毛利元就感状

 

毛利元就から十三世・小田左衛門太夫政秋に宛てた書状である。表造意人(敵意を持つ人)つまり津田常陸介(毛利元就に滅ぼされた武田氏の一族)を討果せとの元就の要請を受け、それに応じて鎮圧したため、使者まで派遣して謝意を表わそうという非常に丁寧な感状が与えられた。毛利氏と小田氏はこの当時同格であったと思われる。このとき元就の居城高田郡吉田より派遣されたのが坂新兵衛桂兵部であり、鎮圧後感状を届けたのが毛利の重臣児玉三郎右衛門であったことが記録に残っている。このとき御刀一腰(大小)も拝領しているが、小刀の方は現在も中河内家にある。

感状原本も中河内家に伝わったと思われるが、嘉永年間に流出したため、この文は『芸備郡中士筋者書出』による。この文書は広島藩が元禄四年頃、「士筋者」として来歴を持つ領民に命じて、その由緒と文書類の写しを差し出させ、編纂したものである。

(注) 毛利元就文書を研究されている秋山伸隆氏(県立広島大学教授)によると、元就文書は判物形式書状形式の二種類に分けられるということです。前者は右筆等が執筆し元就が花押を据えた公式文書で、本文の書止文言は、「仍一行如件」、「之状如件」などであり、日付には年号が付けられ、署判は「日下」が一般的とか。それに対して、後者の書止文言は、「恐々謹言」、「謹言」、「かしく」であり、日付は月日のみで年号を付けないのが特徴だそうです。またその内容は、私的あるいは日常的なものから、政治・軍事に関する命令・指示、権利の認定や付与、保証や約束など、戦国大名としての公式意思を伝達するものも含まれ、感状などに分類されるものもあるということです。

上掲の感状はこの様式にのっとっています。日付だけでなぜ年号がないのだろうと思っていましたから、これで納得しました。