源姓山縣氏流小田氏のホームページにご来場下さいまして誠にありがとうございました。このようなホームページ をインターネット上に公開しようと思った理由は次の通りです。
小田氏の始まりは『源三位頼政の二男国政』で、平安末期に『安芸配流』になった、というのが系図を始め 古文書・伝承等すべてで一貫しています。また、その後現在までの伝承を裏付ける八百有余年間の石塔類、 菩提寺、祖霊社等々の事跡が一つの矛盾もなく存在します。しかし、この一族は世間には殆ど知られていません。
一方、頼政の叔父に源国直がいて、美濃国を地盤とし、美濃山縣氏の祖といわれています。また、尊卑文脈(日本で初期の系図集)には安芸に配流になったという記述があり、それを根拠に安芸山縣氏の祖ともいわれています。この流れからは後に明治の元勲山縣有朋が出ています。とにかくその国直の長男が国政で、山縣先生または山縣三郎と号し、美濃の地盤を継いだといわれています。こちらの国政はかなり知られていますが、後半生の記録は不思議なくらい途絶えています。血縁的に近いところに、たまたま二人の国政がいたのか?あるいは同一人物か?今となっては、はっきり分かりません。
しかし、小田氏の伝承と世間に伝わっていることを矛盾のないように組み立てると、つぎのように考えることもできると思います。国政は小田氏の伝承にあるように、頼政の二男で、国直の養子になった。年齢的にも、世間でいわれているような、国直の実子で頼政の養子に入ったというのより自然です。だから頼政の挙兵のとき領国の美濃にいた。そして宇治で頼政や仲綱など一族の多くが敗死したとき、家来は頼政の御首を血縁的に頼政に近く、彼の後継者と誰しも考える人物に届けようとした。こうして岐阜県関市の金光山蓮華寺に頼政の首塚があることと符合します。だからこそ、平家側からは最も危険な人物とみなされ、真っ先に配流に処されたのだと思います。
配流は本人および少人数の供回り程度でしょうから、家族は美濃に残り、その後地盤を広げたことと矛盾しません。そして、国政は配流先で家族を持ったと考えるのが自然です。周囲の豪族が都から来た貴種を放っておかなかったはずだからです。ただ、国政自身が勢力を広げた形跡はありません。また、頼朝が鎌倉幕府を開いてから、菖蒲前のように恩賞に与った形跡もありません。おそらく頼朝から警戒されていたのでしょう。頼朝の有力武将である土肥実平がこの地を含めた一帯の領主になっていますが、あるいは国政の監視役を兼ねていたのかもしれません。
こうして地元の人に、『小宇治屋長者』として尊敬され、現在まで八百年以上に亘って語り継がれてきた国政は、中央に戻ることもできず、ひっそりと息を引き取ったのです。世間的に、国政の前半生の記録はあるのに、没年を含めて不詳な部分が多いのは、このような事情によるのだと思います。ここまでは多分に想像が含まれています。国政に関しては、頼政の二男という以外詳しい記録は残っていません。
さて、国政から8代後(280年後)、安芸国堤に落住するとき、猪一族を郎党として引き連れています。この猪氏は菖蒲前とともに西条に来た猪早太の子孫です。源氏のれっきとした武門である猪氏が、三百年近く後に小田氏 に従ったということは、猪氏が小田氏を頼政の後裔であると認めるだけの確実な証拠があったからだと思われます。それが何かははっきりしませんが、系図が有力候補でしょう。もう一ついえることは、小田氏の方は歴史的に傑出した人物がいたわけでもなく、一大勢力を成した時代があったわけでもないので、先祖を”飾る”必要性はまったくなかったということです。
以上のことから、”頼政の二男国政”を始祖と仰ぐ、世間に余り知られていない一族が存在することを公表 し、この時代の歴史を考える上で一つの材料を提供してもいいのではないか、これが一番目の理由です。さらに、源三位頼政という歴史上の人物から始まった大河の一滴が、生々流転を重ね、八百有余年の時が経過した今、有縁の人は膨大な数になっていると思います。中河内はその流れの一つです。先祖を同じにする人々と交流できたら、 これが二番目の理由です。三番目の理由は、もっと身近にいる同族の人たちに、先祖のことを知ってもらって、自らの生き方に役立てて欲しいのです。ホームページならいつでもどこでも覗くことが可能です。
このホームページのことで何かありましたら、下記のアドレスにご一報ください。お待ちしています。
小田一族について貴重な情報を得ることが出来、感激しました。実は、私の祖母が佐伯町の小田家から明治期に改姓した八田家の出身で、数年前から先祖に関する資料を集めています。
このたびホームページで、いろいろな疑問点を解消することが出来ました。ありがとうございました。
佐伯町の小田氏は慶長期に政秋の次男が当地に来て、厳島社領の刀祢の楢原家を相続し、その後、代々庄屋を務めたと書いてあったように記憶しています。明治になって、大部分の村人が小田姓を名乗ったので、「小」の真ん中の棒を取り「八」とした、という安易な理由で改姓したそうです。
小田一族では、この他に毛利元就の初陣となった有田(中井出)合戦で活躍した小田信忠という武将も、この家系図のどこかに位置する人物のようですね。
ホームページで得た情報をもとに、これからも暇なときに研究したいと思います。ありがとうございました。
初めてメールを送らせていただきます。
子どもの頃より両親から祖先は源頼政であると教えられてきましたが、今回偶然にも貴HPを拝見させていただき、私が親から教わってきた記憶とかなり合致する部分がありましたので、大変失礼かと思いましたがメールを送らせていただきました。
私の祖先を遡りますと、貴HPの小田氏系図の17代政方の弟政勝とその子政治、政綱兄弟の系統に当たります。明治生まれの私の祖父は祖先をとても大切にされたようで、子である私の父を政勝(まさかつ)、孫である私の兄を政治(まさはる)、そして私を政綱(まさつな)と祖先と全く同様に命名し、現在は兄政治が自称30代として継承しております。
私自身は跡取りではありませんが、大河ドラマ等で頼政公が出てくるのを楽しみにしており、古くは「新平家物語」の芦田伸介、最近では「義経」の丹波哲郎でしたか、また来年の平清盛で登場することを密かに期待している状況です。平等院には何度かお参りに行ったことがあり、頼政塚にも昨秋初めて行きました。
以前小学生時代の宿題で、私は祖先を調べたことがあり、父が保管していた系図(作者・時期等は不明)を基に父から話を聞き資料を作ったことがあるのですが、その時の記憶の限りでは、国政から政勝までの系譜は、貴HPの系図に記載されている名前と私の記憶に残っていた名前と合致する部分が多く、親から聞いていた系譜の信憑性が高まったかなと安心しました。また、貴HPの系図に記載されていない政綱以降の系譜については、政勝の子の政治、政綱兄弟は僧侶であり厳島神社に灯篭を献上したこと、家系は政勝→政治→政綱と継承され、その後は広島で武士の身分を保ったまま農業を営み(長州藩毛利家の大名行列がお辞儀をして通ったという言い伝えがあります)、明治後期に祖父が上京したとのことです。祖父や父の遺言で今でも私の本籍は広島市内に置いてありますが、ちなみに広島に残った祖父の親族は原爆等により残念ながら途絶えてしまったと聞いております。
こうなりますと、我が家に残っている系図がどうなったのか気になってしまいますが、4年前に父が急死してしまった関係で系図の所在が明らかになっておらないのが現状で、今回の貴HPとの出会いを機にあらためて実家を探してみようと思っております。
以前より、源頼政が祖先だと信じてはいましたが、一般的には頼政から小田氏に繋がる記録がなく、自分は本当に源氏の系統なのか不安がありましたが、貴HPのお陰で信憑性が大変高まり(といいますか確信に変わり)、あらためて今後も子供たちに祖先のことをしっかり伝えていかなければという気になりました。
小田氏の歴史を詳細に調べていただき、また公開していただき大変有難うございます。
初めまして、従兄の紹介でHPを拝見させていただきました。私ごとですが、学生時代にご先祖のことを卒論のテーマとさせていただき、学生なりにいろいろ調べ、まとめさせていただいた経験を持っていたため(内容は足元にも及びませんが)興味深くHPを拝見しました。
HPにお書きになられているように、目立ちはしないが、素晴らしい方々がご先祖なんだとHPを拝見して再度認識し、嬉しさのあまりメールをさせていただきました。
蛇足ですが、卒論の縁が巡り巡って、大竹に分かれた小田氏の件で「海藻 (ものと人間の文化史 11)」に資料を提供させていただいたこともあります。
どこかで、お手持ちの資料などを拝見できるとを夢見つつ、駄文失礼いたしました。
HPを興味深く拝見させて頂きました。はじめて、メールをさせて頂きます。
私は、今は広島市に住んでいますが、実家は、広島県大竹市という所にあります。大竹市の大竹高校の裏側に、「小田神社」という小さな祠の神社があり、今でも大切にされています。そこで、自分と同じ名字なので興味を持って母に聞いてみたところ、直系ではないが関係があるとのことでした。
経緯的には、大竹市にある薬師寺の住職が亡くなった時に、市役所の職員から、「小田さんのところは、昔から、この地に住んでいて、歴史が長い家だから」、と言われ、市役所の方から、薬師寺を継いで欲しいと祖父の代に言われたといいます。信仰心の厚い人柄だったので、大竹市の薬師寺をほっておくのも気が引けたらしく、私の祖父の兄がその薬師寺を継ぎました。
その薬師寺で、60年に一度の法要があり、60年に一度だけ開けられるという、薬師像開扉の法要の時、その棚から、小田家の系譜が偶然に見つかったそうです。(亡くなった元住職も含め、その時までは、誰もそこに系譜があるのを知りませんでした。大東亜の戦火に巻き込まれないように、系譜をそこに隠したのだろうという事でした。)
毛利の家臣という言い伝えは親戚の間では言われていても、実際には確たる事実は不明でしたが、毛利元就の時代に、毛利氏家臣であった、「小田太郎右衛門景康」の子孫であることがハッキリしました。
毛利氏が山口県の萩に行く道中は、家臣への移動費用を捻出するのが非常に厳しい状況だったそうです。景康が、山口と広島の県境の大竹に来て、その地域のあまりの貧しさに驚き、どうにかその窮状を救う事を考えたといいます。また自分がそこにとどまる事で、口減らしになり、県境の守りとして、何かがあれば馳せ参じるのに適地だったこともあり、大竹で産業をおこしたそうです。それが、広島県での海苔養殖の始まりだそうです。
(養殖方法が、朝鮮式と同じ為、朝鮮出兵の時に、現地の海苔養殖を観て、ヒントを得たのではないかと推測されています。浅草海苔との養殖方法が違うので)また、牡蠣の養殖もその頃に遡るらしいです。(事実は解りませんが)
ともかく、興業が成功したことにより、大竹村は豊かになり、「おだどんさん(小田殿様)」と言われて親しまれていたらしいです。大変民衆に尽くしたそうですが、有る時、大竹村と油見(ゆうみ)村の境にしていた木が落雷により消失し、その分からなくなった境界線の小競り合いを収拾するのに、境界線を明確にした為、油見村の暴徒に襲われて亡くなったそうです。しかし、その遺徳ははかりしれず、手厚く葬られ、現在でも、その神社は小さいながらも、実に美しく保たれています。
・・・・長いので以下は略させていただきました。(管理人)・・・・
はじめまして。私は山口市在住のH.Oと申します。
この度、実家(広島県大竹市)の家を整理していましたら、我が家に代々伝わる家系図が出てきました。子供の頃に一度見せてもらった記憶がありました。その時はまだ状態は良かったと思いますが、この度開けると大分虫が食っていました。父から預かって虫干ししようと開けてみるうちに、自分のルーツに興味がわき、検索をしてみると、貴方のHPに当たりました。できましたら一度我が家の系図をみていただきたいのですが。突然のメールを失礼します。