平安末期の王朝で、その美貌と頼政との艶聞で耳目を集めた菖蒲前の後半生の事跡は、西条盆地(東広島市西条町)に集中している。 治承4年(1180)5月、頼政は挙兵の前に猪早太に命じて菖蒲前を西国へ逃そうとする。近衛河原の頼政邸から、猪早太に守られ、丹波路を経て南下、瀬戸内を航して、三原より沼田川を遡り、今の東広島市西条町御薗宇辺りにさしかかったとき、幼子の種若丸が病に倒れた。郎党一の武将猪早太に警護されているとはいえ、身重の身体で幼子を連れての逃避行は菖蒲前の気力も奪ったことだろう。看病のためこの地に留まる決心をする。
看病の甲斐なく、やがて種若丸は病死する。菖蒲前はその地に吾妻子観音堂を建てた。三永(みなが)水源池(東広島市水道局の吾妻子浄水場)付近の、エリザベト音楽大と敷地を接した吾妻子の滝の上にある。この滝はきれいとは言い難いが、標高差15メートルの市街地では珍しい堂々たる滝である。観音堂の中には種若丸を追悼した宝篋印塔が収められている。付近の地名は東子(あずまこ)というが、元々は吾妻子と書いたのではないだろうか。菖蒲前の嘆きが伝わってくる。
愛児種若丸の死で悲嘆にくれていた菖蒲前は、この地に留まり、やがて男子を出産する。時は移り、平家が壇ノ浦で滅亡し、源頼朝が鎌倉幕府を開く。頼朝は平家滅亡のきっかけを作った頼政の功績を由として、菖蒲前に加茂一円の地を賜わる。菖蒲前はこの地を御薗宇(みそのう)と改め、二神山に城を築き、頼政の遺児の養育に専念する。また、得度して西妙尼と改名し、頼政や愛児の菩提を弔うと共に、付近の人々に京の文化を伝え、啓発に努める。そのことで死後も永くその遺徳を追慕されている。 さて、頼政の遺児豊丸は成長して水戸新四郎頼興と名乗るが、元久元年(1204)付近の豪族(土肥遠平・三浦掃部介らという)に攻められ、夜闇に紛れて母子別々に逃れたという。菖蒲前は城の北西、曽場山の麓(小倉)に逃れるが、そこで力尽きる。侍女鶴(霧)姫の身替り伝説がある。
菖蒲前が勧請した寺で、頼政の持仏を本尊としている。また、境内には猪早太も葬られており、「勝谷右京墓・建保4年(1216)丙子7月8日」と刻した立派な宝篋印塔が遺されている。頼政の郎党として最期まで主君の愛室につくしたものと思われる。
西条盆地を見下ろせる山上にある真言宗の寺で、菖蒲前が再興したともいわれている。本堂横に菖蒲前が手植したという樹齢800年、樹高40メートルの夫婦杉(県天然記念物)がある。神秘的で崇高な趣のある大樹である。他にもトチノキの大樹などがあり、古刹であることをうかがわせる。
県道から細い道を2キロメートル位西に入った先にあり、静寂に包まれた非常に趣のある神社で、菖蒲前を祭っている。普段から余り人が訪れることはなさそうだが、境内は綺麗に清められていて、土地の人の愛着が感じられる。また菖蒲前は雨乞いに霊験ありと信じられてきた。ここ小倉の地は、 二神山城が攻め落とされた時、菖蒲前が逃げ込んだところといわれる。本殿左奥山中に、元久元年(1204)8月27日に没した菖蒲前の墓がある。