紫電改(しでんかい)

   「紫電改」は、大日本帝国海軍が第二次世界大戦中に開発した戦闘機で、水上戦闘機「強風」を元に開発された戦闘機が「紫電」であり、その改良型の二一型以降の機体を「紫電改」と呼ぶ。
 局地戦闘機「紫電」は、もともと中翼であったが、紫電二一型はこれを低翼に再設計した機体である。また「紫電改」の名称は、試作名称の仮称一号局地戦闘機改が一般化したもので、本機の制式名称は紫電二一型である。
 昭和18年(1943)以降、「零戦」の後継機「烈風」の開発が遅れ、その対応策で迎撃戦向きの局地戦闘機でありながらも、海軍の制空戦闘機として運用され、19年以降の日本本土防空戦で活躍した、日本海軍の制空戦闘機であった。
紫電改に対する評価は大きく分かれているが、人気の高い機体である。
 米軍は、紫電改は正面から見ると低翼であり、紫電とは別機と認識されていた。日本海軍の搭乗員は紫電が「J」、紫電改が「J改」と呼んでいたが、当時から「紫電」・「紫電改」と呼んでいたともある。343空の戦時日記には「紫電改」「紫電二一型」の記述もあり、実際には統一されていなかった。
用 途:戦闘機
分 類:局地戦闘機製造者:川西航空機(以下、川西。現新明和工業)
運用者:大日本帝国海軍
初飛行:昭和17年12月27日
生産数:1,422機(紫電と紫電改の合計)
退 役:昭和20年8月15日

強風から紫電へ

 昭和16年末、川西は水上機の需要減少を見込み、次機種を討議した。二式大艇の陸上攻撃機化、新型艦上攻撃機開発、十五試水上戦闘機(「強風」)の陸上戦闘機化の三案を検討した結果、十五試水上戦機陸戦案が決まった。
 川西は12月28日に海軍航空本部を訪れ計画を提案。三菱の局地戦闘機「雷電」と零戦の後継機「烈風」の開発遅延に悩んでいた日本海軍は川西の提案を歓迎し、17年4月15日に「仮称一号局地戦闘機」として試作許可を受けた。
 「強風」は甲戦(航続距離や格闘性能を重視した戦闘機)とし、「風」の字を含んでいるが、陸上戦闘機化された機体は乙戦(火力と上昇力に 優れた戦闘機(主に局地戦闘機)をさす。)扱いとなり、「電」の字を含む「紫電」の制式名称が付与された。
 完成を急ぐため強風の機体を流用しようとしたが、「誉」へ換装し、尾輪を装備したことなどから、機首部の絞り込みや機体後部が大幅に変更され、そのまま使用できたのは操縦席付近のみであった。しかし主翼については、車輪収容部分を加えた他はほぼ原型のままで、層流翼が強風より引き継がれている。自動空戦フラップも装備していた。
 17年12月27日に試作一号機が完成し、12月31日に伊丹で初飛行を行ったが、当初から「誉」の不調に悩まされた。川西は「紫電ではなくエンジンの実験だ」という不満を抱き、「完成していない『ル』(誉の略称)の幻を追って設計された」。
 紫電は「強風」の中翼形式を継承しており、主脚を長めに作らねばなず、二段伸縮式の構造を採用し、試作型では主脚を縮めるのに1-2分かかり、後に20秒に改善された。(脚部収納時間、零戦12秒、紫電改9秒)
 離着陸時の事故の多発、前方視界不良、米軍新鋭機に対する速度不足などの問題は紫電につきまとった。計画では最高速度653.8km/hが、実測値は高度5,000mで570.4km/hであった。上昇力は6,000mまで7分、航続距離(増槽なし)全力30分+巡航(高度3,000m、360km/h)で3時間弱だった。速度低下の原因は、100オクタン燃料(有鉛)のかわりに92オクタン燃料を使用したこと、翼下面に20mm機銃のポッドを装着したため空気抵抗の増大等があった。
 試作機は、問題未解決のまま18年7月24日に海軍に領収され、8月10日に「紫電一一型」として量産が命じられた。これは、零戦では米英軍の新鋭戦闘機に太刀打ちできず、局地戦闘機雷電の実戦配備が遅れたことによる。
紫電から紫電改へ
 紫電一一型は満足できる戦闘機ではなく、紫電の試作機が飛行してから5日後の18年1月5日には、紫電を低翼化した「仮称一号局地戦闘機兵装強化第三案」の設計に着手した。海軍は川西の計画を承認し、3月15日、正式に「仮称一号局地戦闘機改」の試作を指示した。12月31日、試作一号機が完成した。
 試作機は主翼配置を低翼とし、「誉」に合わせて胴体絞り込み離着陸時の前下方の視界も改善され、紫電に比べてスマートな印象となっている。また紫電改の防弾ガラスは、厚さ20mmの硬化ガラスを3枚積層している。
 二段伸縮式主脚も、主翼の低翼化に伴って廃止された。同時に部品点数を紫電一一型の2/3に削減して、量産性を大幅に高めた。
主翼の外形は強風・紫電一一型と同様であった。また紫電では20mm機銃2挺をガンポッドとして主翼下に外付けしたが、紫電改では紫電一一乙型と同様、4挺とも翼内装備とした。
 また零戦が採用した「操縦索の剛性低下」と同様、低・高速度域における操舵感覚と舵の効きの平均化を可能とする腕比変更装置が導入された。「強風」以来の自動空戦フラップも装備し、改良により実用性を高めている。
 紫電をテストした志賀は空戦性能の向上を評価。一方、三四三空で紫電一一型の教官を務めた坂井は、「油圧機が誤作動する」「旋回性能は良くなるが、作動の面で信頼性に欠けた」「舵が効きすぎた時の修正が難しい」と評価していない。田中や、川西設計課長の菊原も、試作機や初期量産型紫電において自動空戦フラップのトラブルが続出したことを認めている。この初期欠陥は順次改修され、実戦に配備された紫電、紫電改において故障は皆無だった。
 自動空戦フラップだが紫電改では作動確実とし、20年2月17日における紫電改での実戦でも有効に活用し米軍機を撃墜している。笠井兵曹も、4月12日喜界島上空の戦闘で米軍機と格闘戦を行い、自動空戦フラップの絶大な効果を体感している。その一方で、熟練搭乗員の中にはフラップ作動による速度低下を嫌い、自動空戦フラップを使わず空戦に挑んだ者もいた。
 零戦の弱点であった防弾装備の欠如に関し、紫電改は、主翼や胴体内に搭載された外装式防漏タンク(防弾タンク)や、自動消火装置を装備した。
 操縦席前方の防弾ガラスは装備されていたが、操縦席後方の防弾板は計画のみで実際には未装備だったとされている。ただし、防弾板が装備された機体を目撃したという搭乗員の証言もある。
19年1月、志賀少佐が紫電改のテスト飛行を行い「紫電の欠陥が克服されて生まれ変わった」と高い評価を与え、急降下テスト時、計器速度796.4km/hを記録し、零戦に比べて頑丈な機体であることを証明。日本海軍は「改造ノ効果顕著ナリ」と判定し、4月4日に全力生産を指示する。19年度中に試作機をふくめて67機が生産された。20年1月制式採用となり「紫電二一型紫電改」が誕生した。
 戦況が悪化し、零戦に替わる新型機を装備できない海軍は焦りを感じ、そこで乙戦でありながらも甲戦としても使える紫電改を高く評価した海軍は開発中の新型機を差し置いて、本機を零戦後継の次期主力制空戦闘機として配備することを急ぎ決定。19年3月には三菱に雷電と烈風の生産中止、紫電改の生産を指示した。
 航空本部は19年度に紫電と紫電改合計で2,170機を発注、20年1月11日には11,800機という生産計画を立てた。しかし空襲で計画は破綻し、川西で紫電改406機(強風97機、紫電1,007機)、昭和飛行機2機、愛知2機、第21航空廠で1機、三菱で9機が生産されたに留まる。
強風・紫電
十五試水上戦闘機/強風一一型、仮称一号局地戦闘機/紫電一一型、紫電一一甲型、紫電一一乙型、紫電一一丙型
紫電改
仮称一号局地戦闘機改/紫電二一型
 紫電改の最初の量産型で99機生産され、51号機以降は20mm機銃の取り付け角度を3度上向きに変更。爆弾投下は手動式。
紫電二一甲型
 二一型の爆装を60kg爆弾4発または250kg爆弾2発に強化し、垂直安定板前縁を削り、面積を13%減積した。操縦性と安定性のバランスが改善された。
 生産機101~200号機。
試製紫電三一型
 爆弾投下器を電気投下式に改良し、発動機架を前方に150mm延長し、機首に三式13mm機銃一型2挺を追加した武装強化型。
生産201号機以降で、20年2月に少数が生産。
試製紫電改二
 試製紫電三一型に着艦フック、尾部の補強などの改造を施した艦上戦闘機型。
 19年11月12日、山本少佐の操縦で航空母艦信濃に着艦した。
 試作2機。
試製紫電三二型
試製紫電改三
 三一型の発動機を低圧燃料噴射装置付きの誉二三型に変更した型。鳴尾517、520号機のみ。
試製紫電改四
 試製紫電改三(試製紫電三二型)に着艦フックなどを追加した艦上戦闘機型。試作機が製作されたかは不明。
試製紫電改五
 二一甲型の発動機を次機艦上戦闘機となるはずであった「烈風」と同じ型(離昇2,200馬力)に変更し、13mm機銃は廃止され、機首の形状が変わった。
 完成直前に工場被爆によりテスト飛行中止。二五型、もしくは五三型とも表記される。
仮称紫電性能向上型
 発動機を二段三速過給器付きの誉四四型に換装した航空性能向上型。計画のみ。
仮称紫電練習戦闘機型
 二一型を複座の練習機とし、胴体は延長されておらず、速力若干低下。小数機生産。
紫電改鋼製型
 紫電改を鋼製化したタイプで計画のみ。重量が増大するため、翼端延長の予定。
諸元
 制式名称  紫電一一型  紫電二一型
 機体略号  N1K1-J   N1K2-J
 全   幅  11.99m
 全   長  8.885m  9.376m
 全   高  4.058m   3.96m
 翼 面 積  23.5m2
 翼面荷重  165.96 kg/m2  161.70 kg/m2
 自   重  2,897kg  2,657kg
 正規全備重量  3,900kg  3,800kg
 発 動 機  誉二一型(離昇1,990馬力)
 最高速度  583km/h(高度5,900m)  594km/h(高度5,600m)
 実用上昇限度  12,500m  10,760m
 航続距離  1,432km(正規)/2,545km(過荷)  1,715km(正規)/2,392km(過荷)
 武   装 主翼下ポッド20mm機銃2挺
(携行弾数各100発)機首7.7mm
機銃2挺(携行弾数各550発)
 翼内20mm機銃4挺
(携行弾数内側各200発、外側各250発)
計900発
 爆   装  60kg爆弾4発または250kg爆弾2発
 生産機数  1,007機  415機

紫電一一型
 零戦に比べて機銃の命中率が高く、高空性能・降下速度は優れていたが、鈍重で空戦性能は零戦より遥かに劣る戦闘機で、F6Fには手も足も出なかった。
 紫電がF4Fと酷似し、陸軍の誤射で撃墜されたり、逆に米軍機を誤認させて接近し撃墜した例もあり、また着陸時に油圧で二段式に縮めて格納する引き込み脚部のトラブルは深刻だった。
 紫電は数々のトラブルを抱え、米新鋭戦闘機に対しての優位も確保出来ていなかったが、第一航空艦隊で新編成される10個航空軍のうち4個(341空、初代343空、345空、361空)が紫電装備予定したが生産は遅れ、マリアナ沖海戦に参加できず、初代343空は零戦で戦い、345空、361空は紫電の供給もなく解隊された。
 19年1月に第341海軍航空隊に最初の紫電が配備された。8月から9月にかけて341空が台湾・高雄に進出し、10月にはハルゼー提督率いる第38任務部隊を迎撃した。10月12日、紫電31機と米軍機60機が交戦し、米軍機撃墜10、紫電14機喪失という初陣であった。11月、341空と201空はフィリピンに進出してレイテ沖海戦に参加する。紫電は米軍新鋭機との空中戦、強行偵察、米魚雷艇攻撃など多様な任務に投入され、消耗していった。
 20年1月7日、341空から特攻機・直掩機ともに紫電で編成された特攻隊が出撃した。こうして341空は紫電を失い、フィリピンから台湾へ撤退した。
 3月19日の戦闘にも7機の紫電が出撃し、1機が撃墜された。5月29日は戦闘403飛行隊6機の紫電がB-29を迎撃して2機を撃墜、7月8日には16機の紫電が50機のB-29、250機のP-51を迎撃して4機を撃墜し、劣勢ながら奮戦した。
紫電二一型(紫電改)
 太平洋戦争中盤の18年後半以降、劣勢の日本海軍は、連合軍の最新鋭戦闘機と互角に戦える戦闘機として紫電改は登場し、若手搭乗員や劣勢で戦ってきたエース達に大いにその登場を歓迎された。
 18年以降の連合軍新鋭機の登場の中、海軍は紫電の生産ラインを多少改変すれば生産可能であった本機を機体分類上は乙戦のまま、19年4月の段階で零戦の後継機として選定し、生産を指示した。この決定の影響により、分類上は迎撃戦闘機である乙戦のままであったのに関わらず、実戦では零戦に代わる制空戦闘機とされた。
 19年12月10日、速水大尉が搭乗する紫電改が、紫電6機と共に、F-13(B-29偵察型)の迎撃に出動した。これが紫電改の初陣とされる。
 20年2月17日、硫黄島攻略戦の前哨戦として米軍艦載機が関東地区に侵入。指宿少佐他3機の紫電改隊、空技廠から山本大尉他2機の試作紫電改が、零戦48機、雷電、紫電11機と共に迎撃。米軍機編隊を撃退した上で、紫電改隊(9機撃墜)は生還した。零戦は11機、紫電は1機が失われた。
 関西地区では、松山基地(源田大佐)で編成された第343航空隊(2代目。通称「剣」部隊。以下「343空」)に集中配備された「紫電改」と歴戦のパイロットを組み合わせ、改良された無線機を活用した編隊空戦法により大きな戦果を挙げた。

現存する機体
紫電
 紫電は3機が米国に輸送されたが、現存する機体は確認されていない。
紫電改
 1978年11月、愛媛県南宇和郡愛南町久良湾の海底で1機の紫電改が発見され、翌1979年7月に引き揚げられた。この機体は、昭和20年7月24日に約200機のアメリカ軍を迎え撃つために発進し、豊後水道上空で交戦した三四三航空隊の未帰還機6機の内の1機であり、戦闘301隊の所属機体とされる。
 フットバーの位置により、「空の宮本武蔵」と言われた武藤中尉機もしくは米田上飛曹機の可能性があるが決定的証拠はなく、武藤夫人は未帰還パイロット6名共通の遺品とすべきと述べている。
 引き上げ時、操縦席に遺骨はなかった。この紫電改が沈没した7月24日、附近の横島で20歳前後の日本軍搭乗員の遺体が回収されたが、関連性は不明である。
 引き上げには源田参議院議員(元343司令)が各方面に交渉し、また愛媛県議会も回収予算捻出を決定し回収され、遺族の意思により引き揚げ時の原型を維持する程度に補修・塗装され、日本国内で現存する唯一の実機として愛南町にある南レク馬瀬山公園の紫電改展示館に保存・展示されている。
 アメリカに は、接収された紫電改が3機存在し、川西5341号機はスミソニアン博物館の国立航空宇宙博物館。川西5128号機が国立海軍航空博物館(ペンサコーラ米海軍航空基地内)。川西5312号機は修復され、米空軍博物館(ライト・パターソン空軍基地)現在展示中である。
紫電改の評価
 紫電改と同時期に開発され、同じ発動機を搭載する中島飛行機の四式戦闘機「疾風」(以下、四式戦と略)と、紫電改の最高速度をカタログ上で比較すると、紫電改の方が劣っている。紫電改の試作時における最高速度は335ノット(620.4km/h)。水平全速で348ノット(644km/h)であった。
 四式戦初期試作機の最高速度624~640km/h、さらに推力式単排気管に改造された四式戦の後期試作機は、初期試作機より10~15km/hほど速い。昭和20年1月付けの「試製紫電改操縦参考書」の記述からも分かるように、紫電や紫電改の発動機である誉二一型は運転制限のため出力が定格より1割ほど低い状態であった。
 当然、試作機の最高速度も運転制限下で記録された。カタログ上、紫電改が四式戦に比べて30km/hほど遅いのは、四式戦のテスト時よりも誉の工作精度が落ち、燃料やオイルなども誉に適した物が使用できなくなったため、更に出力が低下した。
 また、川西が小型機製造に慣れておらず、主翼の表面仕上げが荒く、設計時に想定されたより抵抗が増えていた。量産機では主翼の工作不良により、当舵をしなければ直進飛行できない機体すらあった。
 同じエンジンを搭載し自重も同等とはいえ、翼面積は紫電系列が23.5平方メートル、四式戦は21平方メートルであり、紫電改のほうが大きな翼をつけている。紫電改は四式戦より空気抵抗が増える分やや遅く、かわりに揚力が大きくて旋回性能がよいということになる。
 スミソニアン博物館に展示されている紫電改の説明文に「太平洋で使われた万能戦闘機のひとつであるが、B-29に対する有効な邀撃機としては高高度性能が不十分であった」と書かれている。日本機に共通する欠点で、排気タービン過給器や二段式機械過給機を実用化できなかったためである。
 戦争末期には誉の工作精度が低下し、燃料、オイルなども誉に見合った物が使用されなかった。当時の日本軍の航空機エンジン用オイルは戦前にアメリカから輸入した自動車用エンジンオイルであり、その備蓄は終戦間際には既に底を突きかけ、期待された性能を発揮できなかったり、稼働率の低下を招いた。


紫電改
 この紫電改は、南宇和郡城辺町久良、長崎鼻約2百メートルの海底 41メートルのところに眠っていたが、昭和53年11月城辺マリンクラブ会員によって確認された。
 愛媛県は、機体を引き揚げ、慰霊の誠を捧げ、恒久平和を祈念することとした。
 「紫電改」は、当時最も優れた局地戦闘機紫電21型で、その全容は、 全長9.34m。主翼11.99m。高さ3.9m。装備重量4.86トン。時速620km。エンジン2000馬力。20㎜機銃4門を備え、独自の自動空戦フラップを駆使できる海軍航空の掉尾を飾る優秀な戦闘機であった。
 この「紫電改」は、旧第343海軍航空隊に配属され、昭和20年7月豊後水道上空で空戦したなかの1機であると言われている。
 県から委託を受けた藤田海事工業株式会社は、地元漁業関係者等の協力を得て、昭和54年7月14日引き揚げた。
 機体は全面フジツボに覆われ、破損箇所も見受けられたが、原形をとどめていた。
 県は、紫電改の製作に当たった旧川西航空機株式会社、現新明和工業株式会社航空機製作所に委託し、一部補修、防錆塗装を行った。
 終えんの地、久良湾が望見できるここ南予レクリエーション第3号都市公園内に、永久保存する。   (説明板より)

 この紫電改は昭和53年11月18日、久良湾で養殖イカダのアンカーを捜していたダイバーにより、久良湾の長崎鼻沖200m海底41mの地点で発見された。
 翌54年7月14日、県から委託を受けた藤田海事工業(株)と地元漁業関係者等の協力により34年ぶりに引き揚げられた。
 機体はフジツボに覆われ、破損箇所が随所にみうけられたものの原形はとどめていた。
 水中墜落でプロペラが4枚とも内側に90度に曲がっていることから、高度な操縦技術を持ったパイロットにより、海面上に不時着させられたと考えられる。
 紫電改を製作した新明和工業(株)(旧川西航空)により、一部補修・防錆塗装が施され、久良湾が一望できる南レク馬瀬山山頂公園で永久保存することとなった。
 この紫電改は、旧海軍第343航空隊に配属し、終戦間近い昭和20年7月24日、豊後水道上空で米軍機と交戦したうちの1機といわれている。
 その日、土佐沖に進攻してきた米機動部隊艦載機、戦闘機・爆撃機連合約200機が、呉・広島方面攻撃に来襲。
 これを迎撃するため大村基地から鴛淵大尉の指揮する紫電改21機が発進。
 宇和海上空で3倍の敵機と交戦し、わずか10分たらずで16機を撃墜した。
 しかしこの交戦で6機が未帰還となった。
海軍大尉 鴛淵 孝(戦闘701維新隊隊長)
            長崎県出身 享年25歳
海軍少尉 武藤金義(戦闘301新撰組)
            愛知県出身 享年29歳
海軍上飛曹 初島二郎(戦闘701維新隊)
            和歌山県出身 享年22歳
海軍上飛曹 米田伸也(戦闘301新撰組)
            熊本県出身 享年21歳
海軍一飛曹 溝口憲心(戦闘407天誅組)
            広島県出身 享年21歳
海軍二飛曹 今井 進(戦闘301新撰組)
            群馬県出身 享年20歳
                             (説明板より)

「紫のマフラー」の由来(元紫電改搭乗員 笠井智一氏の手紙より)
 昭和19年(1944年)12月、301航空隊の菅野隊長以下12~3名は、横須賀基地から松山基地に移動した。当時は301飛行隊のみで、407・701飛行隊は他の基地にいた。松山基地に移動と共に転勤者と合流、20名余の搭乗員は、12~3機の紫電改で猛訓練に励んだ。
 松山着任後の初めての外出で、大街道の小さな食堂へ4~5人で入った。
 食堂とは名のみで、食べる物は何もなく、持参の弁当のみだった。
 奥から優しい顔のおかみさんらしい中年の人が来て、「兵隊さん何もないのよ」と独得の松山弁。「はい、弁当を持っていますのでお茶を下さい」と。「お茶ならいいよ」と。弁当を食べながら、私達は紫電改の優秀さやフィリピンの特攻の話をした。横で聞いていたおかみさんは、「兵隊さんたち苦労したんやね。よく生きて帰れたね」と。「これから何処にいくの。変な遊ぶところなんか行ったらいけんよ。よかったら私の家でゆっくりしていったら」とのことで一服させてもらうことにした。畳の部屋に案内され、久し振りに畳の上での親切なおもてなしに感謝して帰隊した。このことが隊で一躍評判になり、隊長以下、多くの搭乗員が行くようになった。
 このおかみさんが「紫のマフラー」の主であり、通称「コトちゃん」こと今井琴子さんで、戦中戦後を通じ、大変お世話になった人である。昭和20年1月1日に戦勝祈願で琴平の金比羅宮に空中参拝をした。このとき着陸に失敗して死亡事故が発生、正月早々に不吉な予感がした。正月の特別外出で、早速、新年の挨拶に今井家を訪問した。この時おかみさんが「皆様は紫電改だから紫のマフラーを作ってあげよう。マフラーの布は、私が結婚のときに持参した白無垢の布がある。これを紫色に染めて、そのマフラーには、済美高女の生徒さんに刺繍をしてもらう。校長先生に私が頼んであげる」とのことで、私の編隊4機は、1番機杉田上飛曹の座右の銘、「ニッコリ笑えば必ず墜す」に決定。他の編隊は、各自の思う文句を刺繍してもらうことにした。1月の下旬、早くも38枚のマフラーが完成した。
 度重なる空襲に「紫のマフラー」と共に戦死した者多数。私の4機の編隊も4月15日鹿屋上空の空戦で1番機の杉田上飛曹、3番機の宮沢一飛曹は戦死、4枚の内の2枚は遺体と共に焼失、38枚の「紫のマフラー」は、今3枚を残すのみとなり、その1枚がこれである。
 今井琴子さんは数年前に他界され今は亡く、この「紫のマフラー」は、今井琴子さんの霊と共に永く生き続けることであろう。
 今般、南レク(株)のご発案で、南宇和郡愛南町の馬瀬山の紫電改展示館内に紫電改の雄姿と共に「紫のマフラー」が甦ろうとしている。多くの見学の皆様に見ていただくことは「以って瞑すべし」多くの戦死者と共に永遠の供養になることでありましょう。
合掌  平成19年6月21日  笠井智一    (展示パネルより)

第343海軍航空隊
・・・・通称「剣」部隊
 軍令部の航空主務参謀・源田実大佐が自ら司令となり制空権の奪回を目的に精強な航空隊の編成を計画、近代的な編隊空戦の実現を目指した。
 「紫電」・「紫電改」の戦闘機と偵察機「彩雲」から編成された。
 343空の特長は偵察隊を設けたことである。
 戦闘機隊が独立した偵察専門の隊を持つのは当時珍しいことだった。
 通信と情報網の整備に必要な器材を確保すると同時に、最新鋭の「紫電改」、当時集められるだけの優秀なパイロットを集め、他部隊から羨望の声があがるほど強力な、日本海軍の切り札となるべき「剣部隊」であった。
 本土防空が任務であり、特攻には徴用されなかった。
 戦闘301は「新撰組」、戦闘701は「維新隊」、戦闘407は「天誅組」、彩雲の偵察隊は「奇兵隊」というように各隊にサブネームを付けていた。
 搭乗員だけでも120名、整備員他部隊全体では3,000名を数えていた。
 昭和19年12月25日松山基地で開隊いらい終戦まで約170機の敵機を撃墜したとされる。
 昭和20年3月19日の松山上空での大空中戦はあまりにも有名。      (展示パネルより)

343空剣部隊年表
昭和19年(1944) 12・25 松山基地にて343航空隊(剣部隊)開隊
昭和20年(1945)  3.19 松山上空大空戦
  4・ 4 鹿屋基地進出
  4・12~16 喜界島制空(特攻機の空路敬開)
  4・17 第一国分基地に転進
  4・18~25 南九州上空におけるB29迎撃
  4・25 松山基地復帰
  4・30 大村基地に転進
  5・ 4~7・ 5 喜界島制空・北九州方面B29迎撃 南九州艦載機迎撃など
  7・24 豊後水道艦載機迎撃
  8・ 1 九州南部上空迎撃
  8・ 8 九州北部上空迎撃
  8・15 終戦         (展示パネルより)

松山上空の大空中戦
 昭和20年3月19日午前5時、松山基地指揮所前に全搭乗員が整列。
 源田司令が訓示。
   「今朝、敵機動部隊の来襲は必至だ。
    わが剣部隊は、この敵機を迎え撃って
    痛撃を与える。
    目標は敵の戦闘機隊だ。
    爆撃機などには目もくれるな。
    一機でも多くの敵戦闘機を射ち落すように
    こころがけてくれ。」
 午前5時45分、4機の偵察機「彩雲」暁の闇に発進。
 午前6時50分、「彩雲」より「敵機動部隊見ユ、室戸岬ノ南30浬」、「敵大編隊、四国南岸ヲ北上中」との情報が相次いで入電。
 待機中の「紫電改」54機「紫電」8機が発進。
 午前7時10分頃、松山上空において呉方面に向かう敵大編隊(300機以上)と激しい空中戦を展開。
 大乱戦の末、確認された戦果はF6FおよびF4U戦闘機5機撃墜合計57機の大戦果をあげた。
 当方の損害は自爆・未帰還16機・大破5機であった。 (展示パネルより)

南レク南宇和管理事務所(HPより)
 昭和53年(1978年)に久良湾で発見され、引き上げられた紫電改が宇和海展望タワーのある馬瀬山山頂に恒久平和を願うシンボルとして展示されています。紫電改はゼロ戦に代わる新鋭機として終戦間近に開発され、海軍のもっとも優れた戦闘機だったと言われています。館内には紫電改に関連する写真、資料のほか記録映像も見ることができます。この紫電改は日本に現存する唯一のものです。
開館時間 : 9:00~17:00.   休館日 : 12月29日~1月1日.
料金無料. : 問い合わせ先南レク南宇和管理事務所 TEL:0895-72-3212