「扇ちゃん」(昭和45年1970年)

  蛾○同人に「扇ちゃん」という伝説の人がいた。
 同じ同人にSIM氏という人がいた。そのSIM氏が連れて歩いているファイトある人が「扇ちゃん」だった。
 実在の人であり、私は数回会ったことがある。優しい顔をした人で、役者の伏見扇太郎に似ているため、あだ名が「扇ちゃん」であった。
 私が扇ちゃんに始めて会った時は、近大の学生で、先鋭的登山の第一人者になると言われていた。登攀のバランスが良く、そして積極的に冬季登攀にむかっていた。
 登攀者の持つ高慢な態度は全く無く、好印象を持てる青年だった。
 積極的な姿勢がSIM氏に可愛がられた。
 厳冬期の元谷小屋で峨○同人の人と一緒になった時、SIM氏から「扇ちゃん、今夜は小屋の外でヤッケとオバキューでビバーク」といわれると、風雪の雪原の中で一夜を過ごしていた。私が早朝、小屋の外に出て天候を確認していると、別山よりの50m程の地点に寝ていた。
 加藤文太郎という有名な登山家がいた。厳冬期の上高地の横尾付近を通りかかった登山者が、前方に黒いものが在り、遭難者が行き倒れている。不吉な事がと思っていると、朝が来たのかと起き出してきた。その当時は雪の中に寝るという行為はなく、眠くなるまで歩き、その場に寝込んで朝が来ると又行動するという加藤文太郎が、日本の厳冬期における積極的ビバークの先駆者であった。
 SIM氏もそれを実践させたのだろう。その後、私も扇ちゃんを真似て雪の中に何回か寝た。
 昭和45年2月28日元谷小屋に黒氏、小藤氏、松尾氏と夜を迎えようとした時、扇ちゃんが一人で入山して来た。
 扇ちゃんは、雪の大山を撮ると言っていた。
 私はまだ登ったことがない、天狗沢を案内して欲しいと要請すると、あっさり同意してくれた。
 翌日1日は、元谷小屋の周辺は新雪が20Cm位あった。山下ケルンまで登り小休止。
 天狗沢・元谷沢等からの雪崩を避けるため、屏風岩からの落石で出来た岩尾根の方向に寄りつつ登って行くと、屏風岩とケルンの中間まで登った時点で「扇ちゃん」は、天狗沢の登攀は、雪崩の可能性が高いため、登攀の中止を宣言した。
 扇ちゃんとしては、小屋を出た時点で登山中止を決めていたのかしれないが、私の要求が強いため、この場所まで前進して中止を告げたのだと思う。
 アルバムに登はんを中止した時の写真がある。山下ケルン付近の写真である。私のピッケルが82センチあるのに、彼は40センチもないものであった。
 氷壁・冬季の岩壁を登る場合は短いものが有効である事を私は知らなかった。
 小屋を出ないで中止するのと、降雪の中をここまで登り断念させるのは、前者が賢者かもしれないが、積極的な姿勢でいえば、登山界では後者を取るものが多いし、私もこの方が好きだ。
 登り場所が変わって、積雪が少ないなら風雪のためだが、しかし、この時は雪の量が増してきた。そして、雪が軟らかく新雪であった。谷状の沢となればラビーネンツーク(雪崩の巣)に入る事になる。
 天狗沢の8ヶ月後、私は仕事の関係で愛媛県松山市に居た。
 11月2日(月)の新聞を見て驚いた。
 「大山で学生、死ぬ 岩登り中に背中に落石」
 [米子]1日午前10時10分ごろ国立公園大山四合目付近の北壁大屏風岩で、ロッククライミングをしていた福岡県○○市――近畿大学‐年扇ちゃんの背中に約200m上から落ちてきた20キロほどの岩石が当り即死した。
 扇ちゃんはこれまで何回も大山に登山したことのあるベテラン。前日の31日、大山の登山基地大山寺で山友だちの山口県○○のSIM氏ら五人のパーティーと出会い、元谷小屋で一泊したのち午前10時から大屏風岩に挑戦していた。
 SIM氏さんの話だと「わずか3m登ったところで落石に気づいたが足元は積雪10センチで逃げることもできず、運悪く扇ちゃんにまともに当った」と言っている。(毎日新聞 愛媛版による)

友人によると
 扇ちゃんは31日夕方、近大の仲間3名で入山。元谷小屋にて峨○のSIM純氏、KOB氏らと一緒になり、倉の加さん、松の槙氏らと楽しい夕食。翌朝(1日)は前日まで降っていた雪もやみ、晴れ。気温が上昇したのでSIM純氏は、落石を心配して、一番落石の来ない(出ない)峨○ルートを選び、9時半頃小屋を出発。大屏風下部に着くと、港ルートに島根大の早氏と岩氏が取り付いていたので、扇ちゃんが岩氏に「落石に気を付けて下さい。これ差し入れです」と言って、甘納豆を手渡して直ぐに、第1回目の落石。全員無事。
 島大の早氏はすでに「にぎりめし」下のハングの隙間に入った。
 そこで扇ちゃんがトップで10時40分頃取り付き。草付を登りだしたところへ落石があり、今までに想像もつかない峨○ルートのジェードルに、T1上空から30センチ位の落石があり、それが扇ちゃんの右横腹に当り、即死となった。
 その夜。高島病院で通夜をして、真夜中の一時ごろ両親や山仲間に付き添われて山口県○○市の実家に帰られた。そして2日午後葬儀が執り行われた。
葬儀が執り行われた同時刻に、鳥取、島根、岡山等の山仲間が大山の大屏風岩の下の現場へケルンを積み、その中に彼の写真を入れて生花や線香などを供えて、彼の冥福を祈りました。
 翌日の3日も次々に山仲間が来てくれまして、皆 彼の冥福を祈ってくれました。又、7日には彼の初七日に当たります。そこで8日(日曜日)に振り替えて行います。尚12月初めに彼の追悼式を御遺族、峨○同人らを加えて、現場で行う予定にしています。都合がつきましたら、是非参加してください。詳しくは後程御案内を差し上げます。
(略)
 彼の好きだった歌「小さな日記」の通りになってしまった彼ですが、彼の大好きだった、ホットケーキを作って現場のケルンで彼と仲間達と一緒に食べました。(略)

 屏風岩の一番難しいルート「東壁峨○ルート」の冬期初登攀は、蛾媚の名と扇ちゃんの名前が大山に生き続ける。
 時間が遡る、44年12月大山別山右リッジを登はんしたとき、小川氏(近大)が頂上小屋でサポートをしてくれた。
 小川氏と出会ったのは元谷小屋であった。その時小川氏は「扇(姓)さんを知っていますか」と、聞かれた。俺達(安田・阪本氏)は「扇(姓)さん」を、直ぐに思い出せなかった。
 しばらくして、阪本氏が「扇(姓)さんて、扇ちゃんでないか」と思い出した。それからは、お互い数年来の友達のように話し合った。その当時、元谷小屋では知人の知人はお友達になれる風土(土壌)があった。
 俺達は、元谷小屋を出て、ベースキャンプの冬テンを、下山キャンプ場近くの夏山登山道の脇に展張した。その日の夕方。登山指導員から設営禁止区域であるので冬テンの移動するように命ぜられた。そして別山の登攀に向かった。
 扇ちゃんにあった時、その時の小川氏の話をした。「小川さんは大山頂上で1週間過ごした」と言っていた。  
         合掌 
 
 大山の落石のすごさは、杉氏と大屏風岩の港ルートを登るために、屏風岩の下部で体験した。その時、屏風岩の港ルートは、既に2パーティが取り付いていた。
先行のパーティーはレンガ状の逆層の岩場を登り、左に巻き込む地点を登り、後発の組は「おにぎりめし」状の岩を攀じていた。
 俺たちは、登攀の準備を済ませ、しばらく西側に回りこんだ岩壁の中央よりで待機していた。100m位の上部から岩雪崩が数回発生した。俺達の周りは砲・爆撃を受けた状態となった。落石の跡はまるで畑のごとく掘り起こされていた。
 先行者も我々も無事であった。その日は、私達は恐怖のため屏風岩を登れなくなり、天狗沢に目標を変えた。穂高の岩がもろいというが、大山に比べたら堅っく安定し、ハーケンが効いている。