白 兎 に つ い て

  「因幡の白兎」について以前に書いたことがあります。ところが「伯耆の白兎」が正しいと、喧伝する人がいます。(私は因幡の生まれ)
 また、その「白兎伝説」を調べていると、鳥取大学の地域文化調査報告書を見つけた。
はじめに
  おおきな袋を かたにかけ    大こくさまが きかかると
   ここに いなばの しろうさぎ    皮をむかれて 赤はだか
      (作曲・田村虎蔵(鳥取県岩美町出身、1873〜1943)、作詞・石原和三郎)
 大こくさまは、出雲の大国主命です。
 大国主命は色々な名前で呼ばれ、その地方の神としての名前でありますが、ここでは総称して、「大国主命」とさせて下さい。
 大国主命は縁結びの神、医療の神、漁業の神、縁結びの神、国造りの神、商業神、金山の神様であった。
 「因幡の白兎」は、白兎が対岸へ渡ろうとして、サメ(ワニ)をだましました。
 騙されたワニは怒って、白兎の皮を剥ぎとってしまい、白兎は赤はだか(まるはだか)にされて泣いていると、大国主命に助けられました。
 鳥取市街地から国道9号線を西に車で15分程走ると、「因幡の白兎」の白兎海岸で、海岸の西側に突き出た気多の岬があり、岬の前に於岐島という小さな島があり、島から岸まで続く板状の岩は、ウサギに騙され列を作ったワニの背のように見えます。
 国道9号線の南の丘陵には白兎神社があり、この神社は16世紀に鹿野城主亀井武蔵守茲矩により再建されました。
私の中の「因幡の白兎」とは
 伝説や昔話は古老達が、夜なべ仕事や寝物語に孫たちに話して聞かせました。
 昔話等は、同じお話が色々少しずつ変化し、その地方や家庭毎のお話になったりします。そこで私は少し質問しますが、古老たちは「昔、昔の話だ。」と相手にしてくれません。
 今、振り帰りますが、なにしろ私がまだ生まれていないし、父母も生まれていない時代のことですから、父も多くを語ってくれませんでした。母はそれ以上に口が重く、井戸端会議以外は話しません。
 山陰の片田舎の部落の古老たちは、それは寡黙で「天気の話」以外は話しません。でも時たま「風呂、飯、寝る、××」と話します。
 そんなこんなで大人達に色々と聞きますが、詳しい事柄は聞くことが出来ません。そこで、私は調べ始めました。
 野に住む白兎が海にすむワニを騙してまで対岸へ行く必要があったのか。その重大な事柄の為にワニを利用しなければならなかった。なぜ危険な行為をしてまで、何かを実行しなければいけない、秘密があり、渡りたかったが、秘密を知られた、白兎はワニに丸裸(身ぐるみ、家屋敷、財産、国?)になるまでむしり取られてしまった。
 この「白兎」と「ワニ」のことを、もう少し掘り下げてみました。
鳥取県は、古くは因幡の国と伯耆の国に分かれていた
 山陰の古い国として、因幡と伯耆の国がありました。鳥取の城主は鳥取市の久松山に藩主の在城を築きましたが、あまりにも東に寄っているため、伯耆地方を収めるため、西の端の米子にお城を築き伯耆地方を治めるため、1国2城を江戸幕府に許可され統治しました。
 その関係もあり、因幡国よりも島根県に含まれる出雲国と、古代遺跡の類似性、方言などの文化的共通点が多いため、雲伯という地域区分があるくらいです。また、中国地方最高峰の大山を境にして、東伯(県中部)と西伯(県西部)に分かれ、方言や文化などに違いが見られる。『古事記』には伯岐国と書かれている。
 鳥取県西部地区は明治になり一時、鳥取県となるか島根県に編入されるかで、一騒動があった。
因幡の白兎について
 「因幡の白兎」の現場は、私の故郷の実家から東に20q。もう一つの「白兎」は、西に30Kmの地にある、「伯耆の白兎」です。
 もう一つの「白兎」は、伯耆大山の裾野にあり、江戸時代の本居宣長は、『古事記伝』(全44巻)の中に、白兎神社は「中山神社」(当時は大森大明神)だと書いています。
伯耆の白兎の舞台
 中山神社(鳥取県西伯郡大山町束積)は、JR山陰本線、中山口駅付近から県道239号線で船上山方面へ3km程向かうと、左側に社叢が見えてきます。
 旧中山町は、北の日本海に注ぐ、甲川と下市川流域に位置する。大山火山活動により、形成された緩やかな傾斜地に位置する三角形状の土地にある。後醍醐天皇の挙兵の地「船上山」の西側を流れた甲川は、深山渓谷から平野部になると、流れは穏やかになり、途中、伏流水となり日本海に流れます。この甲川の東側に中山神社があります。
 束積は、中山谷の中央部、甲川上流域から中流域に位置し、地名の由来は、「束」が稲を束ねる単位と考えて豊作を願う意によるとともに、あるいは「つか」は塚である。束積には17基の塚(古墳)がある。束積3号墳は全長34mの大きさです。
 伯耆束積の白兎伝説は「古事記伝」「田蓑の日記」「和名抄」などに記載されている。
伯耆の白兎
 束積に住んでいた白兎は川を登る鱒の背を借りて、川を行き来していたが、鱒の背を踏みはずし溺れましが、さいわい流れ木につかまり遠く隠岐島まで流された。白兎は故郷帰りたい一心で鰐をだまし、皮を剥がされたたが、大国主命に助けられました。束積に帰って一休みした岩が「兎の腰掛け岩」で、流木に助けられた川を「木の枝川」が「甲川」となりました。
 村人は白兎の遊び場に「素莵神社」を建てた。この社は疱瘡の守り神となり、参拝者が絶たなかった。明治初年に社が、野火で焼失し今は中山神社境内に再建されました。
 神主の細谷家では、代々「兎の肉」を食べることを禁止されていた。
 中山神社の本殿の礎石には、亀の彫刻が彫られ出雲系の神社で、大国主と田心姫(宗像三女神の一人)を祀っています。2神は総称して大森大明神と呼ばれ、また鷺大明神が祀られています。鷺大明神(白兎神と稲背脛命)が祀られていて、中山神社は、大森大明神と鷺大明神が祀られています。
大国主命は鉄と医療の神様だった
 中山神社に祭られている大国主命は、大森大明神といわれ「鉄の守り神」であり、また「医療の神」でもありました。
「鉄と医療」
 道具の発見と利用は、人と動物の大きな相違点である。石器から鉄。土器から鉄器の時代。鉄の発見こそ人類の発展の最も重要な事項だった。農機具、生活必需品そして武具の進化等、時の権力者にとって最大の魅力ある資源でした。砂鉄から得られる玉鋼こそ最高の鉄でした。また、人間にとって薬、医療は最大の関心事であった。何か得体のしれない物が身体に取り付き、苦しめ、皮膚などが爛れ、今の現代でも不治の病に高度な技術を持って立ち向かいざるを得ない、医療の世界。
 甲川では古くから砂鉄がとれ、中山神社周辺の大栄町、東伯町、赤崎町、名和町は、古くから「たたら製鉄」が盛んで、甲川流域・三谷・退休寺・尾張谷・下甲や赤坂に鉄滓(てっさい)が残っているそうです。
 「たたら」では砂鉄と木炭を炉にいれて燃焼し、砂鉄を還元して鉄を製造します。その際、砂鉄中に含まれる不純物は高温で熔融し、スラッグ(鉱滓、ノロ)として排出されます。たたら製鉄では、このスラッグを鉄滓と呼び習わしています。
大 国主命は、医療・呪術の神とも言われており、その背景には出雲国が薬草の地として有名であった。
出雲国と薬草
 『出雲国風土記』の中には約61種の薬草名が記され、『播磨国風土記』では7種。『常陸の国風土記』は2種程だそうです。
 『大同類聚方(808)』の火傷の薬に、出雲の国造家に伝わる「神戸薬」の配合が記されている。大国主命は八十神の罠にはまり、火傷で死んでしまいますが、母が「赤貝とハマグリの汁をまぜた薬」を、塗ったお蔭で治癒しよみがえりました。この火傷の薬と「神戸薬」の調合は一致しています。神戸は出雲国神戸郡です。
 出雲が薬草の主要な土地であり、鷺大明神にも大きく関係しています。鷺大明神とそこで祀られている稲背脛命と白兎神は、すべて疱瘡神という共通点を持っているそうです。疱瘡神は、疱瘡(天然痘)を擬神化した悪神で、疫病神の一種である。疱瘡は怨霊の祟りと考えられていました。
  さて、話を本題に戻しましょう。
ワニ
 山陰地方ではサメをワニと呼びます。
 中国地方の山間部では、日本海で取れたサメを「わに」と呼びこれを食します。ワニの肉にあるアンモニアが腐敗防止となり、内陸部まで運搬され「わに料理」として提供されています。
 和邇という動物が日本にいない事から、文部省の『国語読本』などでは、因幡の白兎には「ワニザメ」の挿絵などが使われていた。
古代には白兎がいたのか
 ウサギと言えば誰でも白いウサギを思い浮かべるが、現在良く見かける白い兎は明治になって輸入された。在来種である日本の野兎は茶色で、冬毛になると保護色となり白毛になります。大国主命は蒲の花(初夏)を敷いたのだから、兎が白いとは考え難い。
ウサギとワニの背景
 白兎の背景には「ウサ族」と「ワニ族」の部族対立があったともいいます。
 歌舞伎のお話も、時の権力者やその影響を受ける組織・人物を物語にした。時代背景・登場人物を別の名前に置き換えて、災いを避け、そして世間にはそれと気付かせている。
 江戸時代において、文芸や戯曲には、幕政の批判に通じるような事件(武家社会の醜聞)を取り上げた。元禄時代の赤穂事件を違う時代や人物に置き換えて脚色することで抜け道としたのである。その時代や人物も「小栗判官」や「太平記」などさまざまだったが、この『仮名手本忠臣蔵』では「太平記」の「世界」を借りている。
神話や昔話は、その以前の歴史・話題を少し変化させ、物語として後世に伝えている。
 「因幡の白兎」は、兎は鰐の背を渡ったことで皮をはがれ瀕死状態になった。大国主のお蔭で復活・再生をし、大国主と八上比売が結婚できるようにした。その為、兎は神格化されたである。その後大国主は、八十神たちに、一度だけではなく二度も騙され、焼け石や木によって死ぬが、やはり復活を果たし、国を治める支配者となった。
「因幡の白兎」の背景には部族対立がーーー
 「白兎神話」に隠されている「ウサギとワニの謎」は、神話に登場する動物のウサギとワニは比喩として、古代に起きた部族間の競合を暗示していると言われている。「ウサギ」と「ワニ」とは一体どういう存在であったのか。
ワニ族は、海の民である。
 大陸や半島からの、渡来人が国を追われ、新たな土地を求め、或いは流れ着いたのが、北部九州や山陰海岸そして越前等である。名高い海の民には、のちに安曇族や宗像族などと呼称される人たちが活動し航行権を握っていた。
 それは日本海の対馬(黒潮)海流とも関係していた。こういう人たちは当初、和邇族といわれている。のちに和邇族は、漢字と儒教を伝えたとされる王仁を含む功績が付与されるが(『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師)、一方で畿内を中心としてワニ、つまり和邇・王仁族も実在した。彼らは百済系ともいわれる古い人たちであり、のちには畿内の中心勢力ともなる。
 同時に海を自由に往き来する人、一部は漁業、一部は交易に従事したり、あるいは海賊であった。北部九州には「宗像族や安曇族などの古い海人族」それに対峙して「宇佐族」もいた。
宇佐族と稲作
 大陸や半島から紀元前には既に稲作がもたらされた。そうした伝播者を農耕者という意味で「菟狭族」と呼んだ。彼らは対馬海流の流れにそって日本海の広く九州から遠くは北陸あたりまで、新たな土地を求めて到達した。移動するのに農耕族には海を渡る術はもっていなかった。海を渡るためは海人族の世話になった。
 ウサギが海を渡るということは、陸の作物、あるいは技術を担う者達の移動を意味している。弥生時代のある時期において、大陸から、或いは半島経由で稲作がもたらされ、人口も爆発的に増加した、そういう時代に農業の伝播に寄与した人たちがいた。
ウサギとワニの争い
 農耕民族の渡来に関しては、船を操る海民とのあいだにトラブルが生じ、争いが起こった。ウサギとワニの性格と対立は、違った職域におこる性格の違いによるものだ。
 この交渉や対立は常に九州から北陸にいたるまでの日本海側の各地において起こったときは調停が必要とされた。地方の権力者(実力者)の大国主命が、その調停を実施し、当初劣勢だったウサギ(農業族)が復活した。
 神話のウサギは九州の「ウサ族」からきて、ワニは若狭から畿内にかけて古くから勢力を持っていた「和邇族(九州にも散在する)」の両者の抗争をとりもった権力者が大国主命だった。
 ウサギ族の根拠地は九州にあり、山陰が東の限界であったが、大国主命の東征にからめて稲羽に根拠地を置いた。
 内陸部族のウサギは、遊泳術を持っていない。一方のワニ族は海洋を自在に往来できる術を持っていた。
神話に出てくる沖ノ島
 半島と九州を結ぶ線には玄界灘の「沖ノ島」があり、ここには「宗像大社」の沖津宮がある(宗像市に辺津宮、筑前大島に中津宮、宗像大社はこの三社の総称)。海民の宗像族と特別に関係があった。半島、対馬、沖ノ島と北九州は同じくらいの距離である。
 対馬海流に乗った場合、壱岐島に行くには海流に対してリードを取る必要がある
 半島と対馬のちょうど中間に位置しており、島のことを口外すると災いを招く、とされた。
 沖ノ島は「海の正倉院」とも称され、出土品の多さから見ても、この場所が渡来系の人々にとって、重要な場所であった。
隠岐の島
 沖ノ島は、「海の民の移動」に関して重要な位置にあった。比較的安定した対馬海流が流れており、この海流に乗ると、日本海側、特に島根県の隠岐諸島や出雲地方に辿り着く。時化や天候不順でも対馬海流の流れに乗り、渡来系の人々が、島根県の隠岐諸島を経由して、出雲や因幡にやってきた。
 『古事記』の「淤岐嶋」を「隠岐の島」と解釈するのは出雲族の存在があったであろう。宗像族をはじめとする海民が山陰までその勢力を保っていることは当然だが、農耕民や職能族もまた九州から本州の方へ移動したであろうし、また大陸から山陰へ直接移入されてきた。隠岐の島を経由するルートがあった。
結 論
 農耕民が移動し海民との間で悶着があったのは、一度や二度のことではない。ときには大きな事件があった。ウサギ(族)が皮ごと剥がされて、瀕死になったということは、農耕族のある時の壊滅を意味し、オホアナムチは出雲族の象徴であり、山陰においては出雲族が抗争の調停を担当した。
 復活は大国主命に象徴される出雲族によってもたらされた。それは農業や職能の優遇であり、そのことによって出雲あるいは山陰が栄えた。
 ウサギは兎神になるが、これも出雲族によって祀られたものであり、いいかえれば、宇佐族の復活であり、多分宇佐神宮として海民の影響力の強い九州に位置づけられた (宇佐神宮と出雲大社の神前での拍手は四拍手で特異)。九州の海民、宗像族に対抗して、大分に宇佐宮を作ることにより、海の民との対決、あるいはその後の融合・融和を図った。
 海民はその後も活躍し健在した。一般化した農耕民よりも、各地に海部・和爾・安曇・渥美・安積などとして痕跡を残している。宇佐族たちもそれぞれに発展していったであろう。弥生時代の稲作の成果は実績であり史実である。

建速須佐之男命(素戔嗚)と大国主命
 大国主命は、素戔嗚の息子とも素戔嗚の六世の孫または七世の孫などとされている。
 出雲の鳥髪山(現在の船通山)へ降った素戔嗚は、その地を荒らしていた八岐大蛇への生贄にされそうになっていた櫛名田比売と出会う。素戔嗚は斐伊川の上流で、八岐大蛇を退治した。
 八岐大蛇は「洪水の化身」などと解釈されることがある。八岐大蛇は水を支配する竜神を、櫛名田比売は稲田を表すと見做して、毎年娘をさらうのは河川の氾濫の象徴であり、八岐大蛇の退治は治水を表すとする。
 大蛇が毎年娘をさらったことは、毎年一人の処女が生贄にされたことを表し、治水の成功によりその風習を廃したことを表す、などとされる。
 島根・鳥取県境の船通山系を源とする日野川、斐伊川、飯梨川、江の川、伯太川などの川、およびその支流を頭が8つある大蛇に見立てたとする説もあり、これらの河川を一部の研究者は「オロチ河川群」と呼ぶ。島根県斐伊川流域はたたら吹きによる土砂排出によって天井川となり、度々洪水を起こしている。洪水後には蛇の鱗を思わせる砂洲が幾条も生じることがあるため,これが大蛇として神格化された、などと説明される。

参考資料 : 鳥取大学2007地域文化調査報告書
        「因幡のシロウサギ神話・東郷の羽衣伝説そして湖山長者」
          担当教員   門田眞知子 豊田久