HP管理人のプロフィール

 

元都立高校教員、"団塊"の世代
家系上は源三位頼政の三十代後裔にして小田家(屋号・中河内)の当主

管理人から一言

わたし自身は小田氏の歴史に詳しいわけではありません。詳しく調べたのはわたしの父で、子供のころからそのことを事あるごとに聞かされて育ちました。小田氏は百姓の時代が長く続いたため、父の頃には断片的な伝承しかなかったようです。歴史が好きだった父は独学で古文書の読解術を身に着け、中河内にふんだんにあった古文書を調べ、さまざまな文献を漁って、このHPにあるような小田氏の歴史の全体像を明らかにしたのです。

河内町小田については、系図にある小田という地名を探し歩いてたどり着きました。さらに河内町小田在住の郷土史家・宮内作栄氏を知ることとなり、“小宇治屋長者墓所跡”を教えてもらったのです。その名前について父は、国政が宇治平等院で亡くなった頼政の子(小)というところからきているのではと想像していました。

父は生前こんなことも言っていました。『系図だけでは信用できないが、小田氏の場合、系図、伝承、古文書、墓、菩提寺、祖霊社などすべてが一つの矛盾もなく存在する大変珍しい例だ』と。確かに、このHPを立ち上げるにあたっていろいろ調べたときも実感しました。例えば、系図の信憑性を確かめるため、宝永3年に正親町三条家に行っているのですが、この家はもともと大納言の家格で、この年を含む数年だけ権中納言だったことが分かり、伝承通りだと思いました。また、政季が小田の地を離れることになった原因は、西条の鏡山城にいた大内勢が付近を攻略し始めたためということでしたが、確かにこのころ安芸攻略を始めた大内氏が鏡山城を築城していました。

このHPを立ち上げてそろそろ5年になりますが、小田氏に関しての質問メールがあったりするので、ここに書かれていることが知っていることのすべて、と改めて白状しておきます。