趣味のスキーについて、少し書いてみました。
1 私がスキーを覚えたのが 私がスキーを始めたのは昭和44年1月22〜23日である。 職場の者十数名で、スキー場の近くに泊まり込んでスキーをやった。山陰の大山中腹の桝水原スキー場であった。 その時、私と松井の二人は始めてスキーを覚えた。 北海道でスキーの経験があった植から教わった。 植えは北海道で走るスキー(ノルディック)をやっていたが、回転系も出来るので、基本技術を初心者の我々に判りやすく教えてくれた。 夜、仲間達が酒を飲んでいるときも、松井と二人で植を引っ張り出しては蛍の光のように雪の薄明かりを頼りに滑り転んだ。 滑りながら私達は次のスキーをねだった。 生まれて始めてであり、1泊二日の旅行が終わったときの実力はプルーク・ターンがやっとできる程度の初心者であった。 最後の日23日に高松宮様が大山の南側の御机集落から、南壁を回るコースを山スキーで枡水原まで来られた。 職場に帰り、休憩時間等を利用して、植・松井の三人でスキー合宿を計画した。 有給休暇を申請し、厚生科にて夏用のテント、夏用の寝袋、鍋釜食器を借用し、スキー用具は錦織先輩から借りた。 出雲市内のスパーで食料を購入した。米を購入しようとしたが米穀通帳が無いため、数軒回ってやっと購入できた。 昭和44年2月8日の昼前に大山寺のバス停に降り立った。 今日から12日までキャンプをしながら、スキー三昧の生活が始まる。 大山寺に到着したときの3人の装備は、バス停から豪円山キャンプ場まで一度では持ち上げられない量であり、2回の往復でやっとテント場に全ての資材を揚げることが出来た。 植と松井の3人で伯耆大山の中の原スキー場の近くに夏山用のテントを張って五日間滑った。 始めての雪中キャンプのため設営に手間取り、テントを張り終わって、インスタントラーメンの夜食を食べ終わったときは寝るときだった。 5日間天候が良くて毎日滑れた。リフトの試運転の音で目を覚まし、朝食のラーメンを食べると、直ぐに飛び出し、リフトが停止し近くの宿の明かりを頼りに遅くまで滑った。 夏山用のテントでも寒さは感じなかった。 なぜなら朝起きて直ぐにスキー、日が暮れてなお滑りまくったため、スキーの疲れで寒さなど感じなかったと思う。 朝食はラーメンを食べ、昼食と夕食はスキー場の食堂、夜食はラーメンであり、苦労して購入した米はテントの中で残っていった。 計画では、昼・夜食も米を炊いて食べる予定が、滑るために手を抜き、また作る時間が無く、食堂に行ったものだから財布の中はどんどん減っていく。帰りのバス代、列車代を計算するとそんなに残っていない。 風呂は近くの旅館に一回だけ入りに行った。 お金がないから、お米を持っていき、現物交換方式による入浴をお願いすると、亭主は快く応じてくれた。 終わりになってくると、リフトに乗り中の原スキー場を滑り降りることが出来るようになった。 スキーの腕前も上手くなってきた。そこで、やっと滑れる女性に目が向いてくる。九州から来た女性を見つけると、優しく教えてあげた。 3月1日ついにスキーを購入する。3月8〜9日と三人でまた大山でスキーをした。 これがスキーを始めた時の思い出である。昭和四十四年冬の事である。 その当時、スキーの服装はみんなみすぼらしく、どんな服装でも楽しめたが、昨今の華美さには驚きである。 服装・用具共に全員が上級者の様な品物を揃えている。 滑る楽しみはファションもあるが、沢山滑り楽しんで上達するためには、いま一度考えた金銭使用をして楽しんでもらいたい。 スキーの上達は、転ぶことである。転ぶことを怖がらずに積極的に滑ることであり、三千回転ぶと上手になると言うが、転んでも上達しなかったのは私が悪かっただけである。 ページ トップ 2 帯広に転勤となった。 その帯広では、佐藤氏に数年にわたり指導を受けた。 ニセコ、富良野、望岳台、十勝岳、狩勝など十数か所のスキー場にて教えて頂いた。 望岳台から白金温泉までの新雪の長いコースには感激した。 ニセコや富良野等で滑りをビデオ撮影してもらい、個癖の修正・指摘などを受けた。 一滑り毎に、指導を受けた。滑り出す前に注意点を一つ聞いて滑り、そして良かった点、悪かった点を聞いて滑った。 次の集合場所が示されると、いの一番に滑り、佐藤さんの到着を待つ。足でまといにならないようした。 佐藤さんはスキー場を飛ぶように降りてくる。競技スキーをやっていたので早い。 ある時、仲間から、「君の滑りは佐藤さんに似ている」と言われた時は嬉しかった。 佐藤さんに押されて、職場のスキー部の企画・庶務係をさせていただいた。スキー部員だけでも250名いた。 年会費2000円で年に10回のスキーの会を開いた。企画するのが私だから、私が参加できる日が実行日だ。 それに厚生課から数万円の予算が出た。同好会だからそれくらいだろう。 職場名をチーム名にすると数百万単位の予算が着くと言われたが、拘束されたくないのでことわった。 家族スキー教室、職場のスキー教室でも予算や参加費が会に入ってきた。 だから結構活動費が入ってきたので裕福だった。 スキー教室の先生は、指導員や準指導員で、会に15名位は居た。 そして会の主催するスキー教室の参加費は会員は無料、会員以外は500円で2時間受けられた。指導する先生の手当ては一切なし。 だから丸儲け。これらの道筋を着けてくれての企画・庶務係としては大いに助かった。 スキー部の総会(11月頃)は、本部の3階にある講堂で実施した。 総会の後で、会員家族も入れた、スキー技術の映画会、そして抽選会。 会員にSAJの先生方が沢山いたので、映画は無料で借りられ、その抽選の商品は、各スポーツ店が出してくれた。 昨年の売れ残り商品もあれば、今年のスキーリフトの回数券(そのスキー場の先生が貰ってきてくれた)と本当に助かった。 初滑り会は糠平のスキー場と旅館での食事会(宿泊はなし)。 その旅館はスキー部の先輩がやっていて、それがまたスキー界の重鎮だった。 スキー旅行は、ある会社のバスを借り、会員が運転するため安価ででき、行先は富良野が多かった。 帰りには缶ビールを買い込み、運転手以外呑んだ。 参加費が会員1000円会員外2000円としたら、会員外からクレームが付いたが、翌年からその男も会員となり、ほぼ毎回参加していた。 会費以上の補助金が出るから、会員になった方が得と判ったからだ。 春の納会では、日勝峠でのスキー登山(1445m)と滑降。 50人以上が標高差500mの斜面を登り、一斉に滑り下るのは壮観だった。 そして競技会。清水公園での焼肉会を5月の連休中に実施した。その後もスキー部員は雪を求めて走り回っていた。 企画庶務で一緒だった「紺さん」という長身の彼の滑りはダイナミックだった。 狩勝スキー場のコブだらけの斜面を高い姿勢のクリスチャニアで豪快に滑ってくる。新雪の斜面を彼と沢山滑った。 スキーの先生である、帯広の佐藤氏、前出の植氏には感謝しています。 私は、「アルペンスキー」と「ノルディックスキー」を楽しんだ。 走るスキーは、6kmのコースを毎日2〜3周走った。 ページ トップ さて、そのスキーについて、少し書いてみよう。 3 ノルディックスキーとアルペンスキー スキーは、歩くスキーのノルディックスキーが原型である。交通手段、狩猟、戦争などで発達した。 ノルディックスキーは、雪の中を進むためにより早く移動することが求められ、その必要性から、歩くスキーから、走るスキーとなり、いかに素早く安全に移動できるかが重要となった。 そしてジャンプ競技のように遠くに飛び、恐怖心に勝つスキーもノルディックである。競技スキーとしての花形である。 歩く(走る)スキーが、急な傾斜の部分でも、いかに安全に移動できるか。 その必要性から下る事を追求したアルペンスキーが発達した。 アルペンスキーは、俺達は「曲げ」と言っていた。 歩くスキーは前をバンドで固定し、靴は柔らかくそして踵が上がる方が歩きやすい。 しかし斜面を下るときには、靴は固く、踵を固定した方が滑り(曲げ)易いため、現在のスキーの様につま先とかかとを固定する金具が発達した。 「曲げ」のスキーの靴は、固い革靴から、プラスチックの成形された靴に発展した。 斜面を下るスキーをアルペン(アルプスの)スキーと言って、20世紀に発達した技術である。 歩くスキーと下るスキーを合わせて、大自然の中を突き進み、新雪や整備されていない大斜面を登り下る事を楽しむスキーが、山スキーである。山スキーはノルディックスキーの範疇であろう。 用具が発達すると、技術も変化してきた。滑りやすく、覚えやすくするために、色々なテクニックがはやり、また衰退していった。 個人の技術が向上すると、滑る斜面の斜度もだんだん急になってくる。 平坦に近い斜度から40度以上の斜度まで滑られるようになってくる。私が一番急な斜度を滑ったのが45度以上である。 長さは100m程であった。富良野スキー場のジャイアントコースのリフト下、下から見て左側のブッシュのすぐ横で、緩やかな連絡コースの上をリフトが交差する場所から滑った。スキー部の連中が度胸試しにやっていた。 まさに落ちる感覚で、その45度の斜面を滑って時は、自分の決めたコブ、場所でターンが出来ないと、失敗した時は、斜滑降で逃げる。 昭和50年代の糠平スキー場は、正面右側に富士山の形がした斜面があり、下部は扇方で平らに整備されていた。 朝一番。この斜面を登って行く。誰もいない斜面を一直線に滑り下る。 慣れてくると滑り出しの高さを上げていく。速度が限界近くなると大きく山周りで逃げる。 少し後傾になるとスキーの先端がバタバタと音を出す。山周りになって制御できなくてころんだ事もあった。 すこし凸凹があったが、正しい姿勢だとスキーは静かに滑り、恐怖感を克服した優越感が身体を包む。 速度は測ったことはないが、ゴーグル無しで滑っていると、涙のように目の水分が飛んでいく感覚はあった。 スキー場に人の姿が現れると、直滑降のお終いだ。 年を取るごとに反射神経が落ちてきたが、50歳代までは、37度位の斜面は楽しく滑っていた。 アキレスを切り第二の就職等でスキーに行く機会が減ると、斜度の緩やかな所になって来た。 大半の愛好者は、20度位の斜度を好み、上級者になって30度以上の斜面を楽しむようになる。 ページ トップ 4 屈身抜重と伸身抜重という技術 斜滑降時にいかにしてスキーの先端を山側に向けるか、谷に落すか。そのきっかけをどう作るか。 斜滑降からスキーの先端を谷に向け、最大傾斜線から斜滑降に戻していく。 曲がり始めたスキーに圧を加え乗り込み、方向を変換し、速度をコントロールしていくか。 雪面の抵抗を少なくしてスキーの操作を容易にするため、沈み込んでスキーに懸けている重さ(体重)を一瞬少なくする。これが屈伸抜重である。 または、伸び上がってスキーに懸ける体重を少なくする。これが伸身抜重。 コブの頂点で屈伸しスキーを谷に回しこむ。コブを通過すると徐々に脚を伸ばし滑走の態勢となる。 このコブの頂点は、スキー板を自由に回すことが出来る。そのコブと同じような状況を作るため、波の様に自分の腰の高さを変えて、スキーを操作するブェーレン・テクニックをオーストラリア教本から学んだ。このテクニックが屈伸抜重だった。 クリスチャニア Aターン・Bターン A・Bターンの用語はあまり使われていない。 Aターン(伸身抜重) フォールラインを上体と脚部を屈身した(沈み込んだ)状態で通過する。 斜滑降からターンのきっかけを作る際、低い姿勢から高い姿勢から屈身しスキーを抜重し、フォールラインを屈身した状態で通過し、徐々に高い姿勢にもどる。 このターンは、フォールライン通過後のスキーコントロールが難しい。 Bターン(伸身抜重) フォールラインを上体・脚部を伸身した(伸ばした)状態で通過する。 斜滑降からターンのきっかけを作る際、低い姿勢から伸身しスキーを抜重し、フォールラインを伸身した状態で通過し、徐々に低い姿勢にもどる。コブを使う屈伸抜重がやり易い。 このBターンは、ウェーデルンにつながるターンで、回転の終了時(斜滑降に移る直前)の低い姿勢で、谷側にストックを突きターンのきっかけをつかみ、伸び上がる動作でスキーを切り替え、そのままフォールラインを通過し、連続ターンでスキーの速度調整をする。 回転の終了時の雪面からの抵抗を利用して滑る。 北海道に移動した当時、ピボット・ターンの技術が流行った。 ピボット・ターンは,回転の終了時に山まわりで強めた角付けを意識的にゆるめることと、体のひねりを谷側に開放する(膝が山側に回っているのを谷側に回しこむ)によって,ターンを始動させる回転技術と、理解した。 スノーボードの映像を見ると、ボードの操作技術も、この伸身抜重と屈伸抜重の理念が継承されているよう思う。 回転の前後は、この動作により回転のきっかけを作っているように見える。 新雪の滑り スキーが回せ出し、連続小回りが出来だした。ある時、帯広近くの新嵐山スキー場の右側リフトの下に三角形の踏んでない斜面を見つけた。リフトに乗って下を見た時、斜度はあるが広い斜面で滑れそうだ。 遊び場を見つけた子供の用に、無我夢中でその斜面で新雪の滑りを練習した。 1日中その斜面を練習しているとコツが掴めてきた。 佐藤氏に戴いた新雪の滑りのVTR「自転車漕ぎの要領」や、上下動の中でスキーの先端を雪の上に出す。 足の親指をそりかえして、後傾気味の対応等が分かってきた。 翌日、部署は違うが職場の仲間に「新雪ばかり滑ると、姿勢が崩れる」と言われたが、新雪を乗りこなしている自分を認めてくれたようで嬉しかった。 狩勝高原スキー場の林間の新雪に仲間と入った。佐藤氏を中心に紺野氏など数名であった。 腰まで潜る新雪は、前が見えなくなるほど、顔を口を新雪が覆われ、むせ返る。 スキーが回り始めると、保持して次のターンまで待って、スキーを操作する。 転ぶと仲間が騒ぐ「ウサギを採ったか」「そこにはウサギは居ないぞ」。全身雪まみれになる。 ページ トップ 5 スキーの用具 スキー板 スキー板は、1970年代は、真っ直ぐに立って、手を上げて掴める長さ(170センチの人なら200センチ位)と言われ、趣味で滑る人も競って長いスキーを求めていた。 長いほど安定した滑りが出来ると言われ、ダウンヒルでもやるのかという物が売られていた。 直滑降では長ければ安定するが、回しこんで滑り下りるとなれば、曲り安くしなるスキーが中級者には適している。 競技用のスキー板は、反発力の優れた物が良いとされ、瞬時の切り替えが出来ると思われていた。 脚力の少ない人がこれを乗りこなすには、相当な体力を要した。 私は、競技スキーをやっていた方に勧められ、185センチの柔らかい板を使用していた。 板のエッジを自分で砥ぎ、ワックスも自分で塗っていた。 スキー板はトップとテールそして中央部分がくびれているが、当時は今ほど括れていなかった。 カービングスキーがはやり始めると極端に短くなり150センチ位や、1mもないスキー板もはやっている。 色々なスキーを楽しめる時代になってきた。 山スキーを楽しんでいる人たちの、短いスキーで槍ヶ岳から立山までのオートルートを走破しているようだ。 金具(ビンディング) 金具は、スキーと靴(身体)を繋ぎ、操作性をよくして、転倒時に素早く安全に脱げ、足に力を与えないことが重要だが、それでいて滑走時は絶対に脱げないこと。 装着が容易なこと。転倒時にスキーが必要以上に流れないことが重要である。 山スキー用の金具は、上記以外に歩行が出来て、滑らせて歩く。滑降時には素早く固定できる必要がある。 転倒時に開放するためには、身体(体重、骨の強度等)の強弱により、適正開放度に設定する必要がある。 転倒時に色々な角度で力が加わっても外れるような機能がある。 トーピース、ヒールピースの双方にある、リリース機構がそれである。 私が色々な斜面で滑っていた時、突然スキーが外れ片足でのスキーを強いられ点灯したことが数回以上あった。 これは、金具とスキー靴の間に雪あり装着不十分な時と、金具の間隔とスキー靴の長さが合わなかったとき、適正開放度に設定せず、少しのショックで外れた時があった。 もし急斜面でそのような状態になったら、大事故である。 スキー靴 スキーも竹の先端を少し曲げ、板を取り付け紐で靴を固定した。 スキーは、長靴を履いて滑ったりした時期があった。 止まることが出来ず、転んでばかりいた。植に教わってから、初めて曲げる、止めることが出来た。 1936年に槍ヶ岳北鎌尾根で亡くなった、加藤文太郎という高名な登山家の登山靴を見たことがある。 兵庫県の浜坂にある加藤記念館に、加藤の登山靴があった。 革製の登山靴でヒールの部分にスキーを取り付ける溝が掘られている。そして、スキー、ストックも保管されていた。 1930年代以前は登山靴などが用いられていた。が、ビンディングでよりしっかりと固定可能な専用靴として開発されたものである。 1970年代前半までは皮革製が一般的であったが、1960年代後半に登場したプラスチックブーツは、登山靴と変わらない長さであった。 登山靴との違いは、足(膝下等)の動きが金具を通じてスキーに伝わりやすくなった点です。 構造は二重構造で、外側の固い部分と中側の足に触れる部分が柔らかい構造になっている。 しだいに長くなり足首と膝の中間より長くなってきた。 長くなると膝を屈することが困難になり足首から曲がる構造や強く圧すれば曲がるなど改良がくわえられた。 ポリウレタンは加水分解のため長期間の使用に耐えられない問題点が出てきた。 (滑降中に突然靴が壊れ瞬時に原型が無くなる問題) 足をスキー靴に挿入し固定するため、前側にバックルがある。後ろ側にあるタイプ(レンタル靴に多い)がある。 上部により固定するためのテープがついているタイプもある。 革靴場合は、靴紐で固定するタイプと前側のバックルがあった。 靴底は革靴の場合、早期の物は登山靴と同じタイプで柔らかったが、後期になるとほとんど曲がらなくなった。 現在の靴は歩行には適さない(ロボット歩き?)タイプが多い。 山スキータイプの靴は底が柔らかいタイプと固いタイプがあり、金具の構造とマッチさせる必要がある。 ストック(ポール) ノルディックスキー(クロスカントリー、山スキー)は、長いストックを使用する。 私がノルディックスキーをやっていた時は、直立の姿勢で肩まであるタイプを使用していた。 パスカング滑走、推進滑走では、手が伸びきるときスナップを効かせた。 一歩(一段)滑走、二歩(二段)滑走では振り(?)回して使用し、体力が無くなると、ストックを握った両手を胸に固定し、上体(体重)をストックに伝えて推進力としていた。この体重利用は非常に有効だった。 アルペンスキーにおけるストックはバランスや回転のきっかけをつかむために使用する。前傾姿勢を取ると手の位置が重要で、出来るだけ前に持っていく。長いストックは使いにくかった。 しかし、長時間(一日中)滑る場合は高い姿勢を保持するため長いストックが欲しい。 ストックの雪輪は、山スキーでは大きく、ゲレンデスキーでは小さいものが良い。 アルペン競技スキーの場合の、ストックの役割は山スキーやクロスカントリースキーの使用目的と若干異なる場合がある。 ポールから体を守り、整備された固い斜面を滑るため、雪輪はほとんど必要としない。 ワックス ノルディックの走るスキーは、雪の温度により前に滑り、後ろには滑り止めとなるタイプを苦心して選定していた。 登り下るスキーコースでは、日当たりとか日蔭が交互にあったりすると、ワックス選びや塗る量や面積で苦労し、登りで後ろに滑り、下りでまったく滑らないワックスに成ったりする。 雪の温度や、日蔭、滑り始める時間の天候など考慮してワックスを選定した。 ワックスを塗った後にスキー板を雪面に付けるとうっすらと雪が着く位が丁度良かった。 そのワックスは仲間以外には、最高の秘密事項だった。 滑降の場合は固形、スプレーなどがあり、滑走面に垂らしてアイロン掛けし、冷えたら定規のようなもので余分な量を取り除き、コルクで磨き上げていく。 スプレータイプは持続性がなく、1回の滑走で無くなる。これもコルクで磨いた方がよい。 ワックスは手帳に記入し資料として管理したほうがよい。 山スキーの場合は、シール、滑り止めワックス、うろこのように後ろに下がらない滑走面のスキーもある。 滑らないスキーは上達しないし、逆に危険性の方が大きい。 服 装 スキーウェア 防寒具として選び、やはりファッションも大事だ。 ところが、凝った高いウェアより、一回でも多く滑ることが大事なので財布と相談したほうがよい。 暖かい地域は防水性を、寒い地区は防寒と硬い雪面等を考える必要もある。 レーシングスーツ レース時に着用されるウェアは一般のスキーには向かない。 空気抵抗が少なく生地も薄く体を締め上げ、寒いのでまったく考慮する必要はない。 ゴーグル 太陽光線や雪面から照り返しなどから目を守る。 雪盲と言って危険な状態に陥る場合があるので、降雪・曇天に関係なく着用すべきだ。 安価なゴーグルの中には、色つきでも紫外線を遮断せず、目を傷めるものもある。 スキー手袋グローブ 分厚い作りになっていて、低温下でも指先の感覚を失わないことや、滑り止めやストックを掴むことができるものが必要。 帽子・ヘルメット、プロテクター 自身の転倒時などに頭や身体を守るため、他のスキーヤーのエッジで怪我をする場合がある。 帽子、ひざ当て、ヘルメット等を特に子供さんにをかぶること。 ページ トップ 6 滑走技術 直滑降 板を平行に保ち、ターンをせずに斜面をフォールライン方向にまっすぐ降りていく技術。 全てのスキーの基本技術であり、緩斜面においては初心者も学ぶ技術ではあるが、斜度がきつくなりスピードが高速になるにつれ、 直滑降を維持して滑走するのは高度な技術となる。 ましてコブの斜面を滑ると、脚や体全体で衝撃を吸収し、飛ばされないよう、また逆にジャンプで通過するようにする。 斜滑降 板を平行に保ち、斜面のフォールラインに対して板を斜めにおいて、エッジを立てた状態でフォールラインに対して斜め方向にまっすぐ滑走する技術。 横滑り 板を平行に保ち、斜面のフォールラインに対して板を直角ないし斜めに置いて、脚を谷側に傾けることでエッジを緩めて板に対して横に滑走する技術。 センターポジションに乗れていない人や両足の微妙なコントロールが出来ない人は苦戦する。 プルークボーゲン 単にボーゲンとも呼ばれる。制動を掛けながら交互にスキーを踏んで滑る技術。 ハの字(プルーク)を作ることにより次のターンの迎え角ができているため、スキーを交互に踏むだけでターンができる。 安全のために初心者が最初に学ぶ技術のひとつであり、全てのスキーヤーが用いる基本技術でもある。 上級者が使う連続小回りターンはスキー板の反動,センターポジション,左右のリズムをタイミング良く組み合わせる事が必要で、このすべてを一緒に練習出来る基本技術でもある。 したがって本技術の練習を積んでいる中級者は早く上級者へ移行でき、長年上級者の技術へステップアップ出来ない中級者は本技術が未熟とも言える。 プルークターン プルークボーゲンが発展してスピードが速まり、かつ外スキーをずらす方向が横方向から縦方向へ変わることにより、内スキーのインエッジが緩み、外スキーに同調してくる。 これがプルークターンである。さらにスタンスもハの字から平行へ変わっていくとターンもパラレルターンへと変わる。 パラレルターン 板を平行にしたままターンする技術。スキーを揃えて谷スキーを踏み、山スキーへ踏みかえる。 踏みかえは、両足を交互に動かす交互操作と、同時に動かす同調操作とがある。 プルークターンと同じで外足荷重が基本である。本来のスキーは両スキーに正しく荷重してターンするものである。 基本のプルークボーゲンの滑り込み不足や正しくマスターできていない中級者は、上半身のバランスが板の中心から外れており荷重による板の反動をうまく利用できないため、下半身の強引なひねりや上半身の腕を使った反動、後傾姿勢等によって強引なずらし操作パラレルターンで滑ることが多い。 上級者=閉脚のイメージを持っている初中級も未だに少なくない。 ショートターン(ウェーデルン) 早いリズムで外スキーから次の外スキーまで踏み換えながら滑る技術。 パラレルターンの小回り的といえるが、後述のテールを振るウェーデルンを取得する課程においてプルークボーゲンで早いリズムでターンをおこなうプルークウェーデルンもある。 主に上級者のターン技術。 従来ロングターンをパラレルターン、ショートターンをウェーデルンとしていたのをそれぞれパラレルターン大回り、パラレルターン小回りと呼ぶようになった。 しかし日本職業スキー教師協会(SIA)では独自の教程を設けており、現在でも使用している。 また、捻り(と反動)を使ったショートターンと弧を描くショートターンの2つが使えると、より実践的であらゆる斜面に対応できる。 ステップターン(踏み出しと踏み蹴りの二つがある。) 踏み蹴り ターンの切り替え時に外スキーを踏み蹴って内スキー(次の外スキー)に乗り込んで行き、減速せずにターンすることができる。 踏み出し 切り替え時に内スキーを山側に踏み出し、乗り込んでスキーを押しずらしていく。 スタンスを「ハの字」(プルーク)にして踏み出した場合を特にシュテムターンと呼ぶ。 前者の踏み蹴りはかつてアルペンレースでポールをクリアしていく時に多用されたが、サイドカーブのあるカービングスキーの普及により、踏み蹴らなくともエッジ角度を強めるだけでスキーが切れ上がるようになったため、軌道を変える必要がなくなり、以前よりは使わなくなってきている。後者の踏み出しにおけるシュテムターンの場合は初級者が外スキーの踏み換えを覚える際やレベルに関わらず斜面状況が悪い場合に安全に滑り降りるための技術として多用される。 カービングターン パラレルターンの一種であり、ターン開始時に脚をターン内側に傾けて、意図的な加重や外力を利用した加重によってスキー板をたわませて曲面を作り、これを雪面に食い込ませることで足場を作ってターンする技術。 スキッディングターンと異なり板の制動要素が少ないため、高速滑走が可能となる。 パラレルターンの中では難しい技術であり、1990年ごろまではごく一部のスキーヤーのみの技術であったが、カービングスキーの登場により一般スキーヤーにも可能な技術となった。 なお、カービングとは「彫る(CARVE)」の意味であって「曲がる(CURVE)」の意味ではない。 実際に完全なカービングターンで滑ることができる状況は限られており、圧雪された状況のみである。 通常はスキッディングターンを組み合わせて滑る場合が多い。 ページ トップ |