大山屏風岩 正面カンテルートの敗退の前後

1972年(昭和47年)

1972年1月14日金曜日
米子駅前から最終のバスに乗り大山寺にあがった。
いつもなら軽食堂「キャラボク」でコーヒーを飲みながら、防寒装具を身に着けて歩き始めるが、今晩は早く締まり、店の電気も消えているのであきらめて通過する。
大神山神社への参道は巨木の杉並木が続く。厳冬期の深夜でも一人でこの道を通り元谷小屋に登っているので、木々の一本一本の形まで覚えている。神社の本殿前にザックを下すと、休憩と神に今回も登山の無事を祈る。
Wのズボンとオーバースパッツ装着する。手袋を着けザックを担ぎあげて、本殿を右に回り込み、大神山神社裏から杉の大木の中を進み、下宝珠越の分岐から林道に突き上げる沢を登る。
ここまで来ると踏み跡は残っていない。膝上のラッセルで進んで行く。
沢は右によると急な雪壁になり林道に出るのに苦労する。左側に寄りつつ登り大きな二本杉で林道に出た。
林道は風のためほとんど雪は吹き飛ばされているので、歩きやすい。2・3度大きく回り北壁の見えるところまで来た。
月は出ていないが、急峻な北壁の岩尾根が雪明りのためによく見える。
壁は大きく立ち、威圧的にさえ見える。見慣れた壁だが今日は一段と凄んでいるように見える。

 
凍てつく屏風岩 左が氷壁の天狗沢 

林道が終り、大堰堤から右手前方に進み、樹林帯の中に入り元谷小屋の前に来たが、窓には明かりが見えない。
ザックを担いだまま土間に入ると大きな声で「こんばんは」と挨拶するが、人の気配がない。
天狗の間や三鉾の間を覗き見るが使用している様子もなく凍り付いている。
天狗の部屋に入り、ザックを下す。ナイロン袋を持ち小屋から離れた所の雪を取ってくる。
部屋の壁に登攀用具を吊り、エアーマットを膨らませて、羽毛服を着込み半シュラに入ってコンロに火をつける。
水を造りながらブランデーのVOを飲みながら友を待つ。
小屋に居ると、突然の入室に驚かされるが、今夜は人が待ち遠しい。
友人は少し遅れて小屋に来ることになっていた。二人で北壁を登る予定で入山した。登る壁やルートは決めていなかった。
天狗沢か屏風岩を登るつもりだった。しかし、深夜になっても友人の入山がなく、15日の朝を迎えた。
今朝は快晴ですごく冷えて、元谷小屋の周りの雪もよく締まっている。
1月の天狗沢は下部と上部が氷結し氷の具合もいいだろうと、一人で北壁の左寄りの天狗沢目指して登って行く。
今日の北壁は俺一人のようだ。
F1も凍結しサレワのアイゼンもよく効いた。バイルとピッケルで難なくこなし、F2の出口が氷結のためハング気味になっているので、スクリューのアイスハーケンねじ込んで突破する。
回収しようとしたが出来ずに残置してしまった。
翌16日も快晴。今日も俺一人。昨日のアイスハーケンを回収するため、また単独で天狗沢を登った。
この2回の単独登攀が問題となった。
1月22日の土曜日、元リーダーと現在のリーダーが、元谷に上がってきた。
その時「所属山岳会員としての、一時活動停止等の謹慎」を言い渡された。
当分の間、会の計画する登山に参加させないという通知だった。
その頃 俺たちの山岳会が次の時代に移りかけていた時だった。
リーダーが結婚し、第一線から退いたのと、次のリーダーが1971年秋、大屏風岩の東壁において40mの墜落したため、岩登りから遠のき、SUGIも会社を退社し独立し起業した。
偉大だったリーダーの影響が無くなると、会の衰退も早かった。
そして周りの会との付き合いも変化していった。
リーダーが不在となったため、1971年夏の穂高の合宿を最後に活動が休止状態だった。
当時大山の元谷小屋に集う一匹狼を数名準会員として一緒に活動していたため、山陰の弱小山岳会の中でも俺たちの会(仲間)は実力はあった方だが、3名の退会(?)は、響いた。
そして俺、UEと入会したてYOSIだけとなってしまった。会としての活動が取れなくなった。
俺が一番岩壁の経験があるため、UEやYOSIを鍛えたが、いかんせん山陰の片田舎である。

   
凍てつく岩壁登攀中の俺  ハングを突破した俺 

1月22日の活動停止の話を聞きつけた、以前から付き合いのあった松江の連中が、直ぐに連絡をくれた。
2月10日に元谷小屋に集合して、KFとSZの三人で大山屏風岩を登ろうということだ。
その夜、元谷小屋の天狗の間には四国のOGさん、安来の一ちゃん。松江のKF・SZそして俺と5人だった。
その当時では、北壁の屏風岩の難しいとされる「正面カンテルート」だ。
今回は上部のカンテを登るため、西ルンゼから鏡岩のルートを登り、鏡岩の下部を40mトラバースし、上部のカンテの下にたどり着くものだ。
正面カンテルートは、港ルート取り付きから少し右に移動し登るのだが、KFが今回のルートを主張した。
壁の中でのビバークも考慮して準備を完了する。
早朝、我々はOGさんたちに見送られ、屏風岩を目指してラッセルする。
OGさんらは、行者谷から頂上に登り縦走して元谷に帰るので、稜線で出会えたらと、話し合っていた。
交代でラッセルをする。SZがトップで登り始めた。いつもSZのラッセルには参ってしまう。
馬力があり、大柄だから一歩一歩の段差が違う。後に続くのに、またラッセルをしなくてはならない。
屏風岩からのチリ雪崩のため、すごい傾斜になった斜面を真っ直ぐに進み、屏風岩の下まで腹まで埋まるラッセルとなった。
天候が崩れて、吹雪となり視界が10mもない状態になった。
天狗沢や元谷沢からの雪崩を警戒し、屏風岩基部の中央を目指して登り、壁の真下に着くと、右に移動しリッジを巻き固い雪の西ルンゼを詰めて、岩場にぶち当たって、初めてザイルを結ぶ。
ザイルは、トップは俺、ミッテルはSZ、ラストKFと結んだ。
1P目、俺がトップとなり壁に取り付く。左斜め上にザイルを伸ばし、テラス状の所から尾根上に進んで、SZに来てもらう。
そのすぐ後をKFが追いかけるように登ってきた。この時には風が強まり視界は5m位となった。
次のピッチはKFがトップでラストは俺と入れ替る。
鏡岩の大トラバースはKFがリードする。ザイル一杯、ハーケンも打たずにトラバースして、警笛が聞こえてきた。
屏風の中央を大トラバースするという、ルートを進む喜びに浸りながら、数か所の微妙な地点を、ラストの俺が引っ張られるように進んだ。
ここで落ちたら3人とも死ぬと思うと慎重になる。
ザッテルからKFがトップでカンテに向かう。最初の10m位は、氷と岩壁のフリークライムだ。
KFはスルスルとザイルを伸ばして進む。体調が良いのか登攀の感覚を取り戻したのか、不安感無く高度を稼いでくれる。
グレードA1の人工の部分を登っている。
アイゼンでアブミを使うと数センチは大きく足を上げる必要があり、A1はA2くらいになる。KFはザイル一杯登って確保の体制に入った。
KFに確保されSZそして俺と登って行く。KFはアブミの上に乗って確保している。
俺が登って二人を見ると、羽毛服をヤッケを上に羽織っている。
吹雪で視界の悪い中、おれがトップを受け持つ。ハングの上の小さなスタンスを求めて左上にトラバースして行く。
残置ハーケンにザイルをセットして、カンテを回り込んでいよいよ上にルートを求める。
数m登って、詰まった。ハング気味になった部分でルートが見つけられない。
下から様子を聞いてくるが、初めてのルートであり、窮状のみ伝え、そうしてあがいていると1時間は頑張ったと思う。
足掻いている俺は、温かいが、下の二人は停止したままで、寒さとの戦いが続いていた。
ザイルが伸びて行かないので、KFが登ってきた。KFにルートはこれでいいか聞くと、上部を見あげたKFは
「ルート(壁)が崩壊している。ハングも倍くらい大きくなってる。」と言い出した。
ルートが無くなっていて、ハーケンを打てないハングした部分で、苦闘を続けていると、KFが俺に降りてくるよう言ってきた。
先にKFが俺の確保でクライムダウンしていく。次にSZが下り、トップの俺が下る番が来た。
ハングして斜め下に進むのは、非常に難しい仕事となった。
一刻も早く下りたいのだが、下れない。アブミを使い何とか下って行くが次のピンまで届かない。
ザイルを使用してラッペルで下るが、壁がハングしていてアブミに乗ったままで、体は空中に出たままの状態になり、壁に帰るのに手が届かない。
SZが懸命に手を伸ばし、ピッケルやバイルを使い接触しようとするが数センチほど届かない。
ザイルは右の壁から俺のアブミのピンにあるため、ピンが抜けなければ落ちる心配はない。
空中に揺れる体を利用して足掻く。
KFはSZを確保して俺の救出に当たらせたが、にチャンスを与えてくれる。
アイガー北壁の遭難したトニー・クルツとおんなじ状態になったようだ。
吹雪の中の戦いは続き、ザイルに託して大きく振れた体がやっとSZに引き寄せられ、KFの所に降りることができた。
上のピンにセットしたアブミ2台は残置するしかなかった。(このアブミは、その年の夏まで双眼鏡で確認することが出来た。)
3人がザッテルに合流した。KFは、
「終了点まで後20mしか無いのだが。ワナに嵌った」と言っている。
夕暮れの中を鏡岩の逆トラバースをKFがザイルを伸ばす。SZを右左に分かれて二人が確保する。
SZがトラバースを完了したのか、分からないまま数十分過ぎる。
俺たちはザイルの操作の場合ホイッスルを使用していたが、吹雪の音でかき消されているのか、一向に
「確保完了スタートせよ」の信号が来ない。
緊張する場所があるのか、俺の手元のザイルも数m残されたまま伸びの回収もないままである。
警笛の合図が聞こえない。吹いても応答が無い。
しびれを切らした俺は、ザイルが緩んだ状態でトラバースを開始した。
微妙なバランスで下り、大きく足を降ろす段差の所で、短く強く警笛を吹くと、ザイルが勢いよく引かれ、ようやくコンタクトが取れ、やっと三人は合流した。
KFは、「雪に覆われたバンドを斜めに下りて行く時、落ちるなら落ちろと半ばヤケクソだった」という。
俺が二人に確保してもらい凍りついた壁を下り。西ルンゼの雪の上に立った。
SZが下ってきて、最後にKFが降りてきた。
西ルンゼの取り付きでザイルを解き、固くしまった雪の斜面を這うように下り、屏風岩の基部を中央寄りに移動し、真っ暗になった大ガレを尻セードで一気に下降し、山下ケルンまで三人のデッドヒートが続いた。
20時頃に元谷小屋に帰りつくと、OG達は、こんなに遅くに帰ってきたので登攀が成功したものと思い「おめでとう」と喜んでくれた。
OG達は、俺たちを稜線上で出迎え、回収するため遅くに小屋を出て、稜線でしばらく待った。
屏風の尾根を見たが、人影もトレースも無いので、天狗の頭を通過して元谷小屋にて待つために下ったという。
俺たちの疲れ切った姿と落胆した状況を見て、「遅くまで頑張った。仕方がない。」と慰めてくれた。
その後、会の低迷が続いたが、八ヶ岳の厳冬期単独縦走、UEとの滝谷登攀、穂高屏風岩や前穂東壁の登攀、大山北壁から船上山、KFとの屏風岩緑ルート登攀、断魚渓の岩場や近くの岩場にルートを開いたりしたが、それも今一歩の登山だった。
ある年の4月26日UE、TUNOそして俺の3人は同じ日に結婚した。
その年、俺は結婚し帯広に転勤した。

 
ハング上で悪戦苦闘中の俺 

アイガー北壁での「トニー・クルツの遭難」を紹介する
山岳図書「白い蜘蛛」は素晴らしいアイガー北壁登攀記である。
著者は、映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」の主人公ハインリヒ・ハラーである。
ハラーは1938年7月24日、アンデレル・ヘックマイヤー、ルートヴィヒ・フェルク(ドイツ人隊)と、ハラー 、フリッツ・カスパレク(オーストリア人隊)の両隊は、相前後して登攀開始した別々のパーティだった。
後から登攀を開始したドイツ人隊がオーストリア隊に追いついた時点で同一パーティを組み、初登頂に成功した。
そのアイガー北壁を初登攀した自身の回想の他に、初登攀以前と以後の登攀・遭難・救助の記録も、躍動感ある力強い文章で書かれている、吹雪、氷壁、落石、雪崩の中における、生死の境で登攀をつづけるクライマーの壮絶な姿を記録している。
その図書の中に、トニー・クルツ(以下「トニー」とする。)の遭難の状況が記されている。
1936年トニーとアンドレアス・ヒンターシュトイサーの二人は、節約のためにドイツからアイガーの麓の町(グリンデルワルト)まで700kmを自転車で移動する。
7月18日、ドイツのトニーとヒンターシュトイサー。オーストリアのエディー・ライナーとヴィリー・アンゲラーの2隊が競いながら登攀した。
ヒンターシュトイサーが第1雪田の下の難しいトラバース(ヒンターシュトイサー・トラバース)を突破した。
自分たちが張った、このトラバース用のザイルを回収して登って行く。
しかしアンゲラーが負傷したことから2隊は助け合いながら下山することを決定、天候の悪化からビバークを余儀なくされる。
7月21日、トラバース用のザイルを回収したため退却できず、何とか脱出を試みるもクルツを除く3人が墜落等で相次いで死亡。
麓から救助隊が動き始めるが、アイガーの氷壁を攀じて救助することは技術的にも時間的にも困難となり、唯一の救助方法は、アイガーバント駅から救助隊が近づくしかなかった。
クルツも救助隊の元に下ろうと、全てのザイルを繋ぎ懸垂下降を始めたが、カラビナにザイルの結び目が引っかり、ザイルにぶら下がったまま、7月22日クルツは力尽きる。救助隊まで僅か数m上であった。
クルツの遺体は数年間このままぶら下がったまま晒されてしまう。

 
 氷壁が終了し確保中のKF

俺たちがやっていた、登攀時の警笛による合図
長 音    :  「確保完了」又は「スタート」
短音一回   :  ザイルを張れ、引け。
短音数回   :  ザイルを緩めろ。
肉声が聞こえなくなると、警笛による合図をする。
トップが緊張する場面(落ちそう)では、短音一回が聞こえると、確保者はザイルの緩みを少なくし、墜落距離を短くする。
登攀時に余裕があり大きく(早く)行動できるときは、短音を数回吹いて、ザイルを緩めて行動の幅を作る。
トップが登り切って確保地点に着くと「単音数回」で、確保者はザイルを緩める。
トップが確保の体制を取り終わると「長音を吹く」。登ってこいとなる。
ラストは「ピッ」と単音1回。ザイルを引いて(回収して)もらう。
セカンドは確保を解き、スタート出来るようになると、「長音」を吹きスタートしたことを伝える。
長音が聞こえると長音を返す。単音が聞こえると単音を返し、了解の合図となる。
ラストが登る際は、時間短縮の為、常にザイルは引き上げ気味に回収する。