コポコポと音を立てて志保の手の急須から二つの湯飲みへとお茶が注がれる。
「はい」
「……ありがとうございます」
 そして志保は食後のお茶をセイバーに渡した。もう一方は自分の方へ。茶の間のテーブルの上は綺麗に片付けられ、食器類はすでにシンクに漬け置かれており、そのついでに冷蔵庫の内容物のチェックも済んでいる。結論から言うと、朝食は米粒一粒たりとも余ることは無かった。昼食を残り物で済ませる予定だった志保にとって、それはいささか予定外の状況だったりする。
『冷蔵庫の中身も心許無いしな。しかしセイバーがあれほどの食欲を見せるとは……サーヴァントっていうのはそういうものなのか?』
 英霊に対してなかなかに不遜なことを考えながら、志保は熱めのお茶を一口啜った。さて、と志保は思考を切り替える。ここから先は……魔術使いとしての自分でなければならない時間。
「セイバー。最初に確認。君はやっぱり、"10年前"に衛宮切嗣と聖杯戦争に参加したセイバーなの?」
「――はい、前回私はキリツグのサーヴァントとして聖杯戦争に参加しました。……あの時から10年経っているのですね」
「ん」
 簡単に頷く志保。
「シホ、貴女はいったい何者なのです? 何故キリツグを知っているのです? 何故"エミヤ"を名乗るのです? そして、キリツグは今、何処にいるんです?」
 不信感と不安を隠そうともせずに疑問を口にするセイバー。
「貴女は……あの時のアイリスフィールの娘なのですか?」
 何かを探ろうとするセイバーの視線を受けながら、志保は軽く首を振った。とりあえず、表情は淡い微笑を選択する。見る者によっては悲しげにも見えるはずの微笑を。
「私はアインツベルンとは何の関係も無いよ。最後の最後でアインツベルンを裏切った切嗣は、その時点でアインツベルンとは完全に袂を分かったしね」
「それでは……貴女は一体?」
 セイバーの疑問に軽く嘆息する志保。
「君にとっては、あまり愉快な話じゃない。それでも?」
 コクリ、と頷いたセイバーを確認してから、志保は口を開いた。
「これは後から情報を総合した話になるんだけど。10年前。切嗣と君が破壊した聖杯から流れ出した何かはその近隣の大地を文字通り"灼いた"んだ。灼熱の業火と化したソレは中心地区のみならず、その周辺地域をも巻き込む大火災となった。これが500名を超える死者を出した冬木の大火災の真実」
「……それは……」
「別に君を責めているわけじゃないし、切嗣を責めるつもりも無い。そんな事をしても意味は無い。ただ10年前にそんなことがあったという話」

 志保の脳裏に浮かぶ朱い廃墟。
 荒野じみた死の世界。
 沢山の人だったモノ。
 そして、今なら理解できる、天空に浮かぶ闇が形作った――孔。灼熱の夜に浮かんでいた黒い太陽。

「切嗣は本気で聖杯を求めていた。彼にはそれを求めるしか道が残されていなかったようなものだった、らしい。けど、彼が本当に、本心から聖杯を求めていたのは……君も知っているだろう? 聖杯を手に入れる、ただその目的の為にのみ、あらゆる手段を肯定して勝ち続けたのを、君は見ていたはずだ」
「しかし、それでも最後にキリツグは!」
「うん。最後の最後に彼は裏切った。君を裏切り、アインツベルンを裏切り、妻と娘を裏切り、それまで犠牲にした者達を裏切り、自分自身すら裏切って……聖杯を破壊した。けれどね、本当は切嗣の方こそが裏切られたとしたらどうだろうね」
「……どういう、意味ですか?」
「彼が聖杯戦争の最中に何を知ったのかは教えてくれなかった。彼にも多分、最後まで確証が無かったんだろう。でも彼は聖杯戦争の最中に何かを知って、そして確信したんだと思うんだ」
 セイバーの勘が警鐘を鳴らしていた。この先を聞くのは危険だと。けれど同時に彼女は理解していた。彼女にはこの先を聞く義務があるのだと。10年前の真実の欠片を手に入れる義務が。
「何を、です?」
「……聖杯、あらゆる願いを叶えるという願望機。けれどもし、それが実は聖なるモノなんかでは無いとしたら? もし、それが過去に汚染されてしまっているとしたら? もし、その中になにか得体の知れないモノが詰まってるとしたら? ……もしかして、彼が裏切ったのではなく、聖杯が彼を裏切ったのだとしたらどうだろう?」
「な! 馬鹿な、それだとこの聖杯戦争自体が茶番ではないですか!」
「彼が聖杯にどんな願いを持っていたのか、私は知らない。教えてくれなかったから。ただ冗談のように、『困っている人が救われて、みんな幸せになるように、さ』って夢みたいに寝ぼけた事を言ってたけどね。私は多分彼の願いはそこからあながち外れてはいないんじゃないかと思ってる。けれど彼は聖杯を破壊した。破壊せざるを得なかった。その結果多くの人が死に、そして……」
 志保はそこで微笑を消した。愕然として声もないセイバーを見据える。
「そして彼自身も汚染された聖杯の呪いを受けた。5年間、唯ひたすらに人間に対する憎悪と怨詛と憤怒と狂気と破壊願望を受け続け、磨耗し……死んだ」
「キリツグが……死んだ……」
「本当に聖杯が汚染されていたのかどうか、今回の聖杯も汚染されているのかどうかは、私には分からない。だから私は聖杯を見極めるつもり」
 一息ついて志保はやや冷めたお茶を飲み干した。
「セイバー。私はこの聖杯が君が求めるものじゃない確立はとても高いと思ってる。だから、君が降りるというのなら私はそれを止められない。けれど、もし一緒に聖杯を見極めてくれるというのなら、私を助けてくれるというのなら……」
 すっと、志保はテーブル越しに右手を差し出す。
「私も君を助けるよ。まだ聖杯が良くないモノだと決まった訳じゃない。だから、聖杯が真実聖杯だったなら――その権利は全て君に譲る。これが唯一君に差し出せる私の手札」
 手を差し出したまま語った志保の台詞に、驚いたまま固まってしまうセイバー。
「シホ……貴女は、聖杯に何も願わないと言うのですか? たとえば、貴女が失ったモノを取り戻せるとしても? もしくは、貴女が手に入れたいと思ったモノを手に入れられるとしても?」
 生きている限り、きっとなんらかの願うべき事柄があるはず。魔術を扱う者なら特に。だけど、志保はそんなセイバーの言葉にただ微笑んだ。
「うん。無い。衛宮志保には、聖杯に願うべき願いなんて、何も無い。私はね、ただ切嗣がやり残したことを片付けるだけなんだ。10年前聖杯を破壊したにもかかわらず、再び聖杯戦争は起こった。だから、私は切嗣がやったように、聖杯を見定める。そしてそれが真実呪われたモノなら……もう二度と聖杯戦争なんか起こらないようにする。それだけ」
 セイバーは何かを吟味するかのように、あるいは読み取ろうかとするように志保の瞳の奥を読もうとする。
 「……まだすべての質問に答えてもらってませんね。シホ、貴女は一体何者なのですか。そして貴女のキリツグの関係は? 何故、貴女がそうまでしようとするのです?」
 セイバーの視線が苛烈な意思を持ち、志保の視線を射抜く。
「………………火災の中心地は本当に死の世界でね。生きてるものなんか何も居なかった。けどね、ただ一人だけ死にそこなった子供が居たんだ。切嗣がその命を救った子供が、ね」
「! 貴女は……」
 淡々と、ただ淡々と志保は言葉を紡ぎ出した。
「火災ですべてを失ったその子供は切嗣に引き取られ、衛宮の姓を貰ったの、それが私。だから私は聖杯があの火災をもう一度引き起こすというのなら止めなければいけない。私にはそれしか無い。……これが私の理由だよ、セイバー」
「――貴女は、それでも……、聖杯に何も願わないと……」
 うつむいて掠れた声で呟くセイバー。手を差し出したままセイバーの答えを待ち続ける志保。
 一瞬にも、数分にも感じられる時間の後、
「マスター、貴女は……強いですね」
 何かを吹っ切ったかのように顔を上げ、微笑むセイバー。
「もとより、この身は貴女の剣となると誓った身。なのに貴女は私の意思を尊重しようとしてくれました。その心に答えずして何が騎士でしょう」
 そしてセイバーは差し出された志保の右手をそっと握った。そして左手でその手を包み込む。
「今一度誓いを。この身は貴女の剣となり、貴女の力となりましょう、シホ。貴女がその想いを違えない限り、私は貴女の信頼に全力を以て応えよう」
 その誓いに、左手を重ねる事で答える志保。お互いの両手が組み合わされる。
「ありがとう、騎士王。御身の信頼を裏切ることがあるなら、この身を切り捨ててくれて構わない。……勝ちに行くよ、セイバー」
「ええ、シホ」





「質問だけど、セイバー、君の名前は?」
 買い物に行く暇が無かったために、大量のうどんを作成。それを啜りながら、志保はセイバーに尋ねた。
「あ、クラス名とか騎士王としての名前とかは聞いてないから。聞きたいのは人としての君の名前」
 セイバーが過去の何という名前の英雄だったか、志保は知っている。彼女は騎士王。古きブリテンの王。そして過去の王にして未来の王。数多くの伝説と説話に彩られたその王が実は女性だったとは驚きだが、志保は目にした事実がそうならそうなんだろう、とすんなり受け止めていた。
「はあ……王となる前に名前でしたら……アルトリア、と」
 気持ちいいくらいの速度でうどんを食べていたセイバーが手を止めて志保に答える。決して、ふむこのこれが時代の非常食の一つなのですか小麦粉を伸ばして乾燥させたものがこのような美味なものになるとはこれがあの頃にあったならもう少し戦況は楽にいやいや私はなにを言っているのだしかしこの、などというセイバーの呟きが鬱陶しかった訳ではない。
「アルトリア、ね。じゃ君の名前は、これからアルトリア・ペンドラゴンね」
「は、はぁ? ……いえ、しかし、それだと簡単に正体が分かってしまいますが」
 いきなりの話の内容に目を白黒させるセイバー。
「ま、この家の中だけの話だよ。言ったと思うけど、家には家族同様の人間達が居てね。一応切嗣の外国の知り合いが来るって話にしてあるから。今夜にも会うと思うけど、私の姉代わりと妹代わり。彼女たちには私達の事は内緒にしたい……お代わりは?」
「頂きます。……分かりました。そう言うことでしたら。私は切嗣の知り合いということで良いのですね」
 空の丼を志保に渡し、お代わりを待つ間に七味の蓋を開けながらセイバーは答えた。
「うーん、むしろ切嗣の知り合いの娘、の方が良いか。日本には留学の下調べに来たと言っておこう」
「なるほど、分かりました。っとありがとうございます」
 丼を受け取り、七味を軽く振る。器用に箸を扱うセイバーを、自身は食べ終わってしまってなま暖かく眺める志保。
「……お茶でも淹れますかね」

 お茶を飲みながら、二人の話題はいつしか自軍の戦力分析の話になっていた。
 セイバーの宝具は剣の英霊だけに"剣"だった。それも世界的に有名な。エクスカリバー。歴史上でも最も有名な聖剣の一つである。
「真名なんか解放したら一発で正体が割れるな」
「ええ、ですから普段はこのようにして本体そのものを隠しています」
 そう言ってセイバーが右手を翳す。その手の内には何も無い。だが志保はその意味を理解した。
「透明な剣? いや、違うね。見えなくしてるだけか。視覚を逸らしている? いや、屈曲率か? どうなんだろ?」
「風を纏わせて視覚妨害をしています。解きましょうか?」
「いや、その必要は無いよ。しかし刀身が見えない、か。そりゃ強力だね」
 武器が見えないことで、武器の種類、間合い、戦術、色々な要因を隠蔽出来る。その利点を志保は正しく認識していた。
「ということは初手で相手の意表を突きやすいね。それはいい」
「ええ、それにこれなら真名を解放しない限りは剣の銘がばれる事もない。鞘としては申し分の無い性能です」
「……鞘、ね」
 本来の聖剣の鞘。それは王の伝説の中で失われてしまっている。そう、それは失われているのだから。志保の脳裏に一瞬だけ浮かんで消える思考。
「真名解放は最後の手段にしたいね。私の魔力量だと、打てても二発くらいじゃないかな」
「……そう、ですね」
「幸い、私はかなり特殊な魔術師でね。普通にしている限り、他の魔術師からはまず発見されない自信がある」
 神経そのものが魔術回路として機能する志保の特性。元々あるものを魔術回路として使用するため、感知されるほどの量の魔力を流さない限りはまず魔術の痕跡が見られないという長所。
「となると、ラインを使って連絡取り合って別行動しながら君がサーヴァント、私がマスターを狩るのが正しい、かな。……結局は切嗣と同じ手段か」
「すいません。私が霊体化出来たなら他の手段もあるでしょうに」
「いや、いいさ。無い物をねだっても意味が無いよ。……うん、仕方ないし序盤は傍観に徹しよう。幸い、この地の今代の管理者は優秀だし。彼女に頑張って貰うとしようか」
「……マスター。切嗣なみにあざとい思考ですよ」
「あはは、失礼だなぁ。あざとさでは切嗣以上だという自負はあるよ」
「……」
 呆れ返るセイバーに軽く笑って見せる志保。

 その記憶に、
『早く呼び出さないと死んじゃうよ、お姉ちゃん』
 呼び起こされる、
 鈴の音の様な軽やかな声と、
 楽しそうな笑みの、
 瞳の奥底の狂おしいほどの憎悪の、
 銀の少女。

『まったく……忠告感謝するよ』
 脳裏に蘇ったその声に志保は笑みを消し去り、そして一瞬だけ躊躇する。これから言おうとする台詞には意味がない、まったく以て意味がない。利点が無いどころかむしろ害悪。その願いはむしろ罪悪。果たされない可能性は遙かに高く、果たされたとしても自己満足にもならない。ただちょっとした負債を軽くするだけの自慰衝動。それでも……そう、それでも、志保はその願いを、
「セイバー……」
 迷う、迷う、迷う、それでも、
「一つだけ、頼みがあるんだけど」
 その願いを口に出した。





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