剣山登山から別子銅山への旅(2010年9月18日〜9月20日

瀬戸大橋から徳島道そして剣山に登り祖谷渓のカズラ橋。道駅に車泊し、別所銅山の遺跡を見学。しまなみ海道を走った。愛車マツダのプレマシーの車の旅を実施した。

9月18日(土)
17時に自宅を出た。志和ICから山陽自動車道に乗り、小谷SAにて休憩し夕食と朝食用パンを購入したが、味と量のわりに価格が高く、ご立腹の愚妻をなだめながら運転する俺のつらさよ。
瀬戸大橋最後の南備讃瀬戸大橋の渡ると、正面に夜空に火を吹き上げ、設備を照らす照明などでコスモ石油の施設が美しい。夜の工場地帯が観光の目玉になっているのが理解できる。坂出工業地帯を通過(19:50)する。
高松道から高知道に入り直ぐに徳島道に入る。高校野球で有名な池田高校の町を通過して美馬ICから一般道に下りる。美馬ICのローソンにて、今夜の友(アルコール等)を購入する。国道438号線に乗った。道の駅「貞光ゆうゆう館」に着いたのは、21:15だった。貞光ゆうゆう館の前は、木々に明かりがつけられて妻はうっとり。
プレマシーの中に寝るため、車の2・3列を水平にして寝床を作る、若干荷物の移動をする。写真を撮っておこうと振り返るとイルミネーションは終了していたである。
9月19日(日)
朝5:30に目が覚めると、顔を洗ったりしていると、周囲が騒がしくなり、ツアーに出かける老若男女が集まり始めた。爺・婆は永の旅立ち、若い人はお見送りである。(表現がおかしいかな)
道の駅を6時に出発し、国道438号線を南下する。貞光川に沿って南に向かい走ると道は狭くなり、人家は少なくなり完全に山岳道路になったが、標高はさほど上がっていないが、谷は狭くそそり立った集落を通過する。
貞光川は、木材の流送に利用されていたが、明治時代中期に郡道が開通すると、流送は終わった。貞光川は木綿麻川という別名があり、古代にはユウ麻を栽培し、水に漬けて皮をはぎ、衣料として製織した。一宇峡を遡る。
剣山スキー場から道が良くなり、雄池が現れ、国道を挟んだ下手側に雌池がある。
夫婦池の雄池を左に見ると、尾根を巻き南斜面の道路を進むと剣山の雄大な姿が現れた。見ノ越の民宿松浦の前を進み、7時にリフト駅の駐車場に着いた。
リフトの駅の傍に2階建ての無料駐車場があり、沢山の登山者が集まっているが、登山を始めようとする感じが見られない。リフトの運転開始は8時と思っていたら、9時が始発だという。標高差330mを稼げるのは嬉しいが、ここで1時間半も休んでいるのは不健康と歩き始める。
民宿前から長い石の階段を登って行くと、天涯の花の舞台である剣神社本殿の前(7:30)から、登山道を登っていく。祖霊堂の前を過ぎると右下にリフト駅が見える。リフトと交差トンネルを抜けると道は傾斜を増していく。ブナやミズナラの大木の中を登って行くと、リフトの試運転の音が聞こえ岩の中にある西島神社の横を登って行く。
視界が開け、剣山の頂き手前の山小屋が見える。右の大岩には「間者牢」がある。キャンプ場を過ぎると、リフトの終点西島駅(8:30)に着いた。登山者が休憩をしている。三嶺の頂は遠く聳えている。
一休みすると、直ぐ先に見える木の鳥居に向かう。鳥居の先は鹿の侵入を防ぐ柵があり、鹿の侵入を阻む木の階段を抜けると、尾根の道になる。
8:50刀掛ノ松で休憩をとる。宮尾登美子の「天涯の花」の影響で、キレンゲショウマの人気が高まっているが、8月が見ごろであり、妻をなだめて看板だけで我慢させる。刀掛の松から少し先の修験道の「行場」付近に咲いているそうだが。
今は倒れた「刀掛の松」の写真を撮ると、頂上に向かい上ると山小屋「雲海荘」が見え、「剣山頂上ヒュッテ」の前に出た。雲海荘は剣山頂上ヒュッテの別館で剣山頂上ヒュッテが満室の時に使用されるという。
 9:15ヒュッテに到着し、ベンチで行動食を食べていると、目の前に毒草「トリカブト」が咲いている。北アルプスの2500m付近ではよく見るが、南の四国の1900mで咲いているとは。
 ヒュッテと宝蔵石神社の横の階段を上ると剣山頂上台地である。
山頂は「平家の馬場」と呼ばれ、ミヤマクマザサを中心とする平坦な草原となっており独特の風景を作っている。山頂が平坦であり背の低いミヤマクマザサのため歩きやすいため、登山者が歩き回り、荒らされ裸地化が進んだ。1974年にはロープで登山道以外を立ち入り禁止にしたが、1993年からは木道を設置する工事が進められ、2004年に山頂三角点周辺の登山道が木道となり、登山道は、ほぼ全てが木道になった。
剣山頂は、一等三角点1954.65mが設置されているが、三角点が倒れるほどあらされ、ここも立ち入り禁止の処置がなされ、触れることも出来ない。
剣山は、標高1,955mの山で、近畿以西の西日本第二(第一位石鎚山)の高峰であり、徳島県の最高峰である。深田久弥の日本百名山の一つで、別名「太郎笈(ぎゅう)」と呼ばれ、剣山に向き合うように、南西側に「次郎笈(1930m、徳島県第2位、四国百名山)がある。
2年程前に来た時には、剣山測候所の建屋が残っていたが、柵に囲まれ掘り返されたような赤土だけが残っていた。剣山測候所は1943年に設置され富士山頂に次ぐ、日本で2番目に高い標高にある測候所で、1991年に自動化され無人。1994年剣山観測所に変更された。高層気象観測の技術革新により、2001年に廃止された。1981年2月26日には最低気温?23.5℃を記録したそうだ。
山名は、安徳天皇ゆかりの剣が由来であるとされるが、頂上直下にある大剣神社の剣岩が由来とする説もある。地元徳島県の人を中心に「けんざん」と呼ぶ人が多かった。神社の名称、歴史的等から徳島県は「つるぎさん」として統一した。
剣の頂から南西に進むと、ジロウギュウ峠の先に次郎笈の頂が見える。次郎笈をバックに写真を撮ると、次郎笈に向かって稜線を下っていく。
峠の周辺は小さな虫が飛び回っていて気持ちが悪い。峠から丸山に向かうトラバース道を右に見て、急な稜線を登って行く。150m程登ると肩の部分に着く。小さな虫が羽アリと判ったが、油断すると口の中に入るのでなお気持ちが悪い。風が弱い所は羽アリが飛び回っているので、少しでも風上に回るように歩いて頂に着く。1930mの頂は徳島県の第2峰である。振り返る剣は緑のジュタンに覆われている。
下山は剣山の西側の中腹を巻く道から日本百名水の「御神水(環境省選定「名水百選」)」を飲んで、大剣神社にお参りし下山したい。
水平道の分岐から250mほど進んだ地点で親子が休憩していた。そこが「御神水」の分岐と勘違いした俺は、右上に上がる道を進んでいく。分岐から100m位に「御神水」があるのを忘れ、ドンドンと登って行く。上から下ってきた登山者に訪ねると、「この道は頂上に出ます」と言った。どっと疲れた。あきらめてそのまま登ると頂上台地の西側に出てみると、目の前に宝蔵石があった。ヒュッテで休むと刀掛けの松を経由して西島駅に下った。
リフトは標高差330mを15分で下るが、大人片道1000円は少し高いが、登りに利用したいが、下るのも利用したい。
千円札をはたくとリフトで下る。
13:15リフトから降りると、直ぐに車に乗り込む。13:20に駐車場を出発し、奥祖谷の二重かずら橋の駐車場に止め、平家伝説のかずら橋の見学に行く。
奥祖谷の二重かずら橋は、奥祖谷地区を流れる祖谷川に架かるかずら橋で、志度合戦に敗れた平家一族が馬場での訓練に通うため架設したと伝わる吊り橋。かずら橋が2本並んで架かっている為、通称「男橋女橋」とも「夫婦橋」などとも呼ばれている。これら2本の橋の他、「野猿」と呼ばれる人力ロープウェイも架かっている。
男橋から女橋を渡り車に帰り着く。祖谷川沿いに下っていく。東祖谷の久保集落の三嶺タクシーの前を通過する。剣から三嶺までを縦走した時に、大変お世話になった。
東祖谷京上集落の町を車窓から見る。京上トンネルを出ると右に進む。
西祖谷山村中尾のかずら橋(重要有形民俗文化財)の見学に行くと、大きな駐車場前から観光客が沢山歩いている。かずら橋を渡るために観光客が3列で100m以上の列が出来ている。ここの見学は中止して先を急ぐ。
河や谷の両岸が急峻であり、川を跨ぐのは至難の業であった。そのために集落をつなぐ橋が設けられたのがかずら橋である。多くのかずら橋があったが現存するのは、観光用として残された。かずら橋であるが、基礎はコンクリートで固められ、安全のため太いワイヤーで補強され、多くの観光客の体重を支えている。
祖谷渓は、三好市に位置する吉野川支流の祖谷川の深いV字谷の渓谷で全長は10km余りで、高さ数十〜100mの高低差があり、樹木が生い茂り隔絶された深山幽谷である。平家の隠れ里(隠田集落)として名高く、日本三大秘境を謳う地であり、山麓に住宅が点在する。数年前に車で通りかかった時は、対向車のすれ違いに苦労しながら左の岸壁、右の断崖絶壁に肝を冷やした。
東祖谷山村は、徳島県の北西に位置し高知県と接する山間地域で、剣山等の西日本や四国を代表する豊かな自然に恵まれ、12世紀後半の屋島の合戦に破れた平家の落人伝説や阿波山岳武士の伝説が残る。
江戸時代には、地名の後に、地勢と職を表す字を加えて、自治単位の名称としていた。当時は、地名の「祖谷」に、山深い地勢等から「山」を加えて、祖谷山(いややま)と呼ばれていた。明治時代に入り、「祖谷山」を地名と解釈し、祖谷山村(いややまそん)となった。
西祖谷山村一宇で、祖谷渓と別れ、「道駅にしいや」前を15:06通過し祖谷トンネルを抜けると、大歩危渓谷の橋を渡る。吉野川は、四国三郎ともいわれた暴れ川で、大歩危・小歩危の渓谷は暴れ川が作った景勝地である。
15:40から16:00まで大歩危の道の駅で休憩する。大歩危の上流からカヌーの一団が下ってきた。水も綺麗だから楽しいだろう。
国道32号線を北上し、井川池田ICから徳島道に乗り、高知道・松山道と走る間に、本日の宿泊地を「道の駅とよはま」に決める。三島川之江IC(17:00)で降りる。インター近くのスパージャスコで本日の買い物(17:17)をする。
国道11号線を東に走ると、パルプ工場独特の臭いがする。伊予三島と川之江は製紙業の街だった。道の駅とよはまに17:40到着した。道駅では「なぎさコンサート」の準備をしていた。俺達は店内を用も無いのにうろついていたら、コンサートが終わってしまった。
道駅では臭気はなかった。風向きのためだろう。寝苦しい夜を過ごしていると、北海道から1ヶ月かけて四国まで来たサイクリングの若者に出会った。

9月20日(月)
翌朝起床してみると、若者はベンチに寝ていた。幅が30cm位だろうが熟睡したという。何時落ちるか不安でしょうというと、「慣れています」
5:00起床し、6:30出発し道駅を後にして、昨日のインター(6:43)から新居浜ICまで高速を走る。
新居浜IC(7:00)からマリントピアに向かい県道47号線を南進する。ダム下のループ橋を渡り、清滝トンネルを出ると左折し狭い道を登っていく。標高650mの付近の崖の下を走っていると、ウリボウが目の前を誘導するように走ってくれる。宮崎県では大きな猪とウリボウの3頭だったが、今回は1頭だけだった。
東平(とうなる)の建屋が突然現れ、マリントピア東平地区(7:30)に着いた、別子銅山の一大拠点で「東洋のマチュピチュ」と呼ばれている別子銅山の拠点。
江戸時代からの拠点は、別子村の日浦から分け入った渓谷内あり、住友金属、住友化学等の繁栄の基礎がここから始まった。
東平駐車場に一組の夫婦がコーヒーを楽しんでいた。妻が話しかけると、昨夜ここに宿泊したが、雲のため星は出なかったと言う。
東平の施設を見学し、次の観光目的のため出発(8:13)。ウリボウと出会った地点に来ると、ウリボウが待っていて、車の前を走ってくれた。
マリントピア別子(8:35)に着いたが、開館は9時だというので暫らく散策となった。鉱山探索のトロッコ列車に乗り、鉱山の歴史と探検の旅に出かけた。最後にあった体験ゾーンは湿気の為にカビ臭く、洋服に着いて中々取れなかった。施設管理の方々一考を要します。
売店の片隅に子供用の太鼓があった。子供用でも豪華絢爛凄いものである。大人用は如何に凄いものか創造できるだろう。
別子銅山記念館記念館の見学に行ったが、月曜日で閉館だった。住友鉱山の支配人であった広瀬の旧宅「広瀬歴史記念館」に見学に行くが、ここも月曜日で休館であった。
来島海峡SAで昼食を頂く(12:00〜12:50)。大浜PAで30分仮眠し、志和IC14:52に通過して自宅に15:50に帰り着いた。
 画像の一部は、4月に写したものがあります。

   
   

剣山測候所

  剣山測候所は、山頂台地の1945mあり、昭和18年に設立され、翌年5月から観測開始した。職員が24時間勤務で観測データーを3時間毎に通報し、全国のデーターとともに天気図作成の重要な役割を担ってきた。
職員は1週間交代で勤務し、山頂での不自由な生活を送り、悪天候時の交代は壮絶を極め、勤務員が交代のために雪崩で遭難死した。その殉職碑が一ノ森にある。
厳冬期に屋外に設置された機器の整備等の困難な業務に当った。
高所の観測データーは数時間後の地上の天気を予測する上で重要な資料である。気象庁内では「夏の剣山、冬の伊吹山」と重要視された。
観測記録では、最大瞬間風速69m(時速248キロ相当)。積雪量292センチ。一日降水量726ミリ(年間降水量東京1500mm、大阪で、1400mm位だそうです)