家族の北アルプス登山報告(1991年8月)

太郎小屋〜槍ヶ岳、上高地

  平成3年8月8日から13日の6日間我が家は、残雪と高山植物の咲き揃う北アルプス南部において家族(私42才、妻?才、息子14才)登山を実行した。
 天候は、9日から12日の槍ケ岳の登頂まで、毎日沢山の霧を見ることができ、全員で槍ケ岳の登頂後に霧が晴れ、槍の穂を確認することができた。
 この報告書は、その登山の一部を紹介したものです。
出発前日まで
 登山地域を決定するにあたって考慮したことは、
@  高山植物の咲き乱れている高原。
A  昨年息子と見た「槍ケ岳」を含ませる。
B  徳沢に居る「信州○大の乞食に会う(山と渓谷)」

 太郎平小屋〜黒部五郎岳〜三俣山荘〜槍ケ岳〜上高地と決め、登山計画書を、作成した。食料・登山用具・切符の購入等準備していく。準備した登山用品の点検及びパッキングを家族全員で実施し、各自の携行物品及び共通物品の携行状況を登山計画書と確認しつつ準備した。

8月8日   広島駅1901→ヒカリ28→2038新大阪着大阪発2323→急行きたぐに→0448富山着
 定時に退社し帰宅した。帰宅後おにぎりで腹ごしらえ、シャワーを浴びて出発準備を完了した。
 ガス及び電気の点検。新聞の処置等を完了し自宅を1800に出発した。
 広島駅で30分程度の待ち合わせで、新幹線には3人並んで着席できた。
 乗車した「ひかり28号」は、昨年息子と北アルプス一緒に行った同じ列車であった。
 新大阪駅では、努めて早く大阪駅に移動しようということで、到着と同時に移動を開始した。
 大阪駅では、中央コンコース付近で乗車ホームの確認・トイレ及び時間待ちで1時間半程過ごした。登山者が昨年よりは沢山いるように感じた。 「きたぐに」の乗車のため、2200より11番ホームに並び始めた。昨年の、息子との燕岳の登山の時のホームは、その前の10番ホームであった。
 私達の前は10人位であったが、列車が入る頃にはかなり集まり、列車4人掛けの席が2〜3人でうずまった。
始め息子と二人で着席していたが、息子がよく眠れるよう一人にするため途中で席を移動し、妻と並んで座った。
 列車は寝台車を普通の座席に変更したものであった。いつものように熟睡はできなかった。
8月9日   0448富山駅0500→0545林道入口0550→0630折立0705→0900△1870m→1300太郎平小屋
 富山駅に予定どおり到着、トイレ等の所用をすませた後バス停に移動した。
バス停は、駅の正面の左前方にあった。バス停には、かなりの登山者がバスの乗車を待っていた。
 富山駅からバスで、有峰口から折立までの予定であったが、バス代3200円タクシー1台12000円でありタクシー移動ということで、東京からの女性2人と我が家の3人で乗車割り勘とした。
 天候について運転手に聞くと、富山地方は、今日ぐらいに「梅雨明け宣言」が出されるのではと言うことであるが、今年は随分と遅い。これもピナツボ山(フイリッピン)の噴火の影響だろうか?
 富山駅前を出発し、途中「アルプス村」で鱒寿司弁当を2個購入。途中タクシーの運転手の計らいで「槍ケ岳の開祖・播隆上人」のブロンズ像に立ち寄る。
立山駅に向かう道から外れ、有峰湖の林道入口に到着した。林道代1400円支払う。林道は0600開門するということであったが、少し早く開けてくれた。
折立手前で車酔いのため5分停止。有峰湖を過ぎ、トンネルを抜けて真川を渡ると折立キャンプ場が見え登山者の姿が見えたが、我々の車は200m位進み、折立の休憩所の近くまで入った。
 折立付近の天候は、青空が見え登山日和である。
 折立休憩小屋の前で朝食。鱒寿司弁当とパンを食べると、ザックのパッキングをやり直す。キャンプ場のトイレを利用。無料休憩小屋は7時前に開いた。登山届けを提出し出発する。
 折立無料休憩小屋の奥の大きな木の下に登山道入口の表示があった。
薬師岳遭難碑が歩き初めて1分の所にある。冬の薬師岳において愛知大生13名の碑である。合掌して通過する。
 歩き始めは、調子の悪いものであるが、今回もまた同様である。睡眠不足とブナの原生林の中の視界の悪い急坂(太郎坂)のため調子が出ずに苦しむ。予定タイムより時間がかかってしまった。
 ブナの原生林、クマザサ、岳樺の林をすぎ三角点1870を通過するとゆったりとした尾根道となり、森林限界を過ぎ眺望が開け高原状となった。這松と池糖の中の高山植物を楽しみながら。
 視界のよい整備された登山道を30分に十回の深呼吸の休憩で高度を稼ぐ。
眼下に有峰湖を望める尾根の上で、パンで昼食を取る。少し早いが登りばかりの道でまいってしまった。休憩と食事とした。
 岩井谷の連続した小さな滝を見ながらコバイケ草などの湿性植物が咲いている尾根状の高原を進む。池糖の中を進むと左から薬師岳の尾根が右から太郎平山に上がる尾根が近づき岩井谷の水の音が近づき、高原状の稜線に太郎平小屋が見えてきた。道に迷う所・危険な箇所は全くなかった。
 太郎平小屋に着くと、早速宿泊の手続きをすると寝床に案内されると、少し眠る。夜行列車の日は、寝不足でまいってしまう。
妻と二人で小屋の周りを少し散策すると、薬師岳・雲の平・黒部五郎岳等は、霧の晴れ間に少し見せては隠れる。ビール片手に眺める。伸びやかな大草原には、多くの花が咲競い気分を開放的にしてくれる。素晴しい所だ。

25歳の頃一人で剣から槍を越えて上高地に下った時この小屋に1泊した。
この時が有人の山小屋に泊まった山行であった。この登山は室堂から剣沢にキャンプ、剣岳後に五色ヶ原の手前の大石の下にビバーク。登山で初めての小屋泊がスゴ乗越の小屋、続いて太郎の小屋。双六の小屋と3泊もした。あの時は五色ヶ原から雨の中を歩き、スゴに泊まり、翌日雨の中を歩き、薬師の小屋を過ぎた時に遠くで雷鳴がして太郎の小屋に着いた時はずぶ濡れだった。

ビールの値段は350ccは500円、500ccは700円、1Lは1000円。ビール片手に、食堂の片隅の小さな本箱から本を見つけて読む。今日は、とにかく体力の回復が一番だ。
 秋田県の人と同室になり、彼は日本百名山を登ろうとしていた。
彼は、今回の山行で今日の薬師岳に引き続き黒部五郎岳に登り駆け足で富山に下っていく予定であるという。
黒部五郎岳までの道を教えて、明日は何処で擦れ違うか興味津々で寝ることにした。
8月10日 小屋0600→0800北の俣岳→1130黒部五郎岳1145→1200/1240→1400黒部五郎小屋→1700三俣山荘
 太郎山への道は、太郎平小屋より南にとる。小屋のすぐ側から、薬師沢を経由して雲の平に向かう道がある。太郎山への登りは太郎平小屋を振り返りつつ登る。
 太郎山の山頂は、草原状の分かりにくい所だが、今日は霧のため本当に分からない。何時過ぎたのか気がつかなかったが、下りになったので通過と認識する。踏み跡の道だけは、しっかりとついている。
 北の俣岳には太郎山から一度下り、這松と池糖の中を進む。此処かしこ高山植物の競演だ。高山植物が心を和らげてくれる。神岡新道の標識のあるところが北の俣岳の肩である。あと少しだ。
 北の俣岳を過ぎ、はい松と池糖の中を進む。赤木岳の山頂は気付かなかった。あとで見た本によると岩屑のピークらしい。中俣乗越を0920に過ぎる。乗越からは起伏の少ない尾根が続き、はい松と石屑の急な道を登ると登山者が沢山いる道標のあるところに達した。そこが黒部五郎岳の肩だった。
 黒部五郎岳の肩に飛び出すと、霧の晴れ間に雪渓の残った黒部五郎のカールが眼下に見えた。山頂に空身で行くためザックを降ろす。黒部五郎岳の山頂には、三人で行こうと息子に話したが、わが息子は黒部五郎岳の肩にある雪の窪みで休憩したいという。(雪で遊びたかったのかもしれない。)
 中学生の息子に、雪の上に上がらない。ガレ・土と雪の窪地だけと念をおして妻と二人で行くことになった。黒部五郎岳の山頂で握手してすぐに下る。息子のことが心配となる。ザックは、残してあるので離れないと思うが心配であった。
 黒部五郎岳から黒部五郎の小屋には、尾根道と、カールの底に降りて行く方法があるが、今回はカールの底に降りて行くため、北東方向に下りにかかる。
肩より200m程黒部川方向に進み、お花畑のジグザグの急坂を下る。カールしたの岩の上で太郎小屋の弁当を食べていたら、霧が晴れ妻の感激の声が聞こえる。シナノキンバイの花と残雪、岩そして雪渓からの水。
 黒部五郎岳のカールの水は、雪渓から流れ出ているためコーヒー・ウイスキー水割りに最適である。
雪渓からの水を利用した流し素麺を楽しんでいる用意周到の登山者がいたが、我々は三俣山荘までかなりの道のりである。カールの底は、お花畑と清流と残雪の大庭園である。小さな流れを渡り、花の草原を縫って進む、白樺に似た岳樺の白い肌、実に楽しい小道である。
黒部川源頭の清らかな地点を進み、湿原状態の草原を進むと、岳樺の先に黒部五郎の赤い屋根が見えた。小屋の前に出ると、登山者の休憩している姿が、なんと伸びやかに見えた。
 20年前の単独行の思い出が脳裏に写し出され、寸分も変わっていない。
小屋でトイレを借りる。
 黒部五郎の小屋から三俣山荘までの道は、小屋のすぐ右手から始まる。岳樺の樹林帯の大きな岩の道は急坂で、喘ぎつつ励まし合って進む。
小1時間頑張ると、ゆるやかな尾根道に出る。息子を先頭に左に崩れた尾根の上部を30分程度進むと、三俣蓮華岳をトラバースする道標のある分岐点につく。
直進は三俣蓮華岳から双六岳を通って双六小屋に行く道である。
 三俣山荘に行くために、分岐点から左の急な斜面の崩れそうな道を注意しつつ歩く。この頃は三人とも話す言葉もでない程苦しかった。ガレのトラバース道が終わり、三俣蓮華岳の北斜面は石の道で冷たいすばらしい水が流れている。
水流の幅は50m以上あり水深は2Cm位しかない。次にここにくる時は、黒部五郎の小屋に泊まり、ここでコーヒーでも飲みたい位だ。(でも飲用できるのか?)
 雲の平方向から三俣山荘に向かう登山者の一団が見える。
 トラバースの分岐点から1時間少しで小屋に着いた。朝6時太郎小屋からの歩きで本当に辛かった。
同じコースを歩いた20年前の思い出が、体力の衰えを感じさせた。(テント泊で同じコースで双六の小屋まで歩き3時頃に着いた。なぜ三俣山荘に向かったかって。阪本キバ子が居ると言っていたから。キバ子は大学教授で退官した)
小屋の従業員から「他に登山者の姿が見えなかったか?」と質問を受け、「雲の平らからこちらに向かう十数名の登山者が見えた」と答えた。
 2階の部屋に案内されると、他の部屋は既に満員状態で、我々の部屋は私達3人だけだった。ザックから濡れていない服に着替えると、従業員が16人の登山者を案内してきた。
小屋までの道から見えた登山者達であった。16名のパーティで(これより16人衆と)、太郎平小屋に一緒に泊まっていたようで、雲の平を経由して来たと話しこれから槍ケ岳から別れ東鎌尾根を行くまで前後して歩くようになった。
 16人衆が夕食に呼ばれたが、我々の案内が無いのでしばらく待って、確認に降りると、我々を忘れてしまい食事が無くなり、作り直すといった事件が起きた。
山小屋からお詫びに「缶ビール2缶」との話が出るが丁重に断わる。
小屋から明日の目的地、槍ケ岳が見えるはずが、恥ずかしいのか霧の中に隠れて姿を見せない。
 今日の長丁場はこたえた。16人衆の話し声がするが、横になっていると、自然に熟睡してしまったようだ。(1900と思う。)
8月11日   三俣山荘0645→0900双六小屋0930→1015樅沢岳→1215硫黄乗越1235→1330千丈沢乗越→1515槍ケ岳山荘
 16人衆は、4時起床で朝食を弁当にして出発して行った。
 我々は、昨日の疲れを癒すためいつもより小1時間遅く起床し出発した。
今日の長丁場と道の悪さを考えると、少しでも寝て体力の回復を考えた。
 三俣山荘から双六小屋へは、小屋より三俣山頂方向に沢沿いに20分程度進み、そこから水平な道を、槍ケ岳を見ながら楽しい散歩道のはずが今日は全く見えない。槍ケ岳は見えないが霧はよく見えた。
 はい松の水平道を歩いていると、黒いパイプが道と並行に走っていた。真下に小屋が見えると道は急な下りとなった。転がるように駆け下り、双六小屋に着くと小屋の前で顔を洗う。汗が口の中に入り塩分補給とじゃれ合った。
名物のラーメン・おでんを食べ、ジュースを飲む。小屋に着くたびに栄養補給を忘れない御一行様である。
 16人衆は、我々が小屋に着いた10分後に西鎌尾根に向かい出発して行った。
小屋から見えるジクザクの道を登り霧の中に消えて行った。この頃は、視界は下方に対しては良好で湯俣川上流の赤い壁が良く見えた。
 満腹になると所要の行事を済ませると、16人衆を追うように、双六小屋からジクザクの急坂を樅沢岳への道を登る。道は急坂で小屋から見えるため、途中で休憩はできない。15分程度で登り越すことができた。30分程度で山頂。小さな看板がハイ松の中の小広場にあった。
 硫黄乗越及び西鎌尾根の核心部に入る少し前に、空模様を考え早目の昼食とした。昼食が終わりしばらく歩くと雷鳥の親子とオコジョを縦走路上で見る。
妻は雷鳥を自分の目で見たのが初めてだった。
 稜線を右に左に登って行くと、飛騨側に巻くと霧が晴れ這松の中で16人衆の女性の「集団花摘み」が見えた。突然の風により、霧が晴れ大慌てのようである。
警戒の人を配置していないから、俺は喜び、妻は息子の視線を---
 硫黄乗越から千丈沢乗越へは道は、登山初心者の妻には注意を要するところだ。
岩稜の登りとなり、千天沢方向に新穂方向にと尾根を越え、足場の悪い箇所があり注意を要する。一番の難所であるが、ここに来て雨が振り始める。雨具を装着させる。体温が風と雨で奪われないために早目の着衣である。
 千丈沢乗越は道標がありはっきりしたが、それまでの道が悪いためと鞍部を何度か通過し、ここが乗越かと勘違いをしていた。
 千丈沢乗越は、左の千丈沢から宮田新道が上がり、右に中崎尾根、蒲田川右俣に別れる、天候等で尾根道からのエスケープとして蒲田川右俣を下れば槍平小屋に行く事ができる。しかし、大雨の時は新穂高に下れなくなることがある。
 千丈沢乗越からすぐにクサリ場があり、尾根を数回右左に巻くと蒲田川右俣側のジグザグのガレの急坂を進むことになった。かなり強いそして冷たい雨が振り始めたため、息子から弱音が聞こえた。「気合い」を入れた。
「今から双六小屋に帰る(5時間と下りのため足場が不安定となる。)より、槍ケ岳山荘(2時間の登りだが道標等もしっかりしている。)の方が近い。下っても風雨を避けるところは無い。」
 ゆっくりと突き進むだけである。あと2000m・1800mと表示がある。休憩は小さな出っ張り、窪みを利用して取る。直接風にあたらないようにして。
 20年前の登山では、体力・気力・技術的にも最高の時であり、今登って来た道に対しても恐怖とかは感じられずに難無く越した感じがする。つまり記憶がないのである。ただあの時も風雨は今以上だった。小屋に着いた時は完全にびっしょりだった。
 大きな石がコースの左側に現われ、両側に前方に遮るようになると、避雷針が見えた。槍ケ岳山荘直下にたどり着いた。雨の中を息子を先頭に登り切る。着いてみると息子と妻は、まだまだ元気一杯であったが、初心者は、突然体力をなくすことがある。
 今日は、3000mの稜線の山小屋である。小屋が3000mの上にあるのは日本では少ない。この小屋は槍ケ岳山荘、別名「肩の小屋」で槍の穂の登頂に一番便利な小屋である。
 小屋の玄関は、登山者で一杯である。下る人、泊まる人、休憩の人と種々雑多の人で動きが取れない程である。従業員に一泊3食でお願いする。案内された寝室は、2段ベッドの上であり、荷物を置くと貴重品だけをもって、明日のために小屋の中を偵察する。確かに日本有数の山小屋だけあって広いし、複雑である。火事等が出なければよいが。
 談話室で、槍ケ岳等の本を見つけて妻と読む(見る)。
 食事は、宿泊者が多いいため、数回に分けて喫食させるらしい。
 槍ケ岳山荘の小屋の夜は、暑くて蒸して五月蠅くて狭くて寝苦しい。1930まで話し声がする。俺達のスペースは右隣の登山者に占領されている。左隣の登山者から右に寄れと言われるが、右の登山者は聞こえない振りをされる。
2200頃に一人談話室に行って寝る。できるだけ身にまとい寝ようとするが、寒くてここも寝苦しい。しばらくすると談話室に人が集まり思い思いのところで転がりだした。妻と息子が俺を探しにやってきたが、俺が出たことで寝床が広がれと。次から半シュラフを携行しよう。
8月12日   槍ケ岳山荘0830→槍ケ岳→槍ケ岳山荘1030→槍沢ロッジ1330→1440横尾→1530徳沢→1610よしき屋
 0400頃から槍ケ岳登頂のため登山者が活動を始める。本当に山の朝は早い。外は、霧から雨になった。視界はない。登山者によっては、朝食前に槍の穂に立つ人が出て行く。御来光を見るためだろうが、この天候では無理だと思う。
 わが登山隊は、初心者だから明るくなってから行動する。早い者は朝食までに帰って来た。外に出てみると、薄暗い槍の穂にて行動する人の明かりが霧の中で見え隠れする。本当に天候を恨み出す。食事が終わった。
 天候の回復の兆しが見えた。息子と二人で登頂することに決心し、出発準備をしていると、突然妻が私も登ると宣言を始める。息子だけなら登頂させる自信があるが、妻と三人では。しかし、ここまで来て妻だけが登れないのも残念であろう。
 槍ケ岳山荘から槍ケ岳への道は、小屋から槍の方向に進むと右手よりに山頂へ続く矢印や印が山頂へと続く、クサリ・ハシゴがある。
 息子は、さすがに危なげなく登っているようだが、妻はいまいちだ。途中でザイルを取り出し結ぼうとしたが、妻は遠慮して結ばない。安全なスタンスが得られる場所で時間待ちをするように指示するが、俺の直ぐ下で時間待ちをしたがる。
 途中で一瞬霧が晴れ、槍ケ岳山荘等が見える。最後に岩をぐるりと抱き込むようにして登ると、そこは3179.5mの山頂だった。
 山頂は、畳5〜6枚であり、中央に方向指示盤があるが、視界の悪いので見る気がしなかった。小さな祠に手を合わせ、登頂の記念に足元に気をつけながら写真を取る。
 早く下るのは惜しい気持ちするが、登山者がどんどん登ってくるので下ることにする。槍ケ岳から槍ケ岳山荘までは、下り専用の印に導かれながら下るが、霧が周囲を包み高度感を無くしてくれている。息子より動きのワルイ妻に注意しながら下る。
山荘でザックを回収し槍沢から上高地へと下る。
 槍ケ岳山荘から槍沢の下り坂は、氷河の名残U字谷の中の道を、大きなジグザグを切ってぐんぐん高度を下げる。これまでの体力一杯使った山行の疲れがどっと出てしまう坂道である。殺生小屋にヘリコプターの残骸を見る。
大天井に行く東鎌尾根に登山者の隊列が見える。この中に16人衆の姿があった。西岳を経由して燕や常念岳へと向かうのだろうか。ここでお別れである。
 坊主の岩小屋にて小休止。播隆上人及びウエストンの略歴と、日本アルプスについて坊主の岩小屋の前で説明する。(説明板を読みそれに若干の注釈を付けるだけだか)
 槍沢の氷河の名残であるモレーン(氷河堆土(石))上で振り返った時、青空に槍の穂が見える。槍の穂が見えた時がお別れであった。モレーン上より泥やガレの急坂を尻餅に注意しながら下る。春季の増水時用の高巻ルートを下る。右岸に氷河公園から滝が落ちているのを見つつ、ジクザクにどこまでも下る。
 落石のない安全な河原で昼食を取ることにする。雪渓が終わる地点であるため、雪の上を吹き抜けた風が気持ちよかった。昼食は槍ケ岳山荘で作ってもらったもので、竹の子の皮にくるんだ「山菜おこわ」と牛乳だった。
 水俣乗越に上がる沢(2094m)のあたりが大曲だが、3180mからの下山ともなると温度が上昇し、汗ダラダラとなってくる。太陽の光線がきつくなって、木陰が欲しいと思って進み樹林帯の中に入ったが、風が無くなって熱い。
 赤沢岳の下まで下り、道が水平になってきた。ババ平といって石垣のある小屋跡につく。昔の槍沢小屋の跡である。河原はキャンプサイトであり、パイプで水が引かれている。何回も顔を洗った。汚れが落ち気持ちが引き締まり人間らしくなってくる。槍沢の本流の水は絶対飲んではいけない。(腹痛したければ飲め。)
 ここまで下ってきて槍沢は、登山道からが見えないが、瀬の音が気持ちよく聞こえる。ババ平と槍沢ロッジの中間に赤沢岩小屋があるが、今回は見落としてしまった。
 赤沢山からの赤い岩壁が見えなくなり、太いカラ松の林の中に槍沢ロッジの屋根が見えて来た。ロッジには、登山者のにぎわいがすごかった。風呂のあるロッジに泊まりたかったが、1330には「満室」であるとの、つれない返事。
 槍沢ロッジから電話を掛ける。横尾山荘・徳沢園・徳沢ロッジも満室。電話する都度断わられる。いらいらするが、予約もなしにそんなに簡単に、上高地の観光地に泊まれるはずがない。まして今は夏休み・盆の最中である。
 ようやく明神にある「よしき屋」で宿泊できることになった。
 槍沢ロッジから横尾、徳沢、明神まで飛ぶように歩いた。本当に飛ぶように歩いた。何故なら槍沢ロッジから下の各小屋・ホテル等は満室であり探し当てた旅館「よしき屋」は、キャンセルが出たばかりであり、2時間後までに着いて欲しいとのことであった。
 横尾山荘の前で、ザックを降ろし、屏風の岩を遠くから眺め、息子に父が青春時代に登った、巨大な岩壁の思い出話をする。前穂高の東壁を歩きながら眺める。青春時代の凍った右岩稜・古川ルートと前穂Aフェース。
 途中の、徳沢園の橋の上で、信州大学の山乞食の「食料調達箱」があり「不用な食料をこの箱に入れて下さい」と書かれていた。息子と「山渓の本のとおりだ」と確認し、徳沢園で小休止を取るまもなく先を急ぎ、思い出の徳沢ロッジは、道から確認するだけで歩き続けた。
 普段なら槍沢ロッジから明神のコース4時間を2時間とは−−−。休憩も含めて、2時間40分で走破した。苦労して探し、飛ぶように歩いた「よしき屋」の一夜は、入浴(5日ぶり)、個室(5日ぶり)、食事と人間らしい大変楽しい一夜となり随分と飲んでしまった(ビール3本、酒2合)
 夜は、夫婦で明神の吊橋を渡り穂高神社奥宮の明神池(夫婦で16年ぶり)に行った。明神池には無料で入れた。
8月13日   よしき屋0740→0800明神池0830→0930河童橋1030→バス停1040→ 1140新島々1146 松本発1411「らいちょう」
 よしき屋の朝は山の上の習慣からか、0400頃に眼が覚めてしまった。
 宿屋の前を数パーティが登り下って行く。この時間帯に行動とは、どこから登ってきて、と考えている内にまた睡魔におそわれて行く。0630起床し、髭をそり落とす。
 よしき屋を出発し明神池の穂高神宮奥宮に参拝に行く。明神池は、穂高神宮奥宮の御神体明神岳を借景に静かに影を写し出す、上高地の神秘と太古の昔を忍ばす人気の池である。
 明神池から河童橋への道は、岳沢側に付けられた遊歩道を進む。板で作られた道は歩きにくい。土の中に付けられた道が懐かしく、20年前の思い出に浸り歩き続け、川向こうに小梨平のキャンプ地を横に見ると喧噪の河童橋に着いた。
 白樺荘において妻と息子は、お土産の買い物に頭を捻って居る間に河童橋周辺の散策をする。河童橋から奥穂高・前穂高の吊り尾根と岳沢の緑をカメラに収め、五千尺旅館を出て、バスターミナルに向かった。