草原を風が渡る。
 ゆらゆらと揺れる草の葉が細波のように押し寄せ、通り過ぎ、流れていく。
 空は青く澄み、雲が風にのって渡っていく。
 追憶は遠く、今はもう届かない時間。此処では無いはるか地の果て、今ではない久遠の最果て。
 そこに彼女は独り立っていた。涼やかな青の衣を銀の甲冑で包み込み、視線は厳しく遠くを見つめ、表情は凛々しく、迷うことすらなく真っ直ぐに。
 両の手を鞘ごと地面に突き立てた剣にのせ、ただ独り立っていた。その金の髪を軽やかな風に緩やかにはためかせて。
 彼女が見ているのが何なのかは何なのかは判らない。判る必要もない。
 これは"私"の記憶じゃないのだから。
 睡眠中にラインから染み出てきた夢の泡沫。彼女の記憶の欠片。
 だから私はただ見つめる。傍観の立場しか許されていない場所なのだから。
 いや、そんなことはどうでもいい。私は、ただ眼を奪われていた。
 この世界にではなく、独り立つ彼女にではなく、何処までも気高い幻想の形であるあの剣ではなく……。

 どくり、と身体が脈動した気がした。
 ぞくり、と精神が歓喜した気がした。

 届かない、今はもう遥か遠いそのカタチ。私の内に在り、私の命を救い、私の中で眠りにつくモノ。武器である剣を収め、それから他のものを護るモノ。武器でしかない剣を、他のものから護るモノ。今はもう私の半身ともいえるソレが本来の担い手との繋がりに眼を覚ます。
 青と金の意匠。絶対にして不可侵の護り。
 其は祈り。其は願い。其は誓い。
 その身に収めるべき剣と共に、担い手の手に誇らしく在るいと尊きその姿。

 その名を、『全て■き■■■』

 幾日、幾月、幾年、幾十年、幾百年の時が流れたけど、ソレは再び、その担い手と邂逅する。






2/2






「夢、か」
 目覚めからの覚醒は一瞬。志保はゆっくりとその身を布団から起こした。
 真横の布団は今朝も空っぽだった。おそらくは今朝も道場に居るのだろう。普段は殆ど夢を見ない志保にとって二日連続で夢を見るというのはなかなかに得がたい経験であった。しかも今朝の夢は彼女の物ですら無い。
『……あれが、そうか』
 志保の脳裏に浮かぶのは尊き幻想。この身に十年前より共にある存在。存在自体は切嗣から聞いてはいたけれど、この十年間完全に休眠状態であったソレ。
「解析、開始(トレース・オン)」
 小さな呟きとともに、志保は撃鉄を落とし、自身の体内に魔力を走らせた。探知用の微力な魔力がむず痒さを伴いながら全身を駆け抜ける。
『……在る、な』
 昨日までは存在すら感じられなかった何か。しかし今朝は小さく微かにその存在を主張している。
 違和感は無い。だってそれはこの十年、志保の命と共に在ったのだから。だから、ただ在る。在るという事を感じようと思えば感じられる。ソレが何処にあるのか、どの位あるのかは判らない。もはやソレが在ることこそが自然なのだから。けれど確かに在る。
『さて、どうしたものかね』
 取り出そうにも取り出す手段が判らない。使おうにも使い方が判らない。なにより使える状態かどうかも不明。ためしに魔力を流し込むにしても、体内に存在しているため気軽に実験するには危険すぎる。体内で爆発するとか、体内で暴走するとかは、さすがに考えたくない。
『ま、やるときは博打だね。本当の意味で打つ手が無くなったときだけにしておくとしよう』
 切り札となるか、それともカス札と化すか、どちらにしても現時点では考慮のしようがない。とりあえず志保はソレの事を思考の隅へと追いやった。
「さて、朝ご飯でも作りますか」





「おはようございます、先輩。わ、今日も出遅れちゃいましたか」
 衛宮邸の台所に間桐桜が入ってきた時には、すでに志保の手によって朝食の粗方は皿に盛りつけられていた。
「ん、おはよう、桜。いや、今朝はちょっと早起きだったからね。とりあえずそっちの漬け物から運んで行って貰える?」
 桜が衛宮邸に家事を学びに来るようになってはや一年ほど。今や彼女は、一人で衛宮邸の食事の支度を整えるほどの腕前に達していた。とはいえ朝食に関しては、衛宮志保という少女には自己管理の固まりのような処があるせいか、滅多にその支度に遅れることはなく、桜個人での朝食作成の機会は数えるほどしかなかった。交代制の夕食当番とは違い、ともすれば今朝のように、早く起きすぎた志保が一人で朝食を作ってしまうため、朝食に関しては、一人で作って衛宮先輩から褒めて貰うという桜の野望は今だ果たされていない。
 小鉢に盛られているのは白菜と胡瓜と人参の浅漬け。勘と経験でおこなわれるその絶妙の塩加減は、桜の目標の一つだった。
「あー、残念。漬けるところ見たかったです」
 心底残念そうな桜の言葉に、鍋に豆腐を投入しながら志保が答える。
「ふ、ふ、ふ、甘いな間桐二等兵。そうそう秘伝は見せれんのだよ。まぁ、それはそれとして、冷蔵庫にまだ残ってるから弁当にも詰めよう」
「あ、もしかしてお弁当の方も済んじゃってます?」
「ん、昨夜の残りと朝食の余りを詰めようかと思ってる。とりあえず、その辺の運んだら弁当箱にご飯詰めとかないとね」
「あ、じゃあ先にご飯詰めて冷ましておきましょう。私やりますね」
 大、中、小、の三つの弁当箱を並べる桜に、志保はもう一つ、行楽用のお重を一段差し出した。
「これ、アルトリアの分ね」
 アルトリア、志保がセイバーを桜に紹介した時に使った名前。
「……えっと、本気……みたいですね」
 一瞬だけ悩んだ桜は、それでも昨夜のアルトリアの食べっぷりを思い出し納得した。
 ちなみに、大が藤村大河用、中が間桐桜用、小が衛宮志保用である。この流れで言うとアルトリア用が特大だろうか。
「――ねえ、先輩。……アルトリアさんって、何時まで此処に居るんですか?」
 志保に背中を向けて、あくまで何時もと変わらない声で、桜は、間桐桜は、衛宮志保に尋ねた。背中向きの志保からは見えない、鬱屈した暗い色を宿したその瞳。
「――さて、ね。彼女次第じゃないかな。私としてはずっと居てくれても良いんだけどね。ま、ちょっと複雑な事情がある人だからある日突然帰っちゃうこともあるかも知れないね」
 桜に背を向けて、彼女の台詞の裏の意味を類推しながらも、志保は何時もと変わらず淡々と答えた。背中向きの桜からは見えない、冷徹に感情の抜け落ちたその瞳。
 志保の台詞、その言葉の裏の意味。平穏な日常に身を置いてはいるものの、戦争中である志保とセイバーにとって起こりうる"ある日突然"。大怪我をする、行方が分からなくなる、死体が見つかる、そういった出来事。
 志保の言葉を聞き、そういう可能性に桜も思い至った。ある日突然、衛宮先輩が居なくなる。ある日突然、この家の日々が消え失せる。そんな想像に眼の前が瞑く染まる錯覚に身を震わせながらも、桜は必死で平静を取り繕い、お弁当箱にぺたぺたとご飯を詰めていく。なにより彼女が怖いと思ったのは、彼女の大事な先輩が、そんな状況すら平静とかわらずに受け止めているようにしか見えないことだった。
 昨夜、志保とアルトリアと名乗った彼女を観察して、彼女達が間違いなく理解して聖杯戦争に参加しているのは桜にも分かってしまってた。魔術師として命のやりとりをする。殺す覚悟を、殺される覚悟をする。それが出来なかった桜にとって、それを受け入れてなお、なんの気負いも見せない志保が恐ろしく、そして羨ましかった。
 だから、だからこそ彼女は、自分の置かれた状況を、間桐の浅ましい正体を志保に感づかれる可能性すら考えず、
「ね、先輩。――先輩は、どうして生きているんですか」
 意味の無い問いを発してしまう。それは桜が間桐の家に居るときに何時も自問している答えのない問い。ひょっとしたら、その答えを志保が出してくれるのではないかという期待。しかし、彼女はその問いの意味の無さに自身で気が付いてしまった。志保の理由は志保のものであって、自分には当て嵌まらないということに。我に返る桜。
 場を支配する静寂。ことことと鍋の煮える音だけがやけに耳に痛かっ……
「おはよー、志保ー、志保ー、お姉ちゃんのご飯はまだかなー」
「あ、ご、ごめんなさい、変なこと聞いちゃいました。盛りつけ終わった奴、持って行っちゃいますね」
 玄関の方から響いてきた声に、静寂は解除された。桜はわたわたと慌てて、お盆に小鉢やら何やら乗せていく。
「あ、ならついでにアルトリアも呼んでおいて。多分道場に居ると思う」
「はい、任せちゃって下さい」
 ぱたぱたとお盆を持って居間に向かう桜を背に、志保は鍋の火を止めた。お玉に味噌を落とし、鍋の中の煮汁で味噌を溶き、そのまま一気に流し入れる。再び火を付けると弱火に落とす。
 その手順をいつもの通りに機械的にこなしながら、志保は桜の台詞を思い返していた。その問いに、志保は答えを持っていない。
『どうして生きているんですか、か。それは違うよ、桜』
 鍋が沸騰する直前で火を落とした。これで味噌汁が完成した。
『私は生きているんじゃない。あの時死なず、そしてまだ死んでいない、――ただそれだけ』
 小さく吐く息。それはまるで溜息のように。
「志保ー、まだー?」
「うるさい、黙れ、欠食虎。今行くから少し待て」
 軽く頭を振って、志保は微かに微笑んでいるような表情を形作った。それが志保の普段の表情。
「せんぱーい、お味噌汁の椀も出してますからー」
「りょーかい、今行くー」




「それじゃ、セイバー。留守任せた」
「はい、お気を付けて、シホ」
 セイバーに留守を預け、志保は学校へと向かった。教師である大河も、弓道部の朝練がある桜も大分前に登校しており、志保は一人学校への坂道を下っていく。ゆったりとした歩調で歩きながら、志保は思考の海へと沈んでいった。
 切嗣と暮らすようになってからしばらく後、彼から受けた告白。自身が犯したという罪。あの火災の原因が自分であるという独白。
「だから志保、君は僕を恨む権利があるんだ。憎悪でも、怒りでも、殺意でも、悲哀でも、憐憫でも、……何か、何かあるだろう? 君が全てを失った原因を作ったのは……僕だ、僕なんだよ」
 淡々と、それでも端々は震えていた切嗣の台詞。無感情を装いながらも、血を吐くようなその言葉。だが、それに自分は何と答えたのか。憎しみなんか無い、怒りなんか無い、殺そうと何か思わない、悲しみなんか感じない、哀れみなんか必要ない。命を救ってくれた切嗣に、志保は感謝こそすれ、負の感情など抱きようが無かった。そもそも、全てを失った志保にとっては、失ったモノへの感傷すらまた失われていたのだから。だからただ、切嗣の言葉を志保は事実として受け入れた。
「私は父さんに感謝している。父さんが居たから私は命を拾った。感謝することはあれど、怒ったりする必要は無い、と思う」
 確かそんな言葉を返したはずだ。追憶の中の切嗣はそんな志保の台詞に何とも言えない泣き笑いにも似た表情を浮かべ、その後苦笑していた。その頃はまだ、自分という表現に度々齟齬が出ていた頃だったので、おそらくはその時も彼女は何か失敗していたのだろう。そう志保は結論付けていた。
 その後、些細な疑問を尋ねていたうちに、ふと志保が切嗣に尋ねた疑問。
「もう、その聖杯戦争とやらは起こらないの?」
 この言葉が、現在の志保の状況を形作る遠因だった。「ははっ、まさかだよ」とか言いながらもふらりと出掛けた切嗣が帰って来るなり蒼い顔をして前言を撤回したのは志保にとってはなかなかに見物だった。何時も子供じみた悪戯をしかけてくる切嗣の蒼い顔というのはその程度には貴重だったのだ。
 その日、何かを調べてきた切嗣が、第五回の聖杯戦争の開催を予測。そこから今日までを、志保はただその為だけに走り抜けた。それはまさしく妄執といえるほどの執着をもって。幾度と無く止めようとした切嗣も、最後には諦めてしまっていた。正確には、彼には志保を止められなかったのだ。災害の日からずっと一緒に暮らしてきて始めて、志保が何かに執着したという事実が、彼に止めようとする意志を無くさせてしまっていた。
 志保にとっては、始まりは本当に気まぐれだった。ただ惰性で命を繋ぐだけの日常。だけど、そんな日常ですら、それを続けるだけの燃料が彼女には無かった。だから、その燃料をそこに求めただけ。そして、目的を手に入れたことにより、始めて衛宮志保は彼女にとっての"本当の日常"を回し始める。魔術を習い始め、知識を求め、戦闘技術、冬木の街の地理地形の把握、経済状態、裏社会の状況、街に住む魔術師や近隣の魔術師たちの動向。ひとたび、彼女が本気である事に気が付くと、切嗣の方も協力を惜しまなかった。もとより、何故かこの突然出来た娘に、切嗣は甘かったのだから。それが罪悪感や、残さしてこざるを得なかった彼の本当の娘への代償行為が混ざっていたことを、今の志保は理解していた。だが、それがだからどうだというのだろう。義父が志保を、彼なりに愛してくれたのは事実だし、志保も彼女に出来る精一杯で彼を敬愛してたのだから。

 この街に根付いている魔術師の家系は二つ。冬木の管理者である遠坂と間桐。この二家とアインツベルンという一族を合わせた御三家が聖杯戦争というシステムを作り上げた主催者側の家系だった。
 遠坂の家からは、まず間違いなく今代の管理者が出てくるだろう。調べた限りでは彼女以外にあの家の魔術師は居ないのだから。
 遠坂凛。志保とは同級生の他称"ミスパーフェクト"。志保の脳裏に遠目で見た彼女の姿が浮かぶ。自分と同じ制服をきて、眼を逸らさず前を見据え、颯爽と歩くその姿を。日常の評判だけでもその存在が優秀なのは間違いない。
 ろくに魔術を扱えない志保とは比べものにもならない実力だろうから、もとより、魔術師としての格は考慮に入れていない。要はどこに付け入る隙があるのか、だった。幸い同じ年だったので、知り合いになっておくという手も考えたが、彼女もこの街に潜り込んでいるもぐりの魔術使い未満の身、ばれたときのリスクと秤にかけて、その手段は却下した。もっとも、彼女に揺さぶりをかけれるネタは一つある。要は使うタイミングだろう。遠坂凛の、今はもう居ない妹の顔を脳裏に浮かべながら、志保は冷徹に検証していく。魔術師として優秀であれば、その程度では揺らがない、となるとやはり遠坂凛には頑張って貰うとしようか。それが結論。遠坂凛に他のマスターを潰して貰う。疲弊してくれればなお助かる。

 間桐、この家は謎が多い。とはいえ、長男は考慮に入れる必要は薄い。彼は魔術師ではない。通常の手段ではマスターにはなれない。最も、彼が参戦してくれるとかなり楽な状況になるだろう。志保にとって彼は読みやすく、扱いやすい相手だった。なにしろ彼は志保に恨みを抱いている。簡単には殺そうとしないだろうし、付け入る隙も多い。彼は心の奥底で志保に恐怖心を抱いているのだから。
 それは中学三年の時、放課後の教室で声をかけてきた慎二のあまりのしつこさに志保はとりあえず彼を殴ってみたのだった。小柄な彼女に殴られて侮辱された彼は逆上して志保に殴りかかり、結果として志保に完膚無きまでにノックアウトされたのだった。その後志保は彼を、バケツで水をぶっかけてたたき起こし、藤村組をちらつかせて、二度と彼女に手を出さないように丁寧にお願いした。さすがに彼も、小柄で大人しい女の子にノックアウトされたという評判は歓迎しなかったようで、この件は外に漏れることはなかったが、志保に土下座までした彼のプライドはさぞ粉々に崩れてしまったのだろう。その後、間桐慎二と衛宮志保は、高校に入って弓道部で再び衝突するときまで、相互不干渉の関係となる。
 その件の後、彼女に接触してきた少女、それが間桐桜だった。間桐慎二の一つ下の妹。タイミング的に何者かの作為を感じさせる彼女の存在を、それでも志保は迎え入れた。間桐桜の出自をその時点で知っていた志保にとって、彼女の使用価値は考慮に入れるに値するものだったから。けれども、そんなことも関係なく、衛宮志保は彼女を受け入れただろう。その頃の間桐桜の浮かべる、その無気力で無機質な瞳が、どういう訳か志保には我慢が出来なかったのだった。そして志保は桜を志保なりに受け入れ、桜は、志保がまるで姉のであるかのように懐いていった。そしてそれが志保と慎二の決定的な衝突へと繋がることになる。
 きっかけは桜の顔の痣だった。志保が桜を可愛がっていることを知って、彼女の目に付くところには付けなかった慎二の桜への暴力の痕跡。慎二の油断故か遂にそれを見た志保。その時に桜が浮かべた力のない哀しい笑みが、何故か志保の精神に不快な波を立てた。
 その事について部活が終わってから慎二を問いただした志保に、
「ハァ、何いってんのオマエ? 躾だよ躾、人の家の事情に首突っ込むんじゃないよ」
 とへらへらと笑って答えた慎二。それが、酷く志保の心をざわめかせる。胸の辺りに感じる、むかむかとした消化不良の黒い何か。
「じゃあ、これも躾だと思えよ」
 気が付いたら、志保の全力の一発が慎二の脇腹にめり込んでいた。右拳にメキリ、という感触。鈍く響いた打撃音に、まだ弓道場に残っていた人間の視線が集まる。彼らは、小さくて大人しいと思われている衛宮志保が同級生の男にボディブローをめり込ませているという不思議な光景に眼を丸くしている。だが、そんなことは関係ない。もとより志保は本質的に他人に興味が無い。腹に入れた一発で、慎二の呼吸が止まり、前のめりになっている。お陰でちょうど良い高さに降りてきた慎二の顔面に、一切の躊躇無く、志保は体重を乗せた左ストレートを叩き込んだ。
「な、志保、何やってんの!」
 志保は止めようと駆け寄ってきた弓道部顧問でもある藤村大河を手で制した。床でのたうち回って居る慎二に志保は声を投げる。
「次に桜に暴力を振ったら、私止まらないと思う。それで良いならやってみて。……命を賭けて、ね」
 淡々と響く声に、慎二の顔が引きつる。その鼻血にまみれた恐怖の表情を眺めて、そして志保はきびすを返した。
「志保……」
「悪いね、藤ねえ。私どうも自制きかなかったみたいだ。迷惑かけたね。……退部届は後で出すよ」
 この事件に関して弓道部内で徹底的な箝口令が引かれたため、外部に漏れることは無かった。妹に手を挙げたという不名誉な話を広げたいの? という大河の台詞に、ごねていた慎二も沈黙してしまったからだ。そして、衛宮志保の退部と間桐慎二の肋骨骨折、奥歯損傷という結果だけが残ったのだった。
『桜が参戦するかと思ったんだけどね』
 志保が知る限り唯一の、間桐姓の魔術師。しかし彼女に令呪は現れていない。今回の間桐は不参加なのだろうか。判断材料が無いので、志保はこれを保留とした。

 そしてアインツベルン。前回、切嗣はこのアインツベルンのマスターとして聖杯戦争に参加した。外部の魔術師を迎え入れてまで必勝を期したアインツベルンの屈辱はどれ程だっただろう。そして、その切嗣に裏切られた恥辱は。そのアインツベルンは、今回こそはとその威信をかけて勝負に来ているはずだ。
 志保の脳裏に浮かぶ銀の少女。
 軽い嘆息の後、志保は空を見上げた。どんよりとした冬の雲が重苦しい。
『それでも、それでも私は戦うから』

 だけど志保は気が付いていなかった。ただ聖杯戦争の為に走り続けている彼女。
 そんな、全力をもってただ聖杯戦争の為だけに動き続けている彼女に、聖杯戦争の後、という思考が何一つ残っていないということに。





「で、なんだろうね、これは」
 正門から中に入った瞬間に感じた違和感。澱んだような空気。色褪せたかのような景色。違うモノに塗りたくられたかのような世界。
 それは結界。魔術的な儀式によって世界を外と中に分けてしまう地形魔術。その内部に与える影響は色々あるのだが、ざっと感じられる雰囲気からでも、ろくなモノではないだろうと志保は推測した。詳しく解析したいところだが、今はまだ人目がありすぎる。
 人に紛れ、校舎へと向かいながら、志保は小さく溜息をついた。
 こんな派手な結界、その気になった魔術師ならすぐに感知しうるだろう。ましてや、この学校には彼女が居る。この街の管理者が。
『さて、ここは君のテリトリーだが……どう動くかな、遠坂凛。お手並みを見せて貰おうか』





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