1973年(48年)1月12日の金曜日だったと思う。
その頃の俺は週末になるとたった一人で大山の元谷小屋に一人で上がり天狗の間にて酒を飲んでいた。
たった一人で寒くないのか怖くないのかと思われるかもしれないが、寒いことは寒い。怖いのは怖い。
寒いのは、元谷小屋が完全に凍りつき壁や窓が完全に凍みている。ライトを当てるとキラキラ光りダイヤモンドン中に居るみたいだ。
怖いのは、深夜に広島の連中が突然やってきて、ギーィと扉を開け俺の顔にライトの光を当てる。広島の連中は深夜24時過ぎか明け方の3時ごろにやってくる。
俺はだいたい22時ごろには寝袋に包まる。
米子か大山寺で一升瓶かウイスキー、ブランデーを担いで上がりチビチビと飲んで友人が上がってくるのを待っていた。その頃の俺は週末を大山で過ごしていた。
映画を見たりパチンコに行くことはなかった。
山陰の町で酒を飲むのは月に2・3回だ。ほとんど元谷小屋で寝転がっていた。今のように携帯もなければ電話も無い時代だから、連絡の取りようがない。
会の仲間は山から離れたりしていた。
ある娘に恋をして週末に大山に上がってきて欲しいと頼んだことがあった。
凍てつく大山の元谷小屋にだ。普通そんなところに一人で上がって来いとは言わないだろう。でもその娘は山をやっていたんで、そう申し込んだ。だがその恋に破れた。
この恋の事を知っているのは、妻だけだ。山の仲間には話はしたことがない。その娘が誰かに話して、相談していたら別だが。
そんなことで、厳冬期の終末の夜に一人で大山に入り、知り合いでも居たら、沢か屏風岩で遊んでみたいと思っていた。
12日の金曜日は小雪がチラつき若干の新雪があった程度だった。
最終のバスで大山寺に上がると、現代のようにゲレンデに照明設備は無い時代だから、食堂は閉りスキー客が数名歩いているだけだった。
大神山神社までは綺麗なトレースがあり、夏時間と変わらないで歩けた。
神社で、上下ともダブルのヤッケにロングスパッツを着込み、下山神社横からスキー場への道を歩いて治山道路に出た。道路が歩きやすいかなと考えたからだ。
下宝珠への分岐までのラッセルをさけて道路にしたのはよかった。路肩には固い雪があり、アイゼンで歩行する。
分岐を通過し道が大きく右に曲がると前面がパッと開け、そこは雪明りで幽玄の世界が広がっている。まるで薄墨で描かれた水墨画の様だ。
1月13日
凍てついた誰もいない元谷の小屋で朝を迎えた。
一人で中宝珠越からユートピアに登り主稜線を縦走し弥山にと思い立ち、5時に小屋をでた。
雪明かりとヘッドライトの中で小屋の直ぐそばから尾根に上がる道へと沢の中に入り、直ぐに壁状の登山道を進むと、急峻でまるで登攀をしているようだ。(この道は廃道になった)
天候は高曇りだが視界はそこそこあり、新雪はあっても、アイゼンの爪が効き、ピッケルとバイルが威力を発揮して稜線にでた。
上宝珠越からユートピアまでは新雪があってもラッセルの跡がわずかに残りスムースに通過し、ユートピアの小屋で遅い朝食をとる。
小屋から天狗の頭までの稜線はラッセルを強いられた。登山道は崩壊により、溝状で雪が詰まり急峻なため悪戦苦闘だった。
天狗の頭を通過し、剣ヶ峰で5人パーティの登山者とすれ違う。彼らがラッセルした稜線を進むため、エールを交換した。 「一人ですか、大変だったしょう。」
これまでは雪庇に注意していたが、トレースのある稜線は夏山気分で進む。頂上の印が20センチほど出ていた。頂上の小屋は一部を残して雪に覆われている。
小屋の中には屋根に突き出た煙突から入る。煙突状の垂直の梯子(?)を降りて、土間に降り立ったが、真っ暗で何も見えない。ライトの光が見え人の気配がした。
ヘッドライトを取り出し、コンロで雪を溶かし紅茶をつくる。ブランデーを入れて一度沸騰させる。ブランデーの香りがして美味しい。アンパンを食べると人心地した。
数名の登山者が楽しそうに話あっていて、頂上に行ってから下山すると今日中に帰れそうだと言っている。
「お先に」と言って煙突からはい出ると、頂上台地を歩き北端の草鳴社ケルンを通過して、七合沢の上部から沢に入ろうとしたが、急峻で入れない。
100m程下った地点から入ることにする。ここから下ると元谷の小屋まで真っ直ぐに下ることができるため、何回か下っている。
植はここをスキーで何回も滑っている。「あいつはスキーが上手いからなー」とぶつくさ言いながら、アイゼンの下に輪カンを装着し七合沢に入った。
新雪が十数センチあり、沢の上部は新雪の下の雪面にアイゼンの爪が雪面にくい込んで心地よい。
沢の上部は急峻だが数十メートル下ると真っ直ぐに下降できる。そこまで斜面を横切り何回かジグザグに下って行く。
沢の真ん中は10センチ以上の積雪量だ。もう一度向こうまで下り気味にトラバースして帰った方が真っ直ぐに沢を下れると思い一歩踏み出した。
とその時、ピュッかビシッと腹に沁みこむような不気味な音がして、足の先から雪面がひび割れして、向こうの小さな尾根に向かって走る。
ひび割れの幅は数センチだが深く切り込んでいる。足元の雪がザワザワと揺れだした。
とっさに雪崩だと思い、ピッケルを深く刺し込んで、頭の中は真っ白で「やってしまった」とだけになった。
割れ目から雪面が音もなく動き出し、沢の斜面全体が動き出した。ザーッと風の音がしたと思うと、沢いっぱいの雪が雪煙をあげて流れ滑落していった。
俺の身体は下の雪面にアイゼンがくい込み、ピッケルのお陰で止まっている。
体が震え足はガタガタで数分間は、そのままの姿勢でいた。夏道を下る登山者が大声で
「大丈夫かー、他の者はー…」と叫んでいた。
「俺だけ、大丈夫」
と答えた、やっと動き出そうと身体を夏道の方に向きを変えた。割れ目から上の雪はそのまま残っていた。
表層雪崩だ。雪崩は大きなものでなく、沢の途中で止まっているようだ。瞬時のことで「割れ目・・・風・・・動いた・・・」だけが、頭の中に残っていた。
慎重に雪の斜面を引き返し、ブッシュを掴み夏道に帰った。
俺の上の雪は動かなかった。もし動いていたら・・・
登山者から「顔色が悪い、血の気がなく青白いよ、これでも飲んで」とテルモスからお茶をだしてくれた。登山者は頂上の小屋にいた3人組であった。
夏道に引き返して、確かに誰も沢に居なかった。沢全体が見えていたよな。俺だけだった。と、反芻した。
恐ろしい雪崩を引き起こし、夏道の尾根を下っていても、気持ちは沈んでいた。
6合の小屋まで一緒に下ってくれた。岡山の人たちだった。
6号下から行者谷への登山道を下り薄暗くなった元谷小屋にくたくたになって帰り着いた。
天狗の間にて、夕飯を準備し昨夜の残ったお酒をチビリチビリとやりながら、蝋燭の明かりで手帳に今日の出来事を書き綴った。
大山の北壁を登るとき、チリ雪崩は何回も経験したが、本格的な雪崩に巻き込まれたのは初めてだった。
雪庇が崩れブロック雪崩を見た。遠くで雪崩を見たことはあっても傍観者だった。
雪崩に巻き込まれたのはその1回だけでした。デブリの上は何回もあるいたし、1m近いスノーボールが転がっている斜面も歩いたが、巻き込まれたのは最初で最後です。
新雪の中をスキーで滑ったことはあるが、その時も雪崩れてはいなかった。
伏見の千ちゃんと天狗沢を登ろうとした時は、元谷小屋の周辺で新雪が30センチ以上あった。千ちゃんの判断で中止したが、今回は10数aで発生している。
沢を下ろうとせず、登山道を歩いて下ればいいものを沢に入ったたばっかりに。
蝋燭の明かりは、とても明るいのです。
なぜなら、小屋に残されている蝋燭。そうです三鈷の間、天狗の間、土間等に残っている1センチ位から10センチ以上まで残されている物を集めて回りそれを全て点灯させるんです。
厳冬期の小屋の中は、壁や天井、床まで凍り付いて綺麗な世界です。
その中で沢山の蝋燭を燃やすと暖かくて明るい。
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