戦国時代後半、小田太郎右衛門景康は毛利氏に従ってさまざまな戦に出陣しており、文禄・慶長の役では朝鮮にも渡っています。慶長5年秋の関ヶ原の戦いで西軍が敗れたあと、毛利氏が国替えで萩に移る道中、西国街道を西進して安芸国の西詰大竹村に差し掛かった時、景康は村の佇まいがあまりに貧しいのに驚かされます。主君が大幅に減封されて財政が厳しいことを案じていた景康は、ここに留まれば口減らしになり、また国境の守りとして主君のご恩に報いることができるのではと考えます。
こうして大竹村に留まった景康は村の窮状を何とか救おうと腐心しました。そのとき脳裏を過ったのが朝鮮の漁村の光景でした。彼の地では浅瀬にひびを立てて海苔を養殖していたのです。目の前に広がる浅瀬でもできるのではと考えた彼は村人といっしょに養殖を始めました。ところで海苔養殖が産業として完成するのは、海苔の生態が完全に解明され、人工種苗法が確立した1950年といいますから、この時代の養殖は非常に当たり外れのあるものだったことが想像できます。しかし、採集から養殖への転換で村はかなり潤ったものと思います。
一方、慶長6年、毛利氏と入れ替わりに安芸国に入った福島政則は、直ちに兵農分離を推し進め、太閤検地並みの厳しい検地を行って農業を基盤とする封建体制を確立しようとします。こうして村境が注目を集めるようになり、大竹村と隣の油見村の間で境界争いが勃発します。それというのも、村境の目印になっていた松の木が落雷で焼失したのを放置していたからです。争いは長引き、ついには官の裁きを仰ぐことになりました。村人に推されて代表となった景康は条理を尽くした主張をし、めでたく村の言い分が認められたということです。しかし残念なことに、帰途の途中、鳥越岡まできたとき暴徒に襲われ命を落としたのです。時は慶長12年5月5日、享年68歳でした。
遺体は鳥越岡に葬られ、そばに一本の松を植えて、『小田塚松』と呼ばれたそうです。この松は今は朽ち果て、そばに二代目の松がすくすく育っています。明治に入って松のそばに小さな社殿が建てられ、ここに小田神社が誕生しました。その後、三百年祭(明治32年)、三百五十年祭(昭和31年)、四百年祭(平成18年)が実施され、社殿が拡張整備されて現在に至っています。
景康が朝鮮での見聞を元に『ひび建』養殖を始めたというのは作り話とは思えません。起源としては日本で一番早い部類に入るでしょう。そのことをどう考えたらいいのか、資料が少ないのでこれ以上は無理ですが、海苔の増産が非常に難しかったことを考えると、もしかしたら産地として大竹の名前が知れ渡らなかったということかもしれません。いずれにしても景康が『おだどんさん(小田殿様)』と村人に尊敬と親しみを込めて呼ばれるほど村に貢献したことは紛れもない事実でしょう。