大山寺と大山スキー場について 

  洞明院第10代大館禅雄氏が父から聞いた話が、本やネットで紹介されています。
 「伯耆ふるさと伝承プロジェクト」の中から、「大山寺」と「大山でのスキー」の歴史を紹介していきます。
 また、松田美代子さんの作「わがこころの山」が「大山讃歌」として大山国体で歌われたお話を紹介します。
 大山道の参詣者の道しるべ“並木松
 昭和43年職場のスキーの会でスキーを覚えた。
 その後出雲山岳会に入会し、大山の北壁の扇の要に元谷小屋があり、その元谷小屋に冬季でも単独で入った。
 天候の安定した時は、一人で宝珠尾根天狗、剣ヶ峰そして頂上までラッセルしながら歩いたり、行者から頂上や天狗沢を登っていた。
 天候の不安な時は、小屋からスキーを履いて中の原スキー場に下り、一日中滑って、夕方一人で小屋に帰っていた。
 車を持っていないので、出雲から大山に移動するには、山陰本線で米子駅に行き、米子駅前からバスに乗って大山に向った。
 バスは大山観光道路(有料道路)の中ほどでチェーンを装着し、巨木の松並木の中を一直線に登って行く。積雪の状況でチェーンの着ける場所が変わる。停車すると、数人の男がバスを取り囲み、手際よくチェーンを装着し、男たちの完了の合図でバスは動き出す。
 太さが1m以上もある巨木の松が、雪の重みで車道に覆い被さっていたのがとても印象的だった。
 この松を植えさせたのが「豪円僧正」で、大山寺中興の祖と云われ、実在した大山寺の僧侶の中で一番有名な人である。
 江戸時代の約300 年の間が大山寺の最も輝いた時代で、そのよき時代の基礎を作り上げたのが、この豪円僧正である。豪円僧正は、徳川家康とも親交があり、その人脈を活かした交渉術と持ち前の実行力で多くの寺院を再興させた。
 廃仏毀釈の大山寺
 江戸時代には寺領が認められ裕福だった大山寺も、明治となり廃仏毀釈が進み、檀家を持たなかった大山寺の寺坊にとって大山寺号廃絶は、想像を絶するダメージがあった。
 経済的に追い込まれ、大山を離れていく僧侶も多かった。寺男たちが雪室でつくった大山氷を売り歩いて生活の糧にしたともいわれている。
 洞明院第10代大館禅雄氏がお父様から聞いた話で、馬に負われて多くの仏像やお経が大山から持ち出された。宝物もそうであるが、古文書もなくなっている。
 寺坊を離れる僧たちも多くの寺坊が朽ち果てていった。
 大館氏は「自分の寺を守るのが精一杯で、朽ちていく他の寺のことを面倒見る暇はなかった。多くのお寺は器物を売って食いつないでいたのではないだろうか。」と、書いておられた。
 大山寺の集落から大神山神社への参道、夏道登山道等の周辺を散策されると、石垣で囲まれた住居跡(寺坊跡)が多くみられる。
 平安末期から室町時代までには160坊があったと言われ、僧兵3000人を擁する一大勢力であった。江戸時代には46坊3000石の寺領があった。
 明治36 年(1903 年)10 月ようやく大山寺号の復活が許された。11 ヶ院を持って大山寺とし、 中門院谷の大日堂を大山寺本堂とした。
 江戸時代まで大山山内は、女人禁制であり僧侶は婚姻ができなかった。
 各寺坊も血縁による世襲ではなく、弟子を育てて後継者とすることで寺坊が引き継がれていった。
 参道の鳥居から先は女性が入ることはできなかった。しかし、各寺の離れに面会所があり、小僧さんとお母さんとの面会が許された。
 実際に大館氏の洞明院も第8 代の「禅空(大正11 年8 月没)」までは血縁関係はなく、その後は血縁により引き継がれているそうだ。
 大山寺のくらし
 昭和2 年、大館氏は大山寺洞明院の住職の次男として生まれた。
 子どものころから大山寺に暮らしており、戦前からの大山寺の様子を良く知る一人である。
 戦前の寺坊の生活は厳しく、営林署から炭を焼く許可をもらい炭焼きをして生計の足しにしていた。
 中ノ原から豪円山にかけて雑木林であった。
 豪円山の下に炭焼き小屋があり、近くの雑木を切っては炭にして、米子などに売りに行った。炭焼きのため木がなくなったところでスキーをしていた。
 冬の大山寺集落での生活には、スキーは欠かせなかったという。
 大館さんは、子どもの頃からスキーは好きだった。
 学校に上がるまでにスキーが出来ないと、学校に行ってから遊んでもらえなかったので、みんな必死に練習したそうだ。
 大館さんの洞明院の近くにある、圓流院に祝原さんというお爺さんがいて教えてもらった。
 木のスキーを買ってもらったが、すぐ壊れるので直しながら使っていた。
 その日のうちに直しておかないと次に日に、学校にも行けなかった。
 雪の深い大山では、冬になると地域の人が当番で道をあけた。
 地区毎に除雪の担当が決まっており、大館さんの地区は南光河原の担当であり、大変な作業であったがみんなが協力して作業していた。
 もちろん学校にもスキーで通っていた。というよりもスキーでしか行けなかったと語る。
 洞明院から雪深い急斜面の道を横切り、南光河原に下り大山寺の集落に入り、分校(現在の観光センター上)までスキーを履いて通っていた。
 小さい子どもには大変な道のりであった。
 小学校の冬の体育の時間は、1年生から6 年生まで全てスキーであった。
 もちろん体育館などない時代、目の前にあった博労座のゲレンデが運動場となった。学校が終わってからの遊びも全てスキーであった。
スキーが支えた戦後の大山
 昭和22〜24 年頃から大山にスキー客が増え始めた。
 岡山、広島などから大学生がたくさんつめかけた。溝口の駅から歩いて大山にあがってきて、帰りは滑って降りていた。
 大山寺まで木炭バスが登り始めたのは、昭和26〜27 年のことであった。
 しかし、真冬の1月〜2月は雪が多く赤松までしかあがらなかった。雪が少なくなる3月になると大山寺の住民総出で雪かきをしたものであった。
 まだ舗装されていない旧道を赤松から博労座までの道をあける。各家からスコップを持ってみんなが手伝った。
 人が来ればお金になるのでみんな一生懸命であった。
 戦後はスキー客が大山を支えてくれた。
 雪が降れば、一年分の収入が入ってきた。小学生達も学校になんか行かなくても良いから雪かきをしなさいと言われていたという。
 最初は列車のお客様が多かったが、便利が悪くバスに変わっていった。
 当時、西鉄バスが九州各地からスキー客を運んできてくれた。バスの運転手達は自分たちが大山のスキー場を支えているのだという自負を持っていた。
 バスが立ち往生したときでも、少しでも苦情を言うと「我々のお陰でお客様が来ているのだ、バスを直せ」と反対に叱られたという。
 昭和 30〜40 年代にかけてどんどんお客さんがきた。夜行列車福山号、銀嶺号などが運行しており、九州や岡山や広島などからお客様を運んできた。
 夜行列車は、朝早く米子駅に着く。バスで大山にあがると博労座に到着するのが朝5 時頃になる。まだ真っ暗なので旅館の名前の付いた提灯を持って迎えに行った。
 町議会議員「大館氏」の三つの大仕事
 大館氏は、戦時中予科練習生として飛行機に乗っていたが、戦後まもなく大山に引き上げてきた。
 大山寺で青年団活動を続けていたが、町議会議員に担ぎ出され、初当選したのが昭和30 年11 月28 才の時であった。
 当選してみたら同僚議員はみんな父親と同世代の人ばかりで、大変困ったことを覚えているという。
 その時、大山寺の代表として立候補した時の公約が次の3つであった。
     道路舗装   上水道の整備   スキー場のリフト設置
 いずれも一筋縄ではいかないものばかりであった

 一期目の終わる昭和34 年頃、県道の舗装工事が始まった。大山は国立公園ということもありいち早く着工の運びとなった。
 それも大山寺の方から麓の方へと舗装するので、少し誇らしかったという。

 それまで大山寺の飲料水は、南光河原から直接土管で水を引いていた。
 そのため大水が出るといつも壊れた。また、落ち葉などが溜まり、土管が詰まることがしばしばあった。
 簡易水道が広まり始めた頃であり、いち早く取り組んだが、大山には水源がないので、地質学の先生に相談したがいい知恵がでてこなかった。
 そこで、金門の少し下の南光河原に大きな穴を開け、そこに溜まる水を水源とすることを思いついた。この方法がうまくいき大山寺初めての上水道となった。

 一番苦労したのは、スキー場のリフトであった。
 大山寺から選出されている議員は、もちろん一人。観光事業に関心のある議員は他に一人もいなかった。
 まして、まだあまり知られていなかったリフト等とんでもない話であった。
 親子ほど離れた先輩議員に話してみても取り合ってももらえなかった。
 議案の上程まではこぎ着けたものの賛成自分だけで、後全部反対で否決となった。その時は、さすがに辞任して帰ろうと思った。
 当時、田中義友町議会議長が自分に任せろと言われたので、その言葉に従うと、次の臨時議会に上程され議案が通過してしまった。初代の山根村長がやると決め議会が従ったのだ。

中ノ原スキー場の開発
 それから本当の苦労が始まった。
 信越のスキー場は何基かリフトがあったが、関西には神辺に木柱リフトがあっただけであった。業者の案内で箱根のゴンドラリフトや各地のスキー場を視察した。
 そして、本格的な着工を前に運転の責任者が必要となり、当時の渡辺産業課長と一緒に志賀高原で行われた技術講習会に参加したが、難しい技術的なことは全く分からなかった。
 リフトの位置をどこにするかも大きな問題であった
 当時、中ノ原スキー場のあった宝珠山は、戦時中に畑にしていた一部を除き一面雑木林であった。どこにリフトをつければいいのか皆目見当もつかない状況であった。
 そこで山崎瑛子さんの人脈から猪谷千春選手の父親である猪谷邦雄さんを招いた。
 猪谷氏は竹竿を二本用意させ、役場の職員がその竹竿を持ち、一本は山の上に持って上がり、もう一本は山の下に持って降り、二人に高い木の上に登らせた。
 猪谷さんは真ん中にいて、右に行け、左に行けと指示を出していった。
 こうやってリフトの乗り場と終点が決まったのであるが、リフトが着くまではなぜそこにつけたのか分からなかった。
 リフトが着いてみて初めて絶妙の位置に着いていることが分かった。
 このようにして昭和31 年中ノ原スキー場に大山で初めてのリフトがついた。
 ここから西日本のスキーのメッカといわれた大山のスキー場の歴史が始まることとなった。
 こうして大山寺にとって大きな意味を持つ3つの事業が完成し、昭和38 年大館さんは2 期8 年勤めた町議会議員を勇退した。
 その他のスキー場開発
 上ノ原スキー場は、中ノ原スキー場のオープンの3 年後にあたる昭和35 年にできた。
 当時、地元の金融機関に勤務していた木田達二氏によると、大山町が開発した中ノ原スキー場の東側の松林がその場所であった。
 佐摩の元村長谷村さんの協力により、計画は順調に進んだ。
 時期を同じくして豪円山でもスキー場の計画が進んでいたため、同時に運輸省へ申請を出し、同じ年にオープンした。
 木田さんは、仕事が終わると大山に手伝いに上がり、開業前のスキー場に入ったときのことを良く覚えているという。背の丈ぐらいの熊笹をかき分けて山に登っていった。
 一番高いところまで上がると眼下が見渡せた。もどるときも道なき道を迷いながら降りていったという。
 大山で国体を開催することが決まったが、会場がない。
 昭和 40 年頃 中ノ原と上ノ原スキー場のある宝珠山の東側の山を広島県三原の経営者が買収していた。その後、土地の権利を買い取っていた日本交通が国際スキー場の開発に乗り出した。
 国際スキー場は、昭和45 年大山国体の開催される2 年前にオープンしている。
 開発後の国際スキー場は、とにかく人であふれていた。
 初心者のゲレンデは、ゲレンデの3 分の1 の辺までリフト待ちの列がつながっており、1時間はリフトを待っていた。
 また、中級コースのパラダイスゲレンデは、リフト待ちの列が川床道に長くつながり、烏枢渋摩明王像の前を越えて続いていた。
 そのころは駐車場も少なく、仁王茶屋の駐車場の少し下から観光道路の路肩に駐車し、歩いて大山寺まで上がった。
 早く上がらないと良いところに車が止められないため、朝早くたたき起こされてスキーに行ったものである。少しでも大山寺に近い所まで上がりたい。
 昔は、帰りはスキー場からスキーを着けたまま道路や路肩を滑って車のところまで降りていた。
 悲願の大山国体
 昭和32 年にリフトが付き、近代的なスキー場への道を歩き始めた大山であるが、その頃の競争相手は兵庫県の神辺スキー場であった。
 客の数では負けていなかったが、神辺は昭和32 年、昭和40 年に2回の冬季国体の誘致に成功し、全国的な認知度を上げていた。
 冬季国体を開催すると、周辺の基盤の整備も同時に進むため、いつかは誘致しないと競争に負けてしまうという思いが大山にわき上がった。
 昭和47 年に大山スキー場の悲願であった、大山冬季国体の開催にこぎ着けた。
 長年全日本で選手として、そして当時は役員として活躍されていた、山崎瑛子さんの力が大きかったという。
 最初は国体なんかできると思っていなかった。
 草大会はやっているが、大きな大会は誰も経験がなかった。
 きちんとしたコースを作らなければならなかった、昭和45年国際スキー場が完成し、なんとかコースができあがった。
 大館氏は、当時アルペン部門の副委員長を勤めていたが、とにかく雪がなかったことを覚えている。
 雪を集めようと思っても集める雪がなかった。
 たまたま環状道路に雪があり、自衛隊の協力により運んでもらったが、平たく伸ばしてしまうとすぐ解けてしまうので、大きな山にしてスキー場に置いておいた。
 開会式の前日から雪が降り出し、ほっと胸をなで下ろしたのもつかの間、大変な問題が起きた。
 積んであった雪山が凍ってしまい、急いで大山農協から開墾用のクワを借りてきて、役員総出で山を崩したが、せっかく集めた雪も使わずに終わった。
 札幌オリンピックのすぐ後の開催であり、ジャンプで金メダルを取った笠谷選手などに注目が集まった。
 また、オリンピックに出場を果たした地元の大杖さんなどに期待がかかったが、大杖さんは振るわなかった。
 しかし、開会式で選手宣誓をした地元の椎木喜久男さんが、大回転壮年の部2 位、同じクラスに出場した宮本さんも8 位となった。
 これに続き大山スキー場では、平成5 年に冬季国体が開催された。
 現在、全国に冬季国体が開催できる都道府県は14 あるという。
 大山スキー場が、定期的に大きなイベントをやらないとお客様から忘れられてしまう。
 国体を開催すれば、大山のイメージアップにもなり、施設の整備も進む。
 選手の強化にもお金が掛けられ、選手たちにも目標を持たせることができるので是非とも誘致したい。
 名選手を生んだ大山
 大山は、昔から多くのスキー選手を生んでいる。
 兜山登、山崎瑛子ら三姉妹、そしてオリンピックにも出場した大杖姉弟など数え切れないほどの名選手を生んだ。
 その背景としては、スキーが生活の一部になっていたことがあげられる。
 冬学校に行くときは、スキーを履き、体育の時間はすべてスキー、そして放課後の遊びももちろんスキーと子どもの頃からスキー三昧の生活をしていた。
 そして、長年受け継いできたスキーの思いと、脈々と築いてきたスキー界での伝統が原動力となった。
戦後しばらく大山寺分校では全校スキー大会を参道で行っていた。
 「ヨーイドン!」で大神山神社の階段の上から5〜6 人が一斉にスタートして、参道を通り博労座までのコースであった。
 大山寺山門のところでコースが急カーブする。
 そこがジャンプ台となっていてコースの難所であった。
 宮本旅館の辺はラクダの背のようになっており、下手に転ぶと家の玄関に突っ込むこともあった。
 今のように旗門を立てるようなことはしない、とにかく早くゴールした人が勝ちである。休憩しながら滑っても、直滑降で滑ってもいいのだが、ノンストップで滑ればかなりのスピードがでたであろう。
 兜山登さんの妻富子氏によると、小さい子ども達にとっては遊びのような大会で、家の前の参道に出てみんなで応援して、「早やー早や!コウちゃん、マアちゃん」などと声を掛けると、子どもが「なに?」と止まってしまう。
 「いや、早すべるだが !(早く滑りなさい)」といって、笑ったものだったと語る。

兜山 登
 兜山富子氏の夫兜山登さんは、戦前の大山を代表するスキー選手であった。
 米子工業高校在学中の1937年(昭和11 年)2 月に伊吹山で行われた第15 回全日本スキー選手権大会の滑降で少年の部で優勝した。
 高校で盛大な壮行会をしてもらって、翌年の昭和12 年第9 回明治神宮体育大会(現在の国民体育大会)の回転競技で3 位入賞をはたした。
 全国を転戦し、オリンピック候補選手に選ばれたようであるが、戦争が激しくなりオリンピックが開催されなかった。
 日本が参加した冬季オリンピックは、16 年後の昭和27 年(1952 年)ノルウェーのオスロ大会であった。

山崎三姉妹
 戦後の大山を代表するスキー選手と言えば山崎姉妹である。
 山崎瑛子、君子、八重子の三人の姉妹が長い間全国の第一線で活躍した。瑛子は昭和33年に全国初のSAJ競技技術指導員の資格を取得している。
 大館氏によると、 山崎瑛子さんは、兜山さんより少し年上だった。
 1915(大正4年)生まれ。昭和 10 年大山で日活映画「白銀の王座」(監督: 内田吐夢)のロケがあったとき、主演の小杉勇(山の男役)の吹き替えをしたのがこの山崎瑛子さんで、スキー選手(昭和26年国体滑降一位)。スキー指導者。全日本スキー連盟顧問。当時も、相当有名な選手であったのであろう。
 昭和16 年赤倉で行われた第11 回明治神宮大会で、姉妹三人で出場した府県対抗戦で6位となり、個人戦では八重子さんが滑降で6 位となっている。
 戦後は、瑛子さんが第一線で活躍した。全国レベルの大会で常に上位入賞し、昭和26年赤倉で行われた第6 回国体の滑降で優勝、回転で2 位となった。
 翌年、現役を引退したが、全日本スキー連盟の役員を務めるなど大山ならびに日本のスキー界の発展に尽力された。

大杖姉弟
 大杖美穂子さん、正彦さんと次郎さん
 山崎三姉妹の次女君子さんの子どもが、大杖美穂子、正彦、次郎の三姉弟である。
 山崎瑛子さんは、彼らの伯母さんにあたる。
 瑛子さんが全勢力を傾けて育てたのが大杖姉弟である。
  美穂子さんは、小学校5 年生より瑛子さんの指導を受け、昭和34 年中学校1 年生で全日本スキー選手権大会に初出場し、その後瑛子さんに連れられて全国の舞台で活躍した。
 昭和 36 年中学校3 年生で全日本選手権の滑降に優勝、回転で2 位となり、一躍全国のトップ選手となった。
 一方、正彦さんは、高校に入ってから頭角を現した。
 昭和39 年苗場で行われた全日本スキー選手権では、米子西高の美穂子さんが滑降と回転で二冠に輝き、米子工業高校の正彦さんが大回転で優勝し、姉弟でのアベック優勝となった。
 その後、二人は世界の舞台へと飛び出した。
 大杖美穂子は、昭和 39 年米子西高3 年生で世界選手権シャモニー大会の日本代表に選ばれ、昭和 43 年日本大学4 年生でフランスのグルノーブル五輪に出場し、滑降、大回転に出場し、共に36 位の成績であった。
 大杖正彦さんは、昭和 44 年大学卒業後スイスにスキー留学をはたし、昭和 47 年札幌五輪に出場し、滑降35 位、大回転は失格に終わった。
 この時代が大山におけるスキーの歴史の中で最も輝いていた頃であろう。
 美穂子さんは白馬八方スキー場、正彦さんは大山寺にてご活躍中である。
 次郎さんは株式会社アクタスディストリビューションの代表者です。

大杖次郎さんと西村一良氏(SIA名誉顧問)
 次郎さんが伯母の山崎瑛子を介して西村一良氏(SIA名誉顧問)と出会ったのが、小学3年生(昭和34年)頃であった。
 西村氏が大山のスキー場に来られた時であった。東京・大阪・名古屋等から沢山のスキー仲間を伴い、スキースクールを開催されていた。
 その折に、大杖さんの練習風景をみて「もっときちんとした用具を使わないと上手くならないぞ」と言われ、翌シーズンから西沢スキーを使用し、以後現役引退後まで愛用していたそうだ。
 西村さんが日本のプロスキーヤー第1号になり、スキー学校を始めたとき、スキー産業がめざましい発展を遂げた(昭和25年以降)
 日本を代表した、西沢スキーは、戦前から専門のスキーヤーとスキー職人の手によって、研究・開発が行われていた。西沢スキーのスキーヤーを代表するのが、西村氏(デサント、バイソンスキー靴顧問、初代SIA会長など。)で、主に西村さんが収集してきた海外の新素材、新形状、新製法のスキーを見本に試作を繰り返す。試作品は、すぐに長野、新潟の選手に履いてもらいテスト。
 昭和20年代から生産され、昭和30年代の西沢の年間スキー生産台数は4〜5万台。このうち半分以上が輸出用。作れば売れる時代。輸出も好調。40年代前半にかけてのヒット商品は、ヒックコリーを使用した最高級品で3万円。大卒の初任給の1.5倍だが、飛ぶように売れた。
 西沢スキーは、札幌オリンピック(1972年)に向け開発体制の強化を図り、 西沢スキーチームの監督丸山仁也、選手は富井澄博、大杖正彦、南雲美津代などトップレベルの選手で、白馬、乗鞍、立山の残雪でテストしたが、それでは本物のアイスバーンの感触は得られないと、冬のニュージーランド氷河でのテスト合宿を要望。
 その頃、大杖次郎さんが小学校5、6年から中学にかけて山崎の伯母さんに連れられ、志賀高原や白馬八方尾根スキー場で開催された、全日本スキー選手権大会でトップ選手の滑りを見て勉強し、杉山進さんや多くのスキー選手と知り合いになり、スキー人生にプラスになったそうだ。

椎木喜久男
 大杖兄弟より遅れて名選手“椎木喜久男”が出てきた。
 椎木氏は、大山国体で男子壮年の部大回転で2 位になり、みごと地元の期待に応えた。
 当時椎木氏は37 才であった。昭和9 年生まれで、大山町種原から佐摩小学校まで4 qをスキーで通っていた。
 大学を卒業して大山に帰ってきた頃、山崎瑛子さんから大杖姉弟など地元選手の面倒を見てくれと言われた。監督兼コーチとして選手たちと行動をともにした。
 椎木氏は、大杖姉弟たちと一回りほど年が離れている。選手たちと一緒に全国各地を飛び周り、一緒に滑っていたためスキーを履く時間が長かった。札幌オリンピックの全日本女子のコーチングスタッフになり、オリンピックの滑降コースを滑る機会に恵まれた。
 また、日本の一流選手やコーチングスタッフと仲良くなった。彼らとは、いろいろな大会で一緒になり、遠征先でも練習するとき便宜を図ってもらえた。そのお陰で、どこに行っても萎縮しなくなり、選手たちが安心して練習できるようになった。
 このコーチとしての経験がその後の選手生活に大きなプラスとなった。とにかく自分の実力を出せば勝てるという自信ができた。
 椎木さんは努力型である。練習量もさることながら、いろいろなところから情報を集めてきて良く研究していた。優秀な選手の滑りを見て勉強したと語る。

椎木氏の話
 大山国体の時は雪不足で練習ができなかった。他の選手も雪不足で練習をしていなかったのだろう。選手といっても選手だけやっていればよかったわけではない。役員の仕事もあり、資材係としてトタンを運んだりしていた。
 大会当日も雪が降り、誰も滑ってないコースなので新雪がたまっていた。一番スタートであったので、滑っていると雪が向かってきた。
 一番目の選手のタイムを目標として後続の選手が滑ってくるのだが、北海道の芹沢選手が自分より0.01 秒早く優勝した。
大山のスキージャンプ台は、三代の歴史がある。
 豪円山の南側斜面に立派なジャンプ台がある。
 西日本では大山にしかないジャンプ台である。

兜山学が飛んだジャンプ台
 現在のジャンプ台の南側、豪円地蔵へと続く道の少し下に、土が盛り上がったところがある。これが初代のジャンプ台である。
 大山の生んだ名スキー選手の一人である兜山学氏はジャンプも得意であった。
古い豪円山ジャンプ台で39m飛んだという。
 39mといえばほとんど平らなところに着地したことになる。
 当時、ジャンプのスキーなども揃っていなかった時代にそれだけの距離を飛ぶには、相当の技術と度胸があったのであろう。

笠谷幸生が飛んだジャンプ台
 昭和47 年大山ではじめて行われた国体のために作られたのが二代目のジャンプ台である。
 現在のジャンプ台の少し南側で、鉄筋で弧を描くようにランディングバーンが作られていた。
 今のジャンプ台より一回り大きかったようだ。
 このジャンプ台は、札幌オリンピック金メダリストの笠谷さんが飛んでいる。
 札幌オリンピックは、昭和47 年2 月3 日から行われ、ジャンプ競技では、1 位笠谷、2位金野、3 位青地と日本人選手が表彰台を独占し日本中がわき上がった。
 その直後、昭和47 年2 月20 日から大山国体が開催された
 オリンピックの金メダリストが来るとあって注目していた最終日、四千人の観衆が集まったなか、笠谷は期待通り見事なジャンプで優勝。観衆の期待に応えた。

船木和喜が飛んだジャンプ台

 平成5 年に行われた二回目の大山国体で、当時高校生であった船木和喜(長野オリンピック金メダリスト)が飛んだのが現在のジャンプ台で大山における三代目のジャンプ台となる。
 平成5 年の国体に合わせて作られたこのジャンプ台は、総工費673 百万円といわれている。
 大山は冬季国体の開催できる日本の南限である。
大山山頂の避難小屋
 大山スキーの歴史に一人の女性がいた。
 その女性は大山山頂の避難小屋に山崎さんというおばあさんがいた。
 現在の大山山頂には、エコトイレの付いた避難小屋がある。
 いつからこの山頂小屋があるのか定かではないが、昭和10 年前後にはあった。
 大山で自然公園指導員の遠藤勝壽氏によると、昭和 10 年頃小学校の高学年の時に大山登山に行った。
 その時、大山の頂上には、屋根が地面に付きそうな小屋があり、細い屋根には土の付いた草がかけてあった。
 その小屋では、山崎さんというおばあさんが豚汁を売っておられた。
 そのおばあさんは「よう来たな」と言って豚汁をごちそうしてくれた。
 とにかく寒い日であったので、子ども心に大変嬉しかったことを覚えている。
 この時のおばあさんが、大山のスキーの創生期を支えた山崎三姉妹のお母さんであった。
 大山讃歌
 「わがこころの山」の詩が「大山讃歌」として、2回の国体で歌われた。
 昭和46年11月、県西部にある大山町は、開催迫る冬季大山国体を記念して、大山をたたえる歌を公募しました。
 全国から応募された736点の中から選ばれたのは、当時大山中学校の3年生だった松田美代子さんの作「わがこころの山」でした。
     大山讃歌
あなたがもしも ひとりになって
 静かにこころを みつめてみたい
  そのときは 大山に行こう
   きゃらぼくの みどり葉が
    あなたのさびしさを つつんでくれる
     そう、大山はみどりが いっぱいだから
あなたがもしも 愛する人と
 明日のひかりを夢みていたい
  そのときは大山に行こう
   北壁のきびしさが
    ふたりに人生をおしえてくれる
     そう、大山はひかりが いっぱいだから
あなたがもしも 自然の中で
 楽しい仲間と 話してみたい
  その時は大山に行こう
   白銀の頂で
    小鳥が憧れを歌ってくれる
     そう 大山は小鳥が いっぱいだから

 また、デュークエイセスが歌う大山賛歌はレコード化され、大山を愛する人々に歌い継がれるようになりました。
 時は流れて平成5年、大山で二度目の冬季国体が開かれた時も、大山賛歌は開会式に登場、21年ぶりに大山の北壁にこだましました。