ウエストンの歩いた道を尋ねて(2000.7)

  日本アルプスを世界に紹介したウエストンが歩いた、徳本峠越を歩いてみたくなった。
 ウエストンは、英国宣教師として明治21年から大正4年までの間に3度来日し、著書「日本アルプス 登山と探検」により日本アルプスの名を世界に広めた。
 ウエストンは、明治24年 夫人と共に徳本峠を越えて槍ヶ岳を目指したが、登頂できずに、翌年再び嘉門次と挑み登頂に成功している。
 私の手元に昭和35年12月20日発行の朋文堂「日本山岳全集6」がある。
 ウエストンの「日本アルプス登山と探検」は、明治29年に出されたものだろうか、
 その中に「槍ヶ岳・日本のアルプス」と「再び槍ヶ岳」の2編が掲載され明治29年と記されている。
 大正2年に上高地の河童橋で撮影された写真に、ウエストンは白いカッターシャツ、ニッカボッカ、わらじで、手に腰まであるピッケルを持っている。
 左手は脇の下に回されているが、腕の筋肉は隆々としている。
 脇に立つ上条嘉門次は、ウエストンの肩ぐらいの身長で着物姿、背中の荷物は大きく重たそうだ。
 ウエストン夫人はウエストンと変わらない身長で、白いブラウスで足首まであるスカート姿である。足首まであるスカートは、昨今流行のトレッキング服装である。
 徳本峠は、ウエストン他の沢山の著名人が歩き穂高を仰いだ歴史の峠であり、登山者が少なく静かな山歩きと、古きよき山小屋の姿をとどめる徳本峠小屋、岩魚留の小屋と島々谷の渓谷美も魅力である。
   

 徳本峠はかつて上高地に向かうメーンストリートであった。
 しかし、道路が整備されバスの開通とともに急速に忘れられ去られた。
 ウエストンの道として、島々谷と、徳本峠を愛する登山者によって、峠の宿は現在まで引継がれ、また、今後も愛され続けるであろう。
 ウエストンの偉業をたたえているウエストン祭(6月第1土・日曜日)には100年以上たった今でも徳本峠を越えて祭りに参加する人が後を絶たないという。
 私は、日程の都合により、大阪からのバスで上高地から徳本峠に登り島々へ下るコースを選んだ。
 バスは大阪JR難波駅から平湯経由沢渡で乗り換え、上高地0600のアルピコグループを選んだ。
 難波駅(OCATビル)の5階にあるコーヒーショップで時間調整し、元町中央公園の集合場所に移動する。
 大勢の登山者に溢れる中2150発のバスの人となる。 
 今回は、ウエストンの道を歩くと共に、
「山を歩き、色々と考えたい。木々の緑と、水の青さ、高き峯々、残雪と稜線を流れ戯れる雲を見つめたい。」
 が今回の山の目的であるが、どうなることか、いつも
「目標は大きく成果は少ない。」
 私の行動である。

   

 登山の苦しい行動の中で、頂上でひととき、また下山中・帰路のおりに脳内のどんな物質が分泌されるのか、
「頂きに立つという行為は一度体感すると、また登りたくなる。」
 麻薬のような特殊な分泌物があるだろう。
 バスは夜の高速道路を走り、私の隣はごつい感じの男客であり、努めて寝ようと目をつむる。
 釜トンネルの下で目を覚まし、沢渡の駐車場にて、上高地に入るバスに乗り換える。
 上高地に0540大正池ホテル前でバスを降りる。
 大正池の立ち枯れと焼岳をカメラに納め、田代池、帝国ホテルを巡り河童橋、小梨平の自然教室を見学し、明神池の穂高神社奥宮に参拝、嘉門次小屋で朝食(そば)と岩魚の塩焼き(1匹千円)を食する。
 横尾まで登り、昔登った屏風岩を眺めると徳沢まで下る。
 徳沢でアイスクリームをいただき、小休止。
 白沢出会いまで下り、いよいよ白沢を詰めることにする。
 12時に立派な案内標識のある峠への分岐点から気持ちの良い整備された幅の広い歩道を登る。
 道は水平道笹原と樹林帯の中を進み、前も後ろにも私一人しか歩いていない。
 小鳥と風そして沢の音だけが周囲でささやく。
 1キロほど林道を登り20分ほど歩いて青い標識のある広場で小休止、昼食を採る。
 パンに栄養ゼリーと水である。標識を過ぎしばらく歩くと、左手から入る沢の橋を渡り、車道から山道となる。

 

 樹林帯の中を暫く歩くと、道しるべは沢の中に付いており再び右岸の樹林帯に入る。
 沢から離れ急登の道をジクザクに登り始める。
 広場から50分で沢を渡り峠に向かって左からの沢の水を補給する。
 数年前に常念岳から蝶ヶ岳に向かっているときに水がなくなり苦労したから随時満タンにする。ここが下の水場である。
 水場からしばらく登っていくと上の水場である。
 なおジグザグの急な道を登っていくと、50分ほど歩いて霞沢岳の分岐点に達する。
 分岐点で小休憩し徳本峠小屋に向かい1445に小屋に着く。
 宿泊の手続をした後に、穂高方面の展望台に行ってみる。
「てんぼう台45秒」とあり登ってみるが、前穂の北尾根Y峯と明神のX峰は確認できるがその他の峯々は、べったりと張り付いた雲のため見ることが出来ない。
 徳本峠小屋の宿泊者は20名程であるが、テント場には大小10張のテントがあった。
 小屋は素朴であり、古き山小屋の雰囲気が残っている。
 小屋の主人今川さんがランプを灯してくれる。
「わーランプだ嬉しいなー。」
 今川さんは
「これしかないからなー。」とあった。
 ランプの下で、先に着いた人達で簡単な酒盛りが始まっていた。
 話から鳥取県の松井氏ご夫妻と仲間達が居られたが、同郷でありながら話が出来なかった。
 17時に夕食が始まり、その時に宿泊区分が発表された。
 私は松井氏らと同じ3階、2階に自炊組1階に早朝出発グループと写真家であ。
 夕闇が落ちるまでに床に入るため、3階に移動し、先に床に就いた人と二言三言話し合った後「おやすみ」の体勢に入ると、間もなく松井氏の高い鼾のコーラスを聴くこととなった。
 0415起床し、外に出て展望谷上がってみるが、穂高方面は昨日と同じ状況である。
 小屋の前から雲海の安曇野方面の写真を数枚撮影する。
「山は、そう簡単に素晴らしい景色を見せてくれない、チラリチラリと見せ、何回も通って、何時間も粘った者にしか見せなくて、色っぽい、いい女みたいな 感じだよ。だから、何回も通ってしまうんだ。」
 小屋の中では、松井氏がマジック画で、岩魚止の小屋を書いて居られた。
 マジック一本でリアルに書かれていたのは驚嘆であった。
 0600食事、写真家と数名が霞沢岳に出かけていった。
 私は下山するため外に出てみると、松井氏が徳本峠小屋を書き始めていた。
 数分間であったが見学し、0635下山を開始した。

 小屋の前からジグザクに急な斜面を下っていく。
 樹林帯の熊笹とイラクサのある急斜面をジグザクにグングン下り標高を下げていくと、道は段々と悪くなり、道全体を草が覆ったりしている。
 50分下ったところで力水の水場に着く。
 峠小屋では水がなかったため、ここでペットボトルを満タンにする。
 力水を過ぎ数分下ると傾斜が落ち沢が右手から流れてくる。
 力水から40分で岩魚留まで1.7キロ徳本峠2.8キロの道標に出た。
 下るに従い青空となり徳本峠で少し待てばよかった後悔する。
 沢はまだ狭く下っていく樹林帯の中に草を刈った一面と、カツラの巨木が3・4本その下にテントの張られた一角にたどり着き、大木の下の岩魚留小屋の前に突然出た。
 峠から休憩を入れて2時間30分余り。
 昔ながらのおもむきのある小屋である。
 小屋の管理人が布団を干しており満艦飾である。
 帰宅後の絵のため数枚写真を撮って出発する。
 小屋の犬に吠えられながら、沢に掛かった橋を渡り右岸に移る。
 ウエストンが書いている「出シノ沢小屋」の出シノ沢を探したが判らないまま下る。
 路上の標識で岩魚留小屋から二股までの中間点点瀬戸沢を地図でも確認し小休止と水を補給する。
 地図から見て最後の安心できる沢であると判断し満杯とする。
  (島々谷の林道には水場が無いだろう。)
 島々谷南沢の渓谷の道は谷川を離れないで、壁をへつり道がつけられ、沢の岩壁の中間をハシゴ状に取り付けられ、よく整備されている。
 江戸・明治の時代に土地の改良の為の石灰を採取した地点や、炭焼き釜等の跡がある。
 その搬出のための古い道を歩いて下っていく。
 下るよりも時間をかけ登りつつ沢を眺めるのがよいと感じた。
 増水時は入らないことが大事であろう。
 三木秀綱公奥方などの悲運の碑があり、そこを過ぎると谷が広くなり、11時に二股の東電の取水口にて車道の上に出る。
 この地点から日陰の少ない道を6キロ歩く。
 日陰を見つけ約30分ごとに5分の休憩を採る。
 治山等の堰堤群を見ながら未舗装の林道をグングン歩いて下っていく。
 林道の途中で登ってくる大学生と出会い、挨拶すると
「残雪と雪渓はありますか。」 との質問があり当惑する。
 こんな登山者もいるのかと不安になる。ところが、島々の集落について驚いた。
「本年は、残雪も多く冬山の装備をお忘れなく。」  とある。
 6月のウエストン祭にあわせて掲示したものを、7月下旬まで掲示しておくのは良くない。
 設置と取り外しは大変だろうが、登山者等に与える警告等は、正しいものこそが真の警告であり情報であろう。
 電力施設を通過すると谷は急に開けの、桜並木の土手を歩き島々の美しい集落に1240到着する。
 国道158号線出てクシーに載る。乗務員によると、島々谷は
「タイヤのバーストの可能性が高い。」
 ため、乗り入れたくないと言うことである。
 このコースは古い峠道であるが、今日は数人とすれ違っただけであり、往年の賑わいは、登山道でのみ知ることが出来るだけである。
 島々の人達が、雪溶けを待ちきれないで、徳沢の牧場に牛を押し上げた道とあり随分と歩きやすい道と勘違いして飛び込んだ私であったが、以外と手強いが、谷川の美しさから、いつか島々から上高地に歩いて、入りたいと感じた。