昭和40年代の事務機器からパソコンへ

 和50年代に帯広に転勤し、最初に配置されたのが給与一括計算係だった。
色々な部署の方の給与を計算する係で、算盤をやったことがない私がいきなり350名の給与支払い担当となり、本俸・特殊勤務手当等の各種手当(扶養・住居・通勤)の支払いの資料、控除(保険、物資購入、年金などの掛け金)等の資料を個人の給与簿に反映させ、給与簿と明細書に印字させるのが「ナショナル会計機」であった。会計機は20名分の明細を作成する。
打ち上がった明細書などが各種資料を合致しているか、各控除依頼先に控除金を返すための資料、金種区分等を作成し、年度の税金の支払い(年末調整)、他の計算係との交差点検、他の事業所との交差点検で年度業務が終了し、翌1月の業務が始まる。
算盤で3桁金額を20名分、足していくとやる毎に数字が違い合わない。そして算盤の計算が遅いので「そろそろ盤」と陰口(時には直接)言われた。
困った私は妻に相談すると、電卓を出してきた。電卓はその当時5千円(社員価格)くらいで、新入社員の妻の給料の半分近くだったようだ。なぜ妻が持っていたのか。
妻が結婚前に、立石電気(現在のオムロン)社の事務員だった関係で、オムロンの電卓8桁(オムロン8)を持っていたので、それを借りて算盤を捨てた。電卓を使用し始めてから10名いた要員の中で、半年で三番目くらいに資料を出し支払いの準備を完了させるまでになっていた。
電卓を使用せず確実に処理していくには、点検につぐ点検しかないことを悟り、出来る限りミスを出さないように、そして電卓による最終点検である。
新社員の妻の給料から8千円近くした電卓は、高価で大変な買い物だっただろう。その電卓は単純な計算「+、−、×、÷、%」と、いたってシンプルな物だが、シンプルだからこそ私が使用できたのです。
現場を走り回っていた私が、会計業務に従事できたのはオムロンの電卓であり、給与計算係から定年まで事務職として働くがなかっただろうし、今こうしてノホホンと生きていないだろう。オムロン娘と結婚してよかったと感謝している。
この時のナショナル会計機(事務机位の大きさで)は、20名分の給与明細書を作成することが出来た。氏名はカタカナ入力で、給与等級等以外は縦横の計算をして支給総額、支払額、手取り額等を印字し個人の給与簿に印字、20名分の支払い項目等の合計も印字出来た。
会計機が打ち上げた明細書を点検し、その職場ごとの科目金額等の合計は電卓の出番となり、長期短期金額確認は本俸に利率を入れると、確認できるので電卓の有効性が示される。
ナショナル会計機からパソコンの給与計算に変わった時に計算要員から、総務課員に配置換えになった。1台しかないパソコンに情報を入力するのが大変だった。
3500名位の情報は氏名、役職、等級、家族構成、通勤、特殊手当等々の情報を4名の者が交代で入力した。私は350名の支払い準備と、その入力の為昼から退社し、夜2時頃に出勤しそのまま翌日通常勤務していた。
今のような労働環境を重視している時なら、労働基準局が査察に来られたらアウトだろう。そうしてパソコンが軌道に乗った時に配置換えになった。
しかし、その当時の苦労がパソコン社会の現在に活きていて、ワードとエクセルの2級も取れた。そして簿記の2級を取ることが出来た。ワードは当初ひらがな入力(20年近く)をローマ字入力に切り替えて受験したが、練習段階の面倒や指導をしてくれたのが松村さん(女性)で凄い人だった。
歌を聴きながら、その歌詞を漢字変換して見せてくれた。聞くと10分間に700文字以上の完全な文書が出来ると言っていた。私はやっと200文字くらいになりワードの3級が取れて、2年後にやっと2級に受かった。エクセルは、マルチプランを使っていたため、関数が少し判っていたのでエクセルに変わっても苦労はしていない。
そんな時代に色々な事務機器に出会った。
 出雲で現場勤務しているとき、依頼されて湿式の複写機(コピー機。青焼きと呼んでいた)で資料作成をした時が初めての、事務機器との出会いであった。複写機は蛍光灯の光を利用し、黄色い感光紙を変色させ、薬剤の液の中を感光紙が通過する際に定着させ紫色に文字を浮かび上がらせる、日光写真のようなものだが、高価で130名程の職場には置いてなかった。

 妻の叔父さんが池田町に開拓農家として入植していた。
妻と交際した年に、転勤の話が出たがもう1年猶予をもらった。結婚したので転勤の話が再燃した。新婚4か月目の妻の事を考えて、親類の居る帯広の地を選んだ。
妻の従兄弟には随分と面倒を見て頂いた。私の住んでいる所から3km程の所に従兄弟が暮らしていて、帯広の支店長であった。最終的には東北支社長や北海道支社長まで登り退職し、札幌に奥様と二人暮らし。長女はタイにご主人と赴任し王女様のような生活。長男は海外の大使館勤務である。
さて私が、総務課に配置換えになった当時、総務課にタイピスト8名位が邦文のタイプライターを駆使し文書の浄書をやっていた。タイピストにお願いするときは、浄書依頼書なるものを提出し許可権者の許可印を受けなければいけなかった。
 ようするにこの文書はタイプで打つほどの重要な文書かどうかを考えて出さないと、タイプしてもらえない。
 タイピストの抱えている仕事が終わらないと、次の仕事が出来ないので、リードタイムを持って依頼することになる。緊急かつ重要な文書は、別にしてタイプ(浄書)依頼予定表なるものを1か月前に提出する。
 タイプが終了したら、タイプ原紙を持ち帰り依頼した文書との読み合わせを実施し、OKなら、印刷依頼書の記載・提出となる。読み合わせで数文字の脱落や誤字ならタイピストがピッチを替えて挿入・削除してくれる。数行の挿入となると、最初から打ち直しとなる。
ところが起案した者がミスをして、文書を替えたり必要な事項を盛り込まなくて依頼し、タイプが終了した場合はタイピストからお目玉を食らう。
 数行の挿入となると、最初から打ち直しとなりタイピストの苦労も大変なものだから、なおさらベテランが幅を利かせだす。ベテランと良い人間関係が出来ると、持ち込んだときに「やっといてあげるよ・・」の声がした時は、救われたと感じる。
 タイピストのお局様のご機嫌を取っておかないと、仕事の捗りが随分と違うため、若者の私などは小さくなって依頼に行ったものだ。
定型の書類のように書式の決まった書類は、様式のみ謄写版のように印刷できる紙にタイプ(タイプ原紙)してもらい、数年分を上質紙に印刷・保管し、手書きで記入、青焼き(感光紙の複写機)し、提出していた。
 時代は溯り昭和30年代に溯る。中学、高校の頃の教科書以外の印刷物は、先生の手書きによるわら半紙(更紙)の資料やテスト用紙は、ガリ版印刷だった。
 中学の悪ガキが、テスト前になると印刷ミスや謄写版にセットされた原紙から、テストの印刷物をかすめて、小遣い稼ぎをしていた。職員室の清掃でゴミ箱に残っていた紙を焼却場に運ぶ際にくすねたものだ。

 昭和40年代に就職し配置された職場の文書の作成は、起案は勿論手書きだが、決裁が下りて複数枚作成する場合は、ガリ版印刷となる。
 ガリ版印刷の正式名称は、謄写版印刷である。
 謄写印刷の原型は、エジソンが開発(1893年)した「ミニオグラフ」を、日本に会うように改良し、堀井謄写版として発明。明治27年1月(1894年)に完成し、20世紀全体を通して日本で多く使われた。
肌理の細かいヤスリ状の鉄板(10cm×40cm)の上にロウ引きの特殊な原紙(薄葉紙にパラッフィン等を塗り乾燥させたもの)を乗せ、針の先の様な鉄筆で文字や線を原紙のロウを削り(傷を付けるように)ガリガリ書くことから、ガリ版印刷といっていた。
ヤスリの鉄板には両面が使用でき、縦横書きと斜め書きとに区別して記載しないと、鉄筆が自在に動かない。
筆耕者がベテランだと、4mmのマス目で文字が書けるが、私は6mmでも難しかった。フォントは、特殊でマス目一杯になるように、字画(線)を離し出来る限り直線的に書く。
書き間違いは補修用の液(薄い溶液)を塗って傷(穴、線)の乾くのをまって再度記入するが、原紙が破れるため細心な注意で書かないといけない。
電気のない所でも印刷できるので便利な物だった。
完成した原紙を網の下にセットし、ゴムのローラーに付けたインクをガリ版の原紙の傷に浸透させて紙に転写する。ゴムローラに均一の力を加えないと、捩れ十数枚で使用できないようになる。その際はもう一度ゆっくりと剥がして使用する。
ベテランになると数百枚は擦れる。インクは速乾性であり、印刷した用紙は更紙でインクの浸透は良いが、上質紙は乾燥に時間がかかる。
 手書きの時代は、文字の綺麗な奴ほど上司に重宝された。文字の下手糞な私は、お偉い上司には通用しなかった。ある時「お前の汚い字ではなぁ---」と、小言が落ち、それからは浄書の仕事は回って来なくなり、冷遇されたが悪筆の仲間とは、涙しつつ仕事が減って喜びあった。
 官公庁に提出する書類がタイプでないと受け付けられない部署に勤務していた時に和文タイプを使用した。それまでの邦文タイプは2千文字くらいの文字が逆文字で植えられていて、力を加減しながらパンと原紙に打ち込んでいたのが、和文タイプは、アイウエオ順に並んでいてその印字する鉛の文字順に文字の画像があり比較的容易に探し、印字することが出来た。
 私は1か月ほどで和文タイプを打てるようになり、5か月後にはまた別の部署に異動になった。そこは年間の業務の計画しその成果を検証する部門で、4名で実施していた。でも150名程の部門の計画だから、上層部からの指示で作成し報告する部署だった。
ガリ版の後にボールペン原紙なるものが出回ってきた。ボールペン原紙はヤスリ状鉄板の代わりに硬いもの(下敷き)の上にロウ引きの原紙をおき、ボールペンで書いていく。
ボールペン原紙はガリ版より大きな文字で書くようになったが、原紙と下敷き、印刷用の資材があれば軽易に印刷できた。ガリ版もボールペン原紙も謄写版(インクローラを使い)印刷した。謄写版の次が謄写輪転機で、手動式であったが印刷速度は飛躍的に上昇した。

 事務員のガリ版などへの手書き、タイプの時代も終焉の時代がやってきた。
私の職場の隣の部署に殿迫君という輩(大先生)いて、パソコンなる物をやっていた。何やら小さな画面に向かって、こそこそとやっていた。それがパソコンとは気が付かなかった。
 数年たって殿迫先生と話し合うようになり、パソコンとは何ぞや、何が出来るのか、将来どうなるかと教えてもらった。マルチプランというソフトを使うと表計算が出来る。電卓を叩くようにキーボードを叩くと縦横の計算を瞬時に出来、転記する必要もない。印字も出来るということだった。(その後エクセルに)
 当時の殿迫先生は、8ビット機で漢字表示できなかったが、16ビット機になって漢字で表示でき格段と操作性が向上した。
マルチプランは最大縦256行(マス)×横64桁(マス)の各マス目に数字を入力すると、縦横の合計、平均点、最高点等を返してくれる。(その後、メモリーの上限までマス目を増やせた)
その当時の記憶装置は8インチのフロッピーで、マルチプラン等は漢字変換が出来なくカタカナであった。
マルチプランに続いて、ロータス1-2-3が発売されたが、私は使い慣れた前者を使い続けた。
 そんな殿迫先生の姿に感化され、私は50年代後半にワープロを購入した。
 15万円で、ディスプレーは2行12文字もの表示が可能で、「美しい日本」と連文節変換が可能とのふれこみで購入したが、「消耗品」は「消耗」「品」。「大都会では」は「大」「都会」「では」と分割入力で特殊(?)な言葉は入力不可能であり、一文字一文字の連続入力不変換方式という単純不明快な機器であった。
 印刷だけは丁寧でA4の罫線入りは、30分もかかって黒テープで印字してくれた。罫線はテープの使用量が大で、文字だけ入力し後で手書きしたほうが良い。しかし、入力する時に間隔を考える必要があり、複雑だった。感熱紙が出回り少しは楽になったが、印刷は丁寧にしてくれてイライラさせてくれた。
 本体に保存できる文書は、一文書のみであり、レコーダーといってラジカセのような物を使って音楽テープに保存した。手帳にカウンター50〜72まで「購入依頼書」。80〜95は「予算書」と記録しておかないと文書が出せなくなる。出力は、カウンターを「49」に合わせ「購入依頼書」を本体に取出していた。
 1960年になって、わが事務室にもパソコンが導入された。
 導入前に一悶着あった。新部長が自分の移動する際に、上層部に掛け合い、予算を付けて赴任してきたが、着任前にパソコンの予算が流用され亡くなっていた。新部長は激怒するが使用した上司は知らん顔をするし、購入する予算は無いため数か月遅れて購入された。
 パソコンが導入されて3日目に本部からの視察があり、その報告を手掛けたのが私だった。複雑怪奇なワープロのお蔭で意外とスラスラと完成させた。その当時の報告は文書のみの簡単なものであった。
 使用したソフトは、「テラ」であった。
 当時、パソコン一式の値段が約百万円であり、フロッピーは5インチで1枚2500円位した。フロッピー1箱(10枚)を誰かが購入すると、1枚ずつの小分けで販売していた。
62年になって福田さん(9801VX)そして私(エプソン286)がパソコンを購入した。会社用の機材を含め4台となった。もちろん先生は殿迫さんであった。ソフトは「テラ」が職場の統一ソフトとなった。
セイコーエプソンはNEC98互換機としての標準機「PC-286V-STD」が発売され、先生の指導でこれを選んだ。安価で早くなった機器だった。286はその後3.5インチFDD2基と5インチFDDを搭載したPC-486GRを購入した。
60年に福田さんがこれまで手書きだった翌年の業務計画を全てパソコン入力した。しばらくして「テラV世」に移行し、パソコンが増えると次第に「一太郎」が主流となり「テラV世」ユーザーは隠れキリシタンとなった。 
一太郎がバージョンアップされると、二太郎と呼ばれ―――5太郎と進化していった。初めソフトがFDD1枚に収納されていたが、HDDでないと起動しなくなってきた。
そこで20メガのHDDを購入した。HDDを購入した時は、一太郎やマルチプラン等のソフトが入り、これで半永久で使用できると思っていたが、直ぐに40メガのHDDを購入した。
今やHDDはギガからテラの時代になった。当初メガ(大きい)、ギガ(巨人)、テラ(怪物)、ペタ、エクサとなって行くだろう。となれば、ワードや一太郎の時代が終了し「テラ」や「テラV世」が復活するかも。
小さなHDDを購入した時に、CONFIG.SYSやAUTOEXEC.BATを勉強し始めた。
でも、本を片手に少しかじっただけで終わった。で、結局殿迫先生に依存する結果になった。そうして、私も少しずつ進化してパソコンの先生の様になったが、理論が判らずの「井戸の中の先生(蛙)」でしかなかった。しかし、現在はパソコンを購入しHDDを購入し接続すれば、知識が無くても誰でも簡便に使用することが出来る。
私がパソコンを購入した翌年にクロカンの競技会(600名参加)が実施され、記録の集計をパソコンで実施し、競技会終了後2時間後には表彰式が実施できた。これまでは徹夜で集計、翌日表彰式が当たり前であったが、この成果は、殿迫先生のお陰である。
 この大会が計画された時は、私は企画・統制班の勤務だったが、選手名簿が出されると、ゼッケン、選手名、年齢、男女等のデーターを入力しその数式を入力して、採点班に配置換えを希望した。
こうして採点班に勤務できると、採点班の要員の教育を実施した。彼らには、電卓・算盤を携行させたが、ほとんどの者が出来ず不安な表情だった。その頃の競技ではゴールの係と採点班(集計・順位付け)が一番嫌われていた。
パソコンで実施すると聞いても理解されないし、全員が不安でガチガチだったようだ。しかし、パソコンで処理していくと安心して、活き活きと働き始めた。
各人のマルチプランを駆使した。競技は30分毎に60名位走らせ、そのゴール結果を現場から取り寄せ、ゼッケン番号の読み上げとタイムの読み上げ、私が入力しそれを隣の人が入力ミスを点検する。
出力したプリントを持って、掲示係が大きなボードに結果を記載していくと、走り終わって15分後には本人の結果、Gpの合計等が次々に発表されるから、応援団、選手が採点班の処理要領を見学に来て、窓には数十名の顔が並んでいる。
 入力したデータをフロッピーディスク(FD)にコピーし、最終走者がゴールした数分後には全入力が終了し、並び替えを実施する。全選手の1位〜、年代に応じて(50代の1位)等、数組の表彰区分に応じて、女性の1位〜等を次々と並び替えてプリントすると、隣では数名の人が表彰状を手書きし、ドライヤーやストーブで表彰状を乾かしている。
 表彰式の時には、団体・個人表彰の記録及び参加選手全員の記録が発表出来た。
 参加した団体から、個人や団体の記録が欲しいとの要望がありプリント配布した。
 この頃、電話回線を利用したパソコン通信を普及させようとしたが、完全に無視をされやっていたのは、先生と小生だけであった。現在ではパソコン通信は当たり前だが、当時は説明しても理解してもらえない。入力したデーターは転記しなくても活用できるのに。
 平成になって職場にもパソコンが少しずつ入り、個人でも購入する者が増加した。
 表計算で年度の集計とか各使用実績を作成したりと、パソコンの強みを発揮出来る部分を開拓し、随分と業務を簡素化できた。
 1999年5月パソコンの自作機を作成しようと部品等を購入し6月に完成した。完成したときは音が出ていたが、自作機の設定が悪く数ヶ月も音が出なくなり、殿迫先生に原因を解明して頂き、音がでるようになった。じご自作機はやめてしまった。
 試行錯誤しながらついにインターネットを開始し、2000年の正月休暇間にホームページを開設しようとしたが、試行錯誤のため随分と遅れ、2000年2月29日に全世界に向けて、日本語のホームページを発行した。ネット用にターミナルアダプターを購入しINS64に加入した。
 当初プロバイダーをアーバンにしていたが、現在のMEGA EGGで継続中です。
 2月29日をもって(日本語で)全世界に発表した。

ナショナル会計機の画像を探しています。皆さん 宜しくお願いします。