 済まなさそうな、それでも嬉しそうな、そんな桜の笑み。そんな桜の笑みにつられて、凛も自然体の笑顔を返す。
「それじゃ、またね、桜」
「はい。――ありがとうございました」
 そうして凛は、言葉と共に桜にプリントを返した。後は自分の教室に戻るだけ。しかし凛は、少しだけ足を止める。
「桜、最近どう?」
 些細な感傷が、そんな言葉を紡ぎ出す。
「ぁ……はい、大丈夫。元気です、わたし」
「そう。何かあったら言いなさい。――じゃ、またね」

 軽く手を振って凛は、顔見知りの後輩に背を向けた。そして自分の教室へと歩き出す。
『……今のは?』
『ただの後輩よ。……ただの、ね』
 興味ありげな従者の台詞に、邪険に凛は返事を返した。正直、彼女の方は軽口を叩く気分ではなかった。
『ほぅ、……ただの、ね』
 奥歯に何か挟まっているかのように歯切れの悪い従者の台詞に、少し苛立つ凛。その彼女の苛立ちに対して、肩を竦めるかのような気配が帰ってくる。
『……言いたいことがあるならはっきり言ったら?』 
『いやいや。ただ他の娘たちとはいささか君の反応が違っていたからな。あるいは敵マスター候補かとも思ったのだが、令呪も無いようだったようだし。ま、ささやかな好奇心だよ』
 彼女は、自身の従者の目端の良さにちょっとだけ感心してしまった。良くそこまで見ていたものだ。けれど、それでも。
『……ただの顔見知りの後輩よ。それ以上の詮索は必要ないでしょう?』
 彼女はそれ以上の言葉をシャットアウトした。
『ふむ確かにな。だが……彼女には感謝するべきだろうな』
『……?』
『気が付いていないのかね、凛? 今の君は良い具合に肩の力が抜けている。今はまだ魔術師の時間では無いだろう? すこしは楽にしていたまえ』
 自身の従者の言葉に、彼女は自分の中の気負いが程よく抜けているのに気が付いた。思っていた以上に力が入っていたのか、今頃になって随分と肩の凝りを感じだす。
『……そうね、そうする』





「……?」
 そして昼休み、購買に向かう途中、凛はふと立ち止まった。首筋に軽く手をやる。
『どうした、凛?』
『……いえ、気のせい、みたい。誰かの視線を感じた気がしたんだけど』
『ふむ、大方君の外見に眼を眩ませた男の視線では無いのか?』
『そういうんじゃない、んだけど。まぁ、さすがにこの違和感の中じゃ勘も狂うみたい。多分気のせいよ』










 休み時間毎に校舎の中を人に紛れて巡回していた衛宮志保は、数箇所の結界の中継点と思われる地点を発見していた。魔術的な視線のよってのみようやく見える校舎に描き込まれた刻印。
 そして昼休み。その刻印に影響を与えないように細心の注意を払いながら、その内容を解析した志保は、その結界の効果の悪趣味さに呆れ返っていた。
『やれやれだ。悪趣味なことだね。しかしまあ、……どうしたものかな』
 自分の実力ではどうやっても解除不可能な刻印。もとより彼女には解除するつもりもないのだが。
『餌としては悪くないんだけど……』
 結界を撒き餌にする方向で思考を進めていく。結界を作ったモノ、それを調べに来るモノ、どちらが釣れるにしても彼女にとっては大助かりだ。なにしろ手間が減る。
 志保は脳裏に校舎の構造図を構成した。そこに現在発見済みの刻印の位置を重ね合わせていく。
『校舎全体を覆うとなると、後はこの辺とこの辺……かな』
 その位置関係からまだ未発見の刻印位置を推測していく。すっと視線を窓の外に送り、志保は推測した地点に目を走らせていった。
『――おや?』
 ふと目に入った人影に、志保は視線を止めた。窓の向こう、反対側の校舎、購買へと向かう廊下を歩く彼女に。
『ほう』
 その彼女が首筋に手をやるのを見ながら、そっと志保は視線を外し、とりあえず昼食を取るために、屋上へ向かって歩き出した。
『あっちはどう動くことやら。……勝負は夜かな』

「――って、ここが起点?」
 ただ一人屋上に立つ志保は、それを見た瞬間、思わず声に出して呟いてしまった。屋上の床面に描かれた、禍々しい、七画の刻印。何時も昼食を取っている場所に結界の起点が存在している偶然に、少しだけ彼女はは呆気にとられてしまったのだ。
「……はぁ、ま、いいや。ご飯食べよ」
 気にしても仕方ないので気にしないことにして、彼女の指定席と化しているフェンス脇まで歩いていき、そこで志保は腰を降ろした。
 冬の寒さゆえか、今日も屋上は彼女の貸切だった。小さなポーチからこじんまりしたお弁当箱と魔法瓶を取り出すと、とりあえず熱いお茶をコップに注ぎいれる。箸箱から箸を取り出し、両手を合わせた。
「頂きます」
 お弁当箱に向かって律儀に一礼してから、志保はお茶を一口だけ啜り、口内を湿らせてからお弁当箱の中身に取り掛かった。
 視線の先には、冬の曇天の下、いつもと変わらない冬木の街並み。背後には不吉な気配すら漂うような刻印。
 それでも志保の箸はいつもと変わらないスピードでお弁当箱の中身を減らしていく。
『設置されたのは、一昨日の夜から今日の朝までのいずれか。さて、昨日休んだのが悔やまれる、か? いや、どのみち昨日は登校できる状況じゃなかったしね。問題は、誰が設置したのか、なんだけど』
 機械的に食事を進めながら、志保はその思考に埋没していく。
『遠坂凛、とは思いたくないな。彼女のイメージじゃないし、なによりこの仕掛けは街の管理者としては許容できまい。とはいえ、そうなると学校内に私と遠坂凛以外のマスターが居る可能性があるという事か。さてさて……桜じゃなきゃいいんだけど』
 志保の脳裏に浮かぶ、子犬のような後輩の笑顔。彼女と戦うのは正直避けたい。
『ちょっと様子がおかしかったし、可能性はあるんだよね。……どうしたものかな』
 情が移ってしまっていることに、志保は苦く笑ってしまった。それでも。それでも、彼女が"敵"に回ったのなら……。
 志保はため息一回で、可能性の問題から思考を引き剥がした。
 とりあえず、結界の術者の確認はしたい。問題はその手段。
『どうせ動くのは夜、か。セイバー呼んで二人でどっかに隠れてるかね。でもそれなら私一人の方が隠密性は高いかな。とはいえ、遠坂凛も動くだろうし、かち合ったらとりあえず逃げたいんだけど』
 志保の脳内に展開される校舎の見取り図。そこに校内の刻印の箇所を推測分も合わせて配置する。
『遠坂凛ならまずこの結界を止めに出るかな? となると基点を回って起点って処か。なら死角になりそうなのは……この辺とかこの辺か……』
 数カ所の地点に目星を付ける。そこから潜伏してても問題の無い、巡回者から見落とされそうな箇所をピックアップしていく。
『外は却下だな。相手が槍兵、弓兵、魔術師、騎乗兵なら狭い処のほうが良い。暗殺者相手なら逆に狭い場所は辛いか。……一応セイバーを待機させるか。けどセイバーを潜伏させるとなると各基点から出来るだけ離れている場所のほうが目立たなくて済むんだけど。となると、用心のためセイバーを後方に伏せておいて私が偵察かな』
 サーヴァント相手に自分が戦えるなどとは、志保は露ほども思っていない。如何にしてセイバーを伏せた場所まで逃げ切るか、それだけを考える。
『あー、もう。放っておいて帰っちゃおうかな。でもせっかくの餌が勿体無いし。遠坂凛の戦力が見れる可能性も考えちゃうとこっそりと覗き見たいんだけど。うーん』
 最大の仮想的の戦力確認、その誘惑が志保の決断を迷わせる。
 こつん、と箸がお弁当箱の底を打った。いつの間にか空になってしまっている。
『……よし、後でセイバーに意見を聞こう』
 志保としては、せめて偵察だけはしておきたかった。護衛としてセイバーを連れてこっそり偵察、というのを基本方針として思考の片隅に置いておく。
『ま、それはそれとして……』
 ぱん、と志保は手を打ち合わせた。
「ごちそうさまでした」




 とりあえず、日が沈むのを待つ。
 遠坂凛は、いつものように優等生としての彼女として午後の授業を聞きながら放課後が来るのを待ちかまえる。
 聖杯戦争の参加者の一人として、彼女の聖杯戦争を始めるために。

 そして、日が沈むまでに準備をする。
 衛宮志保は、ライン越しの念話でセイバーと意見を交わしながら、放課後が来るまでにどう動くかを決める。
 聖杯戦争の参加者の一人として、彼女の聖杯戦争を終わらせるために。





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