――月が綺麗な夜だった。
 布団に横たわり、真円を描く月を仰ぎ見る男と、その脇で悲しみの表情を隠そうともせずに彼を見つめる少女。
「父さん……」
「うん、もう……駄目みたいだね」
「……」
 男の顔は青白く……疲労の影がべったりと張り付いていた。
「志保、笑ってくれるかい……君の笑顔が見たいんだ」
 男の言葉を聞き、その願いを叶えるため笑顔を形作る少女。はたして、上手く笑えているのだろうか? ちらり、とそんな考えが胸を掠める。
 その表情を見て悲しそうに微笑む男。ああ、自分は上手く笑えていないんだ。男のそんな表情を見て少女――志保は自分の未熟を反省する。
 男の手が震えながら志保に延び、その頬を撫でる。
「君が……君が背負う事はないんだよ、志保。全て放ってこの街を離れたって良いんだ。君の特殊性は他の魔術師達にとっても……」
 男の言葉に軽く志保は首を振った。
「それは駄目。それは私の今までと私のこれからを無意味にするから。父さん、私は魔術師なんかにはなれないけれど……。魔術使いとして、父さんの娘として、あの日、あの地で失われた者達の代弁者として……全てを見極めケリをつける。じゃないと私は、あの日から前に進めない」
「――君には……本当は普通の女の子として過ごして欲しかったんだけどね……」
 それは彼の口癖。志保に渋々ながら魔術を教える事にしたとき。彼女が魔術回路の生成に成功したとき。初めて投影に成功したとき。魔術の失敗で怪我をしたとき。戦闘訓練のとき。そして、彼が彼女の魔術の特異性に気が付いたとき……。事ある毎に口にしていた口癖。でも、彼女がこれを聞くのは多分……最後。
「……ごめんなさい」
 そこで彼は何かに気が付いたように驚いた顔で志保を見つめた。
 そして、とてもとても優しい、志保が初めて見るような安らいだ顔を浮かべ……彼の手が志保の頬と、目尻を拭った。
「父、さん?」
「……ああ、安心した……」
 ぱたり、と彼の手が力を失って……そこで志保は始めて気が付いた。彼女が、彼の望んだ、完璧に他の感情の交じっていない幸せそうな笑顔を浮かべたまま、静かに、ただ静かに、本人すら気が付かず涙を流していたことに。






2/1





「……夢……か」
 ゆっくりと眼を開いて、天井を眺め見る。追憶はもう遙かに遠く、現実は変化を求め忙しく動き続けている。
 目覚めたばかりだというのに思考は胡乱、体は疲労を訴え、心は休息を求めていた。
 それでも少女――衛宮志保は強引に布団から体を引き起こした。
「思ったよりキツイ、な」
 立ち上がり、寝間着を脱ぎ捨て、枕元に畳んでおいた制服を身につける。たまに小学生にも間違われるほどに少年体型の小さな躯、幼い顔つき、しかしその彼女の身を包むのは高校の制服だった。彼女が入学したときに購入した少し大きめのその制服は、未だ裾を詰めたまま、当時と変わらない少し大きめのサイズをキープしている。早い話、志保の方が成長していないだけなのだが。我が身の変わらなさに軽く嘆息しつつ、彼女は自分の布団の横を眺め見た。
 そこ並べて敷いた布団の方はもぬけの殻。枕元には寝間着代わりに貸したジャージが畳まれている。さらには、枕元に置いておいた着替え用に貸した服が無くなっている。どうやら志保の疲労の原因はもうすでに活動を始めてしまっているらしい。とはいえ、生真面目そうな彼女が志保からそう遠くへ離れるとは考えられない。
『まぁ邸内のどこかには居るんだろうね』
 部屋の隅の鏡台に自分の顔を写す。平素より顔色は悪いが、何時もと変わらない無表情の童顔がそこにあった。
『酷い顔……、まぁ、魔力の大半を持って行かれたんだし、仕方ないか』
 よくよく見ると、眼の下に隈まで浮かんでいる。
「うっわ、ファンデーションで隠せるかな?」
 鏡台の横の棚には、身だしなみにほとんど気を使わない志保に業を煮やした彼女の姉代わりと妹代わりの二人が強引に置いていった化粧品類がそこそこ置いてある。どうやら久々に出番が有りそうなそれらに眼を走らせてから、とりあえず顔を洗いに行こうとし……、そこでふと立ち止まり、志保はもう一度鏡の中の自分を覗き見た。
 深い湖水のように平坦な瞳。そして比較的整っているとは自分では判断しているその顔立ちにも、なんの感情も浮かんでいない。彼女は、寝起きでぼさぼさの、かろうじてショートカットと言い張れなくもない適当な長さのその髪を手櫛で軽く整えた。そして、表情を切り替える。
 それは笑み。純粋に無垢に喜びで満ちた……満面の笑顔。それを見た人が自分までも幸せになるような表情。
「大丈夫、父さん。私は多分、笑えてる」
 そして志保は、その笑みを消去してから、自身の従者を捜すため部屋を後にした。





「問おう。貴方が私のマスターか?」
 深夜の土蔵の中央。一瞬前までの光の奔流が嘘のような静寂の中に響く、凛とした声。
 金紗の髪、輝石の瞳。清廉な青の衣。
 そしてその姿を包む無骨な鋼の鎧。

 そして圧倒的なまでの……存在感。

『これが……サーヴァント、か』
 召喚のためごっそりと持っていかれた魔力のせいで、ともすれば薄れそうな意識を気力で繋ぎつつ、それでも志保はその姿に見惚れてしまっていた。
「――あれ? でも……」
 ちょっと待て。この姿はどう見ても……。
「?」
「……あんの悪戯好きの不良中年はぁ……」
 彼の英霊について話していた父親の笑みの意味を、志保はようやく理解した。私が"呼"んだ場合、まず彼女が召喚されると分かっていて黙っていたのだろう。誰が思いつこう、彼の騎士王がこんな、こんな……可憐な女の子だったなんて。それでも彼女の身長は志保より少し高かったのだが。
 色々と悪態をつこうかと思った志保だったが、彼女の視線に気がつきそれを止めた。
「ああ、失礼。そう……私が君のマスター」
 その台詞と同時に、志保の左手に走る痛み。甲に現れる三画の文様。
「と、いう訳」
 その左手の甲を彼女に晒す。それは令呪。マスターの証明。それを確認した彼女は軽く頷いた。
「サーヴァント・セイバー。召喚に従い参上した。これより我が剣は貴方と共にあり、貴方と共にある。――――ここに、契約は完了した」
 そう、契約は完了した。これより、彼女は志保の剣として共に聖杯戦争を戦うことになる。

 聖杯戦争。冬木の街で数十年毎に秘密裏に行われる大魔術。七人の魔術師と、彼らが聖杯の後押しを受けて召喚するサーヴァントと呼ばれる使い魔によって行われる文字通りの戦争。最後まで勝ち残った者だけが、"いかなる願いも叶う"という願望機である聖杯を手に入れられるという。過去4度行われた戦争において、ただ一度も勝利者を出していない泥沼の戦争。
 そして、そんな血生臭い闘いの駒であるサーヴァントも、当然ただの使い魔ではない。聖杯のバックアップでもなければまず召喚出来ない類の存在だ。英霊――人々の願望を形取ったゴーストライナー。世界が保有する人類サイドの守護者たる英雄達の霊。まさにマスター達の最強の武器である。

「――とはいえ……これはちょっと辛いな。ごめん、セイバー。話は明日にしたい。君に魔力を軒並み持って行かれてる。悪いけど……部屋に戻る」
「……確かに、辛そうですね、マスター。では部屋までお連れしましょう」
 志保の台詞に、軽く頷いた彼女、セイバーは志保の小柄な体をひょい、と抱き上げた。俗に言うお姫様だっこの体勢だ。
「これは……なかなかに貴重な体験だ。結構良いものだね。うん、とりあえず庭に出て、母屋に向かってくれないか」
「ええ、了解しました。それにしてもマスター……しかし、貴方のような子供が聖杯戦争に参加するとは、本気なのですか?」
 セイバーの眼に浮かんでいるのは労りとか心配とかいう類のもの。それは志保を侮っての台詞ではない。それが分かったから志保も別段何も思わなかった。
「あーっと、セイバー。見かけはこんなだけど、一応私、君の時代だと成人として扱われる程度の年齢には到達してるから」
「そうでしたか、失礼しました。侮辱に取られましたなら謝罪します」
「気にしないで。気にしてない。ああ、でも一つ伝え忘れてたね」
 それは志保がセイバーに伝えなければいけない事。そしてそれによって確認しなければならない事。
「セイバー。私の名前を教えていなかった。私は志保。……衛宮志保だよ。よろしく、騎士王殿」
 セイバーの瞳を見ながら、志保は自身の名前を、その姓を伝えた。志保の姓を聞き、そして自身の真名を彼女が知っていることを理解し、セイバーの瞳が揺れる。
「――特殊なサーヴァントだとは聞いていたけど。そっか……、やっぱり君は記憶が連続しているようだね……」
「マスター……貴女は……」
 息を呑んだセイバーを安心させるために志保は軽く微笑みを浮かべた。セイバーの背後に回していた手でぽんぽんとその背中を叩く。
「マスターは止めてくれないかな。志保で良いよ。話をしたいところだけれども、それは明日にしよう? とりあえず今日は寝てしまおう。君も寝ると良い。私はあまり魔力量が多くないからね。節約するのにこしたことはないだろう?」




 洗顔を終えた志保は、彼女のサーヴァントを探して廊下を歩いていた。
『洗面所には居なかった。居間にも居ない。となると彼女が行きそうな処は……土蔵か、あるいは……』
 そこで志保は気が付いた。この屋敷にある、彼女に相応しいと言える場所に。

「やっぱり此処だったね、セイバー」
 衛宮邸の端にある小さな道場で、板張りの床に正座をして瞑想している彼女。貸した服はシンプルなデザインの白のブラウスと黒いコットンジャケット、そして黒のパンツだったのだが、それがとてもよく似合っていた。まるで一枚の絵画のような静謐で厳粛なその姿の邪魔をするのは少々無粋な気もしたが、それでも志保は道場の入り口から彼女に声をかけることにした。
「――マスター、起きられましたか。――未だ顔色が悪いようですが……」
 志保の声に眼を開いたセイバーは、志保の顔色を見て眉を顰めた。
「まぁ、仕方ない。君の召喚と維持にかなりの魔力を取られた。とりあえず今日一日もあればある程度は回復するだろうさ。にしても、服のサイズがほぼ一緒で良かった。ま、それはともかく……」
 道場に入ってセイバーの前に立つ志保。
「……マスターは止めて?」
「あ……、失礼しました、シホ」
「ん、よろしい。今朝は来ないけれど、家には家族同様の人間達が居てね。彼女達には君を切嗣の知り合いって話を通してあるんで、話を合わせてくれるとありがたい」
「え、ええ。分かりました」
 切嗣の名前に、複雑な表情を浮かべるセイバー。
「……」
「……」
「……」
「……」
「お話……しよっか。聞きたいこと、あるでしょ?」
 コクリ、と頷くセイバーに志保は手を差し伸べた。
「しまったな、学校サボるんなら制服に着替えるんじゃなかったか」
 ふと気が付いた志保の呟き。そんな志保の手を握り、立ち上がりながら、その台詞に首を傾げるセイバー。
「ああ、気にしないで。――とりあえず、朝食を食べてから、今後のことについて話し合おう? ……食べる、よね?」
「……頂けるのであれば」




「だから、体調不良だよ」
『――――――――――!』
「私だって女の子なんだ、そう言う日だってあるさ」
『―――! ――――――! ―――――、―――――――!!』
「うんうん、分かった。藤ねえが私をどう思ってるのかよく分かった。良いから黙れ、虎?」
『―――――――――!!』
「とにかく! 欠席届お願いね」
『!!!!!』
 うるさく騒ぐ受話器の向こうを気にせずに、志保は受話器を下ろした。軽い溜息と共に居間のほうに戻る。
「……」
 そして、志保はもう一つ小さく溜息をついて台所に向かい、今度は丼を手に戻ってきた。
 一寸前まで食卓の上を、獲物を狙う狩人の如く鋭い眼差しで睨み付けていた騎士王が、素晴らしい速度で、それでいて決して粗野にならない風情で、あり合わせの朝食を捕食していたからだ。手にしていた女の子向けのお茶碗はすでに空。志保は持ってきた丼にご飯を大盛りによそってセイバーに手渡した。
「ん、おかわり」
「これは……恐れ入ります。感謝を」
 素晴らしい速度で箸が動き、口に入れたモノをコクコクと頷きながら、ハムハムと噛みしめる。その満足げな至福の表情。小動物の食事風景は癒されると聞くが、その意見に志保は深く共感した。確かにこれは……癒される。
『あり合わせでこれだけ嬉しそうだと、本気で作ったらどうなるんだろ?』
 ――とりあえず、昼食はまたご飯を炊いて、何か作る必要がありそうだ。幸せそうに食事を続けるセイバーをおかずに、自分の茶碗を手にのばした。





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