「川床から大休峠」の敗退と大山

2013年3月


 木地師の集落跡「川床」から阿弥陀川を渡り、歴史の大山道から大休峠の避難小屋にて、一泊し甲ヶ山そして野田ヶ山をへてユートピア、元谷へと歩く予定であった。
 3月29日朝、豪円山下に車をデポし中の原、上の原スキー場下の車道を歩く。スキー場の一部に雪があった。大山道を歩くため烏栖左摩明王の先でスキー場の中にある道を歩くと、石段の現れるあたりは雪に覆われ倒木もあり、仕方なくスキー場外れの東側にある斜面を下り、もう一度車道に出て川床に向かう。香取への車道は数年前の水害の復旧工事の機械音がする。
 川床には木地師が寛延2(1749)年ころ住み始め、明治の半ばまで生活し、大山道を歩く旅人に潤いを与えながら、木地師としての生活を営んでいたのだろう。屋敷跡の平たい地面が数面あり木々の間に埋もれている。登山道の案内板の近くには、苔むした墓標がみられる。墓標には天保から明治初期までの刻年が読み取れるという。
 標識から沢に降りるため少し歩くと、大山では珍しく、常に水が流れる阿弥陀川にかかる橋を渡る。
 橋から急な道を登る。今回は、残雪期であり、台地に上がるまでは、夏道通りに歩くことが出来るので、大山道を選んだ。
阿弥陀川の壁をトラバース気味に一気に高度を150m程稼ぐと、雪道を歩くようになった。岩伏分れの分岐までは、順調に歩けた。ここで一度小休止を入れた。豪円山下から、歩き少し疲れが出てきた。
分岐の周辺は、残雪で覆われてはいるが、道は明瞭に判別できた。
なだらかな道を歩き、東大山県有林の分岐を通過すると、木々の梢につけられたマーカーを探しながら、古い踏み跡を見つけて歩いていく。左手前方に甲ヶ山の顕著な稜線が見える。急峻な南向きの岩壁には、雪がついていない。小矢筈の頂は雲の中に隠れている。甲の北側の勝田ヶ山も雲の中。歩いていると霧が濃くなってきた。
霧が雨に変わってきた。ブナの根元にザックを降ろし、雨具を付ける。ザックから雪輪の付いたストックを外して両手に持つと歩き始める。数年前に歩いた地形を思い出しながら、登山道を忠実にたどろうとする。
霧雨状態で視界は、50メートル位から数メートルと悪くなってくる。それでも赤いテープや色褪せたテープが心強い。そして、かすかではあるが輪かんの跡もかすかに残っている。
残雪の雪原を歩くと、倒木や埋もれた木々が道をふさぐ、回り込んでは進路を維持していく。突然足が雪に潜り込む。もがき出て雪の上に姿勢を保つ。沢の部分で大きく回る地点で必要以上に上手に大きく回り込む。雪渓の上の通過時に、雪の下の空洞に体を落とさないようにと考えたが、先の道に引き返そうとするが、マークも踏み跡も見えない。
視界は十数m位で、あまりよくない。少し東寄りに回り込んでは、高みにと道を選んでしまう。甲川に近づくと危ないとの意識が強いため、西側に寄り気味に登ってしまう。
歩いているうちに、見慣れない沢や尾根が右手前方に見えてくる。
大休峠に向かう道には無い風景が見えてきた。これは道を間違えたと、自分の踏み跡を引き返す。
確実な地点まで引き返して、冷静な目で探すと左手下側にマークを見つけた。木々を避けるため必要以上に右に進みすぎている。
沢は登より、下りが怖いという意識があるため、どうしても右上に上がりすぎる。
ようやく見つけた正しい道を登り始めて、しばらく歩いていると、自信が無くなってくる。友人が大休峠に行こうとして、野田ヶ山の頂に登ってしまった事があるという。俺も野田ヶ山に向かっているのだろうか。そして米子の人が甲川沿いに歩き遭難した話も思い出した。
また引き返して、マークを見つける。踏み跡はかすかに残っているが、雪形は、雪解けのために見つけにくくなっている。
雨が降り続く。寒さ対策は十分しているし、洋服に湿気は感じていない。ビバークは出来るよう準備している。
登り、下り、広い雪原を右往左往して進んでいる。またしても見慣れない急激な斜面が右手に現れた。コンパスを取り出して、東方向に進み、そして東南方向にと進路を取るが、はっきりとした進路が見いだせない。
ザックを降ろし、行動食を採ると、全身に活力が湧いてくるのがわかる。コンパスを確認する。慎重に進路を決めて歩き始めると、マークを見つけることができた。思いザックに肥満体の体重で、雪面を突き破り、足が潜り込む。体力の消耗戦が始まった。
何回となく道を誤り、視界の悪い雪原をリングワンデリング状態に入っているのが分かる。行き当たっては、引き換えし。自信が無くなっては、引き返す。
ここで、考えた。小屋まであと数百mも無い。せいぜい200mいないだろう。雨と霧さえなければ、視界さえ戻れば、2時間、いや1時間以内に小屋に入ることが出来る。ビーバークに入ることも可能だ。ツエルトもある。寝袋も厳冬期用、レスキューシートや、冬山でも大丈夫なように準備してきた。輪カンは持っていない。
ついに、川床に引き返すことに決心した。今日中に甲ヶ山を往復し大休小屋。翌日、野田ヶ山を越え親指ピークを通過して、ユートピア経由で元谷小屋へ行く計画を断念した。
もう一度、行動食を採ると、手探り状態で、もと来た道を探しながら下る。
 ここは、引き返した地点だ。右下が正しい道。歩いてきた道と、確認しながら下る。視界は悪いが、自分の歩いてきた道、ストックの跡も残っている。
 東大山県有林の分岐を過ぎると安心から疲れがどっと出てきた。顕著になった道を進み、岩伏別れから急激に下る朝の道を下って行く。
 阿弥陀川の橋を渡り、岩に付けられた階段を登ろうとして、右足に急激な痛みが走って足を動かすことが出来なくなった。コムラ返しのような症状が出て、数分間ストックと岩に手を置いたまま、息するにも辛い症状が全身をはしる。
 これまで経験したこともない症状だ。標高差にして300m程を上り下りした程度だが、右往左往したことで、足に疲れが残りまた、冬山に近いほどの重装備があだとなって体をくるしめたのであろう。登っているうちは、クライマーズ・ハイになり、高揚し疲労をかんじなかったのだろう。数歩進んでは、痛みに耐えて立ち往生する。ようやく、墓場のある地点まで帰り着いてほっとする。
ザックを木々の間にデポして、林道をスキー場目指して足を引きずる感じでゆっくりと歩く。烏栖左様明王の手前で巡回中のパトカーに追い越される。ここで乗せてくれたら楽になるのに等と、気弱な心がささやいてくる。
駐車場に帰ると、川床まで車走らせ、ザックを回収する。
こうして、残雪の徘徊が終わった。
翌日は、夏山登山道から頂上へ、そして行者谷を下り、元谷小屋経由で大神山神社、大山寺と下った。大休峠に向かって歩いた時は、霧から雨と、デジカメを取り出すことが出来なかった。
今回の写真は、夏山登山道からの写真が中心にしています。
自宅に帰ると、友人に電話して、登山用のナビを注文した。友人は、松江市内で登山用具を扱っている「アウトドア菊信」の社長だ。ナビは登山道から数メートル離れると表示が出るほどの正確さで、雪原にある埋もれた三角点も簡単に探せることが出来るという。
今、わくわくしながら待っている。
大山道については、私のホームページで紹介しています。
参考にしてください。
岩伏分れは、2か所あります。川床から上がった911mの三角点?と980mとです。国土地理院の25000分の1には地名が出ていません。
   大山山頂から
   霧氷
   
 夏山登山道三合目 1300m地点でアイゼンを装着 六合目の小屋 
    
草鳴社ケルン 草鳴社 ケルンからの北壁
   
頂上小屋  頂上から南壁 
   
屏風岩  登山道の霧氷